危機に立つソヴィエト経済
(第2次5ヵ年計画を前にして)
トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄
【解説】本論文は、1932年10月に『反対派ブレティン』に書かれたもので、スターリンの冒険主義的な超工業化と強制的農業集団化を総合的に批判し、計画と市場とソヴィエト民主主義という三つの要素による経済運営を提起している。また、この中でトロツキーは、世界市場との結合を通じた社会主義建設を唱えるとともに、第1次5ヵ年計画と第2次5ヵ年計画との間に資本修復のための緩衝年を設けるよう提起している。これは、トロツキーの批判が単なる原理的批判ではなく、実現可能な経済運営と経済建設の観点にたった具体的な対案提示であることを示している。
Л.Троцкий,Советское хозяйство в опасности! (перед втрой пятилеткой), Вюллетень Оппозиции, No.31, Ноябрь 1932.
計画化の技術
社会主義的計画化の前提条件は、10月革命とソヴィエト政権の基本法規によってまず基礎をすえられた。その後の数年間の過程で、経済の中央集権的指導に責任をもつ国家機関が創設され、機能するようになった。大規模な創造的活動がなされた。帝国主義戦争と内戦によって破壊されたものは、復興した。新しい巨大企業、新しい産業が、そして一連の工業部門がひととおり創設された。国家に組織されたプロレタリアートが新しい方法で経済を運営し、かつてないテンポで物質的価値をつくり出す能力をもっていることが、実際に証明された。以上のことは、衰退しつつある世界資本主義と好対照をなしている。社会主義は、体制として、『資本論』の頁の上ではなく、水力発電所と熔鉱炉の実践によって、はじめて歴史的勝利を主張する権利のあることをはじめて立証した。マルクスも、このような立証方法の方をむしろ望んだであろうことは言うまでもない。
しかしながら、ソ連邦がすでに社会主義の段階に入ったとする軽率な主張は犯罪的である。その成果は偉大である。だが、経済的無政府状態に対する実際の勝利、不均衡の克服、調和のとれた経済の保証に至るにはまだ非常に長い、困難な道のりが残されている。
最初の5ヵ年計画は、たとえそれがあらゆる側面を考慮に入れたものであったとしても、事柄の性格そのものからして、それは、最初の大雑把な仮説以外のものになりえないだろうし、作業の過程において根本的な改変を余儀なくされることはあらかじめ予想できることである。経済的調和のとれた完全な体制をアプリオリに創造することは不可能である。計画化の仮説は、古い不均衡のみならず、新しい不均衡の発展の不可避性をも含まなければならない。集中された指導は、大きな利点を意味するだけでなく、集中された誤りの危険性、すなわち誤りの度合いをあまりにも大きくしすぎる危険性をも意味する。計画を実施する過程での計画のたえまない調整、その経験にもとづいた部分的・全体的再編だけが、その経済的有効性を保証することができる。
社会主義的計画化の技術は、天から降ってくるわけでも、権力獲得とともに出来合いのものとして提供されるわけでもない。この技術は、新しい経済と文化の構成要素として、一歩一歩、少数の人々によってではなく多数の人々によって闘いとられるものなのである。10月革命15周年の時点で、経済指導の技術がいぜんとして非常に低い水準にとどまっているという事実には、少しも驚くべきことも、落胆することもない。新聞『工業化のために』は、「われわれの仕事の計画化はうまくいっていない」(1932年9月12日)と宣言できるとみなした。そして、今や、問題の核心はまさに仕事の計画化なのである。
われわれは、一度ならず次の点を強調してきた。すなわち、「計画化が正しくなされない場合、あるいはさらに重大なことに、実施の過程における計画の調整が正しくなされない場合、恐慌が5ヵ年計画がまさに終わった時点で発展し、疑う余地のない成功の活用と発展を妨げる克服しがたい困難を作り出す可能性がある」(「新たなジグザグと新たな危険」、1931年7月15日、『反対派ブレティン』第23号)と。性急にまったく思いつき的に「5ヵ年計画を4ヵ年計画でやろうとすることは、最も軽率な冒険主義の行動である」(同前)とわれわれがみなしたのは、まさにこの理由のためである。われわれの危惧と警告はともに、不幸にも完全に確認された。
第1次5ヵ年計画の暫定的な総括
現時点では、5ヵ年計画が4年間(より正確に言えば、4年と3カ月)で実際に完了したなどというのはお話にならない。最後の2ヶ月間での最も激烈な鞭打ちは全体の結果に影響を与えることはできないだろう。当初の計画の実際の達成割合――すなわち、経済的に測られた割合――を確定することは今のところまだ不可能である。新聞に発表されたデータの性格は、経済的評価というよりも、今のところ統計上の形式である。たとえば、新しい工場の建設が90%まで進行した後に、原材料の明らかな不足のために工事が停止したとすれば、形式的統計の観点からは、計画は90%達成されたと言うことができるかもしれないが、経済的観点からすれば、それにかかった経費はまるごと損失欄に記載されなければならない。建設されたかあるいは建設途上にある企業の実際の有効性の評価は、国全体のバランスシートの観点からするとき、まったく将来の問題に属している。しかし、純粋に量的観点から見ても、達成された結果は――たとえそれ自身いかに重大なものであったとしても――、計画で予定されていたものからほど遠いものである。
石炭産出高は、現在のところ昨年水準にとどまっている。したがって、それは、5ヵ年計画の第3年度について設定された計画数値の達成からほど遠い。「ドンバスは、ソヴィエト工業の最も遅れた部門の最後尾よりも立ち遅れている」と『プラウダ』が不平をこぼしている。「燃料部門のバランスシートはますます逼迫しつつある」と『工業化のために』(1932年10月8日)が呼応する。
1931年には、計画によって設定された790万トンではなく490万トンの鋳鉄が、880万トンではなく530万トンの鋼鉄が、さらに670万トンではなく400万トンの圧延鋼が生産された。1930年と比べると、この数字は鋳鉄で2%、鋼鉄で6%、圧延鋼で10%の減少を意味している。
1932年の9ヵ月間について言うと、450万トンの鋳鉄と410万トンの鋼鉄と350万トンの圧延鋼が生産された。鉄の生産高がかなり増大したが(新しい熔鉱炉のおかげだ!)、一方では今年度の鋼鉄と圧延鋼の生産はほぼ昨年度の水準にとどまっている。工業化の全般的課題の観点からすると、決定的なのは、もちろん、粗鋼ではなく圧延鋼と鋼鉄である。
『エコノミチェスカヤ・ジーズニ(経済生活)』が「ひどい立ち遅れ」と特徴づけている以上の量的結果と並んで、質の立ち遅れが存在する。これは、はなはだ思わしくなく、その結果からしてはるかに危険な問題である。経済専門紙に続いて、『プラウダ』も重金属工業部門で「品質指標に関する状況は許しがたいものである」ことを公然と認めている。「欠陥製品が鋼鉄をその品質まで台無しにしている」。「機械使用の技術係数がはなはだしく悪化している」。「生産原価が急騰している」。二つの数字を示すだけで十分である。1931年に1トンの鉄のコストは35ルーブルだったが、今年度前半にはそのコストが60ルーブルになった。
1929〜30年、4万7000トンの銅が精錬された。1931年には、精錬量は4万8000トンであり、これは計画が定めた目標量の3分の1である。今年度に向けて、計画の設定値が9万トンに引き下げられたが、今年度の最初の8ヵ月間では、3万トン未満が精錬された。機械製造全般およびとりわけ電気技術機械においてこのことが何を意味するかは、何ら注釈を加えるまでもない。
電化の分野では、その大きな成功にもかかわらず、かなりの立ち遅れが見られる。8月に発電所が供給した電力量は、予定の71%であった。『工業化のために』は、「建設された発電所のおろかで無知で非文化的な利用」について書いている。エネルギー産業の分野では冬に大きな困難に見舞われることが予想される。そうした困難はすでにモスクワとレニングラードでは始まっている。
