階級と党と指導部

――なぜスペイン・プロレタリアートは敗北したか

トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、未完成のままで終わっているトロツキーの最晩年のスペイン革命論である。この論文の中でトロツキーは、スペイン革命の敗北における党と指導部の主体的問題について深い考察を与えている。

 この中でトロツキーは、なぜ「真のボリシェヴィキ=レーニン主義者」がスペイン革命の過程で革命のヘゲモニー勢力になりえなかったのかについても、そうとは直接言っていないが語っている。

 「革命のさなかにあっては事態は急速に発展し、弱小の党であっても、それが革命の過程を明確に理解しているならば、そして美辞麗句に酔わず弾圧を恐れない堅固なカードルを持っているならば、強大な党へと急速に成長しうるものである。しかし、カードルを教育する過程はかなりの時間を要し、革命はそのような時間の余裕を与えてくれはしない。それゆえ、そのような党は、革命に先立って存在していなければならないのである」。

 本稿の最初の邦訳は、『トロツキー著作集 1939-40』下(柘植書房)。今回アップするにあたって、『スペイン革命 1931-39』所収の英訳にもとづいて全面的に修正した。

 L.Trotsky, The Class, the Party, and the Leadership: Why Was the Spanish Proletariat Defeated?, The Spanish Revolution (1931-39), Pathfinder, 1973.


 労働者運動がどれほど後方に投げ返されたかは、大衆諸組織の状態によってのみ測られるのではなく、思想的諸グループの状態と、それら多くのグループが従事している理論的探究の水準によっても測られる。パリで『ク・フェール(何をなすべきか)』という雑誌が発行されている。この雑誌を発行しているグループは、何ゆえか自分たちのことをマルクス主義者だとみなしているが、実際には、左翼ブルジョア知識人と彼らのあらゆる悪徳を摂取している孤立した労働者の経験主義の枠内に完全にとどまっている。

 科学的な基礎を持たず、綱領もいかなる伝統もないグループがどれもそうであるように、この小さな雑誌も、POUM[マルクス主義統一労働者党]のしっぽにしがみつこうとした。彼らには、POUMが大衆と勝利にいたる最短の道であるように思えたのである。しかし、スペイン革命とのこのような結びつきの結果は、一見したところまったく思いがけないものに思える。同雑誌は前進するのではなく、逆に[理論的に]後退したのである。しかし実際には、それはまったく事の本質に根ざしたものだった。小ブルジョア保守主義とプロレタリア革命の要求とのあいだの矛盾はすでに極限にまで発展していた。したがって当然にも、POUM路線を擁護し解説する人々は、政治の領域においても理論の領域においても、はるかに後方に投げ返されてしまったのである。

 『ク・フェール』誌そのものには何の重要性もない。しかし、そこに表現されている傾向は注意に値する。それゆえわれわれは、この雑誌でなされているスペイン革命崩壊の原因分析が、現在エセ・マルクス主義の左派に広く見られる基本的特徴を非常に鮮かに示しているかぎりにおいて、この分析を検討することが有益なことであると考えるのである。

 

   『ク・フェール』誌の説明

 まず最初に、同志カサノバの書いたパンフレット『裏切られたスペイン』()に対する彼らの論評から、そのまま引用しよう。

 「なぜ革命は粉砕されたのか? 著者[カサノバ]は答える。『なぜなら、共産党が誤った政策をとり、不幸にも革命的大衆がそれにしたがったからである』と。では、いったい全体、なぜ革命的大衆はそれまでの指導部から離れて、共産党の旗のもとに結集したのか? 著者はいう。『なぜなら、真の革命党が存在しなかったからである』と。ここにあるのは純然たる同義反復である。大衆の誤った政策も党の未成熟なるものも、一定の社会的諸勢力の状況(労働者階級の未成熟や農民の独立性の欠如)を表現している。まずもってこれらの状態を、事実にもとづいて説明しなければならないし、何よりもまずカサノバ自身がそうしなければならない。さもないと、それは、ある特定の悪意に満ちた人々――ないしそうした人々のグループ――の行動の産物になるだろう。その行動は、唯一革命を救うことのできる『誠実な人々』の努力に一致しない。カサノバは第一のマルクス主義的な道を手探りした後、第二の道をとる。彼はわれわれを純然たる悪魔学の世界へと案内する。敗北に責任のある犯罪者は、悪魔の頭目スターリンであり、アナーキストやその他すべての小悪魔がスターリンをそそのかした。革命家の『神』は残念ながらスペインへ、1917年のロシアのようにはレーニンやトロツキーのような人物を送りたまわなかった、というわけである」。

