日中戦争について

トロツキー/訳 初瀬侃・西島栄

【解説】本稿は、1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに勃発した全面的な日中戦争をめぐって、マルクス主義者のとるべき基本的な態度について明らかにしたものである。日本帝国主義と中国との戦争において、マルクス主義者は中立的態度をとるべきではなく、中国の現在の指導者がいかなるものであろうとも、日本帝国主義に反対して中国の民族解放戦争を全面的に支援するべきであるとしている。(右の写真は蒋介石)

 この手紙の形式をとった論文の中で、トロツキーは、労働者組織の政治的独立性を保持しつつ、この戦争に全面的に参加するべきであるとしている。だが、この手紙では「軍事的独立性」については考慮されていない。当時の中国の状況からして、「軍事的独立性」なしに「政治的独立性」はありえなかった。トロツキーは、革命的労働者が蒋介石の軍隊に参加しつつ、蒋介石を政治的に転覆する準備をするべきであると考えていたが、それは蒋介石の軍隊の組織構造からして無理な注文であった。毛沢東がやったように、独自の陣地、独自の軍隊を組織することで、軍事的独立性をまずもって確保することが必要であった。毛沢東の指導する中国共産党はしばしば政治的独立性を曖昧にしつつも、この軍事的独立性のおかげで、1926〜27年のときと違って蒋介石軍に粉砕されることなく、逆に、日本軍に勝利したのちの内戦で蒋介石軍を敗北させることができたのである。

 ところで、この手紙の中では、中国にいる陳独秀をはじめとする同志たちの安全確保に大きな注意が払われていることは注目に値する。中国の左翼反対派の中では、この日中戦争をめぐって、抗日戦争を優先させ国民党軍と統一戦線を組むべきだとする陳独秀派の立場と、革命的祖国敗北主義をとるべきだとする極左派とが対立していた。この時点では、陳独秀はトロツキーの見解を知らず、トロツキーは陳独秀の見解を知らなかったが、両者の見解は根本的な点で一致していた。のちにトロツキーは陳独秀の見解を知り、そのことを大いに喜んだ(参照、『トロツキー研究』第39号)。

 本稿の最初の翻訳は『トロツキー著作集 1937-38』下(柘植書房)だが、『トロツキーの中国論』(パスファインダー社)所収の英語底本にしたがって全面的に訳しなおされ、散見されたいくつかの誤訳が修正されている。

 L.Trotsky, On the Sino-Japanese War, Leon Trotsky on Chaina, Pathfinder Press, 1976.


  親愛なる同志ディエゴ・リヴェラ

 ここ数日、私はスペインの内戦と日中戦争に関するエーラー派(1)とエイフェル派(2)(確かに両者には同種の傾向がある!)の「労作」をいくつか読んでいる。レーニンはこうした連中の思想を「小児病」と呼んだ。病気の子供には同情が向けられる。しかしその時からすでに20年が経っている。子供たちはひげを生やし、禿頭にさえなっているが、子供っぽい舌足らずな話し方だけはやめていない。反対に、彼らは自分たちの欠点と愚劣さを10倍も増し、さらに不誠実さをつけ加えた。彼らは一歩一歩われわれに追随し、われわれの分析の一部を借用している。しかし彼らはこうした分析の一部を際限なく歪曲し、それを分析の残りの部分に対立させる。彼らはわれわれを修正する。われわれが何らかの人物を描くと、彼らはその姿を奇怪に歪める。それが女性の場合には濃い口ひげを書き加える。われわれが雄鶏を描くと、その下に卵を描く。そして彼らはこの戯画化をマルクス主義やレーニン主義と呼ぶ。

 この手紙では日中戦争のみ論じるにとどめよう。私はブルジョア新聞への声明(3)の中で、中国のすべての労働者組織の義務は、一瞬たりとも自分たちの綱領と独立した活動を放棄することなく、現在の対日戦争の前線に積極的に参加することだ、と述べた。ところが、それは「社会愛国主義だ!」とエイフェル派は叫ぶ。それは蒋介石への屈服だ! それは階級闘争の原則を放棄することだ! ボリシェヴィキは帝国主義戦争における革命的祖国敗北主義を説いた。そして、スペインの戦争と日中戦争はどちらも帝国主義戦争である。「中国での戦争に対するわれわれの立場も同じである。中国の労働者・農民を救う唯一の方法は、双方の軍隊に対して独自に闘うこと、つまり日本の軍隊と闘うのとまったくおなじように中国の軍隊とも闘うことである」。1937年9月10日のエイフェル派の文書から引用したこの数行は、われわれは次のように言うのを完全に正当化するものである。われわれがここで関わっているのは真の裏切り者か完全な愚か者である、と。しかし、愚かさもここまでくると裏切りである。

