1930年代後期
(1937〜40)
第21期 メキシコ時代(1)――モスクワ裁判とスターリンの国際テロに対する闘争(1937〜1938)
◇メキシコへの航海上で
「彼らはなぜ犯したこともない犯罪を自白したのか」(
1937年1月1日)「“権力欲”」(
1937年1月3日)「“スターリンへの憎悪”」(
1937年1月4日)「ソ連邦へのテロリストの派遣について」(
1937年1月6日)
◇途上の日記から
「日記(1)」(
1937年1月2日)「日記(2)」(
1937年1月5日)「日記(3)」(
1937年1月7日)「日記(4)」(
1937年1月8日)
◇メキシコにて
「メキシコにて」(
1937年1月9日)「タンピコにおける声明」(
1937年1月9日)「ニューヨークへの電報」(
1937年1月11日)「メキシコ・メディアの代表者へ」(
1937年1月12日)「アメリカ人のためのインタビュー」(
1937年1月17日)「ジェームズ・キャノンへの挨拶」(
1937年1月20日)
◇第2次モスクワ裁判(1)――最初の分析
「ゲ・ペ・ウの新たな17人の犠牲者」(
1937年1月20日)「モスクワの新たなアマルガム」(
1937年1月21日)「新しい裁判」(
1937年1月22日)「『自発的自白』の背後にある真実」(
1937年1月22日)「なぜこの裁判が必要なのか」(
1937年1月23日)「誰の陰謀か」(
1937年1月23日)「ロムについて」(
1937年1月24日)「ただの一言も真実ではない」(
1937年1月24日)
◇第2次モスクワ裁判(2)――裁判の過程で
「被告の陳述書と最初の証言」(
1937年1月24日)「ラコフスキー」(
1937年1月25日)「モスクワ裁判の中で」(
1937年1月25日)「ゲ・ペ・ウは国際的舞台で暗躍する」(
1937年1月25日)「被告の『自発的』自白」(
1937年1月26日)「産業のサボタージュ」(
1937年1月26日)「陰謀の財源」(
1937年1月26日)「ムラロフ」(
1937年1月26日)「ピャタコフの幻のオスロ飛行」(
1937年1月27日)「根本的正義のための闘士――カブレラへの手紙」(
1937年1月27日)「セルゲイ・セドフの逮捕」(
1937年1月27日)「スターリンの説明とラデックの説明」(
1937年1月28日)「国際連盟への訴え」(
1937年1月)「ヴィシンスキー検事」(
1937年1月29日)「被告は処刑されるか」(
1937年1月29日)「スターリンの部分的退却」(
1937年1月29日)「裁判の組織」(
1937年1月30日)
◇第2次モスクワ裁判(3)――裁判の決着
「被告の最後の言葉」(
1937年1月30日)「反ユダヤ主義的でっちあげ」(
1937年1月30日)「『ニュースリール』に向けた演説」(
1937年1月30日)「13人は死ぬ運命にある」(
1937年1月31日)「『邪魔者』になった人々」(
1937年1月31日)「カガノヴィチは私の最後を予見する」(
1937年1月31日)「厳罰を要求する『人民』」(
1937年1月31日)「ゲ・ペ・ウはなぜ12月のノルウェーを選んだか」(
1937年1月31日)「時間と場所の曖昧な物語」(
1937年2月)
◇第2次モスクワ裁判(4)――反撃
「終わり?」(
1937年2月1日)「トロヤノフスキーの不可解な論争的警句」(
1937年2月4日)「薄暗いパリの小道をうろついたロム」(
1937年2月5日)「ティテイナとのインタビュー」(
1937年2月11日)「シカゴへの電報」(
1937年2月14日)「事実の陳述書」(
1937年2月16日)「アメリカの訪問者からの陳述書」(
1937年2月日)「
テルミドールと反ユダヤ主義」(1937年2月21日)「二つの声明」(
1937年2月25日)「ロムの証拠」(
1937年2月25日)「最初の二つのモスクワ裁判」(
1937年3月15日)「裁判のまねごと」(
1937年3月16日)「フランスにおける擁護活動」(
1937年3月17日)「ピャタコフの嘘を論駁するためにさらなる証拠が必要である」(
1937年3月26日)「ピャタコフの飛行について再び」(
1937年3月28日)
◇ソヴィエト官僚制とユダヤ人問題
「メキシコ在住のユダヤ人通信員とのインタビュー」(
1937年1月18日)「ユダヤ人日刊紙『フォアヴェルツ』紙のインタビュー」(
1937年1月18日)「ユダヤ人日刊紙『フォアヴェルツ』紙のインタビュー」(
1937年4月27日)
◇デューイ委員会と対抗裁判
「調査委員会をただちに結成するために」(
1937年3月15日)「委員会におけるわれわれの同志たちの態度」(
1937年3月15日)「社会主義弁護士戦線へ」(
1937年3月15日)「委員会におけるわれわれの同志の方針」(
1937年3月17日)「コヨアカンでの予備尋問」(
1937年4月)『トロツキーの裁判』(
1937年4月10日〜17日)「証人としてのビールズ氏」(
1937年5月18日)
◇モスクワ裁判の総括と赤軍裁判
「ダンチッヒのトロツキスト裁判」(
1937年4月29日)「自らのでっち上げを説明するスターリン」(