昨年、計画よりもはなはだしく立ち遅れていた軽工業は、今年度前半には16%の上昇を示したが、第3・4半期には昨年度の数字よりも減少した。食品工業は最後尾にいる。広範な需要向けの追加生産は、8ヵ月間で年間目標の35%を達成しているにすぎない。急いで間に合わせで生産されたこの大量の商品のうちのどの部分が市場の要求を実際に満たすかを、今の段階で判断することはできない。
特別至急電報を打つことで、ようやく工場に石炭と原材料が供給される。『エコノミチェスカヤ・ジーズニ』の表現を用いるなら、産業は「至急電でもっている」。だが、いくら電報を打っても、無い袖は振れない。
性急に採掘され、不十分にしか選別されていない石炭は、コークス生産企業の操業の妨げとなっている。コークスの中に過剰に含まれる水分と灰分が、何百万トンもの金属生産量を減らすだけでなく、その質をも低下させている。粗悪な金属によって作られている機械はより劣悪な製品を生産し、その結果、故障を引き起こし、労働者を手もちぶさたにし、急速に劣化してしまう。
ウラルでは、新聞がわれわれにそのような情報を伝えている。「熔鉱炉がたいへんなことになっている。燃料供給が不十分なために、熔鉱炉は3日間から20日間ストップしている」。ここに問題を最もはっきりと明らかにしてくれる一つの事実がある。ウラル地方の冶金工場は燃料輸送のための独自の馬車輸送隊を持っていた。この年の2月に、保有する馬の頭数は2万7000頭であった。この頭数は7月には1万4000頭に、9月には4000頭に減った。理由はまぐさの不足である。
『プラウダ』は、年間生産量が250トンから140トンに減少したスターリングラードのトラクター工場の状態を次のように特徴づけている。「機械設備は、基本的な恒常的技術管理がなされていないためにはなはだしく劣化している」。「欠陥製品が35%にまでのぼっている」。「工場の機械全体がほこりまみれである」。「現場では、翌日のことがまったく考えられていない」。「手作業的方法が連続的な流れ作業の生産よりも優位を占めている」。
膨大な投資にもかかわらず、軽金属工業の生産はなぜ低下しているのであろうか? 『プラウダ』は次のように答える。なぜなら、「企業内の個々の部門……はそれぞれ強力なのに、うまくお互いにかみ合っていない」からである、と。それでも、各部門を調整する任務は資本主義的テクノロジーによって解決されてきた。だが、産業の独立した企業間および全部門間の相互調整の問題は、どれほど複雑で困難なことだろう!
「ポドルスクのセメント工場は危機的状況にある。前半の半年間、生産計画は約60%達成されたが、最近数ヵ月では達成率は40%に落ちた。……かかった原価は計画の2倍である」と『工業化のために』は書いている。ここで引用されたような特徴は、その程度が異なるとはいえ、現在の産業全体に当てはまる。
量と質
量の行政的な追求は驚くべき質の低下につながる。低い品質は、次の段階において量のための闘争の基盤を掘り崩す。経済的に不合理な「成功」がもたらす損害はたいてい、成功そのものをはるかに凌駕している。すべての先進的労働者は、共産主義アカデミーの書物(悲しいかな、ここでも劣悪な製品が生産されている)を通じてではなく、実践の中で自分の鉱山や工場や鉄道や発電所などを通じて、この弁証法を知っている。
この熱狂的な駆り立ての影響は教育の領域にも蔓延している。『プラウダ』は、予習の質を引き下げることによって、また教科を飛ばすか「騎兵的スピード」で通り過ぎてしまうかすることによって、高等技術教育機関は、産業を支援するのではなく、それを傷つけたということを認めざるをえなかった。しかし、高等技術教育機関では誰が「騎兵的スピード」に責任があるのだろうか?
もしわれわれが修正された品質係数を公式データの中に導入するとすれば、計画達成の指標はたちまち大幅にダウンするだろう。クイブィシェフさえ、この点を1年以上前に認めなければならなかった。彼は最高国民経済会議の会合で慎重に次のように宣言した。「品質のばらつきを考慮に入れるとき、工業の途方もない成長に関する数字は相対的なものとなる」と。ラコフスキーはもっとはっきりと表現している。「生産物の品質を考慮しないかぎり、量的指標は一個の統計的虚構である」と。
固定資本の建設
ラコフスキーは、2年以上も前に、計画の無謀さについて警告を行なっている。彼は次のように書いている。「計画によって指示される生産成長の規模も、予定された固定資本の建設計画も十分準備されたものではなかった。…工業分野におけるこれまでの全政策は、将来のことを少しも考慮することなく、古い固定資本の強引な利用に切り縮められてしまった」。ひと飛びで立ち遅れを取り戻そうとする試みは、固定資本の建設部門では最も非現実的なものであった。計画の達成に必要な資材も資金も、「国内では得られないし、近い将来においても得られないだろう」。だから、「固定資本形成計画は大きく行き詰まるだろう」との警告がなされたのである。
そして、この予測もまた完全に実証された。固定資本の建設部門では、早くも1931年に立ち遅れが極度に大きかった。9ヵ月間の運輸建設計画の達成率は当局自身の見積りにしたがえば38%だった。他の部門でも、建設に関する事態はおおむね、それに輪をかけてひどく、とりわけ最悪なのは住宅建設の分野である。資材と資金はそっくり余りにも多くの建築物に投下され、そのために投資効果が低くなっている。
6500万ルーブルがバルハシスキー銅工場に投入され、出費は日々増大し続けているが、そうした出費は実際には何の役にも立っていない。操業し続けるためには、1年間で30万トンの貨物を輸送する必要があったが、現在の輸送能力はわずか2万トンしかない。この種の例が、これほど明らかなものではないにしても、あまりにも多すぎるのである。
原材料と機械設備の劣悪な品質は、固定資本の建設に最もはげしく跳ね返ってくる。「屋根ふき材用の鉄の品質がとてもひどいので、一度使っただけでこわれてしまう」と『プラウダ』は書いている。
資本建設部門でのこうした立ち遅れは、自動的に第2次5ヵ年計画の土台を掘り崩す。
国内の不均衡と世界市場
生産の諸要素および経済の諸部門における均衡の問題は社会主義経済のまさに核心をなすものである。この問題の解決に向けた曲がりくねった道はいかなる地図にも描かれていない。その道を発見すること、あるいはもっと正確に言うと、そうした道を切り開くことは、将来の長期にわたる困難な事業である。
全産業が予備部品の不足に苦しんでいる。織機はボルトがないために動いていない。『エコノミチェスカヤ・ジーズニ』は「大衆消費向けの商品において、生産された製品の品ぞろえはいいかげんで……需要に合致していない」と書いている。
「1932年度前半だけで、10億ルーブルが、原材料の在庫や未完成品の形で、さらには倉庫内の完成品としてさえ、(重)工業によって固定され、『凍結』されている」(『工業化のために』、1932年9月12日)。
このような状態が、公式筋の評価によるところの不均衡と不調和の通貨的表現なのである。
大小の不均衡は国際市場に注意を向ける必要性を生み出している。1チェルボネツ
[金通貨]の輸入財が、何百チェルボネツ、何千チェルボネツに相当する国内生産物を瀕死の状態から救い出すことができる。一方における国内経済の全般的成長と他方における新たな需要と新たな不均衡の発生は、世界経済と結びつく必要性を一貫して高めていく。ソヴィエト経済の「独立性」、すなわち、その自足性という綱領はますますその反動的、ユートピア的性格を暴露していく。自給自足経済は、ヒトラーの理想であって、マルクスとレーニンの理想ではない。たとえば、5ヵ年計画の開始から鉱石の輸入は、量で5倍に、価格で4倍に増えた。今年度内にこの輸入品目が減少したのは、もっぱら為替的理由によるものである。しかし、このために、工場用機械類の輸入は過剰なまでに増大した。
カガノヴィッチは10月8日の演説で、左右の反対派は、「資本主義世界への依存を強めるようにとわれわれに提案している」と主張した。まるで、それが経済成長の自動的論理ではなく、人為的、恣意的な措置であるかのようだ!