 われわれがすべての戦争を同一平面に置いたことなどは一度もなかったし、現在もそうである。マルクスとエンゲルスは、イギリスに対するアイルランド人の革命闘争を、ツァーリに対するポーランド人の革命闘争を支持した。この二つの民族戦争の指導者たちが大部分ブルジョアジーに属し、時には封建的貴族であり……、いずれにせよカトリック反動派であったにもかかわらず、である。アブデルクリム(4)がフランスに対して蜂起した時、民主主義者と社会民主主義者は「民主主義」に対する「未開の暴君」の闘争について憎悪をこめて語ったものである。レオン・ブルムの党[フランス社会党]はこの見解を支持した。しかし、われわれマルクス主義者とボリシェヴィキは、帝国主義的支配に対するリフ族の闘争を進歩的な戦争だとみなした。レーニンは、帝国主義国と人類の大部分を占める植民地・半植民地とを区別することの第一義的な必要性を示すために数百ページを費している。搾取者と被搾取国を区別しないで一般的に「革命的祖国敗北主義」を云々することは、ボリシェヴィズムの惨めな戯画を描いて、それを帝国主義者に奉仕させることである。

 極東で現在起こっているのは一つの古典的実例である。中国は、われわれの眼前で日本によって植民地国に転化させられつつある半植民地国である。日本の闘争は帝国主義的で反動的であり、中国の闘争は解放的で進歩的なものである。

 だが蒋介石は? 蒋介石にもその党にも中国の支配階級全体にも幻想を抱いてはならない。これはちょうどマルクスとエンゲルスがアイルランドとポーランドの支配階級に対していかなる幻想も持たなかったのと同じである。蒋介石は中国の労働者・農民の死刑執行人である。だが彼は現在、自分の意に反して、中国の独立の残存物のために日本と闘わざるをえない。明日は再び裏切るかもしれない。その可能性はある。大いにある。いや不可避であるとさえ言える。しかし、現時点では彼は闘っている。臆病者か悪党かまったくの愚か者だけがこの闘争に参加することを拒否することができる。

 問題をはっきりさせるためにストライキを例にとってみよう。われわれはすべてのストライキを支持するものではない。たとえば、もしストライキの要求が、工場からの黒人、中国人、日本人労働者の追放であるならば、われわれはこのストライキに反対する。しかし、もしストライキの目的が労働者の状態の改善――それが可能だとして――であるならば、われわれは指導部のいかんにかかわらず、真っ先にこれに参加するであろう。大部分のストライキでは、指導者は改良主義者、職業的裏切り者、資本の手先である。彼らはあらゆるストライキに反対する。しかし、時として大衆や客観情勢の圧力が彼らを闘争の道に追いやるこむことがある。

 たとえば1人の労働者が次のようなひとりごとを言ったとしよう。「指導者が資本の手先だから、このストライキには参加したくない」。このような愚かな極左主義者の教義は、彼に本来の名前を押させることになるだろう。スト破りという名前を。日中戦争の場合も、この見地から見ればまったく類似の状況にある。日本が帝国主義国であり、中国が帝国主義の犠牲者であるかぎり、われわれは中国に味方する。日本の愛国主義は世界的略奪を覆い隠す忌まわしい仮面である。中国の愛国主義は正当で進歩的なものである。両者を同一平面に置いて「社会愛国主義」を云々することができるのは、何一つレーニンを読んでおらず、帝国主義戦争期におけるボリシェヴィキの態度をまったく理解しておらず、マルクス主義の教えを地に落とし売りわたす者だけである。エイフェル派は、社会愛国主義者が国際主義者を敵の手先として非難するのを耳にし、われわれにこう言う、「諸君も同じことをやっている」と。帝国主義同士の戦争では、問題になっているのは民主主義でも民族独立でもなく、後進的な非帝国主義人民を抑圧することである。このような戦争では、2つの国は同一の歴史的平面上に位置している。革命家はどちらの軍隊においても祖国敗北主義者である。だが日本と中国は同一の歴史的平面上に位置しているのではない。日本の勝利は、中国の奴隷化、その経済的・社会的発展の終焉、日本帝国主義の恐るべき強化を意味するであろう。反対に、中国の勝利は、日本における社会革命と中国における階級闘争の自由な発展、つまり外的抑圧に妨げられない発展を意味するだろう。

 だが蒋介石に勝利を確保することができるのか? 私はできるとは思わない。しかし戦争を開始し、現在それを指揮しているのは彼である。彼を取りかえるためには、プロレタリアートと軍隊の中に決定的な影響力を獲得しなければならないし、そうするためには、宙ぶらりんにとどまるのではなく、自らを闘争の真只中に置かなければならない。われわれは外国の侵略に対する軍事的闘争と、内部における弱点・欠点・裏切りに対する政治的闘争において、影響力と威信を獲得しなければならない。事前に特定しえないある一定の時点で、この政治的反対運動は武装闘争に転化しうるし、転化しなければならない。なぜなら内戦は戦争一般と同じように政治闘争の継続にすぎないからである。しかし、いつ、どのように政治的反対運動を武装蜂起に転化すればよいかを知ることが必要である。