 そして次のように結論する。「教会の硬直した正統派教義を事実のうえに無理やり押しつけようとすると、こうなるのである」。この理論的尊大さをさらにいっそう際立たせているのは、これほどの短い文章のなかに、まったく保守的な俗物どもに特有の陳腐さや下品さや誤りが驚くほど大量に詰めこまれていることである。

 上に引用した文章の筆者は、スペイン革命の敗北について何らかの説明をすることを避けている。彼はただ、「社会的諸勢力の状況」といった深遠な説明が必要だと指摘するだけである。何らかの説明を回避したのは偶然ではない。ボリシェヴィズムを批判するこれらの連中はすべて、拠って立つ堅固な基盤がないという単純な理由から、理論において臆病なのである。彼らは、自らの破産を暴露しなくてすむよう、事実をこねまわし、他人の意見の周りをうろつく。彼らは、あたかも自らの知恵を完全に叙述する時間がないかのように、暗示とあいまいな考えを示すにとどめる。ところが実際には、彼らには語るべき知恵が何もないのである。彼らの尊大さは知的インチキと肩を並べている。

 わが筆者の暗示とあいまいな考えを一つ一つ分析していこう。彼によれば、大衆の誤った政策は、「社会的諸勢力の状況――すなわち、労働者階級の未成熟と農民の独立性の欠如――を表現する」ものとしてしか説明できない。同義反復というのなら、一般的にいって、これほど平板な同義反復はない。「大衆の誤った政策」が、大衆の「未成熟」によって説明されている。しかし大衆の「未成熟」とはいったい何か? 明らかに誤った政策への陥りやすさである。誤った政策は何によって構成されているのか、そして誰がそれを唱導したのか、大衆かそれとも指導者か? わが筆者は黙ってこの点を通りすぎる。彼は同義反復という手段で、責任を大衆に転嫁する。すべての裏切者と逃亡者とその弁護人たちの用いているこの古典的な詐術は、スぺイン・プロレタリアートとの関係ではとりわけ露骨なものになっている。

 

   裏切者の詭弁

 1936年7月――これ以前の時期には触れないでおく――、スペインの労働者は、「人民戦線」の庇護のもとで謀略を準備した将校たちのクーデターを撃退した。大衆は即興的に民兵を組織し、将来におけるプロレタリア独裁の拠点たる労働者委員会を創出した。他方、プロレタリアートの指導的諸組織は、ブルジョアジーがこれらの労働者委員会を破壊するのを助け、私的所有に対する労働者の攻撃を一掃し、労働者民兵隊をブルジョアジーの指揮下に従属させるのを助けた。さらにPOUMはカタロニア政府に参加し、この反革命の政策に対する責任を直接引き受けた。

 この場合、プロレタリアートの「未成熟」とは何を意味するのか? 明らかにただ一つのことだけである。すなわち、大衆は、正しい政治路線を選択していたにもかかわらず、社会党、スターリニスト、アナーキスト、POUMによるブルジョアジーとの連立政府を粉砕することができなかった、ということである。つまり、この種の詭弁は何らかの絶対的な成熟の概念をその出発点としているということである。すなわち、正しい指導部を必要としないばかりか、自らの指導部に対立しても勝利しうるような大衆の完全無欠な状態を前提しているのだ。このような「成熟」は存在しないし、またありえない。

 だがなぜ、あのように正しい革命的本能とあのように卓越した闘争資質を発揮した労働者が、裏切者の指導部にしたがうのか?――わが賢者たちはこう反論する。われわれの答はこうだ。純然たる服従の傾向などひとかけらもなかった。労働者の進行方向は常に、指導部の路線に対して一定の角度をなしていたし、最も危機的な瞬間には、この角度は18O度にまでなった。そこで指導部は、直接間接に労働者を武力で制圧することに協力したのである。