1937年6月)「終わりの始まり」(
1937年6月12日)「スターリン、赤軍の首を切り落とす」(
1937年6月17日)「『スターリンの犯罪』への序文」(
1937年7月5日)「ラテン・アメリカ文化委員会への回答」(
1937年7月27日)「『裏切られた革命』スペイン語版序文」(
1937年8月5日)「ヴォルフ・ヴァイスの小説」(
1937年8月13日)「『メヒコ・アル・ディア』のインタビュー」(
1937年8月16日)「スターリニズムの権威を労働者の面前で失墜させるために」(
1937年9月2日)「スターリンの生命への“危害の企図”」(
1937年11月4日)
◇調査委員会とトロツキー防衛委員会
「調査委員会のための次の一歩」(
1937年4月20日)「調査委員会の目的」(
1937年9月5日)「デューイ委員会の公開会議のために」(
1937年10月6日)「トロツキー防衛委員会の将来」(
1937年10月14日)
◇イグナス・ライス暗殺事件
「ある悲劇的な教訓」(
1937年9月)「ニューヨークへの手紙」(
1937年9月30日)「懸念されるライス夫人」(
1937年9月30日)「エリザ・ライスへの手紙」(
1937年10月13日)「スイス警察、暗殺者を逮捕」(
1937年10月19日)「国際連盟への手紙」(
1938年3月21日)「ライス暗殺1周年にあたって」(
1938年7月17日)
◇モスクワ裁判をめぐるリベラル派と社会民主主義者の混乱
「ジャック・サドゥールについて」(
1937年3月5日)「フェンナー・ブロックウェイ、第二のブリット」(
1937年3月6日)「アンドレ・マルローに関する声明」(
1937年3月8日)「ニューヨークへの移動のために」(
1937年3月9日)「ニューヨークでの危険な徴候」(
1937年3月9日)「マルロー氏への若干の具体的質問」(
1937年3月13日)「ロンドン・ビューロー、調査委員会への参加を拒否、スターリンのでっちあげを支持する」(
1937年9月5日)「『モダン・マンスリー』の編集者へ」(
1937年10月15日)「バートラム・ウルフとモスクワ裁判」(
1937年11月15日)「フリーダ・カーチウェイへの説明」(
1938年3月13日)「半分真実の聖職者」(
1938年3月19日)
◇デューイ委員会の結論と反撃の準備
【資料】「デューイ委員会の裁定」(
1937年9月21日)「いまこそスターリニズムに対して世界的攻勢をかけるときである」(
1937年11月2日)「デューイ委員会の裁定への短いコメント」(
1937年12月13日)「国際委員会の裁定に関する質問への回答」(
1937年12月13日)「デューイ委員会への電報」(
1937年12月13日)「来るべき裁判でゲ・ペ・ウの秘密計画を暴露せよ」(
1938年2月16日)【資料】『無罪』(
1938年)「スターリンとその共犯者への有罪宣告」(
1938年7月5日)
◇クロンシュタットをめぐる論争
「ヴァンデリン・トーマス氏の質問に対する回答」(
1937年7月6日)「クロンシュタットに関する記事」(
1937年11月14日)「クロンシュタットに関するパンフレットについて」(
1937年11月19日)「クロンシュタットをめぐる大騒ぎ」(
1938年1月15日)「クロンシュタットと委員会の事実認定」(
1938年1月17日)「ふたたびクロンシュタットの弾圧について」(
1938年7月6日)
◇ソ連の防衛とソヴィエト国家の性格
「ソ連の防衛」(
1937年3月26日)「再びソ連邦とその防衛について」(
1937年11月4日)【資料】イワン・クレポー「第4インターナショナルとロシアの反革命」(
1937年)「労働者国家でもなくブルジョア国家でもない?」(
1937年11月25日)「思考の方法を学べ――一部の極左主義者への好意的助言」(
1938年5月22日)
◇スターリニズムとボリシェヴィズム
「スターリニズムとボリシェヴィズム」(
1937年8月29日)「クレムリンの壁の背後で」(
1938年1月8日)「ソヴィエト政府は今でも20年前の諸原則に従っているか」(
1938年1月13日)「21周年記念」(
1938年11月14日)
◇トレダーノによる攻撃と亡命地防衛のために
「新しい不帰の客」(
1938年2月17日)「避難所への新たな攻撃」(
1938年2月23日)「全体主義者の“避難所の権利”」(
1938年9月19日)「反『トロツキズム』闘争は何を意味するか――ロンバルド=トレダーノとその他のゲ・ペ・ウの手先について」(
1938年10月9日)「亡命地の防衛のために――トレダーノへの回答」(
1938年11月30日)「『ニューヨーク・デイリー・ニューズ』紙の虚言への回答」(
1939年1月14日発表)
◇レオン・セドフの死
「彼らの道徳とわれらの道徳――レオン・セドフの思い出に」(
1938年2月16日)「卑劣な行為の行なわれた可能性」(
1938年2月18日)「セドフの死の後で」(
1938年2月22日)「レオン・セドフ――息子、友人、闘士」(
1938年7月5日)「レオン・セドフは暗殺されたか」(