それと同時に、ソヴィエトの新聞は、ロンドンを出発する直前のソコールニコフが行なったインタビューを賞賛しながら次のように報じている。「工業と技術の領域においてソヴィエト国家が発展することそれ自身がイギリスの工業製品にとっていっそう広範な市場を提供することになるだろう。この事実についての認識が、イギリスでますます広がりつつある」。ソコールニコフは、外国市場との結びつきの弱体化ではなく、その強化を、したがって世界経済への依存の増大を、ソ連邦の経済的進歩のしるしであるとみなしているのだ。かつての反対派であるソコールニコフが「トロツキスト的禁制品」を密輸したのであろうか? しかし、もしそうだとしたら、なぜ公式の新聞は彼を賞賛しているのだろうか?
労働者の状態
経済健全化の「6条件」に関するスターリン演説(1931年6月)は、生産物の低い質、高い原価、労働力の移動、高い浪費の割合などに向けられていた。この時以降、この「歴史的演説」に言及しない記事は一つも登場しなくなかった。しかし、その間、6条件によって治癒されるはずのこれらすべての病弊は悪化し、よりいっそう悪性の性格を帯びるようになった。
公式新聞は日々、スターリンの処方箋の破綻を証明している。『プラウダ』は、生産の低下の原因を説明して、「工場での労働力の減少、移動の増大、労働規律の弱まり」(9月23日)を指摘している。赤色ウラル・コンビナートの極端に低い生産性の原因について、『工業化のために』は、「コンビナートの諸部門間の驚くべき不均衡」と並んで、次の点を挙げている。(1)「労働力の大量移動」、(2)「支離滅裂な賃金政策」、(3)「(工場労働者に)住むのに適した住宅が提供されていないこと」、(4)「言語の絶するほどひどい工場労働者用の食事」、(5)「労働規律の破局的低下」。われわれは一語、一語を引用している。この新聞は、労働力移動に関しては、「あらゆる限度を超えて増加している」し、「(労働者の)生活条件は例外なく非鉄冶金工業のすべての企業でまったくひどいものである」と書いている。
機関車工場では、この年の最初の9ヶ月間に約250台の機関車を国に供給できなかったが、「熟練労働者の深刻な不足に注目すべきである」。コロメンスク工場だけで2000人以上の労働者が夏の間に辞めてしまった。理由は何か? 「生活条件が劣悪だからである」。ソルモフスク工場では、「工場の食堂は、最悪の部類のもぐり食堂である」(『工業化のために』、9月28日)。スターリングラードの恵まれたトラクター工場では、「工場の食堂のために工場の仕事の能率が激しく低下した」(『プラウダ』、9月21日)。スターリニストの新聞がこうした事実を掲載せざるをえないとは、何と労働者の不満が高まっていることだろう!
繊維産業でも、当然にも、状態はましなものではない。「イワノフスク地域だけで、約3万5000人の織工が職場を去った」と『エコノミチェスカヤ・ジーズニ』は報じている。この同じ新聞の言葉によれば、毎月、全労働力の60%以上が入れ替わる職場もあるという点を見るべきである。「工場は通路になりつつある」。
「6条件」の無残な破産についての説明の中では、「無能」、「意欲の欠如」、「成功の上にあぐらをかいている」など、管理者と労働者自身に対する抽象的な批判でお茶をにごしてきた。しかしながら、最近数カ月間、新聞は、その大半はこっそりとであるが、悪の本当の根源、すなわち労働者の耐え難い生活条件についてますます頻繁に指摘するようになっている。
ラコフスキーは2年以上も前に、さまざまな要因の中のこの最も核心的な原因を指摘していた。「故障が増大している原因、労働規律が低下している原因、労働者の数をこれほどまでに増やさざるをえなかった原因は、労働者があまりにも大きな負担に肉体的に耐えられなくなっていることにある」と彼は書いている。
しかし、なぜ生活条件が劣悪なのか? 説明の中で、新聞は、「労働者の生活と物資供給の諸問題に対する軽蔑的(!)態度」に言及している(『工業化のために』、9月24日)。このたった一つの言葉であっても、スターリニストの新聞はその意図していた以上のことを言っている。労働者国家において労働者の要求に対して「軽蔑的態度」がとられるということは、尊大で野放図な官僚体制のもとでしかありえないからである。
彼らがあえてこのような説明をせざるをえなかったのは、疑いもなく、労働者に供給する物資の不足という基本的事実を隠すためであった。国民所得は正しく分配されていない。経済的課題は現実の資材を何ら考慮に入れることなく設定されている。ますます耐えがたい重荷が労働者の肩に転嫁されている。
今や食糧供給の「中断」についての言及が、ソヴィエトの新聞に毎号見かけられる。栄養失調プラス重労働。この二つの条件が組み合わさるだけで、機械を台無しにし、労働者自身を疲弊させるのに十分である。慰めとして、『プラウダ』は「個人所有」の豚に餌をやっている女性労働者の写真を掲載している。これこそまさに解決策だ。「私的家庭経済はこれまで労働者を資本主義に結びつけてきたが、今では労働者をソヴィエト体制に結びつけている」と同紙は説教している(10月3日)。これはわが眼を疑うものだ! かつてわれわれは、私的家庭経済が、社会的隷属全体の中でも最もひどい構成要素である女性の隷属にもとづいているということを学んだ。だが、今日では、「個人所有」の豚がプロレタリアートを社会主義に結びつけているわけだ。こうして、偽善的な官僚たちはひどい窮乏を美徳に変えてしまう。
栄養不良と神経衰弱は周りの環境に対する無関心を生み出す。その結果、古い工場だけでなく、最新の技術にしたがって建設された新しい工場も、たちまち荒廃してしまう。『プラウダ』自身が次のような挑戦的言葉を投げつけている。「がらくたでおおわれていない熔鉱炉ないし平炉が一つでもあったら見つけてみたまえ!」と。
精神的状態について言えば、肉体的状態よりけっしてましではない。「工場の管理者層は大衆から遊離している」(『プラウダ』)。労働者に対し丁寧に対応するのではなく、「むき出しの命令と叱責が支配的になっている」。問題にされているのは個々の工場の個々の事例である。個々の事例を総和するとスターリニスト体制を構成することになるということに、『プラウダ』は思いいたさない。
非鉄金属工業全体では、「多少とも満足な形で機能している工場委員会は一つもない」(『工業化のために』、9月13日)。しかしながら、どうして、なぜ労働者国家で、非鉄金属部門だけでなく工業全体の工場委員会が不満足な形でしか機能していないのだろうか? それは党官僚によって窒息させられたからではないのか?
