スペイン革命の諸問題
日々刻々−T
トロツキー/訳 西島栄
【解説】本稿は、論文「
スペイン革命とそれをおびやかす危険」の付録として『反対派ブレティン』に掲載されたもので、トロツキーがスペインの左翼反対派に宛てた手紙の抜粋を集めたものである。最初の部分でトロツキー自身が述べているように、スペイン左翼反対派の週刊誌が存在しなかった段階で、日々刻々と進行するスペイン革命の諸問題についてトロツキーは手紙の形で見解を表明せざるをえなかった。この手紙の抜粋集は2回に分けて『反対派ブレティン』に掲載されたが、今回はその1回目分である。この論文の最初の邦訳は『スペイン革命と人民戦線』(現代思潮社)に所収のものだが、『反対派ブレティン』所収のロシア語原文にもとづいて全面的に訳し直されている。
Л.Троцкий,Вопросы испанской революции изо дня в день, Бюллетень Оппозиции, No.21/22,Май-Июнь 1931.
前述したように(1)、スペイン革命の日々の諸問題について左翼反対派は私的手紙の中で見解を表明せざるをえなかった。われわれはここで、これらの手紙の抜粋を先の論文の補足として掲載する。
1930年5月25日(2)
現在スペインで進行している危機的事態はかなり規則的に展開されており、それゆえプロレタリア前衛には、準備のための時間がかなりある。……
ブルジョアジーが、ブルジョア社会の危機から生じた課題を解決することを意識的かつ頑強に拒否するとき、そしてプロレタリアートにこの課題の解決を引き受ける準備がまだないとき、しばしば学生が舞台の前面に出てくる。……学生の革命的ないし半ば革命的な活動は、ブルジョア社会がきわめて深刻な危機にあることを示唆している。…
スペインの労働者は学生の行動を肩で支えることによって、まったく正しい革命的本能を発揮した。もちろん、彼らは自分自身の旗のもとで、自らのプロレタリア組織の指導のもとでそれをしなければならない。このことを保障するのはスペインの共産主義者の義務であり、そのためには正しい政策が不可欠である。…
この道は、共産主義の側から、民主主義的スローガンのために断固として大胆かつ精力的に闘争することを前提としている。このことを理解しない者は、重大なセクト主義的誤謬を犯すことになろう。……革命的危機が革命そのものに転化する場合には、それは必然的にブルジョア的限界を乗り越えるだろうし、革命が勝利したあかつきには、権力はプロレタリアートに移行するだろう。
1930年11月21日
これは以前の論文(3)でも、きわめて慎重な形で述べた考えであるが、何年にもわたる独裁体制、ブルジョアジーの反政府運動、共和派による表面的な騒動、学生の運動などの後に、不可避的に労働者の行動が起こったとき、それは革命党の不意を打つかもしれない。私の間違いでなければ、スペインの一部の同志たちは、私が学生運動の徴候的意義を過大評価し、それとともに労働者の革命運動の展望をも過大評価していると判断した。しかしながら、その時以来、スペインではストライキ闘争が巨大な規模に発展した。誰がそのストライキを指導しているのかは、ここからではまったくわからない。1918〜19年以降にイタリアが経験したサイクル――騒擾、ストライキ、ゼネスト、工場占拠、指導の欠如、運動の崩壊、ファシズムの成長、そして反革命的独裁――をスペインも経験するおそれがあると君は考えないのだろうか? プリモ・デ・リベラの体制はファシスト独裁ではない。小ブルジョア大衆の反動に立脚していないからだ。現在スペインで起こっている明白な革命的高揚の結果、政党としてのプロレタリア前衛があいかわらず受動的で無能であるために、真のスペイン・ファシズムが成立する諸条件を生み出しかねないと君は考えないのだろうか? こうした状況下で最も危険なのは、時間を浪費することである。
1930年12月12日
展望はいかなるものだろうか?……諸君の最近の手紙から判断するかぎりでは、すべての組織とグループが流れに身を任せているようだ。すなわち、運動によって巻き込まれるかぎりで運動に参加している。革命的行動綱領を持っている組織はなく、十分に考え抜いた展望を持っている組織もまったくない。
