ドイツとの戦争の可能性
トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄
【解説】本稿は、アメリカの雑誌『フォーラム』1932年4月号に掲載されたのもので、ヒトラーの権力獲得がソ連との戦争を不可避的に意味することを予想し、ソ連がそれに対する準備をすることを訴えている。
この論文は、権力掌握後のヒトラーの対外的動きに対してきわめて正確に予測している。トロツキーは、ファシスト・ドイツがポーランドおよびフランスに同盟者を求めるだろうと述べている。当時のヒトラーの反ポーランド、反フランスの言説を見れば、このような予測にはまったく根拠がないことのように見えた。しかし、1934年にヒトラーは、ポーランドとのあいだで不可侵条約を締結し、国際世論のみならず、国内世論をもあっと言わせた。また、トロツキーが述べているように、フランスは、その反ファシズム的言辞にもかかわらず、ファシスト・ドイツを「より小さな悪」とみなして、イギリスとともに、そのベルサイユ条約違反や侵略的行動に対してことごとく譲歩的・妥協的態度を示し、事実上、ファシスト・ドイツの発展に力を貸した。英仏両国は、この悪魔を飼いならし、ソ連との戦争に導いて、漁夫の利を得ようとしたのである。とりわけ、ドイツによるズデーデン地方占領を容認した1938年9月のミュンヘン協定は、世界戦争に向けてドイツの手を解放するものであった。
以上のような正確な予測と並んで、事態のテンポに関しては、この論文はいくつかの誤りを犯している。とりわけ、トロツキーは、ファシスト・ドイツがソ連との戦争の準備を整える時期を1933〜34年と想定している。トロツキーは、ナチス・ドイツが権力を獲得するにあたって激烈な内乱を経るだろうと予測していたにもかかわらず、このような内政上の困難を克服して対外戦争の準備を固めるのに、これほどの短い期間を想定したのは不思議である。実際には、ドイツ労働者階級は、主としてドイツ社会民主党の日和見主義のせいで、2次的にはドイツ共産党の極左路線のせいで、ナチスの政権掌握に対して本格的な抵抗を何一つ示すことなく屈服した。このような絶好の条件にもかかわらず、ナチス・ドイツがソ連への戦争準備を整えるまでには、トロツキーの予測よりも5年以上多くの年月を要したのである。
また、本稿は、ナチスによる権力獲得のさいにドイツ労働者階級による死に物狂いの武力抵抗と激しい内乱が勃発するということを前提にして、ナチスが力を蓄えてソ連に戦争を仕掛けるまで待っているべきではない、ソヴィエト連邦は赤軍予備役兵をただちに動員するべきだ、と主張している。しかし、歴史が示したように、ドイツ労働者階級はそのような武力抵抗を示さなかった。また、この間のソ連における冒険主義的経済政策は、ソ連の軍事力を徹底的にそいでいた。明らかに、この時点でのトロツキーの判断は勇み足であった。トロツキーは、ヒトラーが権力を掌握した直後に書いた論文「
ドイツとソ連邦」および「ヒトラーと赤軍」の中で正式に以前の立場を修正することになる。本稿の翻訳はすでに、『トロツキー著作集 1932』上(柘植書房新社)に収録されているが、今回アップするにあたって、英文にもとづいて点検し、若干の修正を行なっている。
L.Trotsky, I See War With Germany, Writings of Leon Trotsky(1932), Pathfinder, 1973.
