スペイン革命の諸問題

日々刻々―U

トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、スペイン革命問題をめぐる一連の手紙の続きである。これらの手紙の中ではとりわけ、1931年6月の国会選挙が中心に論じられている。この選挙でブルジョア共和派と社会党が多数をとったが、共産党は泡沫的得票しか得られなかった。トロツキーはロシアの経験にもとづいて、国会での力関係をより左に移させ、社会党に権力をとらせることが、革命派にとって大きな利益になると主張した。また、これらの手紙の中ではカタロニア連合がとくに厳しく批判されている。右翼反対派の流れをくむカタロニア連合の曖昧で中間主義的な路線がスペイン革命を破滅に追いやると考えたからである。

 この論文の最初の邦訳は『スペイン革命と人民戦線』(現代思潮社)に所収のものだが、『反対派ブレティン』所収のロシア語原文にもとづいて全面的に訳し直されている。

Л.Троцкий, Вопросы испанской революции изо дня в день, Бюллетень Оппозиции, No.23, 1931.


 以下に掲載するのは、スペイン革命の諸問題について論じた左翼反対派の政治的書簡の続きである(『反対派ブレティン』第21/22号参照)。手紙はいずれも抜粋である。

 

  1931年5月31日

 アナルコ・サンディカリストは、私がここから判断できるかぎりでは、バルセロナにおけるマドリード帝国主義者の番頭であるマシア大佐(1)の惨めで卑しむべき体制に対して協調主義的政策をとっている。アナルコ・サンディカリストの指導者たちはどうやら、カタロニアの民族的「城内平和」を売り物にする副番頭、事実上の手先になってしまった。カタロニア連合は、私が判断できるかぎりでは、アナルコ・サンディカリストに対して協調主義的立場をとったようだ。つまり、統一戦線という革命的政策の代わりに、アナルコ・サンディカリストの――したがってまたマシア体制の――擁護と粉飾という日和見主義的政策を採用したということである。まさにここに、ある一定の段階で危険な性格を帯びるであろう自然発生的爆発の一源泉がある。

 労働組合の課題はけっして労働者を押しとどめることにあるのではなく、逆に全戦線にわたって労働者を動員し、彼らの攻勢を組織すること、何よりも、カタロニアおよびその他のスペイン全体の後進的な地域の労働者を立ち上らせることにある。カタロニア連合の課題はアナルコ・サンディカリスト連合[CNT]の態度を粉飾することにあるのではなく、その動きの一つ一つを批判的に追い、労働者に対して、これがマシアの小ブルジョア反革命と暗黙のブロックを結んでいる事実を暴露することにある。

 無謀な行動、あるいは時期尚早な行動に対する抑制が革命のメンシェヴィキ的もみ消しと圧殺になってしまわないためには、明確な戦略的路線が必要であり、先進的労働者は、この路線をはっきりと理解し、これを広範な大衆に倦むことなく説明しなければならない。カタロニア連合には、どうやら何の戦略的路線もないようである。その指導者は革命の基本的諸問題について熟考することを怖れている。そうでなければ、「トロツキズム」に対してあれほど幼稚で愚かしいこわがり方をするはずがない。この恐れは、彼らの政治的思考の程度を示すものである。

 

  1931年6月24日(2)

 残念ながら、スペインの共産主義者のさまざまなグループが今日の政治的諸問題をめぐってどのような立場をとっているかについて、私には十分な情報がない。このような条件のもとで革命情勢を分析することは、チェス盤を見ないでチェスを指すより難しいことである。毎回、補足的な検討を要する問題領域が残る(3)

 「スペイン革命とそれをおびやかす危険」という私の論文のかなりの部分は、今年4月のブルジョア共和革命と、来るべきプロレタリア革命とのあいだには特殊な「労農」革命の入る余地がないことを証明するために費やされている。ついでに指摘しておいたことだが、このことからけっして、プロレタリアートの党が「最後の決戦に至るまで」ただ平和的に力を蓄えることに専念すベきだという結論は出てこない。こうした考え方は反革命的であり、徹頭徹尾、俗物的である。中間的な革命や中間的な体制はありえないにしても、ストライキやデモ、警察や軍隊との衝突、激しい革命的変動揺といった大衆の中間的な行動はありうる。もちろん、そうした行動において、共産主義者はつねに第一線に立つ。こういう中間的闘争の持ちうる歴史的意義は何であろうか? 一方では、それはブルジョア共和政体に民主主義的変化をもたらしうるし、他方ではプロレタリア体制の創設のために権力獲得に向けた準備を大衆にさせることができる。

 共産主義者がこの闘争に参加するためには、ましてやこの闘争を指導するためには、彼らの側に革命全体の発展過程に対する明確な理解が必要なだけでなく、時機を失せず先鋭で部分的な闘争スローガンを提起する能力も必要である。このようなスローガンは、それ自体として「綱領」から直接出てくるものではけっしてなく、その時々の状況によって決定され、大衆を前進させるものである。