 1937年5月、カタロニアの労働者は、自分自身の指導部を持たないばかりか、指導部に対立して決起した。アナーキスト指導者――安っぽく革命家に扮した軽蔑すべき哀れなブルジョアたち――は、新聞で何十回となく繰り返した。もし5月にCNTが権力を奪取し独裁を打ちたてようと望んでいたとしたら、難なくそうすることができただろう、と。この時ばかりはアナーキスト指導部は嘘偽りのない真実を語っている。POUM指導部は実践においてCNTのしっぽにしがみついてきた。彼らはただ、CNTの政策を別の美辞麗句で隠蔽してやっただけである。ブルジョアジーが「未成熟」なプロレタリアートの5月蜂起を粉砕することに成功したのは、このおかげであり、ただそれ以外の理由はない。

 スペインの大衆は単に指導者に従っただけであるというような空虚なことを繰り返すことができるのは、階級と党、大衆と指導部のあいだの相互関係について何一つ理解していない者だけである。言えることはただ一つ、一貫して正しい道への突破口を開こうと努力してきた大衆にとって、闘争の真っ只中で、革命の必要に合致した新しい指導部をつくり出すことは、さすがにその力量を越えたものだったということである。われわれの眼前にあるのは、すぐれて動的な過程である。革命のさまざまな段階が急速に移り変わり、指導部やそのさまざまな部分が急速に階級の敵の陣営に逃亡する。ところが、わが賢者たちは純粋に静的な議論にふけっている、なぜ労働者階級は全体として悪い指導部に従ったのか、と。

 

   弁証法的アプローチ

 進化論的で自由主義的な歴史観にもとづいた古い警句がある――あらゆる国民はそれにふさわしい政府を持つ、と。しかし歴史が示しているように、同一の国民は相対的に短い期間内に、著しく異なった政府を持ちうるし(ロシア、イタリア、ドイツ、スペイン等々)、しかも、これらの政府は同じ順序で(自由主義的進化論者が想像したように、独裁から自由へ、というふうに)登場するものではまったくない。その秘密は、一つの国民が敵対する諸階級からなり、さらに諸階級それ自身も、部分的には対立するさまざまな階層からなっており、この階層はそれぞれ異なった指導部のもとに結集する、という点にある。しかもそれぞれの国民が、同じくさまざまな階級からなる他国の国民の影響下にある。政府は、「国民」の系統的に増大する「成熟」を表現するものでなく、さまざまな階級間の闘争と同一階級内部のさまざまな階層間の闘争の産物であり、さらには、外的諸勢力の行動――諸国間の同盟、対立、戦争、その他――の産物でもある。さらにつけ加えなければならないのは、政府というものはいったん確立されれば、その政府を作り出した諸勢力間の関係よりもはるかに長い期間にわたって存在しつづけるという点である。革命やクーデターや反革命等々が起こるのは、まきしくこの歴史的矛盾からなのである。

 以上とまったく同じ弁証法的アプローチは、一階級の指導部の問題を扱うにあたっても適用されなければならない。自由主義者にならって、『ク・フェール』誌の賢者たちは、あらゆる階級はそれにふさわしい指導部を持つという格言を暗黙のうちに受けいれる。しかし実際には、指導部はけっして単に階級を「反映」するものでもなければ、その階級自身の自由な創造物でもない。指導部というものは、さまざまな階級間の衝突と当該階級内のさまざまな階層間の摩擦の過程を通して形成される。こうしていったん指導部ができあがると、それは必然的にその階級の上にそびえ立ち、それゆえ、他の諸階級の圧力と影響を受けやすくなる。すでに完全な内的堕落をこうむっているが、大事件を通してこの堕落を露わにする機会をまだ持っていない指導部を、プロレタリアートが長期間にわたって「許容」することはありうる。

 指導部と階級とのあいだの矛盾が鋭く暴露されるには、大きな歴史的衝撃が必要なのである。最も強力な歴史的衝撃は戦争と革命である。まさにそれゆえ、労働者階級はしばしば、戦争と革命に不意を打たれるのである。しかし、旧指導部がその内的腐敗をすでに暴露している場合でさえ、当該階級がただちに新しい指導部を即興的に形成しうるとはかぎらない。とりわけ、当該階級がそれ以前の時期から、古い指導的政党の崩壊を利用して行動しうる強力な革命的カードルを引き継いでいない場合にはそうである。階級とその指導部とのあいだの相互関係に関するマルクス主義的な解釈、すなわち弁証法的であってスコラ的ではない解釈を行なうならば、『ク・フェール』誌の筆者の合法主義的詭弁は一つ残らずくつがえされてしまうのである。

 

   いかにしてロシア労働者は成熟したか

 彼は、プロレタリアートの成熟をなにか純粋に静的なものとして考えている。しかし、革命のさなかにあっては、ある階級の意識は革命の進路を直接的に決定する最も動的な過程なのである。1917年の1月に、あるいはツァーリズムが打倒されたあとの3月においてさえ、ロシア・プロレタリアートが今後8〜9ヶ月のうちに権力を奪取するほどに「成熟」しているかどうかという問いに答えることができただろうか?