ジェルジンスキーの名を冠した機関車製造工場では、鍛鉄部門の職場支部のたった1回のビューロー会議で、党からの除名問題が18件、車両製造部門では9件、ボイラー製造部門では12件が同時に取り上げられた。問題は、個別の工場に限られていない。至る所で命令が支配している。そして、下からの創意と批判に対する官僚の唯一の回答は弾圧である。
国際左翼反対派の[1931年4月の]
政綱草案は「労働者の生活水準と国家の中でのその役割は社会主義の成功をはかる最高の基準である」と述べている。われわれは1年以上も前に、「スターリニスト官僚がこの観点から計画化と経済の生きた調整の任務にアプローチしていたならば、これほど毎度のようにひどい失敗をこうむらなかっただろうし、浪費に満ちたジグザグの政策を遂行しないですんだだろうし、政治的危機に直面することもなかっただろう」(『反対派ブレティン』第23号、5頁)と書いた。
農業
「ソ連邦の農業は、完全に社会主義の軌道に定着した」と9月6日付『プラウダ』は書いている。この空文句はいつも、集団化された農家数と土地面積を単純に持ち出すことに依拠しているのだが、そのような評価は、それ自身、農業の実際の状態ならびに都市と農村の相互関係に対する許しがたい侮蔑的態度を示している。
農業の技術的・経済的・文化的な可能性を考慮することなく集団化の記録を追求することは、実際には破局的な結果につながった。これは、小商品生産者への経済的刺激を別のはるかに高度な刺激にとって代えられるようになるはるか以前に、この経済的刺激を一掃してしまった。行政的圧力は工業においてすぐに効果をなくしてしまったが、農業では最初からまったく無力である。
同じく『プラウダ』はわれわれにこう教えている。「カフカースの農村は春の種蒔きカンパニアで賞を与えられた。その一方で、耕作の仕方が非常にまずかったので、農地全体に雑草が生い茂ってしまった」。カフカースの農村は、農業分野において量を追求する行政的競争の実体を示す見本である。全面的集団化の結果、農地で雑草が全面的に生い茂ることになったのだ。
集団農場には10万台以上のトラクターが割り当てられた。巨大な成果だ! しかし、現地における無数の新聞記事が示しているように、これらのトラクターの効果はその台数にまったく対応していない。新しいステーションの一つであるポルタヴァの機械製造ステーションでは、「最近配給された27台のトラクターのうち、19台がすでに重大な故障をかかえていた」。これらの数字は例外的なものではない。ウクライナにあるプリヴォリャンスク・ステーションは52台のトラクターを保有しているが、そのうち、2台が春以来、稼動しておらず、14台は全面修理中である。残りの36台のうちで、半分未満が種蒔きに使用されているだけであり、「しかも、交互に動かなくなる」。10万台のトラクターのうちちゃんと稼働しているものの割合は、まだ計算されていない!
全面的集団化の最も目も眩むような局面においても、ラコフスキーは厳しい診断を下した。「これまでの全政策によって準備され、極左冒険主義の時期に悪化させられた最初の結果は、主として農業生産力の低下であり、これは、畜産の分野および一部では産業用原材料の栽培の分野で疑う余地のないほど明白であり、穀物栽培の分野でもますます明白になりつつある」。
ラコフスキーは間違っていたか? 残念ながら、否である。1932年9月11日にソヴィエト中央執行委員会が出した、まったく人目につかない小さな政令ほどショッキングな印象をもたらすものはない。これはソ連の新聞では何ら論評されなかった。カリーニンとモロトフが署名したこの政令によれば、個人所有農民は、コルホーズ(集団農場)の要請に応じて、一定の価格で自らの馬を手放さなければならない。コルホーズの方は、その馬を「よい状態」で所有者に返却しなければならない。
このようなものが、農業における社会主義的部分と小ブルジョア的部分との間の相互関係というわけだ! 耕地の80〜90パーセントを耕作していて、理論上、その実績によって個人農を引き付けているはずのコルホーズは、実際には、自らの必要のために個人所有者から馬を強制的に入手するために、国家の法的干渉を訴えざるをえないのである。そこではすべてがひっくり返っている。9月11日のこの政令だけでも、スターリン=モロトフの政策に対する致命的な有罪宣告なのである。
スムィチカの諸問題
都市と農村との間の相互関係はこのような物質的生産を基礎にして改善できるであろうか?
もう一度思い起こそう。農産物を得るために大多数の農民に対して国家が強制という行政的手段に訴える必要がなくなるときにはじめて、すなわち、機械や道具や個人消費物と引き換えに、農民が自発的に国家に食料品と原材料を供給するようになる時にはじめて、プロレタリア独裁の経済的土台が完全に保証されるとみなすことができる。この基礎にもとづいてはじめて――それ以外の必要な国内的、国際的諸条件がそろっている場合に――、集団化は真の社会主義的性格を獲得することができる。
工業製品の価格と農産物の価格との間の相互関係は明らかに農民に有利に変化してきた。確かに、この分野で現実にある程度近い計算を行なうことは、実現しがたい課題である。たとえば、『プラウダ』は「100キログラム当たりのミルクの原価は、コルホーズでは43ルーブルから206ルーブルまでの範囲である」と書いている。国家価格と合法市場での価格との間の格差はさらに大きい。工業製品の価格も同様に千差万別である。この価格は、工業製品がどのルートを通じて農民の手に渡るかで左右される。しかし、厳密であると主張するつもりはないが、言葉の狭い意味での鋏状価格差が農民によって閉じられたと断言することができる。農村は、農産物と引き替えに、一定の国定価格での工業製品を保証するような一定の通貨量を受け取り始めた。そのような工業製品が存在する場合にはだが…。
しかし、最も重大な不均衡の一つは、商品の量が通貨の量に対応していないことにある。貨幣流通に関する用語で言えば、それはインフレーションと呼ばれるものである。計画経済の用語で言えば、これは肥大化した計画、労働力と物資との不正確な配分、とりわけ消費財の生産と生産手段の生産との間の不正確な配分を意味する。
価格の相互関係が都市に不利に傾き始めたとき、都市は商品を「凍結する」ことによって自らを防衛した。すなわち、商品は簡単に流通には回されず、官僚的分配のために手元にとっておかれた。このことは、鋏状格差の貨幣的影だけがその刃を閉じたが、他方でその物質的不均衡がまだ残っていることを意味した。しかし、農民は影にはほとんど関心をもたない。商品の不足は農民を穀物ストライキへと追いやったし、現在も追いやっている。農民は、貨幣と引き替えに自分の穀物を手放したいと思っていない。
食糧と原料用農産物の調達は、都市と農村の双方にとって単純で有益な交換とはならず、以前と同じく、その度に国家機構と党機構の動員を必要とする「政治的カンパニア」、「戦闘的行動」にとどまり続けている。「多くのコルホーズは穀物の調達に抵抗し、穀物を隠匿している」と『プラウダ』(9月26日)は慎重に報じている。われわれは、このような文脈の中で「多くの」という言葉が何を意味するのかを知っている。都市と農村との間の交換が有利であるなら、農民には「穀物を隠匿する」理由などないだろう。しかし、交換が有利でないならば、すなわち、交換が強制的徴発という形をとるならば、「多くの」コルホーズにとどまらず、すべてのコルホーズや個人農もまた自分の穀物を隠そうと努めるであろう。今や農民の食肉調達の義務は公式的には現物税の性格を与えられているが、それにはあらゆる弾圧の結果が伴っている。全面的集団化の経済的結果は、集団化された土地面積の抽象的な統計によってよりも、これらの事実によってはるかに正しく表わされている。
社会主義的財産の窃盗に対する厳しい法律が可決されたという事実は、この悪が広がっていることを十分に物語っている。その意味するところは、農村において、農民が穀物を社会主義的販路にではなく資本主義的販路に向けようと努めているということにある。投機的市場での穀物価格はあまりにも高いので、あえて刑法を犯そうとする行為はあとを絶たない。食糧のうちのどれだけの割合が投機的販路に向けられているのだろうか?