 周知のように、1917年のロシアにおいて、協調派の社会主義者と自由主義者とが連立政権を形成していた時、「10人の資本家大臣を倒せ!」というボリシェヴィキのスローガンは巨大な役割を果した。大衆はまだ協調派社会主義者を信頼していたが、最も忠実な大衆といえども、ブルジョアジー、搾取者、資本家に対しては常に本能的な不信感を抱いているものである。この時期のボリシェヴィキの戦術はこのことに基礎を置いていた。われわれは「社会主義者の大臣を倒せ」とは言わなかった。「臨時政府を倒せ」というスローガンさえその時の闘争スローガンとしては掲げなかった。しかしその代わり、われわれは倦まずたゆまず「10人の資本家大臣を倒せ!という一点を訴えつづけた。このスローガンは巨大な役割を果たした。なぜなら、それは、協調派社会主義者が労働者大衆よりも資本家大臣の方にずっと親和的で近いことを経験を通じて大衆に納得させることができたからである。

 この種のスローガンは、スペイン革命の現段階にも完全にあてはまる。プロレタリア前衛は、スペイン社会党の手に全権力を握らせることに全面的に利益を有している。そのためには、連立を解消させなければならない。当面の課題は連立政権からブルジョア大臣を追い出すための闘争である。この課題はおそらくは何らかの部分的で中途半端な形でしか解決されないだろうが、それでさえ、重大な政治的事件の発生や、新しい大衆運動の打撃、等々と結びついてのみ可能である。たとえばロシアでは、こうした大衆運動の圧力のもとで、連立政府から、最初にグチコフ(4)とミリュコーフ(5)が、次にはリヴォフ公(6)が放り出された。またケレンスキー(7)が首相に押され、閣内での「社会主義者」の数も増大した。レーニン到着後は、ボリシェヴィキ党は、一瞬たりともケレンスキーや協調派たちと手を結んだことはなかった。しかし、党は大衆がブルジョアジーを政権から放逐し、協調派の政府をによって検証するのを助けた。これはボリシェヴィキ党が権力にいたる道程の不可欠な一段階だった。

 遠くから判断できるかぎりでは、国会選挙が行なわれれば、サモラやマウラ(8)型の左翼共和派の途方もない弱体ぶりが白日のもとにさらけ出され、さまざまな色合いの小ブルジョア協調派――急進党、急進社会党、社会党――が圧倒的な優位を獲得するだろう。しかし、それにもかかわらず、この社会党や急進社会党が、全力を尽くして右の同盟者にしがみつくだろうことは、確信をもって予測することができる。「サモラとマウラを倒せ」というスローガンは完全に時宜を得たものである。ただし、次のことだけは理解しておかなければならない。すなわち共産主義者は、レルー(9)内閣賛成のアジテーションは行なわない。社会党内閣についてもいかなる責任も負わない。しかし、その時々において、その主たる攻撃の矛先を最も公然たる最も首尾一貫した階級敵に向ける。これによって協調派を弱め、プロレタリアートに道を切り開くのである。共産主義者は社会主義者の労働者にこう言う。「われわれと違って、諸君は自分たちの社会党指導者を信頼している。では彼らに権力を握らせたまえ。この点でわれわれは諸君を誠実に援助する。そしてそのうえで、誰が正しかったのかを実践によって検証しようではないか」と。

 以上のような問題は国会の構成と結びついて提起される。しかし、他の諸事件、たとえば大衆に対する弾圧が、「サモラとマウラを倒せ」のスローガンを極度に先鋭なものにするかもしれない。この分野での勝利、つまりサモラの辞任は、今後の革命の発展にとって、4月におけるアルフォンソの退位とほぼ同じ意義を、新しい段階で持つことになるだろう。このようなスローガンを提起する場合には、抽象的な教条から出発するべきではなく、大衆の意識状態や、大衆が事件をどのように受け止めるのか、あれこれの部分的成功にどのように反応するのか、といったことにもとづくべきである。「プロレタリア独裁」や「労農共和国」といったスローガンを現体制に抽象的に対置することは、それ自体まったく不十分である。なぜならそれでは大衆の心をつかむことができないからである。

 以上述べたことと結びついて、社会ファシズムの問題が改めて提起される。官僚のこの愚劣きわまりない、恐ろしく左翼的な発明品は、現在のスペインにおいて革命への道における最大の障害物になっている。ここでもう一度ロシアの経験を振り返ってみよう。権力に就いていたメンシェヴィキ党と社会革命党は、帝国主義戦争を遂行し、有産階級を擁護し、兵士と農民と労働者を迫害し、逮捕を行ない、死刑を導入し、ボリシェヴィキの殺害を庇護し、レーニンに地下生活を余儀なくさせ、他のボリシェヴィキ指導者を牢獄につなぎ、彼らについてひどい中傷を流していた。これらのことからして、今から考えれば、彼らを「社会ファシスト」と呼ぶ理由は十分にあったのである。しかし、この言葉は1917年当時はまったく存在しなかったが、そのことは、周知のごとく、ボリシェヴィキ党が権力を獲得する妨げとはならなかった。7、8月におけるボリシェヴィキへのすさまじい迫害の後、ボリシェヴィキは、「社会ファシスト」とともにコルニーロフに対する闘争機関に参加した。9月初め、レーニンは非合法生活の隠れ家からロシアの「社会ファシスト」に次のような妥協を提案した。「ブルジョアジーと手を切って、権力をとりたまえ。そうすれば、われわれボリシェヴィキはソヴィエト内部で平和的な手段で権力のために闘争するだろう」。