1938年7月19日)「ゲ・ペ・ウのセドフ殺害についての新たな証拠」(
1938年8月24日)「セドフ死去1周年」(
1939年2月)
◇第3次モスクワ裁判
「21人のモスクワ裁判――新しい制裁」(
1938年2月28日)「8人の大臣」(
1938年3月1日)「モスクワ裁判の背景」(
1938年3月)「デューイ委員会への回答としての裁判」(
1938年3月2日)「心ある人々に訴える」(
1938年3月3日)「知りすぎた4人の医者」(
1938年3月3日)「予想されるヴィシンスキーの策略」(
1938年3月4日)「被告の証言に対する帝政と批判」(
1938年3月4日)「“100万ドル”」(
1938年3月5日)「スターリンに対立する軍部」(
1938年3月6日)「どうしてそんなに多くのセンターが? どうしてそれらはみなトロツキーに服従しているのか?」(
1938年3月6日)「ヤーゴダの役割」(
1938年3月7日)「アナクロニズム」(
1938年3月8日)「モスクワの外交政策と裁判」(
1938年3月8日)「スターリンの世界革命論と現在の裁判」(
1938年3月9日)「ロシアの裁判の一つの鍵」(
1938年3月)「プレトネフ教授の場合」(
1938年3月10日)「裁判の結果」(
1938年3月10日)「被告ゼレンスキーとイヴァノフ」(
1938年3月11日)「『プラウダ』の記事への欄外の注」(
1938年3月)「モスクワ裁判によって助けられたヒトラーのオーストリア攻撃」(
1938年3月12日)「ビルマニス大使への返答」(
1938年3月17日)「行きつくところまで行く“カイン”・ジュガシヴィリ」(
1938年4月)
◇粛清のバランスシート
「粛清のバランスシート」(
1938年6月10日)「否、それは同じではない」(
1938年6月18日)「来るべき外交官の裁判」(
1938年7月24日)
◇クレメント暗殺事件
「ルドルフ・クレメントの失踪」(
1938年7月18日)「ルドルフ・クレメントからの“手紙”
」(1938年8月13日発表)「ルドルフ・クレメントの運命について」(
1938年8月4日)【資料】エリザ・ライス「ルドルフ」(『反対派ブレティン』第
68/69号、1938年8月発表)「ルドルフ・クレメントの暗殺」(
1938年9月20日)「ルドルフ・クレメントの殺害について」(
1938年12月1日)
第22期 メキシコ時代(2)――第2次大戦前夜のヨーロッパと世界(1937〜1939)
◇スペイン革命の運命
「ソヴィエト官僚制とスペイン革命」(
1937年1月13日)「
アヴァス通信社とのインタビュー」(1937年2月19日)「勝利のための戦略」(
1937年2月25日)「アヴァス通信社とのインタビューについて」(
1937年3月12日)「バルセロナ会議の提案について」(
1937年3月20日)「
『労働者の闘争』編集部への手紙」(1937年3月23日)「
スペイン内戦における革命の戦略」(1937年4月14日)「
スペインでの勝利は可能か」(1937年4月23日)
◇バルセロナ5月事件
「
バルセロナの蜂起(若干の予備的考察)」(1937年5月12日)「同じ傾向の二つの現われ」(
1937年5月12日)「誰がフランコを助けているか――『ヘラルド・トリビューン』への回答」(
1937年8月23日)「
スペインの経験を通じた諸個人と諸思想の検証」(1937年8月24日)
◇スペインの革命的教訓
「
スペイン情勢に関する質問への回答」(1937年9月14日)「
スペインに関するパンフレット」(1937年9月17日)「
ネグリン政府の予算案に賛成するべきか?――ジェームズ・キャノンへの手紙」(1937年9月21日、25日)「
極左一般、とりわけ救いがたい極左について」(1937年9月29日)「
革命のカレンダーについて」(1937年10月22日)「独裁と革命」(
1937年10月23日)「
スペインの教訓――最後の警告」(1937年12月17日)「
第4インターナショナルにとってのスペインの教訓」(1937年12月24日)
◇スペインにおけるスターリニストのテロ
「
ゲ・ペ・ウの手先によるアンドレウ・ニンの暗殺」(1937年8月8日)「エルウィン・ウォルフの逮捕」(
1937年9月25日)「フランスにおけるテロ事件」(
1937年9月29日)「エルウィン・ウォルフ――ゲ・ペ・ウの犠牲者」(
1937年10月19日)
◇アメリカ社会党(SP)とアメリカ問題
「中間主義への『批判的』順応」(
1937年5月25日)「戦闘的、革命的、批判的なマルクス主義的見地が必要である」(
1937年5月29日)「SP内の状況と今後の課題」(
1937年6月15日)「政治における時間の要素」(
1937年6月25日)「アメリカ問題とインターナショナル」(
1937年8月26日)「アメリカの不況と新しい政治的方向性」(
1937年10月2日)「アメリカの60家族」(
1937年11月8日)「アメリカ問題に関する手紙」(
1937年11月14日)
◇ヨーロッパにおける中間主義と第4インターナショナル
「モリニエ派との連絡」(
