スペインのコルニーロフ派と

スペインのスターリニスト

トロツキー/訳 星川洋史・西島栄

【解説】これは、スペイン革命に関して1930〜32年に書かれた一連の論文の一つである。

 この論文は、1932年8月に起こった王党派将軍サンフルホによる反共和制クーデターが失敗した直後に書かれている。1931年の4月革命で成立したサモラ共和政権は一貫してきわめて不安定な状態にあった。一方では、より急進的な改革(徹底した農地改革、教会の特権の廃止、労働者の生産管理など)を求める無政府主義者、共産主義者、社会党左派などの左翼からの攻撃を受け、他方では、君主制への復帰を画策する王党派将軍の絶えざる圧力のもとにあった。最初に攻撃を開始したのは左翼であった。無政府主義者は1931〜32年に各地でゼネストや部分的な武装蜂起を起こしたが、それらはいずれもサモラ=アサーニャ政府によって厳しく弾圧された。左からの圧力が弱まったのを見て、今度は右からの攻勢が始まった。それがサンフルホ将軍のクーデターであった。だがこのクーデターはすぐに失敗し、サンフルホ将軍は亡命を余儀なくされた。このクーデター失敗は今度は左翼の側の再攻勢への重大なきっかけを与え、無政府主義者は各地で再び決起を繰り返した。こうした混乱の中でアサーニャ首相は辞任し、1933年11月に選挙が実施されたが、この選挙で左派政党は大敗北を喫し、右派が多数を占め、右翼政党のCEDAが入閣する。この重大な右傾化は、1934年のアストゥリアスの闘いを頂点とする革命的爆発を導くことになる。

 なお本稿は、英語版から星川氏が最初に訳し、その訳文を西島が『反対派ブレティン』のロシア語原文で全面的にチェックして修正を施したものである。

Л.Троцкий, Испанские корниловцы и испанские талинцы, Бюллетень Оппозиции, No.31, Ноябрь 1932.


 『プラウダ』はこれまでと同様、ドイツについて沈黙を守っている。しかし、その代わりとして、9月9日にスペインに関する論文を掲載した。この論文は非常に教訓に富んでいる。たしかに、この論文はスペイン革命に間接照明しかあてていないが、その代わり、スターリニスト官僚の激しい政治的痙攣を非常に鮮明に照らし出している。

 その記事には、「1月のゼネラル・ストライキの敗北のあと、トロツキスト(ここではおきまりの悪罵を用いている――トロツキー)は、革命が敗北し、退潮の時代が到来したと主張しはじめた」と書かれている。これは本当だろうか? 今年の1月に革命を埋葬しようとするようなエセ革命家がスペインにいたとしても、そのような革命家は左翼反対派とは何の共通点もありえない。革命家は、客観的な証拠が疑問の余地を残さないようになるまで革命期が終わったなどと認めることはない。自分自身の消沈した気分にもとづいて悲観的予測を立てることができるのは、惨めな印象主義者だけであって、ボリシェヴィキ・レーニン主義者ではない。

 われわれは、『スペイン革命とそれをおびやかす危険』という小冊子の中で、スペイン革命の発展の道筋とありうるテンポについて検討した。1917年のロシア革命は頂点に達するのに8ヶ月を要した。しかしスペイン革命にとって必ずこれと同じ持続期間が必要であるということではない。フランス大革命の場合、ほぼ4年目になってようやく、ジャコバン派に権力が移行した。フランス革命がゆっくりとした発展を経た原因は、ジャコバン派自身が革命の火中で形成されたという事情にある。こうした諸条件はスペインにも見られる。共和革命の時期、共産党はまだ幼児期にあった。この理由のために、またそれ以外の多くの考慮にもとづいて、われわれは、スペイン革命が議会的段階をも含む一連の諸段階を経てゆっくりと発展するだろうと考えている。

 同時にわれわれは、革命の軌道というものが部分的な上昇や下降によって構成されていることを指摘した。そして指導部の手腕とは何よりも、革命の下降期に攻勢を命じないこと、そして上昇期に退却を命じないことにある。この理由からして、とりわけ、革命の部分的で「局面的」な変動を基本的な軌道と混同しないようにすることが必要である。

 1月のゼネラル・ストライキの敗北後、疑いもなくスペインの革命は部分的な下降期に入った。空論家と冒険主義者だけが革命の退潮を無視することができる。しかしまた、臆病者と逃亡者だけが、部分的な下降を根拠に革命の清算について語ることができる。革命家は最後に戦場を離れる。まだ生きている革命を埋葬する革命家は銃殺に値する。