 もしも協調派とコルニーロフ(当時における本物の「ファシスト」)とのあいだに何の相違もなければ、コルニーロフ派に対するボリシェヴィキと協調派との共同闘争は不可能だったろう。だがこの闘争は、将軍の反革命的攻撃をはね返し、ボリシェヴィキが最終的に大衆を協調派から引き難す助けとなることによって、革命の発展にとって巨大な役割を果たしたのである。

 小ブルジョア民主主義の本質は、それが共産主義とファシズムのあいだで揺れ動く点にある。革命期にはこの動揺がとりわけ先鋭なものになる。スペイン社会党をファシズムの一種とみなすことは、同党が不可避的に行なうであろう左への振動を利用することをあらかじめ拒否することを意味するし、また、社会党労働者とサンディカリスト労働者にいたる道を自分で封じることを意味する。

 この手紙の最後に強調しておかなければならないことは、スペインのアナルコ・サンディカリズムを批判し暴露することが、一瞬たりともなおざりにすることのできないきわめて重要な課題だということである。アナルコ・サンディカリズムの上層部は、最も仮装され最も不誠実で最も危険な形でブルジョアジーと妥協し、それに奉仕する。アナルコ・サンディカリズムの下部は、大きな革命的潜勢力を内包している。ここでのわれわれの基本的課題は、社会党に対する場合と同じく、下部を上層部に対立させることにある。しかし、この課題は、労働組合組織の特殊な性質とアナーキストという仮面の特殊性を十分ふまえたものでなければならない。この点については次の手紙で述べよう(10)

 

  1931年6月29日

 マウリン(11)を容赦なく批判し続けるべきである。事態はわれわれの批判の正しさをはっきりと裏づけるだろう。いくらも時が経たないうちに、マウリンは、その田舎風の思考と幼稚な教条と自前のスローガンを伴った単なる滑稽な人物であることがわかるだろう。すべては誰が彼に取って代わるかにかかっている。左翼反対派は、カタロニアにおいて指導勢力とならないかぎり、全スペインの指導勢力とはなりえない。

 第2の差し迫った問題は、アナルコ・サンディカリストである。アナルコ・サンディカリズムを批判するパンフレットを刊行し、これをスペインにおいてのみならず、他の諸国においてもできるだけ広く普及することが必要である。諸君はモナット(12)の論文を読んだだろうか? その中で彼は、スペインのアナルコ・サンディカリストが、ボリシェヴィキ国家に対抗する真の「アナーキスト」国家を建設するという希望を表明している。世界アナーキズムの運命、より正確にはロシア革命によって止めを刺されなかった残党の運命は、今やスペインのアナルコ・サンディカリズムの運命と不可分に結びついている。そして、スペインのアナルコ・サンディカリズムは不可避的に最もみじめで滑稽な破産に至るであろうから、スペイン革命がアナーキズムの墓場となることは疑いない。しかし……アナルコ・サンディカリズムの墓場が、そのまま革命の墓場にならないようにしなければならない。マウリンがスターリニストにとっての一時的な隠れ蓑であるように、アナルコ・サンディカリズムは社会党と共和党の、すなわちブルジョアジーの一時的隠れ蓑である。マウリンがカタロニアの先進的労働者を中間主義官僚の手に引き渡すかもしれないのと同様、アナルコ・サンディカリストは革命全体をブルジョアジーの手に引き渡すかもしれない。アナルコ・サンディカリズムとの実践的闘争のみならず理論的闘争が今や日程にのぼっている。言うまでもなく、この闘争は統一戦線政策にもとづいて、組合組織の統一を擁護しながら進められなければならない。しかし、アナルコ・サンディカリズム指導者の仮面をはがさなければならない。何よりも、惨めな世俗の法王であるペスターニャ(13)を丸裸にしなければならない。彼は、革命のその後の発展において疑いもなく最も醜悪で卑劣な役割を演じるだろう。

 ……労働者の社会党員はブルジョアジーを信じておらず、あらゆる権力が社会党の手中に入ることを強く望んでいる。労働者のサンディカリストも事態をこのように見ている。われわれの政策の課題は、この場合、社会民主主義労働者の偏見をふまえつつ、彼らをこの偏見から解放するのを助けることである。労働者全般を、とりわけ社会党労働者を以下のスローガンのもとにその指導者にけしかけることである。「権力をとれ!」と。これがたぶん、現今における中心的な戦術的課題である。戦闘的で明確ではっきりとした一目瞭然の形でスローガンを定式化することはきわめて重要である(14)