 1925〜27年の中国革命の時期に、われわれはコミンテルンの政策を攻撃した。なぜか? 理由をよく理解しなければならない。エイフェル派は、われわれが中国問題についての態度を変えたのだと主張する。それというのも、この惨めな連中が1925〜27年におけるわれわれの態度をまったく理解していないからである。われわれは、外国帝国主義の手先である北部の将軍たちに対する南部のブルジョアジーと小ブルジョアジーの戦争に参加する共産党の義務をけっして否定しなかった。われわれは、中国共産党と国民党との軍事ブロックの必要性をけっして否定しなかった。それどころか、これを最初に提起したのはわれわれであった。しかし、われわれは、中国共産党が完全な政治的・組織的独立性を維持すること、すなわち外国帝国主義に対する民族戦争においても、帝国主義内部の敵との内戦においても、労働者階級が軍事的闘争の前線にとどまりながらブルジョアジーの政治的転覆を準備することを要求した。われわれは現在の戦争でもこれと同じ政策を保持している。われわれは自らの態度をみじんも変えてはいない。ところが、エーラー派とエイフェル派は、われわれの政策を――1925〜27年のそれも、今日のそれも――ひとかけらも理解していないのである。

 東京と南京による最近の紛争が勃発したときにブルジョア新聞に発表した声明の中で、私がとくに強調しておいたのは、帝国主義的抑圧者に対する戦争に革命的労働者が積極的に参加する必要性についてであった。なぜか? まず第1にそれがマルクス主義的観点からみて正しいからであり、第2に中国の友人たちの安全の確保という観点からみて必要だったからである。(スペインでネグリン(5)と同盟しているように)国民党と同盟しているゲ・ぺ・ウは、明日にもわれわれの中国の友人たちを「敗北主義者」「日本の手先」と呼ぶだろう。陳独秀を指導者とする彼らの最良の部分が国内的にも国際的にも名誉を汚されて殺される可能性がある。第4インターナショナルが日本に対抗している中国の味方であるということを精力的に強調しなければならなかった。しかも私は「自分たちの綱領と政治的独立性を放棄することなく」という一節を加えておいた。

 エイフェル派の愚か者どもは、この「留保」を嘲笑しようとしている。彼らは言う、「トロツキストは、行動において蒋介石に、言葉においてプロレタリアートに奉仕したいと思っている」。積極的・意識的に戦争に参加することは、「蒋介石に奉仕する」ことではなく、蒋介石にもかかわらず植民地国の独立に奉仕することを意味する。そして、国民党への反対を訴えることは、蒋介石を打倒するために大衆を教育する手段である。蒋介石の命令下にある軍事的闘争(残念ながら独立戦争の指令権を握っているのは彼である)に参加する中で、蒋介石の転覆を政治的に準備すること……、これこそが唯一の革命的政策である。エイフェル派はこの「民族的・社会愛国的」政策に「階級闘争」の政策を対置する。レーニンはその全生涯を通してこの抽象的で不毛な反対論と闘った。彼にとっては、世界プロレタリアートの利益は、帝国主義に対する被抑圧人民の民族的・愛国的闘争への支援を義務づけるものであった。世界大戦からほぼ4半世紀が過ぎ、10月革命から20年が過ぎているというのに、まだこの点を理解しない者は、内部の最悪の敵として革命的前衛によって無慈悲に拒否されなければならない。これこそまさにエイフェルとその類の連中の場合である!

1937年9月23日

『トロツキーの中国論』(パスファインダー社)所収

『トロツキー著作集 1937-38』下(柘植書房)より

  訳注

(1)エーラー派……アメリカ合衆国労働者党のセクト主義的分派で、社会党との合同に反対した。指導者はフーゴ・エーラー。1935年10月に規律違反が理由で除名され、革命的労働者連盟を組織した。

(2)エイフェル派……1936年にエーラーの革命的労働者連盟から分裂した小セクトで、指導者はパウル・エイフェル。エイフェルは、スペイン内戦において共和派陣営や日中戦争において蒋介石軍を支援することに反対した。

(3)トロツキー「日本と中国」(1937年7月30日)のこと。

(4)アブデルクリム(1882-1963)……モロッコの民族独立運動指導者。1921年、モロッコ北部のリフ地区のベルベル人(リフ族)を率いてモロッコのスペイン支配に対する反乱を起こす。1924年にスペイン軍を破ると、翌年にはフランスの支配地域に攻撃を加える。しかし、1926年にフランスとスペインの連合軍に敗北する。

(5)ネグリン、フアン (1894-1956) ……スペイン社会党右派。1936〜37年、人民戦線のカバリェロ内閣の蔵相。スターリニストの強い影響下にあり、1937年5月の「5月事件」をきっかけに、首相を兼任(共和制最後の首相)。内戦敗北後、パリ、次いでメキシコに亡命、1945年まで亡命共和国政府の首班をつとめた。

 

トロツキー研究所

トップページ

1930年代後期