歴史と伝記はどのように書かれるか

トロツキー/訳 西島栄

エンゲルス

【解説】この論文は、エンゲルス没後40周年を記念して『プラウダ』に書かれた諸論文を厳しく批判したものである。(左の写真は1888年のエンゲルス)

 トロツキーは、1人の人間としてはマルクスよりもエンゲルスの方に強く共感していたのは、よく知られているが、この論文にも、エンゲルスに対するトロツキーの愛情がうかがえる。この中でトロツキーはエンゲルスが「文筆活動においても、実践においても、いいかげんさや、だらしなさ、不正確さに我慢できないたちであった」と述べているが、この性質はトロツキーにもよく当てはまる。マルクスと対照的なこの性質は、トロツキーのとくに好むところであった。

Л.Троцкий, Как они пишут историю и биографию, Бюллетень Оппозиции, No.45, Сентябрь 1935.


 『プラウダ』の[1935年]8月5日号は、かなりの部分を、エンゲルス没後40周年にあてている。不幸なエンゲルス! まったくもって彼はこのような侮辱にまったくふさわしくない。彼は天才であっただけでなく、一点の曇りもない誠実な人であった。文筆活動においても、実践においても、いいかげんさや、だらしなさ、不正確さに我慢できないたちであった。彼は、マルクスの遺稿を文字通りコンマに至るまで丹念に点検し、二次的な字句上の誤りを訂正した。いったい何だゆえモスクワ官僚制の中央機関紙はこの偉大な思想家に、傾向的な、いわば標準的な嘘と並んで、無知と不注意と無責任さから生じた無意識的な嘘が1行ごとに見受けられるような論文の雨を降らしているのか? 

 社説はこう述べている。

「ブルジョア革命のバリケードの上で最後の銃声がまだ鳴り止んでいなかった時……すでにマルクスとエンゲルスは、プロレタリアートの偉大な像を、この墓掘り人を差し示していた」云々、云々。

 この「ブルジョア革命」とはいったい何のことを言っているのか? 1830年のバリケードの際は、マルクスとエンゲルスはまだ幼く、「プロレタリアートの偉大な像」を指し示すことなどできなかった。すると、問題になるのは1848年の革命だけである。しかし、『イギリスにおける労働者階級の状態』という青年エンゲルスの天才的な書物が世に出たのはすでに1845年のことである。さらに、マルクスとエンゲルスは、1848年の銃声をけっして待つことなく、科学的社会主義の理論を世界に提示している。『共産党宣言』――これは『プラウダ』編集部もよく知っているはずだ――が出版されたのは、1848年革命の「最後の銃声が鳴り止む」後ではなく、その最初の銃声が鳴り響く以前のことである。しかし、物書きとしての義務を遂行している官僚たちにとって、革命の年代記やマルクス・エンゲルスの思想的発展など何ほどのものだろう。ビスマルク(1)がすでにこう言っていたのも、理由のないことではないのだ。「私にジャーナリストを与えたまえ。さすれば私は彼をよき官僚にしてみせる。しかし、10人の官僚を合わせても、よきジャーナリストをつくることはできない」。

 『ノイエ・ツァイト』(1895年)の追悼文にある、エンゲルスの死とともに「マルクスもまた完全に死んだ」という一節を引用して、社説は次のような思いもよらない文言をつけ加えている。

「修正主義と日和見主義の泥沼に転落した社会民主党の指導者たちは、エンゲルスの逝去とともに急いでマルクス主義の革命的教えをも捨て去った」。

 これこそ、「指で宙を撃つ[まったく的外れなことを言う]」というやつだ! 修正主義が登場するのはようやく1897年になってからであり、修正主義という言葉そのものが現われるのはもっと後のことである。その頃、週刊『ノイエ・ツァイト』は修正主義の機関誌ではなく、反修正主義闘争の機関誌であった。先に引用された文言は、エンゲルスとともに革命的マルクス主義も捨て去られたという意味ではまったくない。1895年当時の『ノイエ・ツァイト』にこのような思想を帰することは、マルクス主義の歴史に対する完全な無知を暴露するものである。

 『ノイエ・ツァイト』の言っている意味は、実際には、エンゲルスの死とともに、エンゲルスの中で生き続けていたマルクスの人格も死んだ、ということである。この言葉は、マルクスとエンゲルスが体現していたほとんど不可分の創造的一体性をすばらしくよく表現している。しかし、物書きとしての義務を遂行している官僚たちは、賢明で正しい思想にばかげた中傷的な解釈を与えることで、修正主義に対する遅ればせの敵意を最もうまく言い表わしていると思っているのである。しかも、これは、コミンテルンのあらゆる政策が修正主義の路線にそって方向づけられている時のことなのだ!