……あらゆる状況からしてソヴィエトのスローガンが提起されるべきだと思われる。このソヴィエトを、わが国で発生し発展したものと同じ形態のものとして考えるなら、それは初めは強力なストライキ委員会であった。これに最初から参加していた者の中で、後にこれが権力機関になることを予想した者は1人もいなかった。……もちろん、ソヴィエトを人為的につくり出すことはできない。しかし、どの地方ストライキにおいても、それが大部分の職種を含み、政治的性格を帯びるならば、必然的にソヴィエトの出現をもたらすであろう。このソヴィエトこそ、現在の条件のもとで運動の指導権を掌握し、革命的行動の規律を打ち立てうる唯一の組織なのである。
率直に言えば、私は、後年の歴史家が、スペインの革命家たちを、またとない革命情勢を取り逃がしたと言って非難するような事態になるのではないかと大いに怖れている。
1931年1月12日
本当に選挙は3月1日に行われるのか? ……現在の状況からして、ボイコット戦術を精力的に展開すれば、ベレンゲル(4)の選挙を挫折させることは大いに可能である。1905年にわれわれもそうやって、ツァーリの審議機関にすぎなかったブルイギン国会の選挙を失敗させたのである。この問題に関する共産党の政策はどうなっているのか? 共産党はこのテーマでリーフレットやパンフレットや宣伝ビラを撒いているのか?
また、国会をボイコットするなら、その代わりに何を提起するのか? ソヴィェトか? 私の考えでは、このような問題提起の仕方は誤っている。現在、都市と農村の大衆を統一することができるのは、民主主義的スローガンによってのみである。その中には、直接・平等・秘密の普通選挙権にもとづく憲法制定議会というスローガンも含まれる。現在の状況からして、このスローガンなしにやっていくことができるとは思われない。何といってもソヴィエトはまだ存在していないし、スペインの労働者はソヴィエトがいかなるものかを知らない――少なくとも自らの経験を通じては知らない。農民については言うまでもない。それゆえ、国会から生じる闘争および国会をめぐる闘争が、当分のあいだ、スペインの政治生活の内容を構成するだろう。こうした状況のもとで、ソヴィエトのスローガンを国会のスローガンに対立させるのは誤りである。それどころか、ソヴィエトを創設することができるのは、おそらく当面する時期において、民主主義的スローガンにもとづいて大衆を動員する場合のみである。これは次のことを意味する。すなわち、欺瞞的で歪められた保守的国会を王政に召集させないためには、また民主主義的な憲法制定議会の召集を実現するためには、そしてこの国会が農民に対する土地の分配などの事業をなしうるためには、勤労大衆の要塞陣地としての労働者・兵士・農民ソヴィエトを建設しなければならないということである。
1931年1月31日
共産主義者の隊列の統一というスローガンは近い将来、スペインにおいて、巨大な魅力を発揮するだろう。そして、その力は共産主義の影響力の増大とともに大きくなるだろう。大衆は、いや先進的大衆も、自分自身の経験から生じた分裂しか受け入れない。まさにそれゆえ、サンディカリスト労働者と社会党労働者に向けた統一戦線のスローガンは、(明確な綱領にもとづく)共産主義者の統一というスローガンによって補完されなければならないように思われる。
1931年2月5日
……私の考えでは、諸君は革命的憲法制定議会のスローガンを手放してはならない。何といってもスペインの人口の70パーセント以上は農民である。その農民は「労働者共和国」というスローガンをどう理解するだろうか? 一方では社会党と共和党が、他方では教会の司祭たちがこう言うだろう。労働者は農民の耳をひっつかんで命令しようとしている、と。諸君はこれに何と反論するつもりなのか? 現状では私はただ一つの回答しか知らない。すなわち、われわれが望んでいるのは、労働者と農民が、上から任命された官吏や総じてあらゆる弾圧者と抑圧者をお払い箱にし、普通選挙権にもとづいて自由な意志を表明することだ、と。土地のための闘争等々の過程で、農民を労働者共和国に、すなわちプロレタリア独裁に導くことは可能である。しかし、農民に対してプロレタリア独裁をアプリオリな定式として提出することはできない。