 マウリンの一連の演説抜粋はわれわれをやり切れない気持ちにさせる。この人物は、何とわれわれに対する反論として、5ヵ年計画は革命の成果であると述べているのだ! 彼が何も読んでいないということがありうるだろうか。

 ちなみに、ロイター通信およびそれに続いてその他の通信社は、私が5ヵ年計画に関する論文やインタビューなるもの(「完全な瓦解、欺瞞」云々)について虚偽の外電を流している。このような醜悪な行為をあばき、きっぱり否定することはきわめて重要である。今回の場合、ブルジョアジーはスターリニストを攻撃するのに自分自身の捏造と中傷を利用しているのである。

 

  1931年7月1日

 1、私の目の前には、スペインの選挙の第1報を掲載した7月1日付の地方紙がある(15)。今のところ、実にいっさいが厳格に「予定」通りに起こっている。左への移動がきわめて順調に生じた。わがスペインの同志が、選挙の結果を資料にもとづいて必要な慎重さでもって分析してくれるのを待つとしよう。労働者、とりわけアナルコ・サンディカリストがどのように投票したかを解明しなければならない。一部の選挙区では、その答は選挙統計からはっきりと出てくるだろう。もちろん、各地方の農民がどのように投票したかを解明することも重要である。それと同時に、各党が国のさまざまな地方で提出した「農業綱領」をすべて集めなければならない。以上はすべてきわめて急を要する重要な仕事である。

 2、これは予想されたことだが、どうやら社会党は大勝利を博したようである(16)。これが議会情勢の中心的要素である。社会党の指導者は、国会で多数派を獲得しなかったおかげで、ブルジョアジーとの連立が議席統計上、正当化されると考えて一安心している。社会党が権力をとりたがらないのは、社会党政府がプロレタリア独裁にいたる一段階になってしまうことを彼らがひどく怖れているからである。プリエト(17)[左の写真]の演説から明らかになったのは、社会党が、プロレタリアートを押さえ込むことができているあいだは連立を支持し、その後、労働者に対する攻撃が激しくなりすぎたら、何か急進的な口実を使って野党になり、労働者を調教したり粉砕したりする仕事はブルジョアジーにまかせるつもりであるということである。言いかえれば、これはエーベルト(18)やツェレテリ(19)の焼き直しである。エーベルトの路線が成功を収め、ツェレテリの政策が失敗したこと、そしてどちらの場合も共産党の力量とその政策が決定的な意義を持っていたことを思い起こそうではないか。

 3、われわれは、社会党の計画(それは政治的な敗北ゲームだ)をただちに暴露し、どの問題に関してもその計画の正体を白日のもとにさらさなければならない。これはもちろん、何よりもスペインの左翼反対派の仕事である。しかし暴露だけでは不十分である。スペイン革命の現段階の性格に合致した明確な政治的スローガンが必要である。選挙の結果は、このスローガンを完全に明確にした。すなわち、労働者はブルジョアジーとのブロックを粉砕し、社会党に政権を握らせなければならない。農民も土地を手に入れたいのなら労働者を助けなければならない。

 4、社会党は、国会では自党が多数派ではないということを持ち出すだろう。ここから出てくるわれわれの結論はこうだ。18歳以上の男女による直接・平等の真の普通選挙権にもとづく真に民主主義的な国会選挙を。言いかえれば、非民主的で歪められた国会に対して、われわれは現段階では、真に民主主義的で正しく選挙された人民国会を対置するということである。

 5、もし共産党が現段階で、国会に背を向けて、ソヴィエトやプロレタリアート独裁のスローガンを振り回そうとするなら、それはただ、共産党が真面目に受け取るべき勢力ではないことを自ら証明することになるだろう。国会にはどうやら共産党議員は1人もいないようである(トルコの外電はそう報じている)。もちろん、革命的左翼は、議席におけるよりも、行動や闘争においての方がはるかに強力である。だがそれでもやはり、革命党の力量とその議席とのあいだには一定の関係が存在する。スペイン共産党の弱体ぶりは完全に露わになった。このような状況のもとでプロレタリア独裁によるブルジョア議会制度の打倒を語ることは、間抜けかおしゃべり屋の役を演じることでしかない。課題は革命の議会的段階にもとづいて自らを強化し、自己の周囲に大衆を結集することである。これによってのみブルジョア議会制度を克服することができるのだ。しかし、まさにこのために現在必要なことは、最も断固とした徹底した民主主義のスローガンのもとで激しいアジテーションを展開することである。

