インドシナ反対派の宣言について
トロツキー/訳 西島栄
【解説】この論文は、インドシナ共産党の反対派の宣言に対して、とくに民族問題と農業問題、民主主義の問題を重視する立場から原則的な論評を加えたものである。トロツキーはこの中で、「民主主義のための闘争を通じてのみ、共産主義前衛は、被抑圧国民の大多数を自己の周囲に結集することができるし、したがってまた、プロレタリアート独裁に進むことができる」と述べ、第三世界における永続革命論の基本的姿勢を定式化している。
L.Trotsky, On the Declaration by the Indochinese Oppositionists, Writings of Leon Trotsky(1930-31), Pathfinder, 1973.
この宣言は、インドシナの状況に対する私の非常に不十分な知識から判断するかぎりでは、その主要な概略においては、インドシナ共産党の任務を正しく定式化している。以下の考察は、宣言を補い、それをより正確にし、ありうる誤解をなくすために追加したものである。
1、農業問題についてより明確に、より詳しく、より正確に述べておく必要がある。すなわち、半封建的土地所有者および総じて大土地所有者の役割とその重要性。また、貧農の利益のために大土地所有者を収奪した場合、革命が利用しうる土地、および分配できる土地がどれだけあるのか、である。しかし、農民問題は宣言から完全に排除されている。
植民地的農奴制のシステムを転覆しないかぎり、大土地所有および中規模所有の土地を収奪することはできない。民族問題と土地問題という二つの問題は、労働者と農民の意識の中で最も密接に結びつけられなければならない。もちろん、この問題は詳細な研究を必要とする。おそらく、このような調査研究は遂行されたと思う。いずれにせよ、宣言には、農地革命に関する明確な定式を含めなければならない。
2、宣言の2ページ目には、次のように述べられている。大衆は「民族的独立が貧困からの解放をもたらしてくれるだろうと無邪気に信じていた。しかし、最近、彼らの非常に多くが自らの誤りに気づいた」。これは明らかに不正確な定式である。民族独立は、宣言自身からも明らかなように、インドシナ革命の不可欠の構成要素である。しかしながら、インドシナの農民全体が、フランス帝国主義の支配を革命的に転覆する必要性を理解するに至ることは、あまりありそうもない。ましてや、インドシナ大衆が、単に民族的なだけの解放が不十分で幻想であるということをすでに理解しているというのは、なおさら疑問である。この問題においてこそ、インドシナ共産党の前に、アジテーションとプロパガンダの広大な舞台が開かれている。実際にはこれから大衆に説明しなければならないこと、そして、大衆闘争の生きた過程の中でこそ説明できることを、すでに大衆が理解しているように考えるのは、きわめて危険であろう。まさにこのことの解明のためにこそ、前述したように、農民のあらゆる要求、必要、抗議を、すなわち土地への要求、財政的援助、軍国主義への敵意などを、外国帝国主義およびその「民族的」代理人であるインドシナ・ブルジョアジーに対する闘争と結びつけなければならないのである。
3、3ページ目には次のような一節が見られる。「階級協調を説くあらゆる理論は、資本家階級の支配を糊塗するイデオロギー的カムフラージュである」。ここに表現されている思想はまったく正しい。しかし、それは、誤解の余地を生みかねない言い回しになっている。われわれは必ずしも、階級間のすべての協調を拒否するのではない。反対に、われわれが大いに強化された場合には、ある種の階級協調を追求するだろう。すなわち、プロレタリアートと貧農との協調、および、都市の小ブルジョアジーの最も抑圧され搾取された下層との協調である。この種の、階級間の革命的協調――それは、民族ブルジョアジーに対する非妥協的な闘争が遂行される場合のみ現実性を持ちうる――は、プロレタリアートを国民の真の指導者に転化するだろう。ここで言う「国民」とは、有産階級と帝国主義との反民族的ブロックと対立するものとしての、都市と農村における抑圧され搾取された大衆の圧倒的多数を意味する。
4、4ページ目では、民族主義は「いつの時でも、反動的イデオロギーであって、労働者階級にとっての新たな鎖を鍛えるだけである」と宣言されている。ここでは民族主義は、つねに反動的であるような超越的で超社会的な思想として抽象的に取り上げられている。これは、問題を提起する非歴史的で非弁証法的なやり方であり、誤った結論に門戸を開きかねない。民族主義はつねに反動的イデオロギーであったわけではない。これまでもそうだし、そして現在においても、必ずしもそうではない。たとえば、フランス大革命の民族主義が封建的ヨーロッパに対する闘争において反動的力であったと言うことができるだろうか? 断じて否である。1848年から1870年までの時期における遅ればせの臆病なドイツ・ブルジョアジーの民族主義(民族的統一のための闘争)でさえ、ボナパルティズムに対抗する進歩的力であった。
今日、フランス帝国主義に矛先を向けた最も後進的なインドシナ農民の民族主義は、フリーメーソンをはじめとするブルジョア民主主義タイプの抽象的で誤ったコスモポリタニズムや、あるいは、インドシナ農民から掠奪ないしその手伝いをする社会民主主義者の「国際主義」とは違って、革命的要素である。
宣言はまったく正しくも、ブルジョアジーの民族主義が大衆を従属させだます手段であると述べている。しかし、人民大衆の民族主義は、最も狡猾で有能で残酷な抑圧者たる外国の帝国主義者に対する正当で進歩的な憎悪がとる初歩的な形態である。プロレタリアートは、この種の民族主義に背を向けてはならない。反対に、自分たちが、インドシナの民族解放のための最も首尾一貫した献身的な闘士であることを、実践において示さなければならない。