 マルクス・エンゲルス・レーニン研究所は、同じ号で、カウツキーあてのエンゲルスの手紙を公表している。それは「支配階級の単一の反動的大衆」というラサール主義的定式を批判したものである。この手紙を発表した目的は明白である。マルクス主義とレーニン主義との偽造研究所は、この引用を使って、「民主主義的」ブルジョアジーとの連合政策を正当化しようと思っているのだ。今この政治的偽造について詳しく論じる必要はない。官僚の紳士諸君がどんなにがんばっても、エンゲルスをブルジョアジーとの協調主義の理論家に仕立てあげることはできないだろう。いずれにせよ、これらの紳士諸君は、「支配階級の単一の反動的大衆」という定式を拒否することと、「ファシズムと社会民主主義は双子の兄弟である」というスターリンのいまだ死んでいない警句とがいかにして両立するのかについて、説明するのを忘れている。だが、驚くべきことは、自分の厳粛な署名を付して手紙を発表した研究所が、たった8行の短い前書きの中で、3つではないにせよ2つの深刻な誤りを犯していることである。

「この手紙で――と、学識ある研究所は言う――エンゲルスはエルフルト綱領の草案を批判している。なぜなら、カウツキーは、マルクスとエンゲルスの指示に反して、『単一の反動的大衆』というラサール主義的命題を綱領に挿入したからである」。

 マルクスがカウツキーに指示するなどということは、エルフルト綱領が書かれる8年も前にマルクスが死んでいるのだから不可能である。マルクスがカウツキーに書くことのできた唯一の手紙(1881年)は、今われわれが論じている問題について一言も述べていない。エンゲルスに関して言えば、たしかに、カウツキーへの手紙の中で「単一の反動的大衆」という文言を容赦なく批判している。しかし、彼はけっしてこの文言をカウツキーに帰してはいない。彼は、カウツキーの当初の草案――これは基本的にエンゲルスによって是認されていた――にこの文言を挿入したのは誰か他の人物(おそらくヴィルヘルム・リープクネヒト(2))であることを知っていた。エンゲルスの批判的な手紙の目的は、リープクネヒトやとりわけ旧ラサール主義者に反対する支えをカウツキーに与えることであった。「普通の」人々はこのことを知らなくてもよい。しかし、学識あるマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が知らないとは?!…

 さらにこう書かれている。

「ドイツ社会民主党の指導者たちはエンゲルスの指示実行することなく、エルフルト綱領の最終案を承認した」(強調は引用者)。

 この文体そのものが驚くべきものである。部長の「指示」を課長が「実行」しなかった、というわけだ。しかしエンゲルスは全一的な「ボス」ではなかった。彼は誰に対しても「指示」などしなかった。彼は単に天才的な思想家として、さまざまな政党に理論的・政治的助言を与えただけである。誰も「実行」する義務など負っていない。この文言の文体も驚くべきだが、いっそうひどいのは、その内容における嘘である。「単一の反動的大衆」という定式はエルフルト綱領から取りのぞかれたのであり、エンゲルスはこのことに関して完全な満足の意を手紙の中で言い表わしているのだ。学識ある研究機関がたった8行の中でこれほどの嘘をつけるとは!

 エンゲルスとロシア革命との関係を論じた第3の論文が言うところでは、「労働解放団」にあてた手紙の中でエンゲルスは、マルクス主義を機械的・教条主義的に理解しないよう警告していた。賢明な『プラウダ』はこのことにつけ加えて次のように言っている。

「悲しいかな! 解放団の活動家たちは、このエンゲルスの警告からほとんど利益を引き出さず(!)、20年にもわたってメンシェヴィキの陣営にとどまった」。

 だが、この20年間に起きたことは何か? ナロードニズムの哲学的観念論、歴史的主観主義、経済的偏見に対するプレハーノフのすばらしい闘争と勝利である。「労働解放団」が果たした仕事の勇気と不屈さにはいかなる議論の余地もない。この仕事に直接もとづいて、レーニンを含むロシア・マルクス主義者の古い世代が育成されたのである。以上のことは、無知で傲慢な『プラウダ』にとって「どうでもいい」ことなのだ。ところで、レーニンはかつてプレハーノフに夢中で、レーニン自身の言い方によればプレハーノフに「惚れ込み」、プレハーノフと仮借ない闘争をしていたときでさえ彼のなした偉大な貢献を忘れなかった。実際エンゲルス自身も、1883年のザスーリチへの手紙を出した後もまだ、約12年にわたって「労働解放団」の活動を直接フォローすることができたし、大きな賛辞でもって(一般的に言って、老エンゲルスはあまりそのような賛辞はしないほうなのだが)解放団の仕事を評価した。だが、エンゲルスもレーニンもプレハーノフも理解していない官僚たちは、「労働解放団」の活動に「ほとんど無益」という厳格な判定を下すのである。害をなすのは、まさに、文献に巣食うこのような官僚主義的シラミであると言わざるをえない。