……共産党は明らかに、ボイコットのイニシアチブを取らないという誤りを犯した。共産党だけが、革命的労働者の先頭に立って、ボイコット・カンパニアに大胆で戦闘的な性格を与えることができたのにである。しかも、ボイコット的気分は、見たところ野党のあいだでもきわめて広範囲に広がっており、これは人民大衆の深部が激しく煮えたぎっていることの現われである。最近の外電で確認できるところでは、共和党も社会党もボイコットに賛成を表明したそうである。もし共産党が時機を失せずこの両党に鞭を当てていたなら、両党がボイコットを拒否することははるかに困難になっていただろう。他方でベレンゲルは、自分とその政府を3月1日の選挙に強く結びつけていた。ボイコットによって、ベレンゲルをあれこれの方向に退却させることができたなら、大衆の革命的自覚の高揚という巨大な成果をもたらしただろう。共産党がこの戦術の主唱者として行動した場合にはなおさらである。
1931年2月13日
「労働者共和国」について。このスローガンはけっして手放すことはできない。しかし、今のところ、このスローガンは煽動よりも宣伝の対象である。われわれは先進的労働者にこう説明しなければならない。われわれは自ら労働者共和国に向かって進んでいるが、農民については、そこに導いていかなければならない、と。だが、農民を労働者共和国に、つまり実際にはプロレタリア独裁に導いていくことは、いくつかの中間的「諸経験」を経るより以外にはまず不可能である。議会制度はそうした経験の一つである。農民は、他のあらゆる可能性を使い果たした後でなければ、プロレタリアートの独裁を受け入れないだろう。たしかに、スペインでは多くの可能性がすでに使い果たされている。しかし、革命的な方法で獲得された「全面的な」「首尾一貫した」民主主義がまだ残されている。これこそが憲法制定議会である。もちろん、われわれはこのスローガンを物神化したりはしない。事態の発展テンポがもっと急速なものになれば、われわれは時機を失せずこのスローガンを別のスローガンに置きかえるだろう。
1931年2月15日
私は以前に「夢想」という形で諸君にこう書いたことがある。ボイコットによって、王政をたとえ片方だけでもひざまずかせることができれば結構なことだ、と。今やこれは既成事実となった。ベレンゲルの辞任のもつ直接的な政治的意義は大きなものではないが、その徴候的意義は巨大である。王政の無能力、支配徒党の瓦解、その自信喪失、人民、革命、未来に対する恐怖、恐怖、恐怖、極端な譲歩によって最も恐るべき結果を未然に防ごうとする志向など、まさにこれがベレンゲルの辞任と王政の半降伏から生じているものである。素晴らしい! 実に素晴らしい! これ以上は考えられないほどだ。人民大衆の意識の中にあった権力への物神崇拝はこれによって致命傷を受けるだろう。満足と確信と勇気の波が何百万もの人々の心に押し寄せ、心を暖め、活気づけ、その前進を促すだろう。
プロレタリアートの党が行動に打って出るべき革命情勢は全体として、現在、最高度に有利なものになっている。今やすべての問題は党それ自体である。残念ながら共産党は、ボイコット派の合唱における主要な音頭取りではなかった。それゆえ、この2、3ヶ月のカンパニアから大した成果は得られなかった。嵐のような革命的上げ潮の時期には、党の権威は急速に熱病のように大きくなる――ただし、党がもろもろの転換点、新しい諸段階のたびごとに、ただちに必要なスローガンを掲げ、しかもそのスローガンの正しさがまもなく事態そのものによって確認される場合のことであるが。……この数ヶ月、数週間というもの、機会は何度となく取り逃がされた。しかし、過去を振りかえっても仕方がない。前方を見るべきだ。革命の発展はまだ始まったばかりである。過去に失ったものを100倍にして取りかえすこともできる。
議会と憲法の問題が公的な政治生活の中心になっている。これを素通りすることはできない。私見によれば、革命的憲法制定議会のスローガンを今や倍するエネルギーで推進する必要がある。厳格に民主主義的な定式を「毛嫌い」する必要はいささかもない。たとえば、18才以上のすべての男女に、いかなる制限もない選挙権を。18才というのは、南国スペインにとっては、それでも高すぎるくらいかもしれない。青年に賭けることが必要である。