1937年2月16日)「フランス革命的社会主義青年同盟(JSR)第3回大会によせて」(
1937年5月22日)「モリニエの組織」(
1937年5月26日)「われわれを分かつ問題」(
1937年5月26日)「第4インターナショナル――AP通信記者とのインタビュー」(
1937年6月1日)「新しい分子へのより教育的な忍耐」(
1937年9月11日)「オランダ指導部に関する3通の手紙」(
1937年12月2日、1938年1月21日)
◇党内体制と第4インターナショナル
「真の党内民主主義体制のために」(
1937年9月11日)「党内討論における責任意識」(
1937年9月18日)「未来への楽観主義」(
1937年10月2日)「党内体制について再考」(
1937年10月3日)「職員の問題」(
1937年10月4日)「加入の結果と次の課題」(
1937年10月6日)「党の社会的構成」(
1937年10月10日)「将来の展望とインターナショナルの協議会」(
1937年10月19日)
◇日中戦争の勃発と革命派の課題
「
日本と中国」(1937年7月30日)「中国をめぐる討論」(
1937年8月11日、9月3日)「シドニーの『サンデー・サン』紙とのインタビュー」(
1937年8月17日)「見えはじめた日本側の破局」(
1937年9月20日)「
日中戦争について」(1937年9月23日)「
平和主義と中国」(1937年9月25日)「
日中戦争に関する決議について」(1937年10月27日)「『ニューヨーク・タイムズ』への手紙」(
1937年12月3日)「
オーストラリアの人々への手紙」(1937年12月23日)「敗北主義に関する二つの手紙」(
1938年1月2日、1月26日)「
中国と日本との闘争――南条氏への回答」(1938年8月11日)「ソ連邦と日本」(
1938年8月12日)
◇新たな世界戦争を前にして
「メキシコのプレス・サービスへの回答」(
1937年1月23日)「新たな世界戦争を前にして」(
1937年8月9日)「戦争に関する記事について」(
1937年8月10日)「『ユナイティッド・プレス』への回答」(
1937年9月13日)「質問への回答」(
1937年10月1日)「マリアンヌの質問への回答」(
1937年12月20日)
◇ヨーロッパ支部とヨーロッパの革命運動
「真のイギリス支部のために」(
1938年4月15日)「フランス支部について」(
1938年4月19日)「ヨーロッパ問題について再び」(
1938年4月20日)「ヨーロッパかサンフランシスコか」(
1938年5月12日)「ヨーロッパへただちに旅行を」(
1938年5月16日)「再度同志スネーフリートとフェレーケンについて」(
1938年5月24日)「共通の投票にとっていかなる障害もない」(
1938年5月25日)「ベルギー革命的社会主義党の大会へ」(
1938年6月22日)「革命運動への資金援助」(
1938年7月23日)
◇ラテン・アメリカの諸問題
「
ボリビアにおける農業問題」(1937年4月24日)「ラテン・アメリカにおける労働組合運動の任務」(
1938年10月11日)「ラテン・アメリカ問題」(
1938年11月8日)
◇ファシズムと帝国主義的「民主主義」
「
反戦反ファシズム大会」(1938年8月)「
ファシズムと植民地世界」(1938年8月)「
ファシズムと闘うために帝国主義と闘え」(1938年9月3日)「スターリニストの新たな陰謀」(
1938年9月4日)「反帝国主義こそ解放への鍵である」(
1938年9月26日)「『民主主義的』帝国主義の二人の手先」(
1938年10月22日)「
アヤ・デラ・トーレと民主主義」(1938年11月9日)「
中間主義文献の検討」(1938年11月15日)「
ジュオーとトレダーノ」(1939年1月30日)
◇メキシコ革命と帝国主義
「メキシコの石油会社接収――イギリス労働党への挑戦」(
1938年4月)「メキシコとイギリス帝国主義」(
1938年6月5日)「産業国有化と労働者管理」(
1938年6月)「出版の自由と労働者階級」(
1938年8月21日)「無知は革命の道具にあらず」(
1939年2月)「
メキシコの第2次6ヵ年計画」(1939年3月14日)
◇アメリカの労働党と労働組合
「アメリカにおける労働党の諸問題(1)」(
1938年4月)「アメリカにおける労働党の諸問題(2)」(
1938年5月3日)「アメリカにおける労働党の諸問題(3)」(
1938年7月20日)「労働党の三つの可能性」(
1938年7月23日)「アメリカの労働組合の課題についての対話」(
1938年9月29日)「アメリカ党の諸問題」(
1938年10月5日)
◇過渡的綱領と第4インターナショナル創立の準備
「トロツキーとの対話(1)――インターナショナル創立大会」(
1938年3月20日)「トロツキーとの対話(2)――防衛委員会とインテリゲンツィアへの態度」(
1938年3月25日)「トロツキーとの対話(3)――ロシア問題」(
1938年3月25日)「
資本主義の死の苦悶と第4インターナショナルの任務――過渡的綱領」(1938年5月)「過渡的綱領に関する討論」(