 スペイン革命の部分的な下降と小休止が反革命に弾みを与えた。大きな闘争の一つにおいて敗北した後では、大衆は退却し沈静化する。十分に鍛えられていない指導部は、しばしば敗北の程度を過大評価する。こうしたことすべてがあいまって、反革命の中の過激派が勇気づけられる。これが、サンフルホ将軍(1)[右の写真]による王党派クーデターの政治的メカニズムである。しかし、まさに人民の不倶戴天の敵が表舞台に躍り出ることが、鞭の一撃のごとく、大衆を目覚めさせるのである。こうした場合、しばしば革命的指導部は不意を打たれる。

 「将軍たちの反乱が素早く容易に鎮圧されたことは、革命の隊列が粉砕されていなかったことを物語っている。8月10日の事件によって革命の高揚は新たな推進力を獲得した」と『プラウダ』は書いている。これはまったく正しい。この論文全体の中で、ここだけが唯一正しい箇所だと言うことさえできる。

 スペインの公式共産党はこの事件に不意を打たれただろうか? 『プラウダ』が書いていることだけから判断すれば、肯定的に答えるしかなさそうだ。この論文には、「労働者が将軍を打ち負かす」というタイトルが付けられている。王党派のクーデターに対する労働者の革命的介入がなければ、サンフルホではなくサモラ(2)が亡命を余儀なくされていただろうことは明白である。すなわち、労働者は自らの英雄主義と自らの血を犠牲にして、共和派ブルジョアジーが権力を保持するのを助けたのである。『プラウダ』は、そのことに気づかないふりをして、「共産党は、現在の反革命的政府にいささかの支持も与えることなく…右翼のクーデターと闘った」と書いている。

 共産党が何を企図しているのかはそれとして特殊な問題であるが、いま重要なのはその努力の結果である。共和派が王党派ともめないようできるだけ気を使っていたにもかかわらず(いや、それゆえに)、有産階級の王党派は共和主義派を追放しようした。しかし、プロレタリアートが舞台に登場した。「労働者が将軍をうち負かした」のである。王党派が亡命し、共和派ブルジョアジーが権力にとどまった。こうした現実に直面して、どうして、共産党は「現在の反革命的政府にいささかの支持も与え」なかったなどと主張できるのだろうか。

 以上のことからして、共産党は王党派と共和派ブルジョアジーとの衝突から手を引くべきだということになるのだろうか? このような政策は自殺行為となるだろう。その実例をわれわれは、1923年におけるブルガリアの中間主義者の経験で目にした。しかし、労働者が王党派との決定的な闘争に取り組みながら、なお自分たちの敵であるブルジョア共和派に一瞬たりとも支持を与えないですむ場合は、ただ一つだけある。それは、労働者自身が権力を奪取できるほど強力な場合である。1917年8月におけるロシアのボリシェヴィキは、1932年8月におけるスペイン共産党よりはるかに強力だった。しかし、そのボリシェヴィキでさえ、コルニーロフとの闘争において、直接に権力を掌握することができるほど強力ではなかった。コルニーロフの部隊に対する労働者の勝利のおかげで、ケレンスキー政府はさらに2ヶ月間延命した。ボリシェヴィキの水兵部隊がコルニーロフからケレンスキーの冬宮をさえ防衛したことをもう一度指摘しておこう。

 スペイン・プロレタリアートは、将軍たちの反乱を打ち破るほどには十分強力であるが、権力を奪取するにはあまりにも弱すぎることを示した。こうした状況においては、労働者の英雄的な闘争は、共和派政府を――少なくとも一時的に――強化せざるをえない。このことを否定することができるのは、事態の分析の代わりに陳腐な美辞麗句で済ませようとする軽はずみな主観主義者だけである。

 スターリニスト官僚の不幸は、ドイツと同様スペインにおいても、敵陣営内に存在する現実の諸矛盾を理解していないこと、すなわち生きた階級とその闘争を理解していないことである。「ファシスト」プリモ・デ・リベラ(3)が、「社会ファシスト」と同盟している「ファシスト」サモラに取って代わられたというわけだ。こうした理論を持っているのだから、王党派と共和派との衝突に大衆が介入したことでスターリニストが不意を打たれたのも、意外なことではない。大衆は、正しい本能にしたがって階級闘争に身を投じ、共産党を闘争に引きずり込んだ。将軍たちに対する労働者の勝利の後で、『プラウダ』は、自らの理論の破片をかき集め、それを再び貼りあわせて、あたかも何事もなかったのごとくふるまっている。これこそ、共産党はブルジョア政府に「いささかの支持」も与えなかったと主張する愚かしい空威張りの意味するところである。

 実際には、共産党は、政府に対して客観的な支持を与えたばかりでなく、この同じ論文から見てとることができるように、主体的にも政府から一線を画することができなかった。この点に関して論文は次のように述べている。