……公式の共産党を含む共産主義者の全分派の統一という問題は、不可避的に日程にのぼるだろう。大衆はこれからの数週間ないし数ヶ月のうちに、統一された真剣な革命的指導の必要性を痛感するにちがいない。大衆は共産党の分裂に苛立ちを感じている。大衆は統一を強いるだろうが、それは永遠のものではない。なぜなら事態は再びさまざまな分派をさまざまな方向に押しやるであろうからである。しかし、当面する時期において、共産主義者の諸分派の接近はまったく避けがたいように思われる。ボイコット問題をはじめとするアクチュアルな政治的諸問題と同様、この問題においても、共産主義者の隊列統一のイニシアチブを取った分派が点数を稼ぐだろう。共産党左翼反対派がこのイニシアチブを取るには、まず自らが統一され組織されていなくてはならない。たとえ最初は少数でも、左翼反対派のよく組織された分派を遅滞なく建設し、独自の機関紙と独自の理論誌を創刊することが必要不可欠である。もちろん、このことは左翼共産主義者がより大きな組織に参加することを妨げるものではなく、逆にそうした参加を前提としている。しかしそれと同時に、左翼反対派の組織化はこうした参加の必要条件でもある。
1931年3月13日
兵士フンタについて一言。これが独立した組織として発生することに、われわれは利益を有しているだろうか。これは非常に重大な問題であり、この問題をめぐって最初から一定の行動方針を定めておく必要がある。もちろん、経験にもとづいて修正を加える権利は保留してのことだが。
1905年のロシアでは、まだ兵士ソヴィエトを形成する段階にはいたらなかった。兵士の代議員も労働者ソヴィエトに見られたが、それはエピソード的なものにすぎなかった。1917年には兵士ソヴィエトは巨大な役割を果たした。ピーテル
[ペトログラード]では兵士ソヴィエトは最初から労働者ソヴィエトと一体化し、しかも兵士が労働者を圧倒していた。モスクワでは労働者ソヴィエトと兵士ソヴィエトは独立した存在を保っていたが、これは本質的に組織技術上の問題であった。事態の核心は、約1000万〜1200万の農民を擁していた巨大な軍隊にあった。スペインでは軍隊は平時のものであり、総人口に対して、いやプロレタリアートの数に対しても取るに足りない数でしかない。こういう状況にある時、独立の兵士ソヴィエトをつくることは必要だろうか? プロレタリア政策の見地からして、兵士の代表は労働者フンタが結成されしだい、そこに結集する方が望ましい。兵士だけのフンタは、革命が最高潮に達した時、あるいは革命の勝利後にも結成することができよう。労働者フンタはこれよりも早く、ストライキと国会ボイコットにもとづいて、さらには選挙への参加にもとづいてつくることができる(そしてそうしなければならない!)。したがって、兵士代表を労働者フンタに引き入れることは、純粋な兵士フンタがつくられるはるか以前に可能である。しかし、もっと言うと、時機を失せず労働者フンタを結成して軍隊に働きかけるイニシアチブを取るならば、後に、革命的労働者ではなく出世主義的将校たちの影響下に陥りやすい独立の兵士フンタの創設を回避することもできるかもしれない。スペイン軍の兵員が少数であるという事実は、こうした展望に有利に働いている。しかし、他方で、この少人数の軍隊は独自の革命的な政治的伝統を有しており、その伝統は他のどんな国よりも強力である。それはある程度、兵士代表を労働者フンタに溶解させるのを妨げるかもしれない。
もちろん、この問題について私は断定的なことを言うことはできない。事態をより近くから見ている同志諸君でさえ、この点については断定的な回答を与えることはできないだろう。私の仕事はむしろ一定の問題を議論の俎上にのせることである。先進的労働者の広範な層がさまざまな問題について議論を開始するのが早ければ早いほど、後にそれを解決するのがより容易になる。いずれにせよ、兵士の代議員を労働者フンタに加入させる方向をとるべきだと思われる。それが部分的にでも成功すれば、それで結構。しかし、まさにこの目的のために、軍隊の、その各種部隊の、その各部分の構成を、時機を失せず慎重に研究しなければならない。