1938年5月19日)「第4インターナショナルをめざす? 否、第4インターナショナルを」(
1938年5月31日)「過渡的綱領に関する討論」(
1938年6月7日)「官僚と新しい貴族をソヴィエトからたたき出せ」(
1938年7月4日)「『労働者と農民の政府』のスローガンについての討論」(
1938年7月29日)
◇第4インターナショナル創立大会
【資料】「全世界の労働者への第4インターナショナル大会の宣言」(『反対派ブレティン』第
72号)【資料】「スペイン・プロレタリアートを守れ!」(『反対派ブレティン』第
72号)【資料】「アメリカ帝国主義の世界的役割」(『反対派ブレティン』第
72号)【資料】「極東における階級闘争について」(『反対派ブレティン』第
73号)「偉大なる成果」(
1938年8月30日)「第4インターナショナルの創立について」(
1938年10月18日)
◇革命的青年運動のために
「青年人民社会主義同盟の大会へ」(
1938年7月18日)「革命的青年組織に向けて」(
1938年11月18日)「独立した青年運動のために」(
1938年11月30日)「革命的青年グループには革命的名称を」(
1938年12月10日)
◇アンドレ・ブルトンと革命芸術
「革命芸術と第4インターナショナル」(
1938年6月1日)「アンドレ・ブルトンについて一言」(
1938年10月27日)「アンドレ・ブルトンへの手紙」(
1938年10月27日)「芸術の自由のために――ブルトンへの手紙」(『反対派ブレティン』第
74号、1938年12月22日)「革命と芸術」(『反対派ブレティン』第
77/78号、1939年)
◇ディエゴ・リベラ事件
「ジェームズ・キャノンへの手紙」(
1938年10月30日)「チャールズ・カーティスへの手紙」(
1938年12月24日)「必要な声明」(
1939年1月4日)「問題の根源」(
1939年1月11日)「フリーダ・リベラへの手紙」(
1939年1月12日)「リベラの辞任に関する『クラーベ』の声明」(
1939年1月17日)「汎アメリカ委員会からの回答に関する提案」(
1939年1月)「チャールズ・カーティスへの手紙」(
1939年1月18日)「チャールズ・カーティスへの手紙」(
1939年2月14日)「チャールズ・カーティスへの手紙」(
1939年2月15日)「汎アメリカ委員会への手紙」(
1939年3月22日)「ジェームズ・キャノンへの手紙」(
1939年3月27日)「汎アメリカ委員会の声明」(
1939年4月5日)
◇現代世界とマルクス主義
「今日の共産党宣言」(
1937年10月30日)「現代のマルクス主義」(
1939年4月18日)
◇チェコスロバキア問題とミュンヘン会談
「チェコスロヴァキアに関する論評」(
1938年6月2日)「『決断に向けて』について」(
1938年9月17日)「空文句と現実」(
1938年9月19日)「新たな教訓――来るべき戦争の性格について」(
1938年10月10日)
◇世界大戦とユダヤ人絶滅の危機
「ファシズムと反ユダヤ主義の脅威をさらされているアメリカ・ユダヤ人への訴え」(
1938年12月22日)「パレスチナのわな」(
1939年2月14日)
◇ヒトラーとの協定を求めるスターリン
「ミュンヘン以後、スターリンはヒトラーとの合意を求めるだろう」(
1938年10月7日)「なぜロシアは無力か」(
1938年11月26日発表)「政治的対話」(
1938年12月20日)「ヒトラーとスターリン」(
1939年3月6日)「社会愛国主義への一歩」(
1939年3月7日)「スターリンの屈服」(
1939年3月11日)「ソ連の謎」(『反対派ブレティン』第
79/80号、1939年6月21日)
◇ボナパルチストの国家哲学
「グリンシュパンのために」(
1937年2月14日発表)「“スターリン式に働くことを学べ”」(
1939年5月発表)「ボナパルチストの国家哲学」(
1939年5月1日)「中央委員会の図表で見るボリシェヴィズムの歴史」(
1939年6月7日)
◇ロシア革命と中国革命――歴史の偽造に抗して
「『スターリンの偽造学派』英語版序文」(
1937年3月3日)「10月蜂起はどのように起こったか」(
1937年3月3日)「中国における革命と戦争――『中国革命の悲劇』序文」(『反対派ブレティン』第
72号、1938年)「ロシア革命の三つの概念」(
1939年8月頃)
◇スペインの悲劇
「
第5の車輪」(1938年1月27日)「
告発者の役割を演じる裏切り者」(『反対派ブレティン』第72号、1938年10月22日)「
スペインの悲劇」(『反対派ブレティン』第74号、1939年2月)「
スペイン、スターリン、エジョフ」(『反対派ブレティン』第75/76号、1939年3月4日)「
帝国主義のミステリー」(『反対派ブレティン』第75/76号、1939年3月4日)「
再びスペインの敗北の原因について」(『反対派ブレティン』第75/76号、1939年3月4日)
◇スターリニズムと幻滅した急進派知識人
「ヴィクトル・セルジュと第4インターナショナル」(『反対派ブレティン』第