「すべての党細胞やすべての地方組織において、共産党がその姿を現わして自らを社会ファシストや共和派のマヌーバーに対置することに十分成功したわけではない。それが成功していれば、党が王党派と闘っているだけでなく、王党派の隠れ蓑となっている『共和派』政府とも闘っているということが、示されていたであろう」。

 このような場合にスターリニストの出版物で語られる「すべての細胞が……というわけではない」「すべての組織が……というわけではない」などという言葉が何を意味するかは、すでによく知られている。それは、思想の臆病さを覆い隠すいつもの手段である。1928年2月15日、はじめてスターリンが、クラークは左翼反対派のでっち上げではないことを認め、『プラウダ』に「一部の地方」「一部の県」でクラークが出現したと書いた。誤りはただ指令を執行する人々にしか認められないのだから、そうした誤りは必然的に「一部の地方」だけでしか発生しえないというわけだ。そうすると、党とはそのような地方組織の寄せ集めにすぎないということになる。

 実際には、われわれが先に引用した文章の意味するところは、そのお役所的言い逃れを剥ぎ取ってしまえば、「王党派との闘争において、共産党は『その姿を現わす』ことができなかった」ということである。党には、「社会ファシスト」や共和派に対して党自身をどう対置してよいのかわからなかったのだ。言いかえれば、党は、ブルジョア共和派と社会民主主義者から成る政府に一時的な軍事的支援を与えたばかりでなく、その闘争の過程で政府を犠牲にして自らを政治的に強化することもできなかったのである。

 スペイン共産党が弱体なために――それはコミンテルンのエピゴーネンによる全政策の結果なのだが――、プロレタリアートは、1932年8月10日にはその手に権力をつかむことができなかった。同時に、党は、暫定的な共同戦線の左翼として闘争に加わることを余儀なくされたし、実際にそれに参加した。この共同戦線の右翼にはブルジョア共和派が参加していた。この連合の指導部は、闘争にブレーキをかけ大衆に抑制するときにはその「姿」を現わすことを一瞬たりとも忘れなかったし、将軍たちに勝利するやいなや共産党との闘争に移った。スペインのスターリニストに関していうと、ロシアのスターリニストの証言によれば、「党は、王党派に対してだけではなく『共和派』政府とも闘っている」ことを示すことができなかった。

 ここに問題の核心がある。事件の直前には、党はすべての敵と対抗者を一色で塗りつぶし区別しなかった。だが闘争のクライマックスでは、自分自身が敵の色に染まってしまい、共和派と社会民主主義派の戦線に溶解してしまった。このことに驚くことができるのは、今に至るまで官僚的中間主義者の政治的本質を理解していない者だけである。理論的には(そもそもここでこの言葉を使っていいとすればだが)、官僚的中間主義は、いかなる政治的・階級的区別を行なうことも拒否することによって、日和見主義的な逸脱から自らを守る。フーバー(4)も、フォン・パーペン(5)も、ヴァンデルヴェルデ(6)も、ガンジーも、ラコフスキーも、すべてが「反革命派」であり「ファシスト」であり「帝国主義の手先」である。しかし、実際には、事態の突然の転換が生じたり、新しい危険が生じるたびに、スターリニストは唯一の敵との闘争に参加することを余儀なくされ、他の「反革命派」や「ファシスト」の前にひざまずかざるをえないのである。

 戦争の危険性に直面したとき、スターリニストはアムステルダムにおいて、外交的で偽善的で背信的な決議に賛成した。この決議は、フォン・シェーナイヒ将軍(7)やフランスのフリーメーソンやインドのブルジョアのパテール(8)――彼はガンジーを最高の理想として崇めている――が提案したものである。ドイツ国会において共産党は、「われわれは、国家ファシスト(ナチス)の大統領選出を阻止するために、『社会ファシスト』の大統領候補に投票する用意がある」と突如宣言した。つまり、共産党は「より小さな悪」の理論の上に完全に立っているのである。スペインでは、危機の瞬間に、ブルジョア共和派に自らを対置する能力がないことを示した。以上のことから、ここで問題となっているのが、偶然の誤りや「一部の」細胞のことではなく、官僚的中間主義の内的欠陥であることは明らかなことではないだろうか。

 労働者大衆は、搾取者の二つの陣営間の衝突に介入したことによって、スペイン革命を真に前進させる役割を果たした。アサーニャ(9)政府は大地主の土地の没収を命じざるをえなくなった。このような政策は、つい数週間前のアサーニャ政府の政策から「天の川」と同じほど遠く隔たったものだった。

 もしスペイン共産党が現実の諸階級とそれらの政治組織との間を区別していたら、もし発展の実際の推移を予見していたら、もし敵の真の罪と犯罪を批判し暴露していたら、そうすれば大衆は、アサーニャ政府の新たな農地改革を共産党の政策の影響だと認め、自らにこう言い聞かせただろう。われわれは共産党の指導のもとに、もっと先にもっと大胆に前進しなければならない、と!