最後に、各地域内の力関係、各地域間の相互関係をより正確に見定めるために、スペインの政治地図を集団的に作成するのは、よい試みであろう。この地図には、労働者地区、革命の拠点、組合組織、政党組織、兵営、赤色地域と白色地域の関係、農民運動の活発な地域などが記入されなければならない。左翼反対派がいかに少数であっても、反対派はさまざまの地域で他の革命グループの最良の代表者を引き入れて、この研究のイニシアチブを取ることができる。こうして革命の参謀本部の要素がつくり出されるだろう。中核となる組織がこの仕事に必要な統一性を与える。こうした準備作業は、最初の時期には「アカデミック」な仕事のように見えるが、後には大きな意義を、おそらくは決定的な意義を持つようになるだろう。現在スペインが際会しているこのような時期における最大の罪は、時間を浪費することである。
1931年4月14日
私が見落としていたテールマン(5)の「人民」革命に関する演説の抜粋をありがとう。これ以上にナンセンスで狡猾に頭を混乱させる問題設定は想像できない! 「人民革命」というスローガンを掲げ、しかもレーニンを引き合いに出すとは。しかし、シュトラッサー(6)
[右の写真]のファシスト新聞のどの号にも、階級革命というマルクス主義的なスローガンに対抗して人民革命のスローガンが飾られている。もちろん、あらゆる偉大な革命は、それが革命的階級の周囲に国民のあらゆる生きた創造的勢力を結集するという意味で、そして国民が新しい基軸を中心にして再建されるという意味で、人民革命であり、国民革命である。しかし、これはスローガンではなく、革命の社会学的記述にすぎず、しかも、正確で具体的な説明を加える必要のある記述にすぎない。それはスローガンとしては、空文句でありインチキである。それは、労働者の頭に混乱を持ち込むという代償を払ってファシストと競い合うことである。この問題に関するコミンテルンのスローガンは驚くべき変遷を遂げている。コミンテルンの第3回大会以後、「階級対階級」というスローガンは、プロレタリア統一戦線政策という大衆的な表現となった。これはまったく正しい。すべての労働者はブルジョアジーに対抗して団結しなければならない。しかし、これはその後、労働者に対立して改良主義的官僚との同盟に変貌した(イギリスのゼネストの経験)。その次には正反対の極端に移行した。改良主義者とのいかなる協定も認めない「階級対階級」路線である。社会民主党労働者と共産党労働者との接近に寄与すべきこのスローガンは、「第三期」の時期に、あたかも別階級に対するがごとく社会民主党労働者に対する闘争を意味するようになった。現在は新たな転換が行なわれている。すなわち、プロレタリア革命ではなく、人民革命と。ファシストのシュトラッサーは、人民の95%が革命を望んでいるのだから、この革命は階級革命ではなく人民革命だと言っている。テールマンも彼に伴唱している。しかし実際には共産党労働者は、ファシストの労働者にこう言わなければならない。たしかに、人民の95%、いや98%さえも、金融資本によって搾取されている。しかし、この搾取は、搾取者、下位搾取者、下位の下位搾取者、等々というように階層的に組織されている。こうしたヒエラルキーによってのみ、最上位の搾取者は人民の大部分を自らに隷属させることができるのだ。国民が実際に新しい階級的基軸を中心として再建されるためには、それは思想的にも再建されなければならない。だがこれを達成することができるのは、プロレタリアートが「人民」や「国民」に溶解してしまうのではなく、反対に自らの革命、すなわちプロレタリア革命の綱領を発展させ、小ブルジョアジーに二つの体制のいずれかを選ばせる場合のみである。人民革命というスローガンは、広範な労働者大衆のみならず小ブルジョアジーをも眠らせ、「国民」のブルジョア的階層構造と和解させ、その解放を遅らせるものである。ドイツの現在の状況下では、人民革命というスローガンはマルクス主義とファシズムとのあいだのイデオロギー的境界を消し去り、労働者の一部と小ブルジョアジーをファシズムのイデオロギーと和解させるものである。なぜなら、どちらにおいても問題になっているのが人民革命であるなら、選択の必要はないと考える余地を与えるからである。こうしたエセ革命家は、手強い敵にぶつかるたびに、何よりもまず、どのようにして相手におもねるかを考え、敵の色で自分の身を隠し、革命闘争によってではなく、何か巧妙なトリックで大衆を獲得しようとする。まったく恥ずべき問題設定だ! もし弱体なスペイン共産党がこのような定式を採用したならば、スペイン版国民党の政策に行き着いてしまうだろう。