 労働者階級は当時、社会的にも政治的にもきわめて不均質であった。大戦中にすでにプロレタリアートの30〜40パーセントが小ブルジョアジーの出身者によって置きかえられた。彼らはしばしば反動的であり、後進的な農民や、女性、青年などが含まれていた。1917年3月の時点でボリシェヴィキ党を支持していたのは、労働者階級の取るに足りない小部分にすぎず、しかも、党そのものの内部に種々の対立が存在した。労働者の圧倒的多数が支持していたのはメンシェヴィキと社会革命党、すなわち保守的な社会愛国主義者の党であった。軍隊と農民に関しては、状況はさらに不利だった。さらにつけ加えておかなければならないのは、ロシアの全般的な文化水準が低く、農民や兵士は言うにおよばず、プロレタリアートの広範な層においても政治的経験が欠けていたことである。とくに地方においてはそうであった。

 では、ボリシェヴィズムの優位性はどの点にあったのか? 革命の開始時点において、明確で徹底的に考えぬかれた革命的展望を持っていたのはレーニンだけであった。党のロシア人カードルは分散しており、かなり途方に暮れていた。しかし党は先進前労働者のあいだで権威があった。レーニンは党のカードルに対して大きな権威を持っていた。レーニンの政治的展望は革命の現実の発展に合致し、新たな事件によって絶えず補強されていった。このような優位性は、革命情勢の中で、すなわち激烈な階級闘争のなかで奇跡をなしとげた。党はすばやくその政策をレーニンの思想に合致させ、したがってまた革命の現実の進路に合致させた。そのおかげで党は、何万人もの先進的労働者の堅固な支持を得たのである。数ヶ月のうちに党は、革命の発展に依拠することによって、労働者の多数派にそのスローガンの正しさを確信させた。そして、ソヴィエトに組織されたこの多数派が兵士と農民を引きつけたのである。

 この動的な弁証法的過程を、プロレタリアートの成熟ないし不成熟という定式によってどのように汲みつくせるというのか? 1917年の2月ないし3月において、ロシア・プロレタリアートの成熟を表現した巨大な要素は、レーニンその人であった。彼は空から降ってきたのではない。彼はロシア労働者階級の革命的伝統を人格化していた。レーニンのスローガンが大衆に届くためには、いかに最初その数が小さなものであったとしてもカードルが存在しなければならなかった。カードルと指導部とのあいだに信頼関係がなければならないし、この信頼関係は過去の経験の総体にもとづいたものでなければならない。これらの諸要素を考慮の対象からはずすことは、生きた革命を無視し、それを「力関係」という抽象によって置きかえることしか意味しない。なぜなら、革命の発展を構成するものこそまさに、プロレタリアートの意識の変化の衝撃のもとで力関係が絶え間なく急速に変化すること、後進的諸階層が先進的階層にひきつけられ、さらに先進的階級が自らの力に対する確信を増大させることだからである。そしてこの過程における決定的推進力は党であり、党の発展力学における決定的な推進力はその指導部である。このように革命期における指導部の役割と責任は巨大なのである。

 

   「成熟」の相対性

 10月の勝利は、ロシア・プロレタリアートの「成熟」を示す重大な指標である。しかしこの成熟は相対的である。数年後、この同じプロレタリアートは、その隊列から生まれた官僚体制が革命を圧殺することを可能にした。勝利はけっして、プロレタリアートの「成熟」の「熟した」果実ではない。勝利は戦略的課題である。大衆を動員するためには、革命的危機の有利な諸条件を利用しなければならない。大衆の「成熟」の当該水準を出発点にして、それをいっそう発展させ、大衆に教え理解させなければならない――敵がけっして全能ではないこと、敵は諸矛盾によってばらばらに引き裂かれていること、そして堂々たる外観のうしろにはパニックが充満していることを。もしボリシェヴィキ党がこの任務の遂行に失敗していたら、プロレタリア革命の勝利などまったく問題になりえなかっただろう。ソヴィエトは反革命によって粉砕されていただろうし、あらゆる国の賢者たちは、ロシアのプロレタリアートはあまりにも数の上で少数で未成熟であり、したがってロシアのプロレタリアート独裁を夢みることができるのは現実ばなれした夢想家でしかないといった基調の論文と書物をさんざん書きたてたことだろう。

