ドイツのパズル
トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄
【解説】1932年6月にヒンデンブルク大統領によって首相に指名された中央党右派のパーペンは、9人の閣僚中7人が男爵で国会議員が一人もいないという驚くべき新内閣を組閣した。この内閣の実験を握っていたのは、無名の首相ではなく、彼を担ぎ出して自ら国防相におさまったシュライヒャー将軍であった。新政府はナチスのSAを再び合法化するとともに、ただちに国会を解散した。禁令を解かれたSAは選挙戦のさなか、各地で社会民主党や共産党や労働組合に対する襲撃とテロを繰り返し、対する労働者組織の側も自衛団をつくって対抗した。両派の激突によって、プロイセンだけで数百名の死傷者を出した。(右の写真は、社会民主党の選挙用ポスター。「第三帝国? 否!」と書かれている)
パーペン政府はこうした混乱を利用し、治安状況の悪化を左翼勢力に帰して、7月20日に、突如としてプロイセンのブラウン社会民主党政府を罷免して、自らプロイセン総督におさまり、社会民主党の息のかかった知事や警察幹部を一掃し、社会民主党の拠点を解体した。これは、「パーペンのクーデター」あるいは「7月20日のクーデター」と呼ばれている。この暴挙に対し、社会民主党はまともな抗議行動や抵抗運動を組織することができず、ライプツィヒの最高裁に訴えることしかできなかった。その判決は結局、パーペンの行動の法的根拠に疑問をさしはさみつつも、このプロイセン政府解散の措置を撤回することはなかった。
騒然たる状況の中で7月30日に実施された総選挙で、ナチス党は230議席を越える議席を獲得し、社会民主党を大幅に抜いて第1党に踊り出た。社民党は後退したものの133議席を獲得、共産党は若干増加した。他方で国民党、民主党、経済党のような中間政党は激減し、世論の左右両極への分化をはっきりと印象づけるものとなった。
トロツキーのこの論文は、この新しい選挙の数週間後に書かれたものであり、最初、ドイツの雑誌『ヴェルトビューネ(世界の舞台)』1932年11月8日号に発表された。翻訳は、『トロツキー著作集 1932年』上(柘植書房新社)に掲載されているが、今回、アップするにあたって、西島が『ドイツにおける反ファシズム闘争』(パスファインダー社)所収の英訳文にそって若干の修正を加えている。
L.Trotsky, The German Puzzle, The Struggle Against Fascism in Germany, Pathfinder, 1971.
ドイツの国際情勢は困難であるだけでなく、教訓的でもある。複雑骨折と同様、国家生活における断裂もすべての組織を切り裂く。階級と政党――つまり解剖学的構造と政治的生理機能――の相互関係が、現在のドイツほど硬直したままに置かれているところはほとんどない。社会的危機がこれまでの因襲をはぎ取って、現実をあばきつつある。
今日政権についている連中は、少し前だったら亡霊であると思われたかもしれない。帝政と貴族の統治は1918年に廃止されたのでなかろうか? だが、11月革命は明らかにその任務を十分に徹底的な形では貫徹しなかった。ドイツのユンカーは自分たちを亡霊であるとはまったく感じていない。それどころか、ユンカー層はドイツ共和国から亡霊をつくりだしつつある。
現在の支配者たちは「政党の上に」立っている。当然である。彼らはますますやせ細りつつある少数派を代表しているからである。彼らの願望とその直接の支持はドイツ国家人民党(1)からもたらされている。この党は、自分たちの伝統的な政治指導者、すなわちドイツで命令を下すことに慣れている唯一の階級であるユンカーのもとにある有産者の階層的結社である。男爵たちは、いっさいをやり直すために、過去18年間のヨーロッパの歴史を消し去りたいのである。これらの連中には気骨があるのだ。
同じことはドイツ・ブルジョアジーそのものの指導者にはあてはまらなかった。ドイツの第3身分の政治史は、ぱっとしたものではない。その議会的代表者は不名誉な崩壊をとげた。今日なお数百万票を集めることができるイギリス・リベラリズムは衰退したといっても、ドイツ・ブルジョアジーの伝統的諸政党の壊滅とは比べものにはならない。
かつては国民の多数派から支持を得ていた民主党や国家自由党などの諸政党には、信用を失墜した参謀――自分の軍隊も未来もない参謀――しか残っていない。