5、同じ4ページには、民族独立、民主主義的自由、社会主義革命のための同時的な闘争を「インドシナ労働者自身が求めている」という文言がある。こうした定式は多くの点で批判しうる。まず何よりも、労働者の意見に対する抽象的な言及は何ら証明ではない。労働者の間には、さまざまな傾向と観点が存在するし、その多くは誤っている。しかも、インドシナ労働者が、現実に、革命の民族的、民主主義的、社会主義的要素をその思考の中ですでに単一の全体として把握しているというのは、はなはだ疑わしい。ここでもまたしても、共産党の仕事の主要な中身となるべき任務が、すでに解決されたものであるかのように提示されている。最後に――だからといって重要性に劣るわけではないが――、この定式においては、いかなる「民主主義的自由」が問題となっているのかが不明確である。次の一文では、「プロレタリアートの独裁による民主主義的自由の獲得」ということが公然と語られている。これは、控えめに言っても、不正確な定式である。民主主義的自由という概念は、俗流民主主義者によって、言論・出版の自由、集会の自由、自由選挙、等々を意味するものとして理解されている。プロレタリアート独裁は、これらの抽象的な自由に代わって、自己解放のための物質的手段と道具をプロレタリアートの手に与える(とりわけ、印刷手段や集会所など)。他方、民主主義革命は、いわゆる民主主義的自由にのみ制限されない。農民にとって、民主主義革命は、何よりも、土地問題の解決と税金や軍国主義の重圧からの解放を意味する。それは民族解放なしには不可能である。労働者にとっては、労働時間の短縮が民主主義の要石である。これこそが、労働者が実際に国の社会生活に参加する機会を保証する唯一のものである。これらの課題はすべて、都市と農村の半プロレタリア大衆に依拠したプロレタリアート独裁のもとでのみ完全に解決しうるし、解決されるだろう。これは、もちろんのこと、今すでに、先進的労働者に説明しておくべきことである。
しかし、プロレタリアートの独裁は、われわれがこれから実現しなければならないものである。すなわち、何百、何千もの大衆がこれからこうした展望に獲得されなければならない。だが、今日におけるアジーションにおいては、われわれは現在の状況から出発しなければならない。フランスの血ぬられた占領体制に対する闘争は、徹底し首尾一貫した民主主義を求めるスローガンとともに遂行されなければならない。共産党員は、軍事的専制反対、言論と集会の自由、インドシナ憲法制定議会のための、最もすぐれた最も大胆な闘士とならなければならない。民主主義をアプリオリに拒否することによっては、プロレタリアートの独裁に到達することはできない。民主主義のための闘争を通じてのみ、共産主義前衛は、被抑圧国民の大多数を自己の周囲に結集することができるし、したがってまた、プロレタリアート独裁に進むことができるのである。この独裁はまた、世界プロレタリアートの運動と不可分に結びついた社会主義革命に移行するための諸条件を整えるだろう。
この点に関しては、中国共産党に対する宣言の中で言われたことがかなりインドシナにもあてはまるように思われる。
6、さらにまた同じ4ページで、最近、三つの共産党と三つの民族主義政党が統一して単一のインドシナ共産党が結成されたと述べられている。この事実は、ことのついでに触れられており、たった2行でしか取り上げられていない。しかしながら、反対派の観点からしても、またインドシナ革命全体の観点からしても、これは中心的な問題である。これら六つのグループの立場はいかなるものか? とりわけ、三つの民族主義グループの立場は? それらの綱領と社会的構成はどのようなものか? 共産党の名のもとにインドシナ版の国民党が創設される危険性はないのか? 宣言はまったく正しくも、この新しく結成された政党に対する関係において、われわれの任務は、イデオロギー的明確さを導入することであると述べている。だが、そのためには、できるかぎり宣言自身が、新しく結成された政党の真の本質について、もっと詳しく正確に規定しておくべきである。これにもとづいてのみ、われわれはその党に対する政策を決定することができるのである。
7、宣言が最後に(5ページ)列挙しているスローガンは、部分的に抽象的であり、部分的に不完全である。これらは、前述した事柄(農業問題、民族的要素、過渡的スローガンとしての民主主義的スローガン、8時間労働、等々)にもとづいて、より正確にされ、より拡張されなければならない。
なお、私はその批判的検討において、われわれの思想上の一致に対する全面的な信頼にもとづいていたし、その点に関しては宣言はいかなる疑問も残していない。ここで提示した諸考察の目的は、宣言がより注意深く定式化されたものにすることである。他方で、最初から明白なことだが、私の批判もまた、インドシナの社会構造とその政治的歴史に関する私の不十分な知識が原因で抽象性という欠陥を免れていない。それゆえ、私は何らかの具体的な定式を提起するつもりはない。私の論評はただ次の目的のためだけになされたものである。すなわち、インドシナ革命の諸問題をめぐってより正確で具体的な回答が出せるよう、その方向性を提示することである。
1930年9月30日
英語版『トロツキー著作集 1930-31』所収
『トロツキー研究』第31号より
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