南アフリカ・テーゼについて

――南アフリカ支部にあてて

トロツキー/訳 矢崎潤・志田昇

【解説】この論文は、南アフリカにおけるボリシェヴィキ=レーニン主義者のテーゼに与えたトロツキーの回答である。この中でトロツキーは、民族問題の特殊な重要性を強調し、アフリカ民族会議に対して革命派が取るべき原則的態度を明らかにしている。また、「黒人共和国」というスローガンの過渡的意義も認めている。情報不足が原因で十分具体的なアドバイスにはなっていないが、それでもいくつかの重要な原則的見地を確立しており、第三世界植民地における革命運動にとっての重要な示唆を与えている。

L.Trotsky, On the South African Theses, Writings of Leon Trotsky(1934-35), Pathfinder Press.


 このテーゼは、南アフリカの経済的・政治的諸条件およびマルクス主義とレーニン主義の文献、とりわけボリシェヴィキ=レーニン主義者の文献の真剣な研究にもとづいて明確に書かれている。すべての問題に対して真剣で科学的に取り組むことは、革命組織を成功させる上で最も重要な条件の一つである。

 わが南アフリカの友人たちの例は、現代において、ボリシェヴィキ=レーニン主義者、すなわち首尾一貫したプロレタリア革命家だけが、理論に対して真剣な態度をとり、現実を分析し、他人に教える前に自ら学んでいるという事実をふたたび確証している。スターリニスト官僚は、かなり以前からマルクス主義を、無知と鉄面皮の混合物にすり替えてしまった。

 以下の文章で、私は南アフリカ労働党の綱領となるべきこのテーゼ草案に関して、若干の意見を述べたいと思う。この意見は、テーゼのテキストにけっして反対するわけではない。私は、一連の実践上の問題について詳細な意見や結論的な意見を述べるには、あまりにも不十分にしか南アフリカの状況に通じていない。

 ただ、若干の箇所でだけ、私はテーゼ草案の一定の側面について、異議を表明せざるをえなかった。しかし、この点でも私が遠くから判断できる限りでは、われわれとテーゼの起草者との間には原則的な意見の相違はない。それは、むしろスターリニズムの有害な民族政策との闘争から生じる若干の論争上の誇張の問題である。

 しかし、最も明確で非の打ちどころのないテキストに到達するためには、提起されたどんなささいな不正確さもごまかさず、反対に公開の討論に付すことが必要である。以下の文章は、こうした目的のため、この偉大かつ責任ある仕事に着手したわが南アフリカのボリシェヴィキ=レーニン主義者の手助けになればと考えて書かれたものである。

 イギリスによる南アフリカ領有は、白人少数派から見た場合にのみ、自治領であるにすぎない。黒人多数派から見れば、南アフリカは奴隷植民地である。

 イギリス帝国主義が南アフリカ領有を維持する限り、いかなる社会革命(まず何よりも農業革命)もありえない。南アフリカにおけるイギリス帝国主義の打倒は、南アフリカ社会主義の勝利にとって、イギリス自身にとってとまったく同じように不可欠である。

 もし革命が最初にイギリスから始まると仮定すれば、イギリス・ブルジョアジーが南アフリカのようなきわめて重要な領土を含む植民地や自治領から受ける支持が少なければ少ないほど、本国における彼らの敗北は早くなる。こうして、イギリス帝国主義とその道具や手先を追い出すための闘争は、南アフリカ・プロレタリア党の綱領の不可欠の部分となる。南アフリカにおけるイギリス帝国主義のヘゲモニーの転覆は、イギリスが軍事的に敗北して、この帝国が解体した結果として生じることもありうる。この場合、南アフリカの白人は、まだ黒人に対する彼らの支配をしばらく(あまり長い期間にはなりそうもない)維持できるだろう。

 もう一つの可能性は、実践的には第1の可能性と結びつきうるが、イギリスとその領土で革命が起こることである。南アフリカ人口の4分の3は(総人口約800万人のうち約600万人)は、非ヨーロッパ人で構成されている。革命の勝利は、先住民大衆の覚醒なしには考えられない。そしてこれは、今日、彼らに欠けているもの(自分の力に対する自信、高められた個人の意識、文化の発展)を与えるだろう。

 こうした状況では、南アフリカ共和国は、何よりもまず「黒人」共和国として登場するだろう。もちろん、このことは白人に全面的に平等な権利が与えられ、あるいは両人種が兄弟的関係をもつことを排除するものではない。それは、主として白人側の態度にかかっている。しかし、奴隷的な依存から解放された人口の圧倒的多数者が、この国に一定の刻印を押すことはまったく明らかである。