73号、1938年12月2日)「メキシコ支部の諸問題」(
1938年12月5日)「元急進派知識人と世界的反動」(『反対派ブレティン』第
74号、1939年2月発表)「再び“マルクス主義の危機”について」(
1939年3月9日)「マルクス主義に反する道徳家と追従者」(
1939年6月9日)
◇フランス問題とPSOP
「決定的瞬間が近づきつつある――フランス情勢によせて」(『反対派ブレティン』第
74号、1938年12月14日)「PSOPはどこへいく――マルソー・ピヴェールへの手紙」(
1938年12月22日)「フランスの友人への手紙」(
1939年2月14日)「中間主義と第4インターナショナル」(
1939年3月10日)「“トロツキズム”とPSOP」(
1939年7月15日)
◇フランス支部の危機
「ジェームズ・キャノンへの手紙」(
1938年12月5日)「ジェームズ・キャノンへの手紙」(
1939年4月8日)「SWPの政治委員会への手紙」(
1939年4月18日)「SWPの政治委員会への手紙」(
1939年4月22日)「国際書記局への手紙」(
1939年7月27日)
◇共産党内での活動
「共産党内でのわれわれの活動」(
1939年3月20日)「再び共産党内でのわれわれの活動について」(
1939年4月10日)
◇流れに抗する闘い
「左翼反対派の歴史」(
1939年4月)「流れに抗する闘い」(
1939年4月)「10年」(
1939年6月10日)
◇コミンテルンの反革命政策と戦争
「レーニンと帝国主義戦争」(『反対派ブレティン』第
74号、1938年12月30日)「グリンシュパンのために」(『反対派ブレティン』第
74号、1939年2月)「革命だけが戦争を終わらせることができる――シビル・ヴィンセントの質問に対する回答」(
1939年3月18日)「世界政治におけるクレムリン」(
1939年7月1日)
◇ウクライナの独立問題
「ウクライナ問題」(
1939年4月22日)「ウクライナの独立と愚かなセクト主義者」(
1939年7月30日)「ウクライナ問題パンフレットのために」(
1939年9月)
◇世界大戦前夜のヨーロッパと植民地世界
「
インドを裏切る者たち」(1939年3月4日)「第2次世界大戦を前にして」(
1939年7月23日)「帝国主義戦争に直面するインド――インド労働者への公開状」(『反対派ブレティン』第
79-80号、1939年7月25日)「“進行性麻痺”――新たな戦争前夜の第2インターナショナル」(
1939年7月29日)
◇同時代人の死
「カール・カウツキー」(『反対派ブレティン』第
73号、1938年11月8日)「クルプスカヤの死」(『反対派ブレティン』第
75-76号、1939年3月4日)
第23期 メキシコ時代(3)――第2次世界大戦とトロツキー最後の闘争(1939〜1940)
◇独ソ不可侵条約
「ヒトラーの舵取り――スターリン」(
1939年9月2日)「独ソ不可侵条約」(
1939年9月4日)
◇第2次世界大戦の勃発
「第2次世界大戦勃発の責任は誰にあるか」(
1939年9月5日)「モスクワは軍を動員しつつある」(
1939年9月11日)「ヒトラーとスターリンの結合は深まるだろう」(
1939年9月14日)「アメリカ合衆国は参戦するだろう」(
1939年10月4日発表)「『ニューヨーク・タイムズ』への手紙」(
1939年11月20日)「インドに関する手紙」(
1939年11月24日)
◇戦争とウクライナ問題
「民主主義的封建主義者とウクライナの独立」(
1939年10月31日)「ウクライナの一時的所有者スターリン」(
1939年10月24日)
◇ソ連邦の階級的性格をめぐるSWP内の論争(1)――独ソ不可侵条約
「ジェームズ・キャノンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年9月12日)【資料】ジャームズ・バーナム「仮面は剥がされた!」(
1939年9月)【資料】ジェームズ・バーナム「ソ連問題に関するテーゼ」(
1939年9月5日)「戦争におけるソ連邦」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年9月25日)【資料】C・L・R・ジェームズ「反革命的な帝国主義的労働者国家?」(
1939年9月26日)【資料】マックス・シャハトマン「現在の戦争におけるソヴィエト国家」(
1939年9月28日)「再び、さらに再びソ連邦の性格について」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年10月18日)
◇ソ連邦の階級的性格をめぐるSWP内の論争(2)――論争の深化