1931年4月20日
1917年のロシアの2月政体と現在のスペインの共和政体とのあいだには多くの類似点が目につく。しかし、重大な相違も見られる。(a)スペインは戦争をしていないため、諸君には平和のための闘争という先鋭なスローガンがない。(b)諸君には、兵士ソヴィエトは言うまでもなく、労働者ソヴィエトもない。新聞からでは、このスローガンが大衆に提案されたかどうかもわからない。(c)スペインの共和国政府は初めからプロレタリア左翼を弾圧しているが、これは2月のわが国では起らなかったことである。なぜなら、銃剣を握っていたのは自由主義政府ではなくて、労働者ソヴィエトと兵士ソヴィエトだったからである。この最後の事情は、われわれのアジテーションにとって巨大な意義を有している。ロシアの2月政体はただちに、政治の分野では完全な、ある種絶対的な民主主義を実現した。ブルジョアジーは、労働者大衆と兵士の軽信のおかげで持ちこたえていたにすぎなかった。諸君の国のブルジョアジーは、大衆の軽信だけでなく、旧体制から引きついだ組織的暴力にも依拠している。諸君には集会・言論・出版などの完全かつ無条件の自由は存在しない。諸君の新しい地方自治体の選挙原則は民主主義からほど遠い。だが、革命期には大衆はあらゆる権利上の不平等、あらゆる種類の警察体制にとくに敏感になる。このことを利用しなければならない。言いかえれば、共産党は今こそ、自分が最も首尾一貫した、最も決然とした、最も非妥協的な民主主義政党だということを示さなければならない。
他方では、労働者ソヴィエトの創設にただちに取りかからなければならない。この点に関しても民主主義のための闘争は格好の出発点である。彼らには公式の地方自治体がある。われわれ労働者には、自分たちの権利と自分たちの利益を守るための地区フンタが必要である。
1931年4月23日(バルセロナへの手紙から)
カタロニア連合(7)は全スペイン的共産主義組織に加入するべきである。カタロニアは前衛である。しかし、この前衛がスペイン全体のプロレタリアートと、さらには農民とともに進まないならば、カタロニアの運動も、せいぜいパリ・コミューン型の壮大なエピソードに終わるだろう。カタロニアの特殊な地位がこのような方向に押しやっている。民族的紛争があまりに蒸気を熱すると、スペイン全体の情勢が第2革命にとって熟するはるか以前に、カタロニアで爆発が起こるかもしれない。カタロニアのプロレタリアートが民族全体の沸騰と動揺に影響されて、全スペインのプロレタリアートと手を結びえないうちに決戦に引きこまれるような事態になれば、それは最大級の歴史的不幸である。左翼反対派勢力は、マドリードのみならずバルセロナにおいても、あらゆる問題を歴史的高みに引き上げることができるし、そうしなければならない。
1931年5月17日(マドリード宛ての手紙から)
カタロニア連合のいわゆる「民族主義」について。これは非常に重要で先鋭な問題である。この点で誤りを犯せば、致命的な結果を招くかもしれない。
革命はスペインにおいて、民族問題を含むあらゆる問題を新たな力で目覚めさせた。民族的傾向ないし民族的幻想の担い手は、主として小ブルジョア・インテリゲンツィアである。彼らは、大資本の脱民族的役割と国家官僚制の中央集権制に反対するよりどころを農民に見出そうとする。民族解放運動や、さらには総じて革命的民主主義運動において小ブルジョアジーは指導的――現段階では――役割を演じているが、そのため、この運動には不可避的にさまざまな種類の多くの偏見が持ちこまれる。このような状況から生まれた民族的幻想は労働者のあいだにも滲透している。これがおそらく全体としてカタロニアの現状であろうし、ある程度までカタロニア連合の状況でもあるかもしれない。しかし、以上述べたことは、スペインの大国主義、ブルジョア帝国主義、官僚的中央集権主義に反対するカタロニアの民族闘争の進歩的、革命的民主主義的性格をいささかも減じるものではない。
