1930年代中期
(1933〜1936)
第19期 フランス時代――第4インターナショナルへの道とフランスの転換(1933〜1935)
◇プリンキポからフランスへ
「出発を前にして」(
1933年7月15日)「フランスへの到着――日記のページから」(
1933年8月11日)
◇新しい共産党と新しいインターナショナルへの道
「
スターリン=マヌイリスキー=ロゾフスキー一派と同一のインターナショナルにとどまることは不可能である」(『反対派ブレティン』第36/37号、1933年7月20日)「
新しい共産党と新しいインターナショナルのために」(1933年7月27日)「ドイツの左翼反対派と社会主義労働者党は統一すべきである」(
1933年8月18日)「新しいインターナショナルの建設と統一戦線政策」(
1933年8月24日)
◇左翼社会主義・共産主義諸組織会議と4者会議
「
二つのインターナショナルの崩壊――左翼社会主義・共産主義諸組織会議における国際左翼反対派代表の宣言」(『反対派ブレティン』第36/37号、1933年8月17日)「
新しいインターナショナルの必要性とその諸原則についての決議(4者宣言)」(『反対派ブレティン』第36/37号、1933年8月26日)「パリ会議――新しいインターナショナルのための確固とした中核」(
1933年9月1日)「成功か失敗か――再びパリ会議について」(
1933年9月10日)「左翼社会主義・反対派共産主義諸組織会議に関する国際左翼反対派総会の決議」(
1933年9月13日)「今こそ旧弊を改めよ」(
1933年9月)「4者ブロックの会議」(
1933年12月30日)
◇第4インターナショナルと独立労働党
「独立労働党はどこへ行く」(
1933年8月28日)「独立労働党と新しいインターナショナル」(
1933年9月4日)「独立労働党への加入に関する原則的考察」(
1933年9月16日)「小さなグループのテコ」(
1933年10月2日)「独立労働党が直面する決定的問題」(
1934年1月5日)
◇ベルギー支部とベルギーの諸問題
「ヘンノート・グループとの統一に向けたわれわれの試み」(
1933年秋)「疑問、ためらい、懸念」(
1933年秋)「改良主義と計画経済」(
1934年1月9日)
◇ソヴィエト国家とコミンテルン
「ソ連邦とコミンテルン」(
1933年9月24日)「
ソヴィエト国家の階級的性格」(1933年10月1日)「堕落に限界はないのか」(
1934年1月18日)「第17回党大会の前夜に」(
1934年1月20日)
◇世界経済、民族問題、一国社会主義
「ソ連における計画経済――成功か失敗か」(
1933年9月7日)「民族主義と経済生活」(
1933年11月30日)「国際共産主義者同盟の根本的な理論的概念に関する討論のために」(
1933年12月4日)
◇ファシズム勝利後のドイツ情勢と反対派の課題
「われわれの今日の課題」(『反対派ブレティン』第
38/39号、1933年11月7日)「マリア・レーゼとコミンテルン」(『反対派ブレティン』第
38/39号、1933年11月10日)「アニタ・ブレナーの質問への回答」(
1933年11月13日)「ニューヨークからの質問への回答」(
1933年11月13日)「反ファシズム統一行動のために」(
1933年11月22日)「平和主義者ヒトラー」(
1933年11月23日)「政治的基軸なき政治的裁判」(
1933年11月26日)「社会主義労働者党と国際共産主義者同盟と第4インターナショナル」(
1934年1月11日)「真の成果」(
1934年1月24日)「ファシストとの闘争における極左的戦術」(
1934年3月2日)「オーストリアの敗北のあとで」(
1934年3月13日)
◇中間主義と第4インターナショナル
「中間主義と第4インターナショナル」(
1934年2月22日)「マルクス主義に対する中間主義の敵対」(
1934年3月16日)「再び中間主義について」(