世界政治は、今日、互いに著しく遠く離れた二つの焦点をもっている。一方の焦点は奉天―北京の線上にあり、もう一方の焦点はベルリン―ミュンヘンの線上にある。これらの感染源のどちらも、それだけで、この地球上の事態の「正常」なコースを十分に破壊することができる。しかしながら外交官と公認の政治家たちは、あたかも何も異常なことが生起していないかのように日々行動している。1912年のバルカン戦争のときもこれと同じだったが、それが1914年の序曲になった。
何らかの理由で人々がこれをダチョウの政策
[自己欺瞞の逃避政策]と呼んでいるが、これはあの利口な鳥をひどく辱めるものである。国際連盟が満州問題に関して採択した飾りものの決議は、ヨーロッパ外交の歴史においても類例のない無力な文書である。自尊心あるダチョウであれば、このような文書には署名できないだろう。極東で醸成されつつある事態に対するこの無分別さ――これはもちろんある意味ではきわめて意図的なものである――には、極東における事態の発展が比較的緩慢なペースなのだから、まだ情状酌量の余地がある。東洋は新しい生活に目覚めつつあるが、「アメリカ」的テンポどころか、ヨーロッパ的テンポからも遠く隔たっている。だがドイツ問題は違う。ベルサイユ会議でバルカン化されたヨーロッパが現在おちいっている袋小路はドイツに集中的に表現されており、それは「国家社会主義」という政治的形態をとっている。社会心理学の言葉で表現すれば、この政治的傾向は中産階級のあいだにある絶望の伝染性ヒステリー症状であると言うことができるだろう。すなわち、破滅した小商人や職人および農民、また部分的には失業プロレタリア、いまなお勲章をぶら下げているが食いぶちのない世界大戦時の将校や退役将校、閉鎖したオフィスの事務員、破産した銀行の会計士、働き口のない技師、サラリーや売り込み先のないジャーナリスト、病気は治っていないが支払いのめどが立たない患者をかかえる医者、などである。
ヒトラーは、彼の内政上の綱領に関する質問に対して、それは軍事機密であるとして回答を拒否した。彼としては、自分の救済方法の秘密を政敵に明かす義務はないというのである。これはあまり愛国的ではないが、しかし巧妙ではある。実際にはヒトラーにはいかなる秘密もない。しかしながら、われわれがここで関心をよせるのは彼の国内政策ではない。国際政治の問題については、彼の立場は一見して国内政策よりももう少し明確なようにみえる。ヒトラーは、その演説や文章で、彼自身その申し子であるベルサイユ条約に対して宣戦布告している。彼はフランスに悪態をつくことに関してはスペリャリストである。しかし実際には、権力に到達すれば、彼はベルサイユ体制の主柱の一つとなり、フランス帝国主義の大黒柱になるだろう。
このような断定は逆説的に見えるかもしれない。しかし、正しく分析するなら、すなわち、このデマゴーグの空文句やジェスチャー、その他のがらくたからでなく、政治の基本的要因にもとづいて分析するなら、そのような結論がヨーロッパならびに国際情勢の論理から冷徹に導き出されるのである。
ヒトラーには同盟者が必要になる
ドイツのファシストは、自分たちには二つの敵がいる、それはマルクス主義とベルサイユであると公言している。彼らがいう「マルクス主義」とは、共産党と社会民主党というドイツの二つの政党とソヴィエト連邦という一つの国家を意味している。ベルサイユはフランスとポーランドを意味している。国家社会主義のドイツが実際に果たす役割を理解するためには、問題のこれらの要素を簡単に検討しなければならない。
ファシズムと「マルクス主義」との関係はイタリアの経験によって十分に明らかになっている。ムッソリーニの綱領は、オペレッタ風のローマ進軍のときまで、ヒトラーの綱領と同程度に急進的で、謎めいていた。実際には、その綱領は革命勢力や反政府勢力に対する闘争にすぎないことが明らかになった。イタリアの原型と同じように、ドイツの国家社会主義も労働者の組織を粉砕してはじめて権力につくことができる。しかし、このことは単純な仕事でない。国家社会主義者と彼らが渇望する権力とのあいだには、内乱の道が横たわっている。たとえヒトラーが平和的方法で議会の多数になろうとも――そのような可能性はまちがいなくないだろうが――、彼はファシスト体制を導入するために共産党、社会民主党および労働組合の背骨を粉砕する必要に直面するだろう。そして、このことは非常に困難で長びく外科手術である。もちろんヒトラー自身このことを理解している。まさにそれゆえ、彼は、自分の計画をドイツ議会主義の不確かな運命に順応させようとは絶対にしないのである。
ヒトラーは合法性に関する美辞麗句で身を覆いながら、短期間で鋭い打撃を加えることのできる好機を待っている。彼はこれに成功するだろうか? これはけっして容易な仕事ではない。だが彼の成功が不可能であるとみなすならば、それは許しがたい軽率である。開かれた扉を通じてであれ、押し入ってであれ、どのような形でヒトラーが権力に到達しようとも、ドイツのファシズム化はいずれにしても激しい国内紛争を意味するだろう。このことは不可避的に国の力をかなり長期にわたって麻痺させるだろうし、ヒトラーは周囲のヨーロッパに復讐するのではなく、そこに同盟者と保護者を求めることを余儀なくされるだろう。この基本的考察から、われわれの分析は出発しなければならない。
ドイツの労働者はファシズムとの闘争において当然にもソヴィエト連邦に支援を求めるだろうし、またそれを得るだろう。このような状況のもとでヒトラーの政府がフランスやポーランドと武力衝突の危険を犯すと想像することができるだろうか? ファシスト・ドイツのプロレタリアートとソヴィエト連邦のあいだにはピウスツキ(1)が立っている。ドイツのファシズム化に力を奪われるヒトラーにとって、ピウスツキの援助――あるいは少なくとも彼の中立――のほうが、「ポーランド回廊」(2)の清算よりも無限に重要であるだろう。権力の獲得とその維持のために厳しい闘争を展開しているヒトラーにとって、この問題は――実際には、ドイツの国境という問題全体が――何とささいなものに見えることだろう!