ヴォルガ川=カスピ海漁業トラストでは、漁獲の20%が民間市場に回されていると見積もられている。「だが、実際にはどれぐらい民間市場に回されているのか」と『プラウダ』はいぶかしげに問うている。農業では、民間市場への流出の割合はかなり高いに違いない。しかし、たとえ20%でさえ数億プードの穀物を意味する。弾圧は自己保存の不可避的な方法になるかもしれない。しかし、それはスムィチカの確立にとって代わるものでも、プロレタリア独裁の経済的土台を作り出すものでも、食糧の調達を保証するものですらない。
したがって、当局は、弾圧だけに留まっていることができなかった。穀物や原材料を求める闘争において、当局は、都市に工業製品を放出するよう命じなければならないことに気づかされた。この数ヵ月間、一般消費物資が強引に農村へと送られた。だが、都市では、特に地方都市では、国営店や協同組合店の商品だなが空になってしまった。
今年の農民との「スムイチカ」の収支決算はまだ引き出せない。しかし、都市の商品経路は荒廃した。「われわれは農村により多くの製品を提供し、こう言ってよければ、都市に損害を与えた」とモスクワで10月8日にカガノヴィッチは語った。次のように言うこともまったく可能である。都市と工業地域が損害をこうむった、すなわち、労働者が損害をこうむった、と※。
※原注1929年にプレオブラジェンスキーは、自分の屈服を正当化するために、ソフホーズ(国営農場)とコルホーズの助けを借りて、党が2年以内にクラークを屈服させるだろうと予言した。それから4年が経過した。それで、どうなっているか? クラークでないとしても――クラーク(富農)は「根絶された」――、強力な中農がソヴィエトの商業を屈服させて、労働者に損害を与えている。いずれにしても、プレオブラジェンスキー自身、あまりにも急いでスターリニスト官僚に屈服したのである。
計画経済の条件と方法
計画を立案し、実施するのはいかなる機関か? 計画をチェックし、調整する方法とは何か? 計画成功の条件とは何か?
この関連で、三つのシステムを簡単に分析しなければならない。(1)専門的な国家機関、すなわち中央と地方における計画委員会の階層システム。(2)市場的調整のシステムとしての商業。(3)経済機構に対する大衆の生きた働きかけのシステムとしてのソヴィエト民主主義。
もしラプラスの科学的空想が画き出したような普遍的知性、すなわち自然と社会のすべての過程を同時に記録し、それらの運動の発展力学を測定し、その相互作用の結果を予測することができる知性が存在するならば、もちろん、このような知性は、小麦の播種面積から始まってシャツのボタンに至るまで、誤りのない完璧な経済計画を先験的に策定できるだろう。官僚は、自分たちこそがそうした知性を備えているとしばしば思い込む。だからこそ、官僚は市場とソヴィエト民主主義からいとも簡単に自らを解き放ってしまうのである。だが、実際には、官僚は自らの知的資源の評価においてひどく誤っている。計画策定の実際の過程において、資本主義ロシアから受け継いだ均衡(それを不均衡と言うことも同じように正当である)、および現代資本主義国の経済構造の与件、最後にソヴィエト経済それ自身の成功と失敗の経験に必然的に依拠せざるをえない。だが、これらの諸要素の最も正しい組合わせさえ、はなはだ不完全な骨組みを打ち立てることができるにすぎない。
国営経済と私的経済への、集団的経済と個人的経済への無数の生きた参加者は、計画委員会の統計計量を通じてだけでなく、需要と供給の直接的圧力を通じても、自らの要求とその相対的強さを表明するに違いない。計画は、市場を通じて検証され、かなりの程度市場を通じて実現される。市場自身の調整は、市場メカニズムを通じて発揮される諸傾向に依存する。当局が前もって立てた計画は、商業計算を通じてその経済的合目的性を証明しなければならない。過渡期の経済システムは、ルーブル通貨の管理なしには考えられない。それはそれで、今度は、ルーブルの価値が額面通りであることを前提とする。安定した通貨単位なしには、商業計算は混乱を増すだけである。
経済建設の過程はまだ無階級社会の内部で展開されているわけではない。国民所得の分配に関する諸問題は、計画の中心的基軸を成している。その分配は、階級闘争や社会的諸集団――プロレタリアート自身のさまざまな層を含む――の直接的な作用を受けて変動する。最も重要な社会的・経済的諸問題は、次のようなものである。すなわち、都市と農村のスムィチカ、すなわち、工業が農業から得るものと工業が農村に供給するものとの均衡、蓄積と消費との相互関係、すなわち固定資本資金と賃金フォンドとの相互関係、さまざまな種類の労働者(熟練労働者、未熟練労働者、公務員、専門家、管理担当の官僚)の賃金の調整、そして最後に、農村に割り当てられる国民所得部分のさまざまな農民層への配分がそれである。以上のすべての問題はそれ自身の本質からして、これら無数の当事者による介入から自らを遮断している官僚の先験的な決定を許すことができない。
計画化の根本的要素としての生きた諸利害間の闘争は、集中された経済である政治の領域へとわれわれを導き入れる。ソヴィエト社会における社会的諸集団の手段は、ソヴィエト、労働組合、協同組合、そして何よりも政権党であり、そうでなければならない。国家の計画化と市場とソヴィエト民主主義という三つの諸要素の相互作用を通じてはじめて、過渡期の経済に対する正しい指導を実現することができるのであり、矛盾と不均衡の数年以内の完全な克服(これはユートピアである!)ではなく、それらの緩和を保証しうるのであり、したがってまた、新しい革命の勝利が社会主義的計画化の舞台を拡大して、このシステムを刷新できるようになる時期まで、プロレタリア独裁の物質的基礎を強化することができるのである。
ネップの圧殺、通貨インフレーション、ソヴィエト民主主義の清算
ネップを導入し、市場的関係を復活させる必要性は、何よりも、2500万戸の自営農家の存在によって決定されたものだった。しかしながら、だからといって、第1段階の集団化が市場の清算をもたらすわけではない。集団化が生命力を発揮することができるのは、コルホーズ員同士の相互関係およびコルホーズと外部世界との相互関係を商業計算の上に打ち立てることによって、コルホーズ員たちの個人的利害関心を生かしていく場合のみである。このことが意味しているのは、この段階における経済的に正当で適切な集団化がネップの廃止ではなく、その方法の漸次的な再編をもたらさなければならないということである。
しかしながら、官僚はしゃにむにつき進んだ。そのさい官僚は、最初の時期、万事順調に進んでいると思ったかもしれない。プロレタリアートの集中した努力による正真正銘の疑う余地のない成功は、官僚によって自らの先験的な計画化と同一視された。言いかえれば、官僚は社会主義革命を自らと同一視したのである。官僚は、行政的集団化によって、農村とのスムィチカという未解決な問題をおおい隠したのだ。ネップによる不均衡に直面すると、ネップを清算した。官僚は、市場的方法の代わりに、強制の方法を拡大した。
安定した通貨単位(チェルヴォネツ)は、ネップの最も重要な武器であった。成功に目がくらんだ官僚は、自分たちがすでに経済的調和の上に両足でしっかりと立っており、今日の成功は今後の成功の持続を自動的に保証し、チェルヴォネツが計画の枠組みを引き締める手綱ではなく、逆に独立の資金源とみなした。官僚は、経済過程の物質的諸要素を調整する代わりに、紙幣を印刷することによって穴をふさぎ始めた。言いかえれば、「楽観主義的」インフレーションの道に足を踏み出したのである。
ネップを行政的に廃止した後、悪名高い「スターリンの6条件」――経済計算、出来高賃金など――は、空虚な言葉の寄せ集めと化した。経済計算は、市場関係を欠いてはありえない。チェルヴォネツはスムィチカの尺度である。労働者が市場(いちば)で十倍の価格で生活必需品を買わざるをえないとすれば、労働者にとって月数ルーブルだけ賃金が増えたからといってそれが何の役に立つだろうか?