1934年3月23日)
◇戦争と第4インターナショナル
「赤軍」(
1934年3月13日)「戦争と第4インターナショナル」(
1934年6月10日)「極東の暗雲」(
1934年8月)
◇フランスにおける反ファシズム統一戦線のための闘争
「情勢の鍵は今やフランスにある」(
1934年3月)「『ラ・ヴェリテ』への挨拶」(
1934年3月25日)「フランスの行動綱領に関する提案」(
1934年4月)「すべての目隠しを取り去れ!」(
1934年4月27日)「サン・ドニ地区の共産党反対派との対話」(
1934年6月8日)「議論と反論」(
1934年6月8日)「フランス共産党の新しい転換に対するわれわれの回答」(
1934年6月16日)「フランスの行動綱領」(
1934年6月)(English)
◇フランスの転換――加入戦術
「わが同盟の現状と任務――討論に向けて」(
1934年6月29日)「転換点に立つ共産主義者同盟」(
1934年6月)「社会党の内部に集中せよ」(
1934年6月)「決定的転換点に立つ共産主義者同盟」(
1934年7月)「フランス社会党の進化」(
1934年7月10日)「ルビコン河を渡れ」(
1934年7月16日)「スターリニストとの組織的統一」(
1934年7月19日)「論文への若干の議論と助言」(
1934年7月21日)「国際共産主義者同盟の任務」(
1934年7月21日)
◇加入戦術をめぐる論争
「討論の集約」(
1934年8月6日)「革命的教師の任務」(
1934年8月10日)「出口」(
1934年8月)「『統一と青年』のテーゼについて」(
1934年夏)「フランス情勢におけるわれわれの立場」(
1934年9月22日)「議論における『ベルギー的』伝統」(
1934年9月22日)「労働運動における現状とボリシェヴィキ・レーニン主義者の課題」(
1934年10月)
◇フランスはどこへ行く
「フランスはどこへ行く」(
1934年10月末)「オーストリア、スペイン、ベルギーと『転換』について」(
1934年11月1日)「再びわれわれの転換について」(
1934年12月15日)
◇スペイン問題
「同志ニンの許しがたい行動」(
1933年8月10日)「カタロニアの衝突とプロレタリアートの課題」(
1934年夏)
◇ルナチャルスキーの死とラコフスキーの降伏
「アナトール・ヴァシレヴィチ・ルナチャルスキー」(
1934年1月1日)「ラコフスキーの降伏宣言」(
1934年3月10日)「ラコフスキー降伏の意味」(
1934年3月31日)「ラコフスキー降伏の背景」(
1934年4月19日)「ソ連邦のボリシェヴィキ=レーニン主義者へ」(
1934年8月17日)
◇ボナパルティズムとファシズム
「ソヴィエト連邦の対外政策」(
1934年6月16日)「ボナパルティズムとファシズム」(『反対派ブレティン』第
40号、1934年7月15日)「ロシア問題における妥協はない」(
1934年11月11日)「ボナパルティズムについて」(
1934年12月1日)
◇キーロフ暗殺事件
「キーロフ暗殺事件に関するコメント」(
1934年12月10日)「スターリン官僚制とキーロフ暗殺」(
1934年12月28日)(English)「起訴状」(
1934年12月30日)「スターリンのでっち上げのいくつかの結果」(
1935年1月12日)「ジノヴィエフ、カーメネフらの事件」(
1935年1月18日)「万事はしだいにその所を得る」(
1935年1月26日)「スターリニスト官僚はソ連をどこへ連れて行こうとしているか」(
1935年1月30日)「スターリニストによるでっち上げの新たな罠」(
1935年3月31日)「ジャーナリストの覚書」(
1935年4月)
◇ソ連論の転換――テルミドールとボナパルティズム
「労働者国家、テルミドール、ボナパルティズム」(
1935年2月1日)「再びボナパルティズムの問題について」(
1935年3月)
◇国際労働協会(IAG)と第4インターナショナル