ヒトラーにとって、実際にほかにより手近な橋がないとき、ピウスツキがフランスとの友好のための架け橋になるだろう。すでに現在、フランスの新聞において――いまだ2流紙にすぎないが――「今やヒトラーの方向に舵をとるべきだ!」という論調を認めることができる。『ル・タン』紙を筆頭とする公式の報道機関はたしかに国家社会主義に敵対的な態度をとっている。だがこのことは、現代フランスの運命を支配する者たちがヒトラーの好戦的なしぐさを本気にしているからではない。そうではない。彼らが恐れているのは、ヒトラーが権力に到達しうる唯一の道、すなわち誰も結果について予測できない内乱の道である。右からの国家転覆という彼の政策は左における革命を解き放ちはしないだろうか? これがフランスの支配的グループの懸念していることであり、まったくもって正統な懸念である。
しかし一つのことは明白である。ヒトラーがすべての障害を克服して権力に到達しても、彼は国内において行動の自由を確保するためにベルサイユへの忠誠の誓いから始めざるをえないだろう。フランス外務省(ケ・ドルセー)では誰もこのことを疑っていない。さらに、同外務省は次のことをよく理解している。すなわち、ドイツにおいてヒトラーの軍事独裁が確固として打ちたてられれば、それは、ヨーロッパにおけるフランスのヘゲモニーにとって、ほとんどすべて未知数によって成り立っている代数式のようなドイツの現政府体制よりも、はるかに安定した要素になりうるということである。
戦争は不可避だろう
フランスの支配的グループがファシスト・ドイツのパトロンの役割を果たすことに「困惑する」だろうと想像するとすれば、それは子供じみた幼稚さというしかない。フランスは、現在、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビアを頼りにしており、これら三つの国は軍事独裁によって支配されている! これは偶然だろうか? けっしてそうではない。ヨーロッパに対するフランスの現在のヘゲモニーは、フランスがアメリカ、イギリス、イタリアおよびフランス自身の勝利の唯一の継承者でありつづけているという事実から生じている(私はここではロシアの名前を挙げない。ロシアは最も多くの人命の犠牲を出したにもかかわらず、この勝利の陣営に加わらなかったからである)。世界的強国の至上最強の連合からフランスが受け取ったこの遺産
[ヨーロッパに対するヘゲモニー]は、フランス自ら手放すつもりはないにせよ、その小さな肩には重すぎるのである。フランスの領土、人口、生産力、国民所得、これらすべてはその尊大な地位を維持するには明らかに不十分である。ヨーロッパのバルカン化、対立の激化、軍縮に反対する闘争、軍事独裁への支持――これらがフランスのヘゲモニーを延命させるのに必要な方法だったのだ。ドイツ国民の強制的分断は、ポーランドとのでたらめな国境線およびその名高い「回廊」と同じく、不可欠な一環としてベルサイユ体制そのものに組み込まれている。ベルサイユ条約で言うところの「回廊」とは、普通であれば生きている身体からの肋骨摘除に類するような手術に与えられた名称だった。フランスが一方で満州において日本を支持しつつ、自分は平和を求めていると神かけて誓うとき、それが意味していることは、フランスが自己のヘゲモニー――つまりヨーロッパを寸断し、混沌におとしいれる権利――の不可侵性を守るということを意味するものでしかない。歴史が証明しているように、節度を知らない征服者は、被征服者の復讐を恐れて、つねに「平和主義」に傾くのである。
ファシスト体制は、ドイツの流血の動乱と新たな消耗という犠牲を払ってはじめて実現可能であり、まさにそれゆえにそれはフランスのヘゲモニーにとって貴重な要素になるだろう。国家社会主義の側からすると、フランスとそのベルサイユ体制には恐れるべきものはまったく何もない。では、ヒトラーの権力獲得は平和を意味するだろうか。そうはならない。ヒトラーによる権力獲得は、フランスのヘゲモニーを強化するだろう。だが、まさにそれゆえに、ヒトラーの権力獲得は戦争を意味するのである。これはポーランドやフランスに対する戦争でなく、ソヴィエト連邦に対する戦争である。
