学生と知識人について
トロツキー/訳 湯川順夫
【解説】このインタビューは、トロツキーをコペンハーゲンに招待した学生たちによって1932年11月行なわれ、デンマークの『学生新聞』1932年12月9日に最初に発表され、『第4インターナショナル(Fjerde Internationale)』の1937年3月号に再録された。
このインタビューの中でトロツキーは、革命運動における学生と知識人の役割について、きわめて興味深い意見を述べており、今日においても十分参考になる内容となっている。
Leon Trotsky, On Student and Intellectuals, Writings of Leon Trotsky(1932), Pathfinder, 1973.
そうこうするうちにトロツキーが到着した。年取った残忍で恐ろしい人物が現われるのを予想していた人たちはがっかりした。彼には、どこか親しみのある、高い教養を備えた、愉快で好感の持てる、そんな雰囲気があった。訪ねて来た一人ひとりに挨拶した後で、彼は肘掛け椅子に腰を下ろし、質問を待った。
――学生の革命的な考え方はどこから来るのでしょうか? 彼らはどのようなときに革命的になるのでしょうか?
質問の後半の途中で、彼はおなじみの顔に意味ありげな、いたずらっぽい微笑を浮かべた。
「そう。なかなか核心に触れた質問だ!」。
――それは学生の社会的・経済的立場によってもたらされるのでしょうか、それともそれは心理学者や精神分析学者に説明してもらうべきことなのでしょうか?
もう一度、いたずらっぽい微笑が浮かんだ。
「まず大前提として、学生は社会における独立した統一的な集団ではないことを理解しなければならない。学生はさまざまな集団に分かれるし、その政治的態度は社会におけるそのさまざまな集団の中での支配的な傾向と一致する。一部の学生は急進的な傾向を持っている。しかし、革命党に獲得されるのはその中のごく少数だけだ。
「現実には、急進主義は多くの場合、小ブルジョア学生の青年病だ。フランスにはこういう格言がある。『30歳までは革命家、それを過ぎれば無頼漢(Avant trente ans revolutionnaire, apres canaille)』。これはフランスでだけで言われていることではない。戦前にロシアの学生についても同じことが言われた。1907年から1917年まで私は亡命地にいた。その間、よく旅行をして、国外にいるロシア人学生のさまざまな集まりで講演した。この学生たちはすべて、その当時は革命的だった。1917年の10月革命のとき、彼らの99パーセントはバリケードの反対側で闘っていた」。
「青年の間におけるこの種の急進主義はどの国にもある。若者たちは常に、自分が生きている社会に不満を感じている。彼らはいつでも、自分たちが前の世代よりもうまくやれると思っている。それゆえ若者たちは常に自分たちが進歩的だと感じている。しかし、何を進歩的と考えるかはさまざまである。たとえば、フランスでは反体制と言っても急進派と王党派の両方がある。当然、この急進派には若干の健全な反体制派も含まれるが、大部分は単なる出世主義者と呼ぶべき存在である」。
「ここにはまさに心理学的な動機がある。若者は自分が締め出されていると感じる。年配者がすべての場所を占めている。自分の能力を発揮する場がない。彼らが不満を持つのはごく単純に、自分が運転席についていないからである。しかし、自分が運転席についたとたんに、彼らの急進主義は終わりである」。
「それはこういうことである。この若者たちが徐々に役職を手にするようになる。彼らは弁護士になったり、管理職や教師になる。それとともに彼らは自分たちのかつての急進主義を若気の至り、不快だが楽しくもあった誤りだったとみなすようになる。この若き日の記憶のために、学者たちは生涯にわたって二重の人生を過ごすことになる。つまり彼は、自分がまだある種の革命的理想主義を持ちつづけていると信じているが、実際には、一種の自由主義的ベニヤ板で周囲を囲っているにすぎない。そして、このベニヤ板は彼の本当の姿を隠蔽しているだけなのだ。すなわち、狭量で小ブルジョア的な社会的成り上がり者であり、真の関心事は自分の出世だという姿だ」。
トロツキーは少しだけ姿勢を変えて、やさしく、すまなそうに微笑しながら私たちを見回した。
――学生は革命運動の中で役に立つことができますか?
「革命的学生が革命運動に貢献するためには、まず第1に、厳しい一貫した革命的自己教育を継続し、第2に、学生でいる間も革命的労働者の運動に参加することが不可欠である。ここではっきりさせておきたいのだが、私が理論的な自己教育について述べるとき、それは歪曲されていないマルクス主義の学習のことを言っている」。
――学者と労働者の運動の関係はどうあるべきでしょうか?
