帝国主義のミステリー
トロツキー/訳 西島栄
【解説】本稿は、ファシストのフランコと内戦を繰り広げていた共和制スペインに対する支援を拒否してきたイギリスとフランスの両国が、フランコの勝利後に、スペインへのドイツ軍とイタリア軍の駐留継続に猛反対していることを取り上げ、「民主主義の友」「平和の友」を称するこれらの帝国主義的民主主義国の偽善と陰謀劇(ミステリー)を暴露した論文である。
なお、本稿は本邦初訳。
Л.Троцкий,Мистерии империализма, Бюллетень Оппозиции, No.75-76, Март 1939.
社会党のレオン・ブルム(1)と保守党のチェンバレン(2)は、同じ程度で「平和」の友であり、スペイン問題への不干渉に賛成の立場であった。元ボリシェヴィキのスターリンは、元メンシェヴィキのマイスキー (3)
[当時の在イギリス大使]を通じて、彼らと手をたずさえて進んだ。計画の微妙な差は、彼らが同一の高尚な目的のために友好的に協力することを妨げはしなかった。しかしながら、現在、チェンバレンは、もしフランコの承認後にイタリアとドイツがいわゆる「義勇兵」を引き上げないならば、イギリスは最も極端な手段をとる用意があるし、戦争を前にしても躊躇はしないと宣言している。急進社会党のダラディエ(4)もまた「不干渉」政策への有名な支持者であるが、彼もまたこの問題でチェンバレンを全面的に支持している。これらのジェントルマンたちは、平和への愛ゆえに、これまで民主主義を武力でもって擁護することを拒否していた。しかし、どんなものにでも限界はある。これらの鍛え抜かれた人道愛好者たちの平和愛好にさえ限界はあるのだ。チェンバレンは公然とこう述べている。「イベリア半島におけるイタリア軍とドイツ軍の駐留は、地中海の『均衡』を破壊した。これは絶対に容認することはできない!」と。
イギリスとフランスはスペインの民主主義を支援する姿勢をけっして見せたことはなかった。しかし、フランコが両国の黙認のおかげでスペインの民主主義を圧殺することができた現在、両国には地中海における武装『均衡』を支持する用意が十分にある。しかし、この神秘的な用語
[「均衡」]は、奴隷所有者が自らの植民地領有を擁護すること、そして、その領有をもたらす海路を防衛することを意味する。第2インターナショナルと第3インターナショナルの紳士諸君に謹んでお尋ねする。全世界の民主主義を守るための、約束された偉大な連合を実現するには、いったいどのような歴史的、政治的、その他の条件が必要なのか、と。フランス政府は「人民戦線」に依拠していた。スペインにおける「人民戦線」の闘争は、民主主義の名のもとに遂行された。民主主義を防衛する義務をこれほど有無を言わせぬ形で想起させるような事例を思いつくことができるだろうか? 「人民戦線」に依拠した「社会主義
[社会党]」政府が、同じく「社会主義者[社会党]」に率いられた民主主義の防衛を拒否するならば、民主主義防衛の課題を遂行するのは、いったい、いつ、どこで、どんな政府のもとでなのか? 社会民主党とコミンテルンの御用知識人はそれでもこのことをわれわれに説明してくれるのか?実際には、この二つの帝国主義的民主主義国は、その支配階級を筆頭にして、最初から完全にフランコの側に立っていたのである。ただ両国は、フランコが勝利する可能性を最初のうちは信じておらず、時期尚早にフランコへのシンパシーを露わにすることで自分の権威を失墜させることを恐れていただけなのである。しかしながら、フランコの勝算が増大するにつれて、「偉大な民主主義国」の支配階級の真実の顔がますますはっきりと、ますます公然と、ますます恥知らずな形で暴露されていった。大英帝国もフランスも非常によく知っている、植民地諸国、半植民地諸国、ないし単なる弱小民族が民主主義体制ないしエセ民主主義体制のもとにあるよりも軍事独裁体制のもとにある方が、はるかに容易にこれらの国や民族に指令することができることを。
イギリスの保守党政権と同盟することは、フランス衆議院の極反動分子にとってと同様、「社会主義的」小ブルジョアであるブルムにとっても不変の方針である。この方針は、フランスの証券取引所から発している。スペインに対するイギリスの計画は、最初からはっきりしていた。殴り合いをさせておこう。誰が勝利しようと、国の経済復興のための資金は必要になるだろう。ドイツもイタリアもこの資金を与えることはできない。したがって勝者は、ロンドンに、部分的にはパリに顔を向けなければならないだろう。こうして必要な条件を相手に命じることができるようになる、と。
ブルムは最初からイギリスの計画の陰謀劇(ミステリー)に非常によく通じていた。彼は自分自身の計画を持ちえない。なぜなら、彼の準社会党政府は全面的にフランス・ブルジョアジーに依存し、フランス・ブルジョアジーはイギリス・ブルジョアジーに依存しているからである。ブルムは民主主義の救済よりも世界平和の救済の方が神聖な任務であると叫んだ。しかし実際には、彼はイギリス資本の企図を覆い隠してやっていたのである。この汚い仕事をやり遂げたのち、ブルムは、フランス・ブルジョアジーによって野党の陣営に追いやられ、再び、スペイン共和制を援助する神聖な義務について叫ぶ機会を与えられるのである。安っぽい左翼的美辞麗句なしには、ブルムは、決定的な瞬間に、これほどまでに裏切り的な形でフランス・ブルジョアジーに奉仕することはできなかったろう。