旧政党から見捨てられた、あるいは、はじめて政治的に目覚めた雑多な小ブルジョア大衆は、かぎ十字のもとに結集した。伝統と利害によって分断されていた中産階級――職人、小商店主、「自由職」、事務員、役人、農民――のすべての層ははじめて、中世の農民十字軍よりも奇妙で空想的で調和な十字軍のもとに団結した。
フランスの小ブルジョアジーは、この国の経済的保守主義のおかげで重要な役割を演じ続けている。この層はもちろん独立した政策を遂行することはできない。しかしながら、それは、資本主義支配層の公式政策を、自分たちの利益に合うようにはできないとしても、少なくとも自分たちの偏見に合うよう手直しさせるのである。現在政権についている急進党は、このような手直しを直接に表現している。
中産階級を容赦なく後景に押しやったドイツ資本主義の熱病のような発展のために、ドイツ・ブルジョアジーは、年長の従兄弟たるフランスのような地位を政治生活のなかでけっして占めることができなかった。1914年という年は動乱の時代の到来を告げた。この時代は、フランスよりもドイツの中産階級にはかりしれないほど大きな打撃をもたらした。フランはその価値の5分の4を失ったが、旧マルクの価値はほぼ無に等しいところにまで下落した。現在の農工業恐慌の規模は、ライン川の広大な西部地域
[フランス]と東地域[ドイツ]とではおよそ似ても似つかない。今度もまた、フランス小ブルジョアジーの不満は、その旧来の水路に包摂され、エリオ(2)を政権につけた。ドイツでは、事態は異なった。この国では、小ブルジョアジーの絶望は激昂状態にまで達し、ヒトラーと彼の党を目もくらむような高みへと引き上げた。国家社会主義においては、すべてが悪夢の中の出来事と同じように矛盾し、混乱している。ヒトラーの党は自らを社会主義的と称しているが、この党はいっさいの社会主義組織に対する暴力的闘争を指揮している。それは労働者の党であると自称しているが、その隊列は、プロレタリアートを除くすべての階級を含んでいる。それは、資本家の頭に雷を落とすが、資本家に支持されている。それはドイツの伝統に頭を垂れているが、まったくのラテン的制度であるカエサル主義にあこがれている。ヒトラーは、フリードリッヒ2世(3)に目をむけながら、ムッソリーニ(4)のジェスチャーを猿真似している…チャーリー・チャプリン風の口髭をつけて。全世界は、小ブルジョアジーの頭のなかでは崩れ去り、その思考は完全に均衡を失ってしまった。この階級は、絶望と恐怖と苦難のせいであまりにも騒々しく叫びすぎたので、自分の耳を聾し、その言葉と身ぶりの意味がわからなくなってしまっている。
労働者の圧倒的多数は社会民主党と共産党に従っている。前者は大戦前に英雄的闘争の時代を経験している。後者の起源はロシアの10月革命に直接発している。「マルクス主義の戦線」を打ち破ろうとする国家社会主義の試みは、まだ何ら具体的な成果を挙げていない。自分に敵対的な約1300万の労働者票に対抗して、ほぼ1400万の小ブルジョアジーの票がかき集められている。
カトリック中央党のみが、ドイツの政治的グループ編成における明確な階級的輪郭を曖昧にしている。カトリック陣営の枠内には、自営農、産業資本家、小ブルジョア勢力、労働者が今なお融合している。どうして宗教的結びつきが新しい時代の遠心力に抗することができるのかについて説明するには、ドイツの歴史全体を遡る必要があるだろう。中央党の例は、政治的関係を数学的な正確さで定義することがけっしてできないことをはっきりと示している。過去は、現在にまではみ出して、その配置関係を変えるのである。しかしながら、過程の全般的傾向は不明瞭なものではない。パーペン(5)と最側近のブラッハト(6)は、中央党の右翼から袂をわかって、この党を破壊しかねない政治綱領を実行した。ドイツの社会的危機がさらに深まると、中央党は党内外からの圧力に耐えられなくなり、その宗教的殻は弾け散るだろう。ドイツのドラマのほぼ最終幕が、中央党を構成するさまざま勢力のあいだで演じられるかもしれない。
8月最後の日々を迎えている今日、形式的な意味ではドイツはいぜんとして議会共和制の国に数えられている。しかし、数週間前、内相フォン・ガイルはワイマール憲法の祝典を議会制への通夜に変えてしまった。この形式的地位よりもはるかに重要なのは、国会において過半数の票を代表する左右両極が民主主義を決定的に破産したものとみなしているという事実である。国家社会主義党は、それをイタリア型モデルにもとづくファシスト独裁体制に置きかえたいと考えている。共産党はソヴィエト独裁を願望している。過去14年間、議会という回路をつうじて資本家階級の業務を処理しようとつとめてきたブルジョア諸政党は、有権者の支持全体を失ってしまった。労働者の運動を議会のゲームの枠組みの中に無理やり閉じ込めてきた社会民主党は、11月革命によって授けられた権力が手中から滑り落ちるままにまかせ、何百万もの票を共産党に奪われるがままにまかせたばかりでなく、政党としての合法的地位を失う危険性にさえ陥っている。