 6、スローガンを提起するさいの基準はいかなるものか? 一方では、われわれの戦略路線を規定する革命的発展の一般的方向性であり、他方では、大衆の意識状態である。この後者の要因を考慮しない共産主義者は首の骨を折る危険がある。スペインの労働者大衆が現在の状況をどうとらえているかを少し考えてみよう。その指導者である社会党は政権に就いている。これは労働者の要求水準と頑強さを高める。ストライキ労働者はみな、政府を怖れる必要がないばかりか、逆に政府から援助を期待すべきだと考えるだろう。共産主義者はまさにこの方向へと労働者の意識を持っていかなければならない。「政府にどしどし要求しよう。何といってもそこにいるのは諸君の指導者なのだから」。社会党は労働者代表に答えて、自分たちは多数派ではないということを持ち出すだろう。それに対する回答は明らかである。真に民主主義的な選挙権を実現し、ブルジョアジーとの連立を廃棄するなら、議席の多数が保障されるだろう、と。しかし、これこそ社会党の望まないことである。社会党はその立場からして断固とした民主主義のスローガンに対立せざるをえない。もしわれわれが単純に国会にプロレタリア独裁やソヴィエトを対置するならば、労働者を社会党の側に結集させることになるだろう。なぜなら、労働者も社会党もこう言うからである。共産党は俺たちに命令するつもりだ、と。これに対して、民主主義的スローガンを掲げ、社会党とブルジョアジーとの決裂を要求するならば、われわれは労働者と社会党とのあいだに楔を打ち込み、革命の次の段階を準備することができるだろう。

 7、以上述べたことはみな、われわれが民主主義的スローガンとその議会的反映に自らを限定するならば、すべて雲散霧消してしまうだろう。そのような限定はまったく論外である。共産主義者は、あらゆるストライキ、あらゆる抗議行動、あらゆるデモに参加し、次から次へと新しい層を立ち上がらせる。共産主義者は、あらゆる戦闘において、大衆とともにあり、大衆の先頭に立つ。こうした闘争にもとづいて、共産主義者はソヴィエトのスローガンを掲げ、それが可能になる最初の機会がありしだい、プロレタリア統一戦線の組織としてのソヴィエトを建設する。現段階ではソヴィエトはそれ以上のものではありえない。だが、たとえそれがプロレタリア統一戦線の戦闘機関として出現するとしても、ある一定の段階で共産主義者の指導のもと、不可避的に蜂起の機関となるであろうし、その次には権力の機関となるだろう。

 8、農業綱領を大胆に展開する際にけっして忘れてはならないことは、農場労働者の独自の役割である。これは、農村におけるプロレタリア革命の最も重要なテコである。農民とは労働者は同盟を結ぶが、農業労働者はプロレタリアート自身の一部である。この根本的相違を片時も忘れてはならない。

 9、『ラ・ヴェリテ』から知ったのだが、スターリニストは、地主の土地の即時没収に反対しているとして、時に左翼反対派全体を、時に私個人を非難している。まことに今回の場合、官僚的デマゴーグがいったいどの方向から来るかまったく予想できなかった。地主の土地の「即時」没収とはいったい何を意味するのか? 誰によって? どの組織によって? たしかに、並ぶもののないペリ(20)は、4月にはまだ、スペイン農民がソヴィエトを建設し、労働者は一人残らず共産党に従っていると主張していたものだ。もちろんわれわれは、農民ソヴィエト(あるいは農民同盟、農民委員会など)がただちに地主の土地を奪取することには賛成である。だがまずもって農民を立ち上らせなければならない。そしてそのためには、労働者を社会党の影響から引き離さなければならない。両者はどちらが欠けてもうまくいかない。

 それともスターリニストは、われわれが地主の土地所有を支持していると言いたいのだろうか? だが、中傷にも論理がなければいけない。永続革命の立場からどうして地主の土地所有の擁護が出てくるのか? ぜひとも説明してもらいたいものだ。

 われわれの方からは、次のことを思い出させておきたい。中国においてスターリニストが四民ブロック政策を実施していた時、スターリン指導下の政治局は中国共産党中央委員会宛てに電報を送り、「革命的将軍」を反発させないよう農民運動にブレーキをかけることを要求した。スターリンとモロトフは農業綱領にちょっとした制限をつけた。地主の土地を没収せよ、ただし将校の土地は除いて、と。しかし、すべての地主およびその息子と甥が蒋介石軍に入っていたのだから、「革命的」将校を除くという限定は地主の所有地を守るまたとない保障となったのである。スターリニスト指導部の歴史におけるこの恥ずべき一章を消し去ることはできない。反対派は当時、政治局の議事録の中にこの電報のコピーを発見して、農民の土地革命に対するこの破廉恥な裏切りを暴露し追及した。今や、この紳士諸君は自分が中国で犯した犯罪をスペインでわれわれに押しつけようとしている。いや、これは成功しないだろう。今や反対派はほとんどすべての国に支部を持っており、嘘と混乱を撒き散らすのを許しはしない。スペイン革命の生きた経験にもとづいて左翼反対派はあらゆる基本的な論争点を解明し、巨大な前進を遂げるだろう。何といっても、革命は歴史の機関車なのだから。