市場(いちば)の復活は、ネップの清算が時機尚早であったことを認めるものだ。この承認は、経験的、部分的であり、考え抜かれたものではなく矛盾していた。市場(いちば)を、私的商業や投機と対照的な、「ソヴィエト的」(社会主義的?)取引形態と呼ぶことは、幻想にふけることである。市場(いちば)での取引は、コルホーズを起点とした場合でさえ、全体として、近郊都市における必需品に対する投機をもたらすし、結果として、社会的階層分化をもたらす。すなわち、コルホーズのうち恵まれた土地にある少数部分を豊かにするのである。しかし、商業において主要な位置を占めているのは、コルホーズではなく、個々のコルホーズ員と独立自営農民である。投機価格で余剰生産物を販売するコルホーズ員の闇取引は、コルホーズ間の階層分化につながる。こうして、市場(いちば)は、「社会主義的」農村の内部に遠心力を発展させる。
市場を取り除き、原始的市場(いちば)を復活させた官僚は、挙げ句の果てには、ダンスのような激しい物価変動の条件を作り出し、したがってそのために計画と商業計算の両方を台なしにする可能性をもたらした。その結果、経済の混乱状態は増加した。
これと並行して、昨日に始まったことではないが、労働組合、ソヴィエト、党の硬直化が進行し続けている。都市と農村との間のあつれきや、農民とプロレタリアートのさまざまな層からの要求に直面している官僚は、何であれいかなる要求や抗議や批判もますます拒否するようになった。官僚が労働者に最後に残した唯一の権利は、生産上の課題を超過達成する権利であった。経済指導に影響を及ぼすような下からのいかなる試みもただちに、右翼的偏向または左翼的偏向、すなわち実際には刑法上の犯罪であるとみなされる。官僚の上層部は(その協力者や鼓吹者がしばしば札つきの犯罪者であるという事実を無視して)、社会主義的計画化の分野で絶対に誤ることがないと宣言した。こうして、社会主義建設の基本的メカニズムであるソヴィエト民主主義の柔軟で弾力性のあるシステムは清算された。経済の現実と諸困難に直面した時に官僚が有していた武器は、計画のねじ曲がった骨格とその行政的意志(それもまた相当にねじ曲がっていた)だけだったのである。
ソヴィエト経済における恐慌
もし第1次5ヵ年計画によって設定された全般的な経済水準が4年ではなく6、7年で達成されたとしても、あるいはこの計画のわずか50%しか達成されなかったとしても、そのこと自身はそれでも警告を発する理由とは何らならなかったであろう。危険は成長の減速にあるのではなく、経済のさまざまな諸部門間の不均衡にある。たとえ計画のすべての構成要素がアプリオリに完全に調整されたとしても、成長率が50%低下すれば、それ自身結果的に大きな困難を生み出したであろう。200万足の靴を製造する代わりに100万足の靴を製造することと、靴工場の半分の建設を完了することとはまったく別のことである。しかし、現実は、われわれの理想的想定よりもはるかに複雑で、矛盾に満ちたものである。不均衡は過去から受け継いだものである。計画によって設定された課題それ自身が不可避的に間違いや計算違いを含む。計画の未達成は、それぞれ場合に応じた特定の原因のせいであって、均衡のとれた形で生じるわけではない。経済における50%の平均成長率とは、Aの分野で計画が90%達成されたが、他方、Bの分野では10%しか達成されなかったことの結果であるかもしれない。AがBに依存している場合には、次の生産周期においてAの分野は10%以下に低下するかもしれない。
したがって、不幸は、冒険的なテンポの実現不可能性が明らかになったことにあるのではない。不幸は、馬車馬的な工業化が計画のさまざまな諸要素を互いに衝突させ、恐るべき矛盾を生み出してしまったことである。不幸は、経済が物的予備資源も計算もなく機能していることである。不幸は、計画の有効性を測るための社会的・政治的手段が壊れるか、歪曲されてしまったことである。不幸は、不均衡の積み重ねがますます大規模な予期せぬ事態をもたらしかねないことである。不幸は、いかなる統制も受けない官僚が威信をたてにして、今後いっそう誤りを積み重ねていくことである。不幸は、工場閉鎖や失業などの連鎖的結果をともなう恐慌が差し迫っていることである。
工業発展の社会主義的テンポと資本主義的テンポとの間の違い――たとえ、比較のためにかつての進歩的段階にある資本主義をとったとしても――は、その大きさによって人を驚かせる。だが、ここ数年のソヴィエトの成長テンポを最終的なものであるとみなすとすれば、間違いだろう。資本主義の平均的成長率は、好況期だけでなく、恐慌期をも含めたものである。このことはソヴィエト経済には当てはまらない。ソヴィエト経済は、この8、9年間というもの、絶えまない成長の時期を経験してきた。それはまだその平均的指数を作成するのに成功していない。
もちろん、われわれに対して次のような反論がなされるだろう。すなわち、資本主義の法則は社会主義経済に適用されないのであって、計画経済において恐慌という手段によって、あるいは成長テンポのあらかじめ決められた低下によってさえ、調整を行う必要がないのだ、と。スターリニスト官僚とその理論家が有している理屈の武器庫は非常に限られているので、彼らがどのような常套句にすがるのかは、常に前もって予測することができる。この場合に問題になっているのは、純然たる同義反復である。すなわち、われわれは社会主義に突入したので、常に社会主義的に行動しなければならない、すなわち、ひたすら計画部門の成長がますます加速するように経済を調整しなければならない、というわけだ。しかし、問題の核心は、われわれがまだ社会主義の段階に入っていないという点にある。われわれは、計画的調整の方法に熟達するにはほど遠いところにいる。われわれは最初の大まかな仮説を実現しつつあるにすぎず、しかもそれをまずく、ヘッドライトで照らすことなく行なっている。わが国で恐慌が起こりうるばかりでなく、不可避でさえある。そして、差し迫る恐慌はすでに官僚によって準備されてきた。
過渡期社会の法則は、資本主義の法則とは大きく異なる。しかし、それらの諸法則は同様に、将来の社会主義の法則、すなわち、予測され確証された動的均衡にもとづいて成長する調和のとれた経済の法則とも異なる。集権化、集中、統一した管理意志といった生産における社会主義の優位性は、計り知れない。だが、それらが誤って適用される場合には、とりわけ官僚によって悪用される場合には、それらの諸法則は正反対物に転化するかもしれない。そして、部分的にはすでに変質してしまった。なぜなら、今や危機が差し迫っているからである。このことに目を閉じることは、経済的アナーキーに道を開くことを意味する。よりいっそうの鞭打ちによって経済を強制的に前進させようとする試みは、将来の災厄を倍加させる試みである。
この恐慌がどれくらいの規模をとるかを予言することは不可能である。幸いにも、わが国ではこの問題は、無政府的な諸力によってしか解決できないわけではない。計画経済の優位性は、恐慌の時期にも有効であり、むしろこの優位性はまさにこの恐慌の中でこそとりわけはっきりと発揮される。資本主義国家は、人民の犠牲の上に恐慌がおさまるまで受動的に待機するか、あるいはフォン・パーペンがやったように財政的ごまかしに訴えざるをえない。労働者国家は、自らのあらゆる手段を使って恐慌に立ち向かう。中心的なすべてのてこ――予算、信用、工業、貿易――は、単一の手に集中されている。恐慌を軽減し、その後克服することができるのは、命令によってでなく、経済的調整手段によってである。冒険主義的攻勢の後では、できるかぎり周到な計画的後退を実施することが必要である。これが、プロレタリア独裁の16年目に当たる来年の任務である。よりよく跳ぶには後ろに下がらなければならない(Il faut reculer pour mieux sauter)。