 もしドイツ共産党が、情勢全体が求めていた統一戦線の道を確信をもって断固として進んでいたら、もし社会民主党を、その「ファシズム」ゆえにではなく、ボナパルチズムやファシズムと闘う上でのその脆弱さと動揺と臆病さゆえに批判していたら、そうすれば大衆は共同の闘争と共産党の批判から学び、ますます断固として共産党のもとに結集していただろう。

 だが、共産主義インターナショナルの現在の政策のせいで、大衆は、事態が新たな転換を遂げるたびに、階級敵が共産党の予言したとおりに行動しないばかりでなく、決定的瞬間には共産党自身が自ら説いてきたものを放棄すると確信しつつある。それゆえ、共産党に対する信頼は強まらないのである。またまさにそれゆえ、アサーニャの中途半端な農地改革が、政治的に、プロレタリアートではなくブルジョアジーに利益をもたらす危険性が生じているのである。

 例外的に有利な情勢のもとでは、たとえまずい指導のもとでも労働者階級が勝利することはあるだろう。しかし、例外的に有利な情勢はめったにあるものではない。プロレタリアートは、それほど有利ではない情勢下でも勝利することを学ばなければならない。しかしながら、スターリニスト官僚の指導部は――あらゆる国の経験が示しているように、また毎月の出来事が明らかにしているように――、共産党が有利な情勢を利用することすら妨げ、自らの隊列を強化したり能動的に駆け引きをしたり敵と半ば敵と同盟者とを正しく区別したりするのを不可能にしている。言いかえれば、スターリニスト官僚は、プロレタリア革命の勝利への途上に横たわる最も重大な内的障害物となっているのである。

1932年9月20日

『反対派ブレティン』第31号

『トロツキー著作集 1932』下(柘植書房新社)より

  訳注

(1)サンフルホ、ホセ(1872-1936)……スペインの軍人、将軍。1927年のモロッコ弾圧の中で果たしたその役割で有名になった。1932年8月の将軍たちの反乱を指導し失敗した。

(2)サモラ、ニケト・アルカラ(1877-1949)……スペインの保守政治家、大地主。進歩党の党首。1931年4月に成立した第1次共和政権の最初の首相。1931年6月から1936年5月までスペイン共和国大統領。

(3)プリモ・デ・リベラ、ミゲル(1870-1930)……スペインの軍人、独裁者。1923年、カタロニア軍管区総司令官のときに、国内の不安定化に乗じてクーデターを遂行。軍人から成る執政政府を樹立。1930年、世界恐慌下で財政政策に失敗して失脚。その息子、ホセ・アントニオは、ファシスト政党「フェランヘ党」を結成。

(4)フーバー、ハーバート(1874-1964)……アメリカの共和党政治家。1929年から32年にかけてアメリカ大統領。

(5)パーペン、フランツ・フォン(1879-1969)……ドイツのブルジョア政治家。プロイセンの土地貴族であるユンカーの代表で、カトリック中央党の指導者。1932年6月1日にヒンデンブルクによってドイツの首相に任命。7月20日にクーデターを強行し、プロイセンのブラウン社会民主党政府を解散させ、自らをプロイセン総督に指名。ドイツ宰相の地位は、1932年12月にシュライヒャー将軍が取って代わられ、1933年1月にヒトラー内閣の副首相になった。戦争中、パーペンはヒトラーに協力しつづける。

(6)ヴァンデルヴェルデ、エミール(1866-1938)……ベルギー労働党と第2インターナショナルの指導者。1894年、下院議員。1900年に第2インターナショナルの議長。第1次大戦中は社会排外主義者。戦時内閣に入閣した最初の社会主義者の一人であり、国務相、食糧相、陸相などを歴任。ベルサイユ条約の署名者のひとり。1925〜27年に外相としてロカルノ条約締結に尽力。

(7)シェーナイヒ、パウル・フォン(1886-1954)……ドイツの軍人、ユンカー出身の海軍将校で、平和主義者に転じて、ソ連に好意的な立場をとるようになった。

(8)パテール、V・J(1877-1950)……インドの政治家、インド国民会議議長。ガンディーとともにインド独立運動を指導。インド国民会議派の中では保守派。1947年、独立後のネルー政府の中で内相。

(9)アサーニャ・イ・ディアス、マヌエル(1880-1940)……スペインのブルジョア政治家、弁護士。1931年6月のスペイン共和国政府の首相。1933年に右翼の圧力で辞任。1936年2月の人民戦線の勝利で再び首相に。1936年6月〜1939年3月大統領。1939年に人民戦線政府の崩壊で亡命。 

 

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