結論は明白ではないだろうか? つまり、民主主義体制は、さまざまな困難や自らにとってあまりにも大きすぎる任務に直面して、その支配力を失いつつあるのである。国家間の関係においてもまた、第二義的重要性しか持たない事柄に関するかぎり、外交儀礼のルールと慣例が多少なりとも遵守されている。しかしながら、死活の利害が衝突するときには、条約の条文の代わりにライフル銃と大砲が舞台中央に登場する。ドイツ国家の内外の諸困難は、ドイツの階級闘争を過熱させて、誰も階級闘争を議会的な慣例に従わせることができないし誰もそれを望まない地点にまで導いていった。このことを残念がり、過激な諸政党の暴力への傾斜を厳しく非難し、よりよき未来を期待する者がいる。しかし、事実は事実である。民主主義の電線は社会の高くなりすぎた電圧に耐えることができない。だが、それが現代という時代の電圧なのである。
由緒あるゴータ華族名鑑(7)はかつて、人民的な代議制と専制的なカエサル主義とを組み合わせた帝政ロシアの政治制度を定義するのに困難を感じた。法的カテゴリーにもとづいて現在のドイツの体制の性格を明らかにするのは、おそらくそれよりはるかに難しいだろう。しかしながら、歴史を参照すれば、われわれはあらゆる国のゴータ華族名鑑の助けとなる事例を見出すことができる。ドイツは現在、ボナパルティズム体制に従って統治されているのである。
ドイツの政治的相貌の主要な特徴は、ファシズムが労働者に対抗して中産階級の動員に成功したという事実によって生じている。強力な二つの陣営が非和解的対立を形づくっている。どちらも議会的手段によっては勝利できないし、どちらも自らに不利な決定をおめおめ受ける入れないだろう。社会のこうした分裂は内乱の前兆である。内乱の脅威は、支配階級の中に調停者にして司令官を、すなわち、カエサルを求める要求を生み出す。これこそまさにボナパルティズムの役割である。
どの政権も、階級を超えた立場に立って全体の利益を保護していると称するものである。しかし、社会的諸力の作用は力学の分野における力の作用ほど簡単に判定できるものではない。政府それ自身は肉と骨から成り立っている。それは特定の諸階級およびその利害に結びついている。平和時には、民主的議会が対立する諸力を和解させるための最良の手段であるように思われる。だが、基本的諸力が180度向きを変えて正反対の方向に引っ張り合うようになると、ボナパルティスト独裁の序幕が切って落とされる。
統治者の人格が、王朝の連鎖の一つの環であるにすぎない正統君主制とは違って、ボナパルティスト的統治形態は、能力や幸運によって頂点に昇りつめる一つの個性と結びついている。しかしながら、このような構図と、東エルベのユンカーでホーエンツォレルン家の陸軍元帥である鈍重な人物とはうまく照応していない。実際、ヒンデンブルク(8)はけっしてナポレオンではないし、ポズナンはけっしてコルシカではありえない(9)。しかし、この問題についての単なる個人的、あるいは審美的検討はまったく不適切であろうし、実際には本筋からはずれたものでしかない。フランス人が言うように、兎のシチューをつくるには兎が必要である。しかしながら、ボナパルティズムにとってボナパルトはけっして不可欠ではない。非和解的な二つの陣営が存在するだけで十分である。全能の調停者の役割は、一人の個人に代わって一つの徒党によっても、果たすことができるのである。
フランスは、本物のナポレオン1世だけでなく、まがい物のナポレオン3世をも経験したということを思い起こそう。叔父といわゆる甥とは共通して、剣の切っ先を突きつけながら自らの裁決を記録する調停者の役割を保持していた。ナポレオン1世は武力を行使し、今なおヨーロッパにはそれが刻みつけた痕を残している。ナポレオン3世を皇帝の座につけるには、叔父(と本人の称する)の剣の影だけで十分だった。
ドイツでは、ボナパルティズムは完全にドイツ的な形をとっている。しかし、われわれは国ごとの微妙な相違をくどくど論じるべきではない。翻訳では、原文にあった多くのはっきりとした特徴さえも失われる。人間の創造の多くの分野で、ドイツ人は、最も偉大なモデルを提供してきたが、彫刻と同様に政治の分野でも凡庸な模倣のレベルを越えることはほとんどなかった。しかしながら、ここでその歴史的原因を論じるつもりはない。ポズナンはコルシカではなく、ヒンデンブルクはナポレオンではない。