危機に立つソヴィエト経済
公式の新聞は現在、労働者、責任者、技術者、管理者、協同組合職員、労働組合員に対して毎号、毎号、際限のない非難のリストを掲載している。これらの人々はすべて、計画や指令や「6条件」を実行しなかったという罪があるというのである。しかし、この原因は何なのであろうか? 客観的原因は存在しない、そのすべての責任は実行者の悪意にある、というのである。そして『プラウダ』はまさにそう書いている。
「作業能率のこの悪化に何か客観的原因は存在するであろうか? いやけっして!」(1932年10月2日)。
人々は単に、官僚が望むとおりに働きたくないと思っているのであり、ただそれだけのことである。10月の中央執行委員会総会は、「すべての環において管理が不満足に行なわれている」ことを確かめた。もちろん、中央委員会と呼ばれる「環」を除いてだが。
しかし、作業の低い質には本当に何の客観的原因もないのであろうか? 一定の時間を要するのは、小麦の成熟だけではない。複雑な技術的過程の習熟もそうである。たしかに心理的過程の方が植物の成長過程よりも柔軟であるが、この柔軟性には限界がある。それを飛び越すことはできない。それに加えて――この点も劣らず重要なのであるが――、最小限の栄養補給で最大の労働強度を要求するのは、どだい無理な相談である。
10月の中央委員会総会決議は、その最高の到達点を「堅持」することができず、それを下回っているとして、労働者と管理者を非難している。実際には、この行き詰まりは到達点そのものの性格からして不可避なのである。例外的な力を注ぐことによって、人間は自分の「平均的」力を上回る重量を持ち上げることができる。しかし、そのような荷物を頭上に長時間持ち上げ続けることはできない。自分の最大限の努力を「堅持」できないからといって非難するなどというのは論外である。
ソヴィエト経済は危機にある! その病気を確定することは困難なことではない。危機は成功の性格それ自身から生じている。過度で誤った力の配分によって経済は打撃を受けた。治療が必要である。慎重かつ粘り強い治療が。ラコフスキーは、1930年に早くも次のように警告していた。「われわれは今、新しい時期に入りつつある。すなわち、過去の時期全体に対する代償を支払わなければならない時期に、である」。
第2次5ヵ年計画
第2次5ヵ年計画は、巨大指向※にもとづいて作成された。第2次5ヵ年計画の基本指数がどれほど誇張されているかを「目測で」判断するのは、困難である。より正確に言えば、不可能である。しかし、問題は今や、第2次5ヵ年計画のバランスシートではなく、その出発点、すなわち、第1次5ヵ年計画との接線なのである。第2次5ヵ年計画の1年目は第1次5ヵ年計画の最後の年から厄介な遺産を引き継いだ。
※原注「巨大指向(ギガンティズム)」に対する敵意、すなわちあからさまな憎悪は、この間の冒険主義に対する必然的で不可避な反動として、ソ連邦で急速に広まりつつある。しかしながら、この反動――そこから満足を引き出すのは、プチブル的しみったれ精神である――が、将来において社会主義建設にどの程度危険なものとなりうるかを説明する必要はない。
第2次5ヵ年計画は、その計画案によれば、第1次5ヵ年計画の螺旋的延長である。しかし、第1次5ヵ年計画は完成されなかった。第2次5ヵ年計画は、そもそもの最初から宙に浮いたままである。事態がこのまま推移するならば、第2次5ヵ年計画は、行政の鞭のもとで第1次5ヵ年計画の穴をふさぐことから始まることになろう。このことは、危機がいっそうひどくなることを意味する。このようにして、事態は破局にいたるかもしれない。
出口は一つしかない。第2次5ヵ年計画の開始を1年間延期しなければならない。1933年は、第1次5ヵ年計画と第2次5ヵ年計画との間の緩衝期にしなければならない。この期間に、一方で、第1次5ヵ年計画が残した遺産を点検し、最も大きな穴を埋め、最も重大な不均衡を緩和し、経済戦線をととのえなければならない。他方では、第2次5ヵ年計画の出発点を第1次5ヵ年計画の想像上の成果ではなくその実際の成果とできるだけ一致するよう、第2次5ヵ年計画を立て直す必要がある。
このことは、第1次5ヵ年計画の完成時期をあと1年間、先に延ばすことを意味するだけだろうか? いや、残念ながら、そうではない。4年間にわたる大騒ぎの物質的結果は一振りで現実から抹消することはできない。達成された成長率の検証、調整、解明が必要である。経済の現状は一般に、いかなる計画化の作業をも不可能にしている。1933年は、第1次5ヵ年計画の補足的年になることも、第2次5ヵ年計画の第1年目になることもできない。この年は、二つの5ヵ年計画の間にあって、冒険主義の結果を緩和し、計画経済拡大の物質的・道徳的前提を準備するための一つの独立した位置を占めなければならない。
左翼反対派はかつて5ヵ年計画の開始を最初に要求した。今では、第2次5ヵ年計画を延期する必要がある、と言わなければならない。金切り声の熱狂に反対! 空騒ぎを打倒せよ! 真面目な計画事業はそのようなものとは両立しえない。退却か? そうだ、われわれは一時的退却を支持する。それでは、無謬の指導部の威信はどうなるのか? プロレタリア独裁の運命は思いあがった官僚の威信よりも重要である。
資本を修復する年
均衡を破壊されたソヴィエト経済は、真剣な修復を必要としている。資本主義のもとでは、破壊された均衡は、恐慌の見えざる力によって回復される。社会主義共和国においては、意識的で合理的な治療が可能である。
職場や工場で修理が行なわれる際には、生産が停止されるが、もちろん国全体で生産を停止することは不可能である。だが、そうする必要もない。そのテンポを下げるだけで十分である。1933年における生産的労働は計画なしでは遂行できないが、この計画は、ほどほどの量的目標にもとづいた単年度の計画でなければならない。
品質の改善が第1に来なければならない。無謀な建設をやめるべきである。労働力と物資を最重要の建設事業に集中しなければならない。工業のさまざまな部門間の相互関係は、経験にもとづいて均衡させられなければならない。工場を整備しなければらない。機械装置を修復しなければならない。
駆り立てたり、引き回したり、記録を追求したりというやり方を止め、各企業の生産性をその技術的リズムに従わせよう。十分な品質点検をしていないものは研究所に送り返そう。未完成のままになっているものを仕上げよう。工場の各部門の相互関係をととのえよう。曲がったものはまっすぐに。損傷を受けたものは修理しよう。より高い段階への移行に向けて工場を準備しよう。量的目標には、質的水準を下げることのないよう柔軟で条件的な性格が与えられなければならない。
1933年は、労働力の過剰流動性を克服し、労働者の待遇を改善しなければならない。待遇改善から出発しなければならない。なぜなら、残るすべての問題の解決の鍵がそこにあるからである。労働者とその家族には衣食住を保証しなければならない。それがいかに費用がかかろうとも!