 同じような傑作はあと何十も挙げることができよう。何といっても、これらの論文の筆者たちはいずれも、無知の共同宝庫に何ほどかを加えているからである。しかし、読者はそれでなくてもすでにうんざりしていることだろう。そこで官僚主義的熱情についてだけ一言、二言述べておこう。社説はこう述べている。

「『資本論』や『反デューリング論』の諸章は、革命的情熱や、搾取に対する憎悪でもって熱くし、その驚くほどの哲学的深遠さでもって凍えさせる」…。

 これ以上うまくは書けないだろう。憎悪が熱くし、哲学的深遠さが凍えさせる、というわけだ。明らかに『プラウダ』の編集者たちは、『資本論』を見ただけで、寒くなったり熱くなったりする。さらに、「ゴータ綱領を論じた不滅の破壊的な(?)文章」やパリ・コミューンを論じた「火のようなパンフレット」について述べている。要するに、激しく燃える担当官僚は驚くべきことにこう書いているのだ。読者は皆、火傷や水ぶくれでおおわれるだろう、と。

 しかし、勝利の栄冠は疑いもなくザスラフスキー(3)のものである。文章的な意味では、彼は他の者よりずっとしっかりしており、燃えるような熱情に関してはすべての者をはるかに凌駕している。ザスラフスキーは次のような文言で論文をしめくくっている。

「マルクスとエンゲルスの友情をしかるべく研究するならば、この友情がレーニンとスターリンとのすばらしい協力関係と偉大な友情のうちに再現されているのを見出すだろうが、それは偶然ではない」。

 ある偉大なロシア人風刺家は、このような場合にぴったりあう警句を述べている。「そう言って、ろくでなしはしゃがんで褒美を待つのだ」。

 マルクスとエンゲルスは、40年におよぶ偉大な知的仕事を通じて結ばれてきた。リャザーノフのような最も造詣の深い洞察力あふれるマルクス研究家でも、2人の作品の間を分かつ境界線を徹底して引くことはできなし、そもそもそんなことは思いもよらないことだろう。レーニンと…スターリンに関して言えば、境界線ではなく、2人を結びつける線がいったいどこにあるのか見せてもらいたいものだ。レーニンの偉大な知的仕事の中でスターリンが占めているのは、他の多数の人々と並んで平凡な「実践家」としての場所である。「友情」に関して言えば、レーニンの遺言とその先見の明のある手紙の中で、スターリンとあらゆる個人的・同志的関係を絶つと述べられていたことを指摘すれば事足りるだろう。

 だが、ザスラフスキーとはいったいどういう人物なのか? 1917年に排外主義的ブルジョア新聞でレーニンをドイツ皇帝の買収されたスパイとして誹謗中傷したのは、まさにこの人物である。レーニンは多くの論文の中で、ザスラフスキーを正真正銘の「悪党」と呼んでいる。ネップの後になってようやく、そして左翼反対派に対する最初のポグロムが行なわれた後になってようやく、この男はソヴィエト官僚制に奉仕すべく登場したのである。ただ一つの点においてのみ彼は自分に忠実でありつづけている。すなわち、レーニンを生前に中傷したように、死後も中傷しつづけることである。この種の紳士は、10月革命18周年記念日に、レーニンの何十巻もの著作を『スターリン全集』と改名するよう提案するかもしれない。ちょうど、ツァーリツィンをスターリングラードと改名したのと同じ方法で。すなわち一片の指令でもって。それで万事オーケーなのだ。

 しかし、下僕たちがどんなに汗をかいて努力しても、目的は達せられないだろう。われわれは、マルクスをもエンゲルスをもレーニンをも、あらゆる研究所から、そしてあらゆるザスラフスキーのごとき連中から守るだろう。

1935年9月、オスロ

『反対派ブレティン』第45号

『トロツキー研究』第15号より

  訳注

(1)ビスマルク、オットー(1815-1898)……ドイツの政治家。1862年にプロイセンの首相となり、「鉄拳宰相」として強権でもってドイツ統一を推進。1871年から1890年までドイツ帝国の宰相。

(2)リープクネヒト、ヴィルヘルム(1826-1900)……ドイツの革命家。元ラサール主義者。マルクス、エンゲルスの友人で、ベーベルと並んでドイツ社会民主党の初期の指導者。

(3)ザスラフスキー、ダヴィト・ヨシフォヴィチ(1880-1965)……長年来のメンシェヴィキ、スターリン時代の最も影響力のあるイデオローグの一人。1900年にロシア社会民主労働党に入党し、メンシェヴィキに。1917〜18年にはブントの中央委員。1928年から『プラウダ』の編集委員。1934年からソ連共産党の中央委員。

 

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