 勝利した革命が階級間の関係だけではなく人種間の関係も根本的に変革し、黒人たちに彼らの数に応じた位置を国家の中で保証するという限りでは、南アフリカにおける社会革命は民族的性格をもつものである。問題のこの面に対して、目をつぶったり、それを軽視したりする理由は少しもない。それどころか、プロレタリア党は、言葉と行動において、公然かつ大胆に民族(人種)問題の解決に取り組まなければならないのである。

 にもかかわらず、プロレタリア党は、民族問題を自分自身の方法で解決することができるし、また、そうしなければならない。

 民族解放の歴史的武器は、ただ階級闘争でしかありえない。コミンテルンは、1924年以来、植民地人民の民族解放の綱領を、階級関係の現実を超越した空虚な民主主義的抽象概念に変えてしまった。民族的抑圧に対する闘いの中で、異なった階級が(一時的に)物質的利害から自らを解き放ち、単一の「反帝」勢力になるというのである。こうした精神的「勢力」がコミンテルンに与えられた任務を勇敢に果たすため、ほうびとして精神的「民族・民主」国家が約束されている。それに伴って、レーニンの定式「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」にも不可避的に言及されている。

 テーゼは、1917年にレーニンが土地問題解決の必要条件としての「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」という定式を、公然かつきっぱりと放棄したと指摘している。これは全面的に正しい。

 しかし、誤解を避けるために、こう付け加えなければならない。(a)レーニンは、つねに革命的ブルジョア民主主義独裁について語ったのであって、精神的「人民」国家について語ったのではない。(b)ブルジョア民主主義独裁のための闘争において彼はすべての「反帝政勢力」の連合を提案したのではなく、プロレタリアートの独立した階級的政策を実行した。

 「反帝政」連合というのは、ロシアの社会革命党や左派カデット、すなわち中小ブルジョアジーの党の考えだった。これらの党に対して、ボリシェヴィキはつねに非妥協的な闘争を行なったのである。

 テーゼは、「黒人共和国」というスローガンは「白人のための南アフリカ」というスローガンと同じくらい革命の事業にとって有害だと述べているが、われわれはこうした言い方には同意できない。後者は、完全な抑圧を支持することだが、前者の場合は、解決に向けた第一歩である。

 われわれは、黒人が独立する完全かつ無条件の権利を決定的に、そして、いかなる留保もなく受け入れなければならない。白人搾取者の支配に対する共同の闘いにもとづいて、黒人勤労者と白人勤労者の連帯をつちかい、強化することができる。

 勝利の後で、黒人が南アフリカで分離した黒人国家を形成する必要はないと判断する場合もありうる。確かに、われわれは分離国家を樹立するよう、彼らに強制するものではない。そうではなく、彼らにこの決断を、白人抑圧者のシャンボク[ムチ]に強制されてではなく、彼ら自身の経験にもとづいて自由に下させるのである。プロレタリア革命家は、完全な分離をも含む被抑圧民族の自決権と、この権利を必要とあれば武器をとって防衛すべき抑圧民族プロレタリアートの義務をけっして忘れてはならない。

 テーゼは、ロシアにおける民族問題の解決が10月革命によってもたらされた事実を、きわめて正しくも強調している。民族民主主義運動それ自体は、ツァーリズムの民族的抑圧と闘う上では無力だった。民族問題および土地問題が初めて大胆かつ決定的な解決を見いだしたのは、もっぱら被抑圧民族の運動と農民の土地を求める運動が、プロレタリアートに権力奪取と独裁樹立の可能性を与えたからである。

 しかし、民族運動と権力をめざすプロレタリアートの闘争とのこのからみ合いそのものが、政治的に可能となったのは、ボリシェヴィキがその全歴史を通じてつねに留保条件なしで、ロシアからの分離を含む被抑圧民族の自決権を支持し、大ロシア人の抑圧者と非妥協的な闘争を遂行したからにほかならない。

 しかしながら、被抑圧民族に関するレーニンの政策は、亜流たちの政策とは何ら共通するところがなかった。ボリシェヴィキ党は帝政ロシアの数多くのプチブル「民族主義」諸党(ポーランド社会党[ピウスツキを指導者とした民族主義的社会主義政党]、アルメニアのダシナーク派、ウクライナ民族主義者、ユダヤ人シオニスト等々)とのペテン的「反帝」連合をきっぱりと拒絶して、プロレタリア階級闘争の方法で被抑圧民族の自決権を擁護したのである。