 

   農民の補助的役割

 同様に抽象的で衒学的で誤っているのは、[スペイン革命の敗北の原因として]農民の「独立性の欠如」に言及していることである。だが、そもそもわが賢者は、いったいいつどこで、資本主義社会の農民が独自の革命的綱領を掲げたり、独立した革命的イニシアチブの能力を発揮したりするのを目撃したことがあるのか? 農民が革命のなかできわめて重大な役割を果たすことはありうる。しかし、それはあくまで補助的な役割である。

 スペインの農民はしばしば大胆に行動し勇敢に闘った。しかし農民全体を立ちあがらせるには、プロレタリアートがブルジョアジーに対する決定的な蜂起によって農民に範を示し、勝利の可能性に対する確信を農民に植えつけなければならなかった。ところが、この間、プロレタリアートの革命的イニシアチブそのものが、彼ら自身の組織によって一歩ごとに麻痺させられたのである。

 プロレタリアートの「未成熟」と農民の「独立性の欠如」は、歴史的諸事件における最終的要素でも基本的要素でもない。階級意識の基礎にあるのは、階級そのもの、その数的な力と経済活動におけるその役割である。そして階級の基礎にあるのは特殊な生産システムであり、このシステムはシステムで生産力の発展水準によって規定されている。とすれば、なぜ、スペイン・プロレタリアートの敗北は技術の低水準によって決定されたと言わないのか?

 

   個人の役割

 『ク・フェール』誌の筆者は、歴史的過程の弁証法的な条件づけの代わりに、機械論的な決定論を用いている。ここから、個人――善人ないし悪人――の役割に関する安っぽい冷笑が生まれるのである。歴史は階級闘争の過程である。しかし諸階級が、自動的かつ同時にそのすべての力を発揮するわけではない。闘争の過程の中で諸階級はさまざまな機関を創出し、これらの機関は重要で独立した役割を果たし、種々の変質を被る。このことこそが、歴史における個人の役割にとっての基礎を与えるのである。言うまでもなく、ヒトラーの独裁的な支配を生み出した大きな客観的諸原因が存在するが、今日、ヒトラー個人の巨大な歴史的役割を否定しうるのは、「決定論」に取りつかれた頭の鈍い衒学者だけであろう。1917年4月3日にレーニンがペトログラートに到着したおかげで、ボリシェヴィキ党は時間的に間にあって転換を遂げ、革命を勝利に導くことができたのである。

 わが賢者たちなら、もしレーニンが1917年の初めに国外で死んでいても、10月革命は「まったく同様に」起こっていたと言うことだろう。しかしそうではない。レーニンは歴史的過程の生ける諸要因の一つであった。レーニンは、プロレタリアートの最も能動的な部分の経験と洞察力を人格化していた。前衛を動員し、前衛が労働者階級と農民大衆を結集する機会を得るためには、レーニンが革命の舞台に時機を失せず登場することが必要であった。歴史的転換の決定的瞬間においては、政治的指導部が決定的な要因になる。それはちょうど、戦争の危機的瞬間にあって、最高指揮官の役割が決定的な要因になるのとまったく同じである。歴史は自動的な過程ではない。さもなくば指導者が、党が、綱領が、理論闘争が、いったいなぜ必要なのか?

 

   スペインにおけるスターリニズム

 「ではいったいなぜ――とわが筆者は、すでに引用したように、尋ねる――革命的大衆はそれまでの指導部から離れて、共産党の旗のもとに結集したのか?」。問題の立て方が間違っている。革命的大衆がそれまでの指導部のすべてから離れたというのは事実ではない。以前から特定の組織と結びついていた労働者は、それらの組織にしがみついたまま、情勢を観察し検証していた。一般的にいって労働者は、自らを意識的生活に目覚めさせた党から、簡単に決別したりはしない。さらに、「人民戦線」内部の相互保障の存在によって、労働者は安心しきっていた――みんなの意見が一致している以上、万事大丈夫にちがいない、と。新たに登場した大衆は自然とコミンテルンの方に向いた。なぜなら、コミンテルンはプロレタリア革命を勝利に導いた唯一の党であり、しかもスペインに武器を保証することができると期待されていたからである。