一瞬たりとも忘れてならないのは、全スペインおよびその構成部分としてのカタロニアが現在、カタロニアの民族民主主義者によってではなく、ブルジョア帝国主義者によって支配されているという事実である。このブルジョア帝国主義者は、大地主や旧体制の官僚や将軍と同盟を結び、スペインの国家社会主義者の支援を受けている。この一団はみな、一方においてスペインの植民地的隷従を維持し、他方においてはスペイン本国の官僚的中央集権化を最大限に実現することを支持している。すなわち、スペイン・ブルジョアジーによるカタロニア人、バスク人等々の抑圧を支持している。発展の現段階、現在の階級的力関係においては、カタロニアの民族主義は進歩的・革命的要因になっている。スペインの民族主義は反動的・帝国主義的要因である。この区別を理解せず、それを無視し、それを前面に押し出さず、逆にその意義を軽視するようなスペイン共産主義者は、スペイン・ブルジョアジーの無意識の手先となり、プロレタリア革命の事業を破滅させるおそれがある。
小ブルジョア的な民族的幻想の危険性はどの点にあるのか? それは、スペインのプロレタリアートを民族的線に沿って分裂させてしまう点にある。これは非常に重大な危険性である。しかし、スペインの共産主義者が成功裏にこれと闘争することができるのは、ただ一つの方法によってのみである。すなわち、支配民族のブルジョアジーによる暴力を容赦なく暴露し、それによって被抑圧民族のプロレタリアートの信頼を勝ちとることである。他のいかなる政策も、支配民族の帝国主義ブルジョアジーの反動的民族主義を支持し、被抑圧民族の小ブルジョアジーの革命的・民主主義的民族主義に反対するのも同然であろう。
1931年5月20日
諸君の手紙によれば、『ユマニテ』の嘘がカタロニアで怒りを呼んでいるという。それは容易に予想できることだ。しかし怒りだけでは足りない。反対派の機関紙誌はスペインで起こっている事態を系統的に描き出さなければならない。この問題は巨大な意義を持っている。国際共産主義のカードルは、スペイン革命の生きた経験にもとづいて再教育を受けるべきだろう。バルセロナとマドリードからの系統的な通信は、単なる通信ではなく、第一級の重要性を持つ政治的文書である。それなしには、スターリン派はカタロニア連合の周辺に孤立と敵意の雰囲気を作り上げることができる。こうした雰囲気それ自体が、カタロニアの先進的労働者を冒険と破局の道に押しやりかねないものである。
『反対派ブレティン』第21/22号
新規
訳注
(1)トロツキー「
スペイン革命とそれをおびやかす危険」を参照のこと。(2)トロツキー「
スペイン共産主義者の課題――『流れに抗して』編集部への手紙」の一節。(3)同前の論文と思われる。
(4)ベレンゲル・フステ、ダマソ……スペインの反動的将軍。1930年1月にプリモ・デ・リベラ独裁政権が倒壊した直後に、アルフォンソ13世によって臨時政権の長に任命される。1931年2月に国内世論によって辞任に追い込まれる。
(5)テールマン、エルネスト(1886-1944)……ドイツのスターリニスト、1920年代半ば以降、ドイツ共産党の最高指導者。1932年にヒンデンブルク、ヒトラーと対抗して大統領選挙に立候補。1933年にナチスに逮捕され、1944年に強制収容所で銃殺。
(6)シュトラッサー、オットー(1897-1974)……ドイツのファシスト政治家。1925年にナチス党に入党し、党内左派として頭角を現わすも、ヒトラーと対立し、1934年に亡命。
(7)カタロニア連合……ブハーリンの右翼反対派を支持して1929年にスペイン共産党から追放されて結成されたカタロニア中心の組織。指導者はホアキン・マウリン。1935年、アンドレウ・ニンの指導するスペイン左翼反対派と合同して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。
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