大統領の保守的な風貌には冒険主義の痕跡はまったくない。80歳のヒンデンブルクは政治の分野で何も求めなかった。その代わり、別の連中が彼を求め、彼を見出したのである。しかも、彼らは偶然にヒンデンブルクに出会ったわけでない。これらの連中全員が、同じ旧プロイセンの、貴族的=保守的なポツダム=東エルベの出身である。たとえヒンデンブルクが他人の行動の隠れ蓑として自分の名前を貸してやったとしても、彼は、自分の階層の伝統が定めた軌道からむざむざ追い出されるのにまかしておくことはないだろう。ヒンデンブルクは一個人ではなく、一つの制度なのである。これこそ、大戦中におけるヒンデンブルクの実態であった。「ヒンデンブルクの戦略」とは、まったく異なるさまざまな名前をもった連中の戦略にすぎなかった。この手法が政治の中にそのまま持ち込まれたのである。ルーデンドルフ(10)と彼の副官たちは新しい人々に交替したが、その方法はいぜんとして変わっていない。
保守派、民族主義派、王党派といった、11月革命に敵対するあらゆる勢力が、1925年にヒンデンブルクをはじめて共和国大統領の地位につけた。労働者だけでなく、ブルジョアジーの政党も、ホーエンツォレルン家の元帥に反対票を投じた。だが、ヒンデンブルクは勝った。ヒトラーに向かいつつある小ブルジョア大衆によって支持されたのであった。大統領として、ヒンデンブルクは何ごともなさなかった。しかし、彼は何かを覆すこともしなかった。彼に反対する勢力は、ヒンデンブルクが軍人としての忠誠心ゆえにワイマール憲法を擁護するようになったと考えるようになった。それから7年後、純然たる議会政党は、反動によって全戦線にわたって退却を強いられたあげく、持ち金をこの元帥に賭けることにした。
社会民主党とカトリック民主党は、王党派のこの軍司令官に投票することによって、今では無力な存在になっている共和国に対するいっさいの義務から彼を解放したのであった。1925年に反動派によって大統領に選出されたとき、ヒンデンブルクはワイマール憲法にそむかなかった。1932年に左翼の票によって選出されたときには、ヒンデンブルクは憲法問題に対しては極右派の観点を採用した。このパラドクスの背後には何ら神秘的なものはない。自らの「良心」と「人民の意志」――二つの無謬の法廷――の前に一人立たされたなら、ヒンデンブルクは、自らが全生涯にわたって忠実に仕えてきた階層の擁護者にならざるをえなかった。大統領の政策は、土地所有貴族、大資本家の男爵、ローマ・カトリック派やルター派の大銀行家、そして最後に、といっても重要性に劣るわけではけっしてないのだが――ユダヤ教信徒の銀行家の政策である。
ヒンデンブルクの政治的参謀たちは、前日まで全国の誰もが考えたこともないようなフォン・パーペンを政府首班に選ぶことによって、選挙が結びつけた大統領と民主的諸政党とのあいだのつながりの糸を突如として断ち切った。ドイツのボナパルティズムは、第1段階においては冒険主義の香辛料を欠いていた。フォン・パーペンは、戦争中の自分の経歴と権力への奇跡的な上昇によって、ある程度この欠如を補った。言語についての彼の知識と非の打ちどころのないマナーは別にして、それ以外の彼の才能について言えば、さまざまな潮流の判断も次の点で一致するだろうと思われる。すなわち、今後、歴史家はもはや、ミヒャエリス(11)を最も色あせた最も取るに足りないドイツ帝国宰相であると言うことはできない、と。
だが、ボナパルティズムの剣はどこにあるのか? ヒンデンブルクは、元帥の指令杖しか持っていなかったが、これは老人の手すさびであった。パーペンは、それほどぱっとしない戦時中の経験を終えた後、市民生活に戻った。しかしながら、剣はシュライヒャー(12)将軍という人物の中にあった。彼こそまさに、ボナパルティスト的組み合せの中核とみなされるべき人物である。そして、これはけっして偶然ではない。政府は、諸政党と議会の上に立つなかで、単なる官僚機構にまで成り下がってしまった。この機能の中の最も強力な部分は、疑いもなくドイツ国防軍である。だから、シュライヒャーがヒンデンブルクとパーペンの背後から登場してきたという事実は、驚くにあたらないのである。新聞は、司令部という隠れ家から彼が注意深く諸事件のお膳立てをしているという話でもちきりである。そうかもしれない。しかしながら、そのことよりもはるかに重要なのは、諸事件の全般的コースが将軍のためのお膳立てをしているという事実である。