 ボリシェヴィキは、つねにこれらの党やロシア社会革命党の動揺や冒険主義、とりわけ階級闘争を超越するという彼らのイデオロギー的欺瞞を容赦なく暴露した。レーニンは、その時の状況によりあれこれの厳密に実践的な一時的協定を強いられた時でさえ、非妥協的な批判をやめなかった。

 「反帝政」の旗の下にいかなる形であれ、彼らと恒常的な連合を組むことは問題となりえなかった。この非和解的な階級政策のおかげではじめて、ボリシェヴィキは革命の時に、メンシェヴィキや社会革命党や、プチ・ブルジョア民族主義諸党を脇に押しのけて、プロレタリアートのまわりに農民と被抑圧民族の大衆を結集することができたのである。

 テーゼはいう。「われわれは先住民大衆を獲得するために、民族主義的スローガンでアフリカ民族会議(ANC)と競うべきではない」。この考えは、それ自体としては正しいが、より具体化しなければならない。民族会議の活動については不十分にしか知らないので、私は自分の提案に必要な変更を行なう用意があることをあらかじめことわった上で、アナロジーにもとづいて、これに関するわれわれの政策を大まかに言うことしかできない。

 1、ボリシェヴィキ=レーニン主義者は、現在の「民族会議」が白人抑圧者と労働者諸組織内の彼らの排外主義的な手先から攻撃されている場合には、つねにそれを防衛する立場に立つ。

 2、ボリシェヴィキ=レーニン主義者は「民族会議」の綱領のうち、反動的傾向よりも進歩的傾向を評価する。

 3、ボリシェヴィキ=レーニン主義者は、先住民大衆の前で「民族会議」がその表面的で妥協的な政策のため、自分自身の要求さえ達成できないことを暴露する。「民族会議」とは対照的にボリシェヴィキ=レーニン主義者は、革命的階級闘争の綱領を発展させる。

 4、「民族会議」との個々のエピソード的協定は、もし状況によって余儀なくされる場合は、ただ厳密に規定された実践的任務の枠内で、かつわれわれ自身の組織の完全な独立と政治的批判の自由を確保した場合にのみ、許される。

 テーゼは最も重要な政治スローガンが、「民族民主国家」ではなく、南アフリカの「10月革命」であることを明らかにしている。テーゼは、以下のことを証明しており、しかも説得的に証明している。

 a、南アフリカの民族問題と土地問題は、その基盤が同じであること。

 b、この二つの問題は、両方とも革命的方法によってのみ解決されうること。

 c、これらの問題の革命的解決は、必然的に、先住民の農民大衆を指導するプロレタリアートの独裁へと進むこと

 d、プロレタリアート独裁は、ソヴィエト政権と社会主義的改造の時代を開くこと。この結論が、綱領の全体系の要石である。この点では、われわれは完全に同じ意見である。

 しかし、一連の戦術的スローガンを通じて、この一般的な「戦略的」定式にまで大衆を導かなければならない。プロレタリアートと農民の生活や闘争の具体的状況と国内および国際情勢全体の分析を基礎にしてはじめて、それぞれの段階でこうしたスローガンを作成することができる。この問題に深入りすることはせず、私は民族問題と土地問題の相互関係について簡単にふれておこう。

 テーゼは、民族的要求ではなく、土地の要求を最も重視しなければならないと何度も強調している。これは真剣な注目に値するきわめて重要な問題である。もちろん、労働者階級内部の白人排外主義者を敵対させないように民族的スローガンを脇に置いたり、弱めたりするというのは、犯罪的な日和見主義者であり、このテーゼの筆者や支持者とは絶対に無縁である。これは、テーゼの本文に明確に現れており、テーゼは革命的国際主義の精神に満ちている。

 テーゼは、白人の特権のために闘っている「社会主義者」について、「われわれは彼らを革命の最大の敵とみなさなければならない」と見事に述べている。したがって、[土地の要求を優先する理由については]別の説明を求める必要があるが、それはテキストそのものの中に簡潔に述べられている。遅れた先住民の農民大衆は、民族的抑圧よりも土地に関する抑圧をはるかに直接的に感じるというのである。

 これはきわめてありそうなことである。先住民の大多数は農民であり、土地の大部分は少数の白人の手にある。ロシアの農民たちは、土地を求める闘争において長いあいだ皇帝に信頼を置き、政治的結論を引き出すことを頑固に拒絶した。