「ドイツ社会主義労働者党の提案について」(
1934年12月)「IAG大会に関するスネーフリートへの手紙」(
1935年2月26日)「キャノンへ――次の一歩は何か」(
1935年)「中間主義の組み合わせとマルクス主義者の戦術」(
1935年2月28日)「ストックホルム青年ビューローの情勢」(
1935年3月23日)「SAPとロンドン=アムステルダム・ビューローに関する覚書」(
1935年4月半ば)「中間主義的錬金術かマルクス主義か」(
1935年4月24日)
◇フランスのための過渡的綱領
「ベルギーの論争とド・マンの計画」(
1935年3月2日)「CGTの計画から権力の奪取へ」(
1935年3月18-19日)「再びフランスはどこへ行く」(
1935年3月末)「フランスの情勢とフランス社会党内のボリシェヴィキ=レーニン主義者」(
1935年4月15日)「『ユマニテ』でのスターリニストの裏切り」(
1935年4月26日)
◇コミンテルン第7回大会を前にして
「スターリンは第3インターナショナルの死亡証明書にサインした」(
1935年5月25日)「コミンテルン第7回大会を前にして」(
1935年6月7日)
◇ユダヤ人問題
「ユダヤ人問題は国際化された」(
1934年1月28日)「ユダヤ人問題について」(
1934年2月)(English)「ビロビジャンに関する質問への回答」(
1934年10月)
◇その他の諸問題
「『わが生涯』短縮版への序論と後記」(
1933年12月4日)「アメリカが共産主義になったら」(
1934年8月17日)「中国の同志たちへの手紙から」(
1935年3月5日)「
南アフリカ・テーゼについて」(1935年4月20日)
◇亡命日記
「第1のノート」(
1935年2月7日〜5月5日)「第2のノート」(
1935年5月8日〜6月9日)
◇フランスからノルウェーへ
「フランス労働者への公開状――スターリンの裏切りと世界革命」(
1935年6月10日)「新たな転換が必要である」(
1935年6月10日)「ノルウェーへの三つの電報」(
1935年6月7〜12日)
第20期 ノルウェー時代――フランス人民戦線、スペイン内戦、第1次モスクワ裁判(1935〜1936)
◇ノルウェーにて
「『亡命日記』第3のノート」(
1935年6月17日〜8月)「『アルバイデル・ブラデット』紙の記事」(
1935年7月26日)
◇コミンテルン第7回大会
「コミンテルンの清算大会」(
1935年8月23日)「スターリン主義的転向」(
1935年9月7日)「ロシアと世界プロレタリアート」(
1935年9月14日)
◇スターリニズムの堕落と歴史の歪曲
「誰がロシアを擁護するか、誰がヒトラーを援助するか」(
1935年7月29日)「
歴史と伝記はどのように書かれるか」(1935年9月)「どのようにしてスターリンは反対派を敗北させたか」(
1935年11月12日)「ある尊敬すべきスメルジャコフ」(
1935年11月)
◇第4インターナショナルのための準備活動
「ローザ・ルクセンブルクと第4インターナショナル」(
1935年6月24日)「第4インターナショナルのための公開状」(
1935年7月)「“社会主義革命の世界党”」(
1935年7月14日)「思考することを望む若い共産主義者と社会主義者に訴える」(
1935年7月22日)「労働者党におけるガン細胞」(
1935年8月12日)「公開状とILP」(
1935年8月)「分派と第4インターナショナル」(
1935年)
◇エーラー派とSAP派
「SAPと公開状」(
1935年7月2日)「エーラー主義とフランスの経験」(
1935年8月11日)「エーラー主義に反対するブロックを」(
1935年8月13日)「エーラー派同志たちへのアピール」(
1935年8月13日)「ドイツ委員会への手紙」(
1935年8月19日)「IKDの亡命委員会への手紙」(
1935年9月2日)「SAP主義に対するオランダ人の闘争を支持しよう」(