「全党投票と民主主義的中央集権制」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年10月21日)「シャーマン・スタンレーへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年10月22日)「マックス・シャハトマンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年11月6日)「ジェームズ・キャノンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年12月15日)「社会主義労働者党における小ブルジョア反対派」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年12月15日)「ジョン・ライトへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年12月19日)「マックス・シャハトマンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年12月20日)「全国委員会多数派への手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年12月26日)「全国委員会多数派への手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1939年12月27日)「全国委員会多数派への手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年1月3日)「全国委員会多数派への手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年1月4日)「ジョセフ・ハンセンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年1月5日)「同志バーナムへの公開状」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年1月7日)「ジェームズ・キャノンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年1月9日)「ファレル・ドッブズへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年1月10日)「ウイリアム・ウォードへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年1月16日)「ジョセフ・ハンセンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年1月18日)
◇ダイズ委員会
「ダイズ委員会」(
1939年12月7日)「私がダイズ委員会に出頭した理由」(
1939年12月11日)「ダイズの約束取り消しについて」(
1939年12月12日)「閉じられた扉の背後ではなく」(
1939年12月17日)「ダイズ委員会をめぐるさらなる中傷」(
1940年1月12日)
◇世界大戦の展望とスターリン官僚制
「双子星――ヒトラーとスターリン」(『反対派ブレティン』第
81号、1940年1月27日発表)「世界情勢と展望」(『反対派ブレティン』第
82/83号、1940年2月14日)「フィンランドの経験後のスターリン」(『反対派ブレティン』第
82/83号、1940年3月13日)
◇ソ連の性格をめぐるアメリカSWP内の論争(3)――SWPの分裂
「掻き傷から壊疽の危険へ」(→『マルクス主義の擁護』)(『反対派ブレティン』第
82/83号、1940年1月24日)「マルティン・アーベルへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年1月29日)「アルバート・ゴールドマンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年2月10日)「アルバート・ゴールドマンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年2月19日)「党に帰れ!」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年2月21日)「『科学と文体』」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年2月23日)「ジェームズ・キャノンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年2月27日)「ジョセフ・ハンセンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年2月29日)「ファレル・ドッブズへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年3月4日)「ファレル・ドッブズへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年4月4日)「ファレル・ドッブズへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年4月16日)「小ブルジョア道徳家とプロレタリア党」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年4月23日)「フィンランド事件のバランスシート」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年4月25日)