モスクワの新聞は、この数年間、ソヴィエト連邦に対する軍事介入の接近について一度ならず述べている。本稿の筆者はこの種の安直な予測に何度か反対したことがあるが、それは、ソヴィエト連邦に戦争をしかけようとする邪悪な意志が、ヨーロッパや地球上の他の地域にないと考えたからではない。いな、そのような悪意はいささかも不足していなかった。しかし、そのような冒険的企てのためには、ヨーロッパのさまざまな国家のあいだだけでなく、各国の内部においてもなおのこと不一致と抵抗があまりにも大きすぎたのである。
国境に即興で展開された軍隊や単純な上陸作戦によってソヴィエト共和国を始末できると今でも考えているような者は、言及に値する政治家の中にはほとんどいないだろう。ウィンストン・チャーチル(3)はありとあらゆる問題について声高な政治的発言を行なっているが、彼でさえそのようなことをもはや信じていない。この種の試みは1918〜20年の時期に十二分になされたし、このときチャーチルは、彼自身の自慢げな証言によれば、ソヴィエト連邦に「14ヶ国」を動員した。ロシアへの干渉のために費やされた数億ポンドを回収できれば、イギリス大蔵省はどんなに喜ぶことだろうか!
だが覆水は盆に返らない。とはいえ、この出費によって彼らは有益な教訓を得ることができた。当時、赤軍がまだ赤ん坊の靴で歩いていたソヴィエト共和国の最初の時期に――しかも当時の赤軍にはしばしば履くものさえなかったのだ!――、「14ヶ国」の軍隊が勝利できなかったとすれば、赤軍が強力になり、勝利の伝統、若くして経験をつんだ士官、革命がもたらした無尽蔵の予備力、そして十分に豊富な武器の蓄えをもっている現在、彼らの勝利の望みはどれほど小さくなっていることだろう!
周辺諸国の連合勢力は、たとえこのような冒険に引きずり込まれるとしても、ソヴィエト連邦への軍事介入という課題には小さすぎるだろう。日本はソヴィエト連邦に対する独自の軍事的役割を果たすには遠く隔たりすぎているし、しかも、来たる数年間、天皇制政府はより近隣地域で困難な問題に直面するだろう。介入を可能にするためには、高度に工業化された国でしかもヨーロッパ大陸の大国であることが必要であり、そのような国がソヴィエトに対する聖なる長征の主要な役割を引き受けることを望み、またそれができなければならない。より正確には、失うべき何ものもない国が必要である。ヨーロッパの政治地図を見れば、そのような任務を引き受けることができるのは、ファシスト・ドイツだけだということが確信できるだろう。それどころか、ファシスト・ドイツにはそれ以外に道はない。おびただしい犠牲を払って権力に到達し、すべての国内問題で破産を明らかにし、フランスに、したがってまたポーランドのような半従属国家にも屈服するファシスト体制は、否応なしに自己の破産と国際情勢の矛盾から逃れようとして、何らかの冒険を求める以外にない。ソヴィエト連邦に対する戦争はこのような状況から必然的に生起する。
この悲観的な予測に対して、ソヴィエト連邦が一時的な妥協関係を確立しているイタリアの例が持ち出されるかもしれない。だが、そのような反論は浅薄である。イタリアは、ソヴィエト連邦とのあいだに存在する一連の国々によって隔てられている。イタリアのファシズムは純然たる国内危機という酵母によって台頭したのであり、イタリアの民族的要求はベルサイユ条約で気前よく満たされてきた。イタリアのファシズムが権力を握ったのは世界大戦終了の直後であり、その時点において新しい戦争の可能性は問題になりえなかった。そして最後に、イタリア・ファシズムは孤立したままだったし、一方のファシスト体制と他方のソヴィエト体制がどれほど安定しうるかヨーロッパの誰にもわからなかった。
