10月の教訓
トロツキー/訳 西島栄
【解説】本書は、ソヴィエト国家とソ連共産党の運命を大きく左右することになる大論争「文献論争」を誘発したトロツキーの著名な論文である。
これは、最初、トロツキーの著作集『1917年』の序文として書かれた。1923年末の「新路線論争」で敗れた左翼反対派とトロツキーは、レーニン死後、論争を控えざるをえなくなり、また主流派の側からの大々的な攻撃もなく、一時的に、緊張をともなった休戦状態が生じた。そうした中で、トロツキーは、1923年のドイツ革命の敗北の問題について1924年を通して繰り返し分析考察し、ロシア10月革命の教訓がコミンテルン内部でさえ十分理解されていなかった事実を深刻に受け止めるようになる。トロツキーは、自