1935年11月5日)「第4インターナショナルとSAP」(
1935年12月8日)
◇アメリカ支部の諸問題
「キャノン=シャハトマン・グループは譲歩すべきである」(
1935年9月4日)「衰退するコミンテルンといかなる共通性もない」(
1935年9月18日)「マスティへのアピール」(
1935年9月24-25日)
◇ソ連邦内部における弾圧
「ソ連の革命家の防衛のために」(
1935年7月17日)「国際主義者がわれわれの援助を求めている!」(
1935年9月7日)「アピール」(
1935年9月)「官僚主義者の自己保身のためのテロル」(
1935年9月6日)「任務に精を出すロマン・ロラン」(
1935年10月31日)
◇中間主義とイギリス独立労働党
「独立労働党と第4インターナショナル――道程の途中で」(
1935年9月18日)「セクト主義、中間主義、第4インターナショナル」(
1935年10月22日)「再び独立労働党について」(
1935年11月)「戦術問題と分裂」(
1935年11月18日)「イギリス・グループの諸問題」(
1936年1月15日)
◇フランス社会党からの追放と情勢の新しい展開
「フランス青年同盟の追放」(
1935年7月30日)「『レッテル』と『ナンバー』」(
1935年8月7日)「トゥーロン事件の後で」(
1935年8月11日)「フレッド・ツェラーの小冊子への序文」(
1935年11月7日)「中間主義の政治屋エドゥアール・エリオ」(
1935年11月7日)
◇フランス人民戦線――最初の批判
「10月革命の教訓」(
1935年11月4日)「人民戦線ではなく行動委員会のために」(
1935年11月26日)「『大衆紙』とは何か」(
1935年11月30日)「フランス社会党加入の教訓」(
1935年12月30日)「転換点に立つフランス」(
1936年3月26日)
◇スペイン人民戦線とPOUM(マルクス主義統一労働者党)
「一同志への手紙」(
1935年10月18日)「
POUMの裏切り」(1936年1月23日)「
スペインにおける第4インターナショナルの任務」(1936年4月12日)「
スペインの青年に顔を向けよ」(1936年4月14日)「ニンとの和解は可能か?」(
1936年6月3日、5日)
◇ヨーロッパのその他の支部の諸問題
「青年問題に注意を」(
1935年6月21日)「ポーランドの展望」(
1935年7月18日)「オランダに関するシュミットの論文への序文」(
1935年8月12日)「アンヴェールの同志たちへの回答」(
1935年11月)
◇ファシズムと民主主義
「ファシズム下における教会の闘争」(
1935年8月19日)「ブルジョア民主主義と反ファシズム闘争」(
1936年1月13日)
◇第4インターナショナル・ソ連支部とスターリニズム
「ソヴィエト国家の階級的性格に関する書簡」(
1936年1月1日)「ジャーナリストの覚書」(
1936年1月10日)「第4インターナショナル・ソ連支部について」(
1936年1月11日)「スターリンの囚われの身になった革命家」(
1936年1月15日)「AP通信社に対する声明」(
1936年1月28日)「スターリンのでっち上げ工場が稼動中」(
1936年1月30日)
◇ソ連の新憲法と第4インターナショナル
「スターリン=ハワード会見」(
1936年3月18日)「ボリシェヴィキ・レーニン主義者の絶滅計画」(
1936年3月25日)「再びソ連支部について」(
1936年4月)「ソ連の新憲法」(
1936年4月16日)「辛すぎる料理がまた出てくる」(
1936年6月)「全世界の労働者の世論へ」(
1936年7月4日)「第4インターナショナルとソ連邦」(
1936年7月8日)
◇イギリス独立労働党・再論
「イギリスの一同志への公開状」(
1936年4月3日)「独裁者とオスロの高所について――イギリスの一同志への手紙」(
1936年4月22日)「コリンズによるインタビュー」(