 

  1931年7月8日

 最も危険で有害で破滅的なことは、カタロニアとスペイン、それに全世界の労働者の意識の中で、われわれがカタロニア連合の政策にくみしているとか、それに責任を負っているとか、あるいは少なくとも中間主義グループよりはそれに近いといった考えが定着してしまうことである。スターリニストはこのような見方を確立しようと全力を尽くしている。今のところ、われわれはこの点での反対闘争を十分断固とした調子で行なっていない。こうした誤解はわれわれの権威を失墜させ、カタロニアおよびスペインの労働者の発展を妨害するものであり、この誤解を解くことはそれだけにいっそう重要で急を要するものである(21)

 国会選挙において、カタロニア連合は約1万票を獲得した。これは大きな数字ではない。だが、革命期においては真に革命的な組織は急速に成長するものである。しかしながら、この1万票の重みを大いに割引きするような事情がある。国会選挙において、カタロニア連合が、バルセロナの、すなわち最も重要な革命的中心地の市議会選挙時よりも少ない票しか獲得しなかったことである。一見ささやかに見えるこの事実は巨大な徴候的意義を有している。このことが示しているのは、より辺ぴな地方では、非常に弱々しいとはいえカタロニア連合への労働者の流入が見られるのに対して、バルセロナでは、マウリン[右上の写真]の混乱ぶりが労働者を引きつけるどころか、反発させていることである。もちろん、マシアの不可避的な破産は、2番目の破産者たるマウリンさえもいっとき助けるかもしれない。だが、カタロニア連合の現指導部の無力さは、国会選挙によって完全に証明された。革命の3ヶ月間に、バルセロナで自らの影響力を増さないということをやってのけるためには特別のな「才能」が必要である!

 革命政治の言葉で表現すればカタロニア連合とは何なのか? それは共産主義組織なのか? だとすればその中のどれにあたるのか、右派か、左派か、それとも中間派か? カタロニア連合に票を投じたのが、革命的労働者、潜在的共産主義者であることは疑いない。しかし、彼らの頭はまだ明確なものとなっていない。そして、これらの労働者が混乱屋によって指導されているとしたら、どうして明確なものになりえようか? こうした状況のもとでは、より断固とした、より大胆な、より首尾一貫した労働者は必然的に公式の共産党の方に引きつけられるにちがいない。同党は、バルセロナでは170票を得たのみであり、カタロニア全体でも約1000票でしか獲得しなかった。だがこれを最低の分子と考えてはいけない。反対に、この分子の大部分は、われわれの側に来る可能性を持っており、われわれが自らの旗を掲げれば、そうなるだろう。

 1917年革命のはじめの頃、ロシアの社会民主主義組織の大多数は混合的性格を持っており、その中にはボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、調停派などが含まれていた。すべての派の統一をめざす傾向はきわめて強く、スターリンが、レーニン到着数日前の3月末のボリシェヴィキ党協議会で、メンシェヴィキとの統一を提案したほどであった。一部の地方組織は10月革命に至るまで混合的だった。私はカタロニア連合を、この種の混合的組織、未来のボリシェヴィキと未来のメンシェヴィキの両方を含む、境界の曖昧な組織であると考える。このことは、カタロニア連合の隊列に政治的分化を持ちこむことを目指した政策を正当化する。このことに向けた第1歩は、マウリン主義の政治的俗悪さを暴露することである。この点では容赦してはならない。

 しかしながら、カタロニア連合とロシアの合同組織とを比較するには、非常に本質的な限定が必要である。ロシアの合同組織は既存の社会民主主義的グループをどれ一つとして排除していなかった。すべての組織が、合同組織の中で自らの見解を守るために闘う権利を持っていた。カタロニア連合の場合、事情はまったく異なる。ここでは「トロツキズム」は禁止されている。混乱屋は誰でも自らの混乱を擁護する権利があるが、ボリシェヴィキ・レーニン主義者は、ここでは公然と声を上げることができない。したがって、この混合的で折衷的な合同組織は、はじめから左翼と一線を画している。このことによって、カタロニア連合は中間立義的傾向と右翼的傾向との混沌としたブロックとなっている。中間主義は左にも右にも発展しうる。カタロニア連合の中間主義は革命期に左翼から離れて、恥辱的な破滅に瀕した。左翼反対派の課題は、その仮借なき批判によってこの破滅を早めることである。