 革命的インテリゲンツィアの伝統的スローガン「土地と自由」から農民は長いあいだ土地のスローガンしか受けいれなかった。農民が両方のスローガンを結合できるようになるまでには、何十年もの農民反乱と都市労働者の影響および行動が必要だったのである。

 貧しく奴隷化されたバンツー族はイギリス国王やマクドナルドにもはやほとんど期待をいだいてはいない。だが、この極度の政治的後進性は、民族的自覚の欠如という形でもあらわれている。同時に、彼らは土地と金銭に関する隷属については非常に鋭く感じている。こうした状況のもとで、闘争の経験をもとに、一歩一歩、農民を必要な政治的・民族的結論に導くためには、プロパガンダはまず第一に土地革命のスローガンから始めることができるし、そうしなければならない。

 もしも、こうした仮説的な考察が正しいとすれば、われわれがかかわっているのは綱領自体ではなく、むしろこの綱領を先住民大衆の意識にもちこむ方法と手段である。

 革命的カードルの数が少なく農民が極度に分散的であることを考慮すれば、農民に影響を与えることができるのは、少なくとも近い将来に関しては、主に(これのみとはいかないまでも)先進的労働者を通じてだろう。したがって、南アフリカの歴史的運命に対する農地革命の意義を明確に理解するよう先進的労働者を訓練することは、きわめて重要である。

 この国のプロレタリアートは、遅れた黒人下層民と、特権的で傲慢な白人カーストからなっている。ここに状況全体の最大の困難がある。テーゼが正しく述べているように、腐敗しつつある資本主義の経済的痙攣が古い障壁を激しくゆさぶり、革命的な連合の活動を容易にするだろう。

 どちらにせよ、革命家の側が犯しうる最悪の犯罪は、白人の特権や偏見に対して、少しでも譲歩することであろう。この排外主義の悪魔に小指を与えることは、それだけで敗北である。革命党は、すべての白人労働者に次のような選択をつきつけなければならない。イギリス帝国主義と南アフリカの白人ブルジョアジーの側につくか、それとも、白人封建主義者や奴隷所有者および労働者階級内部のその手先に抗して、黒人の労働者・農民の側につくか、である。

 もちろん、南アフリカの黒人住民に対するイギリス支配の打破は、イギリスがその帝国主義的略奪者の抑圧から自己を解放する場合には、この旧宗主国との経済的・文化的絶縁を意味するものではない。ソヴィエト・イギリスは、実際の闘争において、自己の運命を現在の植民地奴隷の運命と結びつけた白人を通じて、南アフリカに強力な経済的・文化的影響を及ぼすだろう。この影響は、支配ではなく、プロレタリア的な相互協力を基礎にしたものであろう。

 しかし、あらゆる意味でより重要なのは、ソヴィエト・南アフリカが黒人大陸全体に与える影響であろう。黒人たちが白色人種に追いつき、白人と協力して、新たな文化の高みに昇るのを助けること、これは勝利した社会主義の偉大かつ高貴な任務の一つとなるであろう。

 最後に、私は、合法組織と非合法組織の問題、すなわち、党の構成に関して述べたいと思う。

 テーゼは、組織と革命的任務の不可分な関係について、合法機関を非合法機関で補完することについて、正しく強調している。もちろん、誰も現在の状況では合法機関が実行できるような機能のために、非合法機関を作れと提案しているわけではない。

 しかし、来るべき政治危機の状況下では、必要に応じて発展する、党機関の特別な非合法的中核を作らなければならない。この活動の一定の部分(ちなみに非常に重要な部分)は、けっして、公然と、すなわち階級敵の目の前で行なうことができない。

 しかしながら、当分の間、革命家の非合法活動や半ば非合法的な活動の最も重要な形態は、大衆組織、とりわけ、労働組合における活動である。労働組合の指導者は、資本主義の非公式の警官であり、彼らは革命家に対して容赦ない闘いをしかけてくる。

 われわれは、大衆組織内で活動する能力をもち、反動機構の攻撃を避けるようにしなければならない。これが非合法活動を非常に重要な(当分の間は最も重要な)一部である。労働組合の中で、陰謀に必要な規則を実践で学んだ革命的グループは、状況が要求するときには合法活動に転換できるだろう。

1935年4月20日

英語版『トロツキー著作集(1934-35)』所収

『トロツキー研究』第31号より

 

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