トロツキーの目が、厳しく決然とした表情に変わった。
「学者が労働者の運動におもむくとき、教師としてではなく、生徒としてだということを理解しなければならない。学者は自分を下位におき、自分がしたい仕事ではなく自分に要求された仕事をすることを学ばなければならない。一方、労働者の運動の側は、十分な不信をもって学者に接しなければならない。若い学者はまず3、4年、あるいは5年間は『指導に服す』べきであり、きわめて単純で日常の党活動に従事するべきである。その後、労働者が彼を信頼するようになり、彼が出世主義者でないと確信できるようになったとき、彼はより上の地位に就くことができる。しかしそれもゆっくりと、格別にゆっくりとだ。彼がこのようにして労働者の運動に参加していけば、彼が学者であったという事実は忘れられ、社会的な差異が消滅していく」。
――それでは革命運動における知識人の役割は何でしょうか?
「知識人の役割は、具体的な事実から一般的な結論を導き出すことだ。目の前にある相互に矛盾する諸材料から一般的な結論を導きだす過程が継続されないなら、運動は陳腐なものになる」。
――先にあなたは、「私が理論的な自己教育について述べるとき、それは歪曲されていないマルクス主義の学習のことだ」と言いましたが、歪曲されていないマルクス主義とはどういう意味ですか?
「マルクス主義に対する批判はそれほど危険なことではない。しかし、歪曲となると別問題だ。私が言っているのは、マルクスの名前を語りつつ、実際にはマルクスの教えの真髄を放棄してしまっている理論のことだ。たとえば修正主義者ベルンシュタインは、彼の理論の中で運動それ自身を自己目的化し、究極的な目標を後景に押しやってしまった。このマルクス主義によって何がもたらされたか。イギリスではマクドナルド(1)やスノーデン卿(2)のような輩である。同じような例はどこにでもある。こうした歪曲は、労働者を欺くためにマルクス主義の名を利用しているのだ」。
――しかし、リズ・テールスレッフが書いているように、「世界はマルクスの時代で止まってはいない」のではないですか?
「もちろんそうだ。私はいかなる物神崇拝者でもない。マルクス主義はマルクスの死によって発展をやめたわけではない。マルクスが間違っていたこともある。それは主に、ものごとがいつ起こるかの予想においてである。その場合、彼は時機の評価を誤っただけである。レーニンは新しく登場した歴史的要因をマルクス主義に組み込んだ。こうしてマルクス主義をわれわれの時代に適合させたのだ」。
次にトロツキーは民主主義と独裁の問題を取り上げた。
「われわれ共産主義者は――たとえばアナーキストのように――民主主義の重要性を否定したりはしない。しかしわれわれはその重要性を、ある決定的な時点まで認めるにすぎない。その時点とは、階級矛盾が増大して、その緊張のために社会の回線がショートを起こすときである。このとき民主主義は機能しなくなり、プロレタリア独裁かブルジョア独裁かだけが唯一の選択肢となる。1918年から現在までのドイツにおける社会民主主義的な共和制を見てみよう。当初は社会民主党が政権を取っていたが、今では運転席についているのは反動的な将校たちである」。
「階級矛盾のために、民主主義はもはや自分が決めたルールすら守れない。たとえば、亡命という民主的権利(国外追放された人々が居住する権利)は今日ではどのように守られているのかを見るべきである」。
亡命の権利に言及したとき、トロツキーはふたたびダルガス大通りに戻ろうとしているようだった。満面の笑顔を浮かべながら、彼はこう続けた。
「私は頑迷なマルクス主義者ではない。あなた方はまだ、私を説得して民主主義を信じさせることができる。しかしその前に、二つの願いをかなえてくれなければならない。一つは民主主義的方法でドイツに社会主義を実現すること、もう一つは私のためにデンマークでの居住権を取得することだ」。
1932年11月
『トロツキー著作集(1932)』(パスファインダー社)所収
『トロツキー著作集 1932』下(つげ書房新社)より
訳注
(1)マクドナルド、ラムゼイ(1866-1937)……イギリス労働党指導者。1894年に独立労働党に入党。1906〜09年、同党議長。1924年に第1次労働党内閣で首相兼外相。1929〜31年に第2次労働党内閣で首相。
(2)スノーデン、フィリップ(1864-1937)……イギリスの労働党指導者。1903〜1906年、および1917〜1920年、イギリス独立労働党議長。1927年に離党して労働党に入党、1931年にはマクドナルドの「挙国一致内閣」を支持して労働党をも離党した。
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