 だが、とりわけ大きな注意を向けなければならない事情がもう一つある。カタロニア連合は公式にはあらゆる共産主義組織・グループの統一に賛成している。いかなる疑いもなく、下部のメンバーは、統一というスローガンにあらゆる幻想を結びつけているにしても、この統一を心から誠実に求めている。われわれはこのような幻想とはまったく無縁である。われわれは統一を支持するが、それは、統一された党の枠内で、思想的線引きの進歩的活動を成功裏に遂行するためである。その線引きは、外から押しつけられたものではなく、スペイン革命そのものの発展から出てくる問題や課題にもとづいたものでなければならない。しかし、いずれにせよ、われわれは共産主義者の統一のための闘争を支持する。この統一の基本的条件は、統一された組織の枠内で、自分たちの見解のために闘う権利と可能性がわれわれに保障されていることである。われわれはその際、この闘争においてまったく誠実に振舞うことを約束することができるし、そうしなければならない。だが、この基本的条件はカタロニア連合によって最初から破壊されている。すなわち彼らは、統一の旗を振りかざしながら、ボリシェヴィキ・レーニン主義者を自分たちの隊列から追放している。こうした条件のもとで共産党の統一のための闘争におけるカタロニア連合の指導的役割を支持するのは、われわれにとって愚の骨頂だろう。統一大会でマウリンは第1バイオリンを弾くつもりでいる。このような嫌悪すべき偽善を黙って見逃すことができようか? 

 マウリンは左翼反対派と闘う際、スターリニスト官僚の歓心を買おうと、そのもの真似をしている。本質的に彼はスターリニストにこう言っているのである。「私にあなたの祝福をください、そして何よりも援助金をください、そうすればボリシェヴィキ・レーニン主義者に対して、恐怖からではなく、心の底から闘うことをお約束します」。マウリンの統一活動はスターリニストに対するゆすりの一形式にすざない。この点について口をつぐむのなら、われわれは革命家ではなく、政治的ゆすりの消極的支援者になってしまう。われわれは一瞬たりとも共産主義者の隊列を真に統一するための闘争を弱めることなく、また、共産主義者の隊列をわれわれの旗のもとに結集するための闘争を弱めることなく、マウリンの役割を、すなわちそのペテン的「統一」活動を容赦なく暴露しなければならない(22)

『反対派ブレティン』第23号

新規

  訳注

(1)マシア・イ・リュサ、フランシスコ(1859−1933)……スペインの軍人・政治家。バルセロナの下層中産階級の党であるカタロニア・エスケラ党の指導者。工兵大佐のときにカタロニア独立運動を行ない、1931〜33年にカタロニア自治共和国の初代大統領に。

(2)この手紙の冒頭に、英語版の『スペイン革命 1931−1939』(パスファインダー社)では(現代思潮社版『スペイン革命と人民戦線』でも同じ)次の一文がある。「同志ラクロアに宛てた手紙の中で、私はスペインの情勢に関して若干の補足的考察を述べておいた」。

(3)この文章の後に、英語版では次の一文がある(現代思潮社版も同じ)。「そこで私はこれらの諸問題について諸君に、そして諸君を通じてスペインの共産主義者と国際左翼反対派のすべての支部の前で、意見を述べたいと思う」。

(4)グチコフ、アレクサンドル(1862−1936)……ロシアのブルジョア政治家。大資本家と地主の利害を代表する政党オクチャブリスト(10月17日同盟)の指導者。第3国会の議長。ロシア2月革命で臨時政府の陸海相になり、帝国主義戦争を推進するが、4月の反戦デモの圧力で辞職(4月30日)。グチコフの代わりに陸海相になったのがケレンスキー。10月革命後、ボリシェヴィキ政府と激しく敵対。1918年にベルリンに亡命。パリで死去。

(5)ミリュコーフ、パーヴェル(1859−1943)……ロシアの自由主義政治家、歴史学者。カデット(立憲民主党)の指導者。第3、第4国会議員。2月革命後、臨時政府の外相。4月18日に、連合諸国に、戦争の継続を約束する「覚書」を出し、それに抗議する労働者・兵士の大規模デモが起こり(4月事件)、外相辞任を余儀なくされる。10月革命後、白衛派の運動に積極的に参加し、ソヴィエト権力打倒を目指す。1920年に亡命。『第2次ロシア革命史』(全3巻)を出版。

(6)リヴォフ、ゲオルグ(1861−1925)……ロシアのブルジョア政治家、カデット、公爵。全ロシア・ゼムストヴォ同盟議長。1917年2月革命後、7月まで臨時政府の首相。7月事件で首相の座を追われる。10月革命後、パリに亡命。

(7)ケレンスキー、アレクサンドル(1881−1970)……ロシアの政治家、弁護士。1912年、第4国会でトルドヴィキ(勤労者党)の指導者。2月革命後、エスエルに。最初の臨時政府に司法大臣として入閣。第1次連立政府で陸海相、7月事件後に首相を兼務。第2次連立政府、第3次連立政府の首相。8月30日、コルニーロフに代わって全ロシア最高総司令官に。10月革命直後に、クラスノフとともにボリシェヴィキ政府に対する武力反乱を企てるが、失敗して亡命。アメリカで『回想録』を執筆。