工場の管理者やプロレタリアートは、ジャガイモの栽培やうさぎの飼育などの補足的作業負担から解放されなければならない。工場への食料供給問題は、補足的任務としてではなく独立した任務として調整されなければならない。
一般消費財生産に秩序を確立しなければならない。商品は、重工業の原材料ではなく、人間の必要に適応するようにしなければならない。
インフレーションの過程は、断固として停止させ、安定した通貨単位を回復しなければならない。この困難で骨の折れる事業は、資本投資を大胆に削減することなしには、また非合理的ないし時宜を得ない形で新しい資本建設にすでにつぎ込まれた数億ルーブルを犠牲にすることなしには、遂行できない。こうしたことは、将来における数十億ルーブルの損失を未然に防ぐために必要である。
一時的退却は、工業だけでなく農業部門でも必要である。退却の基本線を前もって確定することはできない。それは、資本の経済的修復の経験を通じて初めて明らかになるだろう。
管理機関は、機能しているすべてのものを監督し、援助し、選抜しなければならないが、現在なされているような、企業をその限度一杯まで駆り立てることは止めなければならない。経済と人民は、行政的な強制と冒険主義からの息継ぎを必要としている。
多くの管理者は、新聞が示しているように、1933年という年が、終了しつつある今年とはある程度本質的に異なるものにならなければならないという見解に独自に到達した。しかし、これらの管理者たちは、自分を危険にさらすのを恐れて、その考えを徹底することができない。
鉄道輸送に関して、『エコノミチェスカヤ・ジーズニ』は次のように書いている。「1933年の最も重要な課題の一つは、運輸機構の個々の構成部分におけるありとあらゆる欠陥、不備、不一致、不均衡を全面的かつ最終的に清算することでなければならない」。言い得て妙だ! この定式を全面的に受け入れ、経済全体にまで拡張しなければならない。
スターリングラードのトラクター工場について、『プラウダ』はこう書いている。「事故を起こしかねない乱暴な作業のやり方をきっぱりとやめなければならない。計画的な生産高を保証するために、コンベアー・ラインの熱狂的騒ぎに終止符を打たなければならない」。まったくその通りだ! 計画経済は、全体としてみると、一種の国家規模のコンベアーである。穴埋めに右往左往するようなやり方は、計画的生産とは矛盾する。1933年は、「コンベアー・ラインの熱狂的騒ぎに終止符を打たなければならない」、あるいは少なくともその熱を大いに冷まさなければならない。
農業部門においてはソヴィエト政府自ら、量から質への「転換」を宣言した。これは正しいが、より広範な規模で問題をとり上げなければならない。問題は、土地耕作の質だけでなく、コルホーズとソフホーズ全体の政策とその実行に関わる。量から質への転換は、政府の活動それ自身にまで貫徹されなければならない。
まず何よりも、集団化の分野における退却は不可避である。この分野では、他のどの分野にも増して、行政がそれ自身の誤りの虜になっている。表面上、官僚は、専制的に命令し、スターリンとモロトフの署名した命令にもとづいて正確な播種面積を指令し続けているが、今では実際には、事態の流れに押し流されつつある。
その一方で農村では、いわゆる「脱退者」――すなわち、前コルホーズ員――の新しい層が登場している。その数は増大しつつある。収獲をくすね、市場(いちば)で種子を売っておきながら、政府から種蒔き用の種子を要求するような農民をコルホーズの中に強制的に留めておくのは、愚の骨頂である。しかしながら、解体過程をそのまま看過するのも同じく犯罪的である。コルホーズに引導を渡そうとする傾向が党の隊列内でさえ今や明らかに頭をもたげつつある。これを許すことは、産湯といっしょに赤ん坊を投げ捨ててしまうことになる。
1933年は、集団化された農業を技術的・経済的・文化的的資源と調和させるのに役立てなければならない。このことは、最も前途有望な集団農場を選抜し、それらを一般の農民大衆(何よりも貧農)の経験と要求に合致する形で立て直すことを意味する。そして、同時に、内乱の危険については言うに及ばず、農村経済の混乱を最小限にとどめるように、コルホーズを離脱するための諸条件を定式化しなければならない。
機械的な「富農撲滅」政策は今や、事実上、放棄されている。正式にこの政策に終止符を打たなければならない。そして、同時に、クラークの搾取者的傾向を厳しく制限する政策を確立する必要がある。この目標を念頭に置きつつ、農村の最底辺層を貧農組合に結集させなければならない。
1933年においても、農民は土地を耕し、繊維労働者は布を生産し、熔鉱炉は金属を精錬し、鉄道は人々と労働生産物を運ぶだろう。しかし、この年の最高基準は、できるだけ多くできるだけ速く生産することではなく、経済に秩序を回復することである。すなわち、すべての財産目録を点検し、健全なものと不健全なものとを、適切なものと不適切なものとを分け、がらくたと泥を除去し、必要な住宅と食堂を建設し、屋根を仕上げ、下水施設を敷設することにある。なぜなら、よりよく働くためには、人民はまず何よりも人間らしく生活し、人間の要求を満たさなければならないからである。
資本修復の特別年をそれ自体として取り上げるなら、それはもちろんそれだけで何かを解決する政策ではない。それは、経済への、何よりも、その生きた担い手たる労働者と農民へのアプローチそのものを変えることによってはじめて大きな意味を持ちうる。経済へのアプローチの仕方は一つの政治行為である。政治の武器は党である。
最も重要な課題は、党を再生させることである。この点でもまた、レーニン死後の時期における厄介な遺産の目録を作成しなければならない。健全なものと不健全なものとを、適切なものと不適切なものとを分け、がらくたと泥を除去しなければならない。官僚のすべての事務所を換気し、消毒しなければならない。党に続いて、ソヴィエトと労働組合が再生されなければならない。すべてのソヴィエト組織における資本を修復することは、1933年における最も重要で最も緊急の課題である。
1932年10月22日、プリンキポ
『反対派ブレティン』第31号
『トロツキー著作集 1932』下(柘植書房新社)より
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