モスクワの外交官もまた、もちろん、スペイン民主主義のために奥歯に物のはさまったような言い方でぶつぶつと語っている。このスペイン民主主義こそ、モスクワの政策が破壊した当のものなのだが。しかし、モスクワでは、今や彼らはきわめて慎重な物言いをしている。なぜなら、そこでは、ベルリンへの道が模索されているからである。モスクワのボナパルチストは、自分たちの支配を1週間でも長く引き伸ばすことができるなら、世界のすべての民主主義を――国際プロレタリアートは言うまでもなく――いつでも裏切るつもりである。スターリンもヒトラーもはったりから始めるかもしれない。どちらもチェンバレンやダラディエを、あるいはルーズベルトさえも脅かしたがっている。しかし、「民主主義的」帝国主義者が脅かされないならば、はったりは、モスクワやベルリンで予想されていたよりもはるかに先に進むことになるかもしれない。自らのマヌーバーを隠蔽するためには、クレムリンの徒党どもには第2インターナショナルと第3インターナショナルの指導者の協力が必要であり、この協力がそれほど高くつくものではないだけになおさらである。
大雑把に言えば、社会愛国主義者の紳士諸君は、意識的な卑劣漢と半ば本当の愚か者に分かれる。もっとも、中間的なタイプや混合的なタイプも少なくないのだが。かつてこれらの紳士たちは、「不干渉」の卑劣なコメディを容認し、スターリンがプロレタリア・スペインを圧殺するのを助けた。だが、共和制スペインも抹殺されたことがわかったとき、彼らは抗議のしるしに肩をすくめただけで、「人民戦線」も「民主主義の同盟」も拒否することはけっしてしなかった。帝国主義の陰謀劇(ミステリー)において、これらの連中は不可避的に最も屈辱的で最も破廉恥な役回り演じるのである。
スペイン人民の血管には、なお使い果たされていない血液が残っている。誰がそれを意のままにするのだろうか? ヒットラー=ムッソリーニか、フランスの助手を従えたチェンバレンか? この問題は、次の時期における帝国主義諸国間の力関係の中で決定されるだろう。平和のための闘争、民主主義のための闘争、人種のための闘争、名誉のための闘争、秩序のための闘争、均衡のための闘争、その他何十という高尚で抽象的な事柄のための闘争は、新しい世界分割のための闘争を意味する。スペインの悲劇は、新しい世界大戦の準備に向けた途上の一エピソードとして歴史の中に入るだろう。あらゆる毛色の支配階級は、新しい世界大戦を恐れながらも、全力を尽くしてそれを準備している。「人民戦線」のペテンは、帝国主義者の一部にとって、その企図を人民大衆から覆い隠すのに役立っている。それはちょうど、別の悪党が血統や名誉や人種に関する空文句を同じ目的のために利用しているのと同じである。小ブルジョア的おしゃべり屋や美辞麗句の徒は、剥き出しの真実を労働者が直視するのを妨げることによって、帝国主義者が戦争を準備するのを容易にしてやっているだけなのである。
こうして、さまざまな発端から、さまざなま方法によって、またしても諸国民の新たな殺し合いが準備されている。人類を破壊と破滅から救うことができるのはただ、プロレタリアートの前衛を帝国主義者とその下僕から引き離すことによってのみである。プロレタリア政治の完全な独立。帝国主義――ファシスト的および民主主義的なそれ――の陰謀劇に対する全面的な不信。第2インターナショナルと第3インターナショナルに対する容赦のない闘争。そして、国際プロレタリア革命の断固とした系統的で倦むことのない準備!
1939年3月4日
『反対派ブレティン』第75・76合併号
新規、本邦初訳
訳注
(1)ブルム、レオン(1872-1950)……フランス社会党の指導者。ジョレスの影響で社会主義者となり、1902年に社会党入党。1920年、共産党との分裂後、社会党の再建と機関紙『ル・ポピュレール』の創刊に努力。1925年、社会党の党首に。1936〜37年、人民戦線政府の首班。社会改良政策をとったが、スペインの内戦に不干渉の姿勢をとる。第2次大戦中、ドイツとの敗北後、ヴィシー政府により逮捕。ドイツに送られる。戦後、第4共和制の臨時政府首相兼外相。
(2)チェンバレン、アーサー・ネヴィル(1869-1940)……イギリスの保守党政治家。ジョゼフ・チェンバレンの息子、オースティン・チェンバレンの弟。1918〜40年、下院議員、22年以降に大臣を歴任。1937年、首相。対独宥和政策を推進者で、38年のミュンヘン会談でファシスト・ドイツとの妥協政策を実現させたが、この会談はファシストを勢いづかせる結果になっただけであった。1939年、ドイツのポーランド侵攻によってドイツに宣戦布告したが、その後も曖昧な姿勢で戦争を指導した。1940年に首相を辞任し、対独強硬派のチャーチルと交代した。
(3)マイスキー、イワン(1884-1975)……元メンシェヴィキの外交官。1900年にオムスクで社会民主主義運動に参加。1903年の党分裂の際にメンシェヴィキに。その後亡命し、1917年にロシアに帰還。1920年にメンシェヴィキを離党し、1921年にボリシェヴィキに。1922年から外交官。1932年から43年まで在イギリス大使。
(4)ダラディエ、エデュアール(1884-1970)……フランスのブルジョア政治家、急進社会党の指導者。1924年以降、植民地大臣、公共事業大臣、陸軍大臣などを歴任。1933年、首相。34年に第2次内閣を組閣。2月日の右翼の暴動で崩壊。1936〜37年、ブルムの人民戦線政府の陸軍大臣(国防相)。1938年、首相。ナチス・ドイツの圧力に屈してミュンヘン協定に調印し、対独宥和政策を実施。労働運動を弾圧し、人民戦線政府の崩壊を導く。1940年、陸軍大臣、外務大臣。同年、ヴィシー政府により逮捕。1943〜45年、ドイツに抑留。1957年、急進社会党党首。
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