1936年夏)
◇フランスの6月ストライキ
「決定的段階」(
1936年6月5日)「フランスの革命は始まった」(
1936年6月9日)「新たな革命的高揚と第4インターナショナルの任務」(
1936年7月)「第2段階を前にして」(
1936年7月6日)
◇スペイン内戦
「内戦における人民戦線」(
1936年7月)「
国際書記局への手紙」(1936年7月27日)「人民戦線の反動的臆病さ」(
1936年7月30日)「
スペインの教訓」(1936年7月30日)「
ジャン・ルーへの手紙」(1936年8月16日)「カタロニアでの協力のために」(
1936年8月18日)
◇『裏切られた革命』
「『裏切られた革命』序文」(
1936年8月4日)『裏切られた革命』(
1936年末)
◇その他の諸問題
「
イタリア・エチオピア紛争」(1935年7月17日)「陳独秀と総理事会――フランク・グラスへの手紙」(
1935年8月10日)「労働者裁判を必要とする事件」(
1935年8月25日)「エンゲルスとカウツキーの往復書簡」(
1935年10月)「アール・バーニーとの対話」(
1935年11月)「カナダの自営農へのアドバイス」(
1935年11月)
◇第1次モスクワ裁判
「事実を知ろう」(
1936年8月15日)「ドレフュス事件やドイツ国会放火事件よりもさらに悪質な偽造」(
1936年8月19日)「オスロの警察長官への公開状」(
1936年8月19日)「『ダーゲ・ブラデット』紙とのインタビュー」(
1936年8月20日)「V・オリベルグとは誰か」(
1936年8月20日)「個人テロルと大衆テロル」(
1936年8月20日)「テロリストではなく、革命家」(
1936年8月21日)「モスクワ裁判のミニチュア版」(
1936年8月21日)「雄弁なエピソード」(
1936年8月22日)「裁判に関する声明」(
1936年8月23日)「トムスキーの自殺」(
1936年8月23日)「プラハ委員会のためのいくつかの事実」(
1936年8月23日)「スターリンはすべてではない」(
1936年8月23日)「『ニューズ・クロニクル』紙との記者会見」(
1936年8月24日)「シャルフェンベルグ氏への回答」(
1936年8月24日)「死刑判決」(
1936年8月24日)「通常の裁判が必要だ」(
1936年8月25日)「トリグヴェ・リーへの書簡」(
1936年8月26日)「終わりなき裁判」(
1936年8月27日)
◇ノルウェー政府による軟禁と蔵書窃盗事件
「プンターフォルド氏への回答」(
1936年9月15日)「ベルギーの魔女狩りの反響」(
1936年9月23日)「弁護士への手紙」(
1936年9月〜10月)「弁護活動に関するコメント」(
1936年10月3日)「蔵書の安全性」(
1936年10月10日)「IFTUへの手紙」(
1936年10月22日)「国際連盟への手紙」(
1936年10月22日)「弁護士への手紙」(
1936年10月末)「『アルバイデル・ブラデット』誌のインタビューについて」(
1936年11月10日)「ゲ・ペ・ウによる蔵書窃盗事件について」(
1936年11月10日)「弁護士への手紙」(
1936年11月)「人権連盟への手紙」(
1936年11月30日発表)「『社会主義』のノルウェーにおいて」(
1936年12月)「閉ざされた法廷において」(
1936年12月)「恥を知れ!」(
1936年12月18日)
◇ノルウェーからメキシコへ
「できるだけ早急にノルウェーから脱出するために」(
1936年12月16日)「貴重な時間が失われた」(
1936年12月17日)「公式の声明」(
1936年12月18日)「ヨーロッパからの最後の手紙」(
1936年12月18日)「大西洋上で」(
1936年12月28日)「意味深いエピソード」(
1936年12月30日)「ジノヴィエフとカーメネフ」(
1936年12月31日)
トロツキー研究所 | トップページ | 更新情報 |