筆者は、諸事件の現場から引き離されており、しかも現場からの距離は相当なものである。これは、日々の紆余曲折を追跡するのを困難にしている。しかしながら、以上の不利な地理的条件があるからといって、根本的な力関係について評価を下すことができないわけではない。そして、この力関係こそが結局のところ諸事件の全般的コースを決定するのである。
1932年8月末
『ドイツにおける反ファシズム闘争』(パスファインダー社)所収
『トロツキー著作集 1932』上(柘植書房新社)より
訳注
(1)ドイツ国家人民党……ドイツの反動的右派政党で、ユンカーおよび大資本家の伝統的利害を守る。党首は、大銀行家で大資本家のフーゲンベルク。この党は、1928年以降、ヤング案反対運動でナチスと協力するようになり、1933年1月にはナチスとともに連立政権を結成する。
(2)エリオ、エドゥアール(1872-1957)……フランス急進党の指導者。1916年から無任所大臣。1924〜25年に首相。1936〜1940年、下院議長。
(3)フリードリヒ2世(1712-1786)……プロイセン王(在位1740-1786)、別名フリードリヒ大王。侵略的外交政策、領土拡張政策をとり、シュレジエン戦争、7年戦争、ポーランド分割、西プロイセン併合などを通じて、プロイセンを大国にした。文学や思想にも造詣が深く、啓蒙思想家と交わった。
(4)ムッソリーニ、ベニート(1883-1945)……イタリアのファシスト独裁者。最初、社会主義者として出発し、イタリア社会党に入党。1912年に『アヴァンティ!』の編集長となる。党内では最左派に属していたが、第1次世界大戦勃発後、極端な排外主義者に変貌し、イタリアの参戦を主張、党から除名された。戦後の1919年、ファシスト党を結成。1922年、ローマ進軍によって首相の地位を獲得。1924年のマッティオッティ暗殺事件後の政治危機を乗り切り、1925年からファシスト独裁政治を遂行。1945年にレジスタンスのパルチザンに逮捕され、処刑。
(5)パーペン、フランツ・フォン(1879-1969)……ドイツのブルジョア政治家。プロイセンの土地貴族であるユンカーの代表で、カトリック中央党の指導者。1932年6月1日にヒンデンブルクによってドイツの首相に任命。7月20日にクーデターを強行し、プロイセンのブラウン社会民主党政府を解散させ、自らをプロイセン総督に指名。ドイツ宰相の地位は、1932年12月にシュライヒャー将軍が取って代わられ、1933年1月にヒトラー内閣の副首相になった。戦争中、パーペンはヒトラーに協力しつづける。
(6)ブラッハト、ハインリヒ……エッセン州の市長で、1932年7月20日のクーデターで、社会民主党のゼヴェリングに代わってプロイセン政府の内相に就任。
(7)ゴータ華族名鑑……ヨーロッパの王族と貴族の名鑑で、アメリカの『名士録』にあたる。
(8)ヒンデンブルク、パウル・フォン(1847-1934)……ドイツのユンカー出身の軍人。第1次世界大戦中は参謀総長として戦争を指導し、国民的人気を博す。1925年に大統領に。1932年4月に再選。1933年1月にヒトラーを首相に任命。
(9)ナポレオンはコルシカの出身で、ヒンデンブルクはポズナン(ポーランド西部の都市)の出身。
(10)ルーデンドルフ、ヴィルヘルム(1865-1937)……ドイツの反動的将軍。第1次大戦にお いてヒンデンブルクのもと、東部戦線で多くの武功をあげ、ドイツの英雄に。1916年、ヒンデンブルクとともに軍部独裁を行なう。1918年の革命後、一時亡命するが、カップ・リュトヴィッツ一揆に参加。
(11)ミヒャエリス、ゲオルグ(1857-1936)……ドイツのブルジョア政治家。1918年、ベートマン=ホルヴェークの後を継いで帝国宰相、プロイセン首相。しかし、軍部と議会の対立に翻弄され、わずか3ヶ月半で退陣。
(12)シュライヒャー、クルト・フォン(1882-1934)……ドイツの将軍、政治家。パーペン政府の国防大臣をつとめ、1932年12月2日にヒンデンブルクによって首相に指名(ワイマール共和国最後の首相)。1933年1月末、首相の座をヒトラーに取って代わられる。ナチスの「血の粛清」中の1934年6月30日に殺害される。
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