◇帝国主義戦争に関する第4インターナショナルの宣言
「ソ連邦労働者への公開状」(
1940年5月)「帝国主義戦争とプロレタリア世界革命に関する第4インターナショナルの宣言」(
1940年5月)「第4インターナショナルの宣言について」(
1940年5月22日)
◇田中メモ
「田中メモ」(
1940年5月)「日本の侵略計画」(
1940年5月1日)
◇トロツキー暗殺未遂と中傷に対する闘争
「職業的中傷者への提案」(
1940年5月14日)「メキシコ司法長官への手紙」(
1940年5月27日)「告発者か被告人か」(
1940年5月28日)「トレダーノ議員は新しい中傷を煽る」(
1940年6月2日)「スターリンは私を暗殺しようとしている」(
1940年6月8日)「『ネーション』誌の爬虫類」(
1940年6月18日)「ゲ・ペ・ウは中傷によって殺人を隠蔽しようとした」(
1940年6月25日)「パボム・フロレス、ゲ・ペ・ウの弁護人」(
1940年7月3日)「7月2日の審理に対する補足的陳述書」(
1940年7月3日)「マスコミへのアピール」(
1940年7月27日)「『ヘラルド・トリビューン』紙への手紙」(
1940年7月27日)
◇アメリカ問題の討論
「アメリカの同志との討論」(
1940年6月12日)「アメリカに関するいくつかの質問」(
1940年8月7日)
◇フランスの降伏と今後の展望
「ヨーロッパの破局とクレムリンの役割」(『反対派ブレティン』第
84号、1940年6月18日)「次は何か――われわれは路線を変えない」(『反対派ブレティン』第
84号、1940年6月30日)「スターリンは依然としてヒトラーの衛星である」(
1940年8月2日)
◇ソ連の性格をめぐるアメリカSWP内の論争(4)――SWPと労働者党
「ジェームズ・キャノンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年5月28日)「アルバート・ゴールドマンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年6月5日)「労働者党について」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年8月7日)「アルバート・ゴールドマンへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年8月9日)
◇スターリンの肖像
「ヨゼフ・スターリン」(
1939年9月22日)「スターリンはレーニンを毒殺したか?」(
1940年8月10日発表)『スターリン』(未完成、
1946年発表)
◇トロツキー最後の闘争
「ゲ・ペ・ウの新しいでっちあげ」(
1940年8月2日)「暗殺犯は“トロツキスト”を自称するだろう」(
1940年8月6日)「コミンテルンとゲ・ペ・ウ」(『反対派ブレティン』第
85号、1940年8月17日)
◇アメリカの徴兵問題と戦争に対する態度
「徴兵について――アルバート・ゴールドマンへの手紙」(
1940年7月9日)「いかにして自衛するか」(
1940年8月12日)「いかにして真に民主主義を擁護するか」(
1940年8月13日)「徴兵についてのもう一つの考え方――クリス・アンドルーズへの手紙」(→『マルクス主義の擁護』)(
1940年8月17日)
◇最後の論文と手紙と遺書
「ヒトラーの軍隊の将来」(未完成)
「中国とロシア革命――中国語版『ロシア革命史』序文」(
1940年7月はじめ)「功利主義について」(未完成)
「弁証法と三段論法」(未完成)
「ユダヤ人問題について」(未完成)
「戦争の最初の7ヶ月間に関する断片」(未完成)
「ソ連に関する断片」(未完成)
「戦争と平和に関する著作の断片」(未完成)
「ボナパルチズムとファシズムと戦争」(『反対派ブレティン』第
84号、1940年8月20日、未完成)「
階級と党と指導部――なぜスペイン・プロレタリアートは敗北したか」(1940年8月20日、未完成)「帝国主義の衰退期における労働組合」(未完成)
「暗殺当日に書かれた3通の手紙」(
1940年8月20日)「
遺書」(1940年2月、8月)
◇トロツキーの暗殺
【資料】アメリカ社会主義労働者党中央委員会、ボリシェヴィキ・レーニン主義者ロシア支部代表「われわれはスターリンを弾劾する!」(『反対派ブレティン』第
84号、1940年8月21日)【資料】ジェームズ・キャノン「おやじさんの思い出」(
1940年8月28日)【資料】ジョセフ・ハンセン「最後のトロツキーとともに」(
1940年10月発表)【資料】ナターリア・セドーヴァ「それはこのようにして起こった」(『反対派ブレティン』第
85号、1941年3月発表)【資料】ナターリア・セドーヴァ「父親と息子」(『反対派ブレティン』第
87号、1941年8月発表)
トロツキー研究所 | トップページ | 更新情報 |