(8)マウラ、ミゲル……スペインのブルジョア政治家、サモラ政権の内務大臣。

(9)レルー・ガルシア、アレハンドロ(1864−1949)……スペイン急進党の指導者。1933年から1936年まで首相。

(10)この文章の後に、英語版では改行の上、次の一文がある(現代思潮社版も同じ)。「もう一度繰り返そう。スペインの革命諸組織・諸グループの論文、決議、綱領等を集め、これをフランス語に翻訳すること、そして、他の言語にも訳せるようこれをすべての支部に送ることが必要である」。

(11)マウリン、ホアキン(1897−1973)……スペインの労働運動活動家、CNT指導者、共産主義者。ブハーリンの右翼反対派を支持して1929年にスペイン共産党から追放。カタロニア労農ブロックを組織。1935年、アンドレウ・ニンと協力して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。1936年に内戦が勃発したとき、POUMの国会議員であったマウリンはフランコの軍隊に逮捕され、投獄された。1947年、釈放されると、アメリカに亡命していっさいの政治活動をやめてしまった。

(12)モナット、ピエール(1881−1960)……フランスの労働組合運動家でサンディカリスト左派。1909年に『労働者の生活』を創刊。第1次大戦中は反戦の立場を堅持。1923年にフランス共産党に入党したが、1年後に離党。1924年に『プロレタリア革命』グループを旗揚げ。1926年に「サンディカリスト連盟」を創設。

(13)ペスターニャ、アンジェロ……スペインのサンディカリスト党の指導者、CNTの右派。

(14)「労働者の社会党員は」から「きわめて重要である」までは、英語版にはない(現代思潮社版も同じ)。

(15)英語版ではこの新聞は「フランス語のトルコ新聞」とされている(現代思潮社版も同じ)。

(16)6月の国会選挙で王党派諸政党が大敗を喫し、共和派・左派が多数をとった。社会党は116議席を獲得し第一党になった。その他、レルーの急進党が90議席、急進社会党が60議席、カタロニア・エスケラ党が43議席、アサーニャの共和行動党が30議席、サモラの進歩党が22議席。

(17)プリエト・イ・トゥエロ、インダレシオ(1883−1962)……スペイン社会党の右派指導者。人民戦線政府のカバリェロ内閣の海空軍相。1938年にスターリニストの圧力で解任。

(18)エーベルト、フリードリヒ(1871−1925)……ドイツ社会民主党の右派。第1次大戦中は排外主義者。1919年にドイツの大統領。ドイツ革命を弾圧し、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの暗殺に関与。

(19)ツェレテリ、イラクリー(1881−1959)……ロシアの革命家、メンシェヴィキの指導者。第2国会の議員。1912年に流刑。1917年2月革命後、流刑地から戻ってきてペトログラード・ソヴィエト議長。5月に、郵便・電信相として第1次臨時政府に入閣。6月、第1回全ロシア・ソヴィエト大会で中央執行委員会議長に。7月事件後、第1次臨時政府の内相に就任。1918年にグルジアのメンシェヴィキ政府の首班。1921年に亡命。

(20)ペリ、ガブリエル(1902−1941)……フランス共産党の機関紙『ユマニテ』の外国編集部員。彼はスペインの事件について外電を新聞に送っていたが、その内容が誤りに満ちていたため、スペインの読者の反感を買った。第2次大戦中にナチスによって銃殺される。

(21)この一文の後に、英語版では改行して以下の文章がある(現代思潮社版も同じ)。「もちろん、カタロニア連合を批判するのは何よりもカタロニアにおけるわれわれの支持者たちの課題である。彼らは自分の立場を明瞭で正確な公然たる批判の中で表明しなければならない。小ブルジョア的偏見と無知、世間知らずの『科学』と政治的歪曲の混合物であるマウリンの政策を一つ残らず批判の対象としなければならない」。

(22)この一文も後に、英語版では改行のうえ次の文章が続いている(現代思潮社版も同じ)。「国際左翼反対派は現在、その活動の10分の9をスペインに集中しなければならない。スペイン語による週刊紙およびカタロニア語による定期刊行物を準備できるよう、また同時に、パンフレットを大量に配布できるよう、他のあらゆる出費を削減するべきである。スペインの反対派に最大限の援助を行なうため、他のあらゆる出費をすべて制限することを検討すべきである。

 国際書記局も、私見によれば、スペイン革命の問題に90パーセントの力をそそぐべきである。この世にランダウのような連中が存在することなどさっさと忘れてしまおう。あらゆるもめごと、あらゆる陰謀や陰謀家などには一分も無駄にせず背を向けるべきである。

 スペイン革命は日程にのぼっている。最も重要な文書を遅滞なく翻訳し、これに必要な批判を加えるべきである。『国際ブレティン』の次の号は、完全にスペイン革命の問題に当てられなければならない。また一連の組織的措置をとることも大いに必要である。そのためには人手と物質的手段がいる。どちらも見つけ出さなければならない。

 時間を浪費すること以上に重大な罪はないし、ありえない。」

 

トロツキー研究所

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