 しかもコミンテルンは、「人民戦線」の思想を最も熱心に擁護していた。このことは、労働者のより経験の乏しい層のあいだに共産党への信頼を呼び起こした。人民戦線内部では、コミンテルンは革命のブルジョア的性格の最も熱心な擁護者であった。このことは、小ブルジョアジーと一部の中ブルジョアジーのあいだに共産党への信頼を呼び起こした。かくして大衆が、「共産党の旗のもとに結集した」のである。

 『ク・フェール』誌の筆者は、あたかもプロレタリアートが、品数の多い靴屋で長靴の選択をしているかのように事態を取り扱っている。周知のように、商品の選択のような単純なことでも、いつもうまくいくわけではない。ましてや、新しい指導部に関しては、その選択肢はきわめてかぎられている。大衆の広範な層が、新しい指導部が旧指導部よりも確固とした信頼しうる誠実なものであるとの確信を抱くのは、ただ漸次的にのみであり、いくつもの段階を経た自分自身の経験にもとづく場合のみである。たしかに、革命のさなかにあっては事態は急速に発展し、弱小の党であっても、それが革命の過程を明確に理解しているならば、そして美辞麗句に酔わず弾圧を恐れない堅固なカードルを持っているならば、強大な党へと急速に成長しうるものである。しかし、カードルを教育する過程はかなりの時間を要し、革命はそのような時間の余裕を与えてくれはしない。それゆえ、そのような党は、革命に先立って存在していなければならないのである。

 

   POUMの裏切り

 POUMはスペインのあらゆる諸党派の左に位置し、それまでアナーキズムとの固い結びつきを持っていなかった革命的プロレタリア分子を疑いもなく結集していた。そして、スペイン革命の発展のなかで決定的な役割を演じたのも、まさしくこのPOUMであった。POUMは大衆的な党になることができなかった。なぜならそうするためには、まずもって旧諸党派を転覆しなければならず、その転覆は非和解的な闘争によってのみ、それらの党派のブルジョア的性格を容赦なく暴露することによってのみ可能になるからである。

 しかしPOUMは、一方で旧諸党派を批判しながら、あらゆる根本的諸問題においてそれらの党派に従属した。POUMは「人民戦線」の選挙ブロックに参加し、労働者委員会を根絶する政府に入閣し、この連立政府を再建する闘争に従事し、再三にわたってアナーキスト指導部に屈服した。さらにPOUMは、以上のことと関連して、誤った労働組合政策を実行し、1937年5月の蜂起に対して優柔不断で非革命的な態度をとった。

 一般的な決定論の立場からすれば、言うまでもなく、POUMの政策が偶然的なものではなかったとみなすことは可能である。この世界においては、万事に原因があるのだから。しかしPOUMの中間主義を生みだした一連の原因は、けっしてスペイン・プロレタリアートないしカタロニア・プロレタリアートの状況の単なる反映ではない。二つの因果関係が一定の角度で相互に接近し、ある瞬間に敵対的に衝突したのである。

 もちろん、POUMがなぜ中間主義の党派として登場したのかを政治的・心理的に説明するのに、それ以前の国際的経験や、モスクワの影響力、幾多の敗北から受けた影響などを考慮に入れることは可能である。しかしだからといって、POUMの中間主義的性格が変わるわけではないし、中間主義党派がつねに革命のブレーキとなり、そのたびごとに自分自身の頭を打ち砕き、場合によっては革命の崩壊をももたらすという事実が変わるわけでもない。また、カタロニアの大衆がPOUMよりもはるかに革命的であったこと、POUMそれ自身がPOUM指導部より革命的であったこと、これらの事実が変わるわけでもない。以上のような状況のもとで、誤った政策の責任を大衆の「未成熟」に転嫁することは、政治的に破産した連中がしばしば訴える純然たるインチキ行為に従事することを意味する。

 