以上すべての点において、ヒトラーのドイツの立場はまったく異なっていると言えるだろう。ヒトラーのドイツにとっては対外的成功がどうしても必要となる。その際、ソヴィエト連邦は耐えがたい隣国になるだろう。ピウスツキがロシアとの不可侵条約への調印を長らく躊躇したことが思い出される。ピウスツキと肩を並べるヒトラー――これだけでわれわれの問題にほとんど答えたことになる。他方、フランスとしては、ドイツを永久に武装解除のままにしておける立場にないことを理解せざるをえない。フランスの政策はドイツを東方に向かわせるものになろう。このことによってベルサイユ体制に対する民族的憤激の安全弁が与えられるし、また、場合によっては、この道をとると、すべての世界的問題のうちで最も神聖な問題――賠償問題――を解決する新しい財源を見出すという幸運にめぐまれるかもしれないのである。
ロシアは準備しなければならない
1932年前半に権力を握るというファシストの予言者の断言を信じてそのまま受け取るとすれば(もちろん、われわれはこのような連中の言葉をそのまま信じるようなことはないが)、 前もってある種の政治的カレンダーを作成することができる。ドイツのファシズム化――ドイツ労働者階級の粉砕、ファシスト民兵の形成、そして軍幹部の再建――のために2年ほど見込まねばならない。そこで1933〜34年頃に、ソヴィエト連邦に対する軍事介入の条件が十分に成熟するだろう。
この「カレンダー」は、もちろん、ソヴィエト連邦がその間、我慢強く待機することを仮定している。現在のモスクワ政府に対する私の関係は、その政府の名前において発言したり、その意図について述べたりできるようなものではない。その意図について、私は他の読者や政治家と同じように、一般に利用可能な情報にもとづいて判断できるだけである。だが、そうであるからこそ、私は、ドイツにおけるファシスト国家の勝利にさいしてソヴィエト政府がどのように行動すべきかについて自由に私見を述べることができる。そのような事態についての電報を受け取れば、私であれば赤軍の予備役を動員する命令にただちに署名するだろう。致命的な敵に直面し、しかも戦争が客観情勢の論理から必然的に生じるとき、その敵が自己の地歩を確立・強化し、必要な同盟を結び、必要な援助を受け取り、西方からだけでなく東方からの攻撃をも含む同時的軍事行動の計画を練りあげ、こうして、途方もないほど危険な大きさにまで成長する時間を与えるとすれば、それは許しがたいほどの軽率さだろう。
ヒトラーの突撃隊は、ハンス・ビュヒナー博士なる人物の作曲になる反ソヴィエト行進曲をすでにドイツ全土で高唱している。ファシストにこの軍歌を調子よく歌わせておくとすれば、それは無分別というものであろう。彼らがそれを歌うとしても、途切れがちにしか歌えないようにさせねばならない。
両者のどちらが形式上のイニシアチブをとるにしても、ヒトラーの政府とソヴィエト政府との戦争は不可避であり、しかもきわめて早い時点でそうなるだろう。この戦争の結末は予測しがたい。しかし、パリでどのような幻想が抱かれていようとも、一つのことは確信をもって断言することができる。すなわち、ボリシェヴィキとファシストとの戦争の炎のもとで最初に炎上するものの一つはベルサイユ条約であろう。
『フォーラム』1932年4月号
『トロツキー著作集 1932』(パスファインダー社)所収
『トロツキー著作集 1932』上(柘植書房新社)より
訳注
(1)ピウスツキ、ヨゼフ(1867-1935)……ポーランドの国家主義政治家、独裁者。1918〜21年大統領、在任中の1920年、ソヴィエト・ロシアに対する干渉戦争を遂行。リガ条約でソヴィエト・ロシアの一部を割譲。1921年、憲法に反対して下野するも、1926年にクーデターを起こして首相に。その後、独裁政治を死ぬまで継続。
(2)「ポーランド回廊」……ポラメニア東部を通った細長い地域で、ポーランドのバルト海への出口となっている。もともと東プロシアの一部でドイツ領であったが、1919年にベルサイユ条約でポーランドに割譲された。
(3)チャーチル、ウインストン(1874-1965)……イギリスの保守党政治家。1900年、保守党の下院議員。1904年に自由党に。1906年以後、商相、内相、植民地相を歴任。第1次大戦後、保守党に戻る。1924〜29年、蔵相。1925年、金本位制を復活。1940〜45、1951〜55年と首相。1946年に「鉄のカーテン」演説を行ない、冷戦を主導。
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