   指導部の責任

 歴史の偽造はまさに、スペイン大衆の敗北の責任を、大衆の革命運動を麻痺させ、あるいはそれを文字どおり粉砕した諸党派にではなく、労働者大衆自身に転嫁している点にある。POUMの弁護人はあっさりと指導者の責任を否定するが、それはこうすることで自分自身が責任を負うことを避けるためである。宇宙の発展の連鎖における欠くべからざる一環だとして敗北を受け入れるこの無力な哲学は、綱領や党、敗北の組織者たる個人といった具体的な諸要因を問題として提出することはできないし、そうするのを拒否する。こうした運命論と士気阻喪の哲学は、革命的行動の理論としてのマルクス主義と真向から対立する。

 内戦は、政治的諸課題が軍事的手段によって解決される過程である。だから、もしこの戦争の結果が「階級的諸勢力の状況」によってあらかじめ決定されているのであれば、この戦争そのものが必要でないことになる。戦争には、それ自身の組織、それ自身の政策、それ自身の方法、それ自身の指導部があり、これらによって戦争の運命が直接的に決定される。もちろんのこと、「階級的諸勢力の状況」は他のあらゆる政治的諸要因の土台を与える。しかし、建造物の土台によって、壁や窓、扉、屋根などの重要性が低下しないのと同様に、「諸階級の状況」によって、諸政党とそれらの戦略や指導部の重要性が無効になりはしない。具体的なものを抽象的なものに解消することによって、わが賢者たちは実際には中途で停止しているのである。問題の最も「深遠な」解決は、スペイン・プロレタリアートの敗北は生産力の発展の不十分さのせいであると宣言することであったろう。このような万能鍵なら、どんな愚か者でも使うことができる。

 これらの賢者たちは、党とその指導部の重要性をゼロに帰することによって、基本的に革命の勝利の可能性そのものを否定しているのである。なぜなら、これ以上有利な条件を期待する根拠などまったくないからである。資本主義は前進することをやめた。プロレタリアートの数は増大せず、反対に失業者軍が増大し、それによってプロレタリアートの戦闘能力は増大するのではなく減少している。そしてそれはまた、プロレタリアートの階級意識にマイナスの影響を与えている。同様に、資本主義体制のもとで農民が、これ以上高い革命的意識性に到達しうると信じる根拠もまったくない。かくして、『ク・フェール』誌の筆者の分析から出てくる結論は、完全なペシミズムであり、革命的展望の喪失である。公平な言いかたをすれば、これらの賢者たちは、自分の言っていることを理解していないのである。

 実際のところ、彼らが大衆の意識性に対して課している要求は、まったく空想的なものである。スペインの労働者もスペインの農民も、革命情勢において両者がなしうる最大限のことを行なった。われわれがここで念頭においているのは、まさしく何百万、何千万という人々からなる階級である。

 階級闘争の発展と反動の襲来に恐れおののき、ちっぽけな雑誌を発行し、大衆運動はおろか革命理論の現実の発展からも離れて片隅で理論的習作を行なっている小サークルや教会やチャペルが存在するが、『ク・フェール』誌はその一つにすぎない。

 

   革命の圧殺

 スペインのプロレタリアートは、帝国主義者、スペイン共和主義者、社会党、アナーキスト、スターリニスト、そして最左翼のPOUMによって構成された連立政府の犠牲となった。彼らはよってたかって、スペインのプロレタリアートが実現しはじめていた社会主義革命を麻痺させた。社会主義革命を片づけるのは容易なことではない。いまだに、容赦のない弾圧、前衛の虐殺、指導者の処刑といった方法以外の方法を発明した者はいない。もちろんPOUMは、これらを望まなかった。しかし一方では、POUMは共和国政府に参加し、忠実な平和愛好の野党として支配諸政党のブロックに入ろうとした。他方ではPOUMは、無慈悲な内戦が問題になっているときに、平和的な同志的関係をつくり出そうとした。まさにそれゆえ、POUMは自らの政策の矛盾の犠牲となったのである。

 支配諸政党のブロックの中で、最も首尾一貫した政策をとったのはスターリニストであった。彼らは、ブルジョア共和派内における反革命の戦闘的前衛であった。彼らは、スペインおよび全世界のブルジョアジーに対して、自分たちこそが「民主主義」をの旗のもとにプロレタリア革命を絞殺しうることを証明することによって、ファシズムの必要性をなくすことを望んでいた。これが彼らの政策の核心である。

 スペイン「人民戦線」の破産者たちは現在、ゲ・ぺ・ウに非難の矛先を向けようとしている。われわれもゲ・ぺ・ウの犯罪にはいささかも寛大でないと請け合うことができる。しかし、われわれは明確に事態を見すえ、労働者にはっきりと語る――ゲ・ペ・ウは今回の場合、最も決然たる部隊として「人民戦線」に仕えたにすぎない、と。ゲ・ぺ・ウの力はそこにあったのであり、スターリンの歴史的役割もそこにあったのである。「悪魔の頭目」などというくだらない冗談でこの事実を否定しうるのは、無知蒙昧な俗物だけである。

 これらの紳士たちは、スペイン革命の社会的性格という問題にわずらわされない。モスクワの従僕たちは、イギリスとフランスの利益のために、スペイン革命はブルジョア革命であると宣言した。そしてこの欺瞞のうえに、「人民戦線」の裏切りの政策が打ち立てられたのである。その政策は、たとえスペイン革命が本当にブルジョア革命であったとしても完全な誤りであった。しかしスペイン革命は、そもそもの最初から、ロシアの1917年革命よりもはるかにありありとそのプロレタリア的性格を露わにしていた。今日、POUM指導部の一員である紳士たちは、アンドレウ・ニン()の政策があまりにも「左翼主義」であり、真に正しい政策は「人民戦線」内の最左翼にとどまることであったとみなしている。しかし真の不幸は、ニンがレーニンと10月革命の権威で自分の身を飾りながら、「人民戦線」と決裂する決意を固めることができなかったことにある。

 ヴィクトル・セルジュ()は、重大な問題に対して軽薄な態度をとることで自分の面目をつぶす機会を逃さない男だが、その彼は、ニンがオスロやコヨアカンからの指令に服したくなかったのだと書いている。およそ真面目な人間が、革命の階級的内実という問題をくだらないゴシップに仕立てあげるなどということは、本当にありうることだろうか? 『ク・フェール』誌の賢者たちも、この問いに対するいかなる回答も持ち合わせていない。彼らは問いそのものが理解できない。ブルジョア・アナーキストが、ブルジョア共和派とそれに劣らずブルジョア的な社会党やスターリニストと同盟して、プロレタリア革命を攻撃し絞殺しようとしているときに、POUMは全力をあげてそのブルジョア・アナーキストと決裂しないように努めていた。このような中で「未成熟」なプロレタリアートが自らの権力機関を樹立し、企業を接収し、生産を管理しようとしたのである。この事実が実際どれほど大きな重要性を持っていることか! どうやらこのような「些事」は、「硬直した正統派」の代表者にのみ興味があることなのだろう。その代わりに『ク・フェール』誌の賢者たちは、革命的な階級的戦略のあらゆる問題から独立にプロレタリアートの成熟度と力関係とを測る特別の道具を持っている……(ここで中断)

1940年8月20日、未完成

『スペイン革命 1931-39』(パスファインダー社)所収

『トロツキー著作集 1939-40』下(柘植書房)より

  訳注

(1)同志カサノバの書いたパンフレット『裏切られたスペイン』……第4インターナショナルのスペインにおける指導者、M・カサノバが、革命敗北直後の1939年3月にピレネー国境の町ペルピニャンで書いたもの。

(2)ニン、アンドレウ(アンドレス)(1892-1937)……スペイン共産党の創始者、スペイン左翼反対派の指導者。最初はサンディカリストで、10月革命の衝撃で共産主義者に。左翼反対派の闘争に参加し、1927年に除名。スペインの左派共産党(国際左翼反対派のスペイン支部)を結成。その後トロツキーと対立し、1935年にホアキン・マウリンらを指導者とするカタロニア労農ブロックと合同して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。1936年の人民戦線に参加。カタロニアの自治政府の司法大臣に。スターリニストの策謀で閣僚を解任され、1937年、スターリニストの武装部隊に拉致され、拷問の挙句、虐殺される。

(3)セルジュ、ヴィクトル(1890-1947)……ロシア人を両親にもつフランスの作家・著述家 。最初アナーキスト。1917年のロシア革命に共感し、1919年にペトログラードに行き、コミンテルンの一員として活動。1926年、左翼反対派に。1933年にソヴィエト当局に逮捕・流刑。フランスでセルジュ釈放を求める知識人・文化人の運動が高まり、1936年に釈放。ヨーロッパに亡命し、第4インターナショナルに協力するが、スペイン革命やクロンシュタットなどの問題をめぐりトロツキーと対立、両者の関係は疎遠に。1940年、メキシコに亡命。著作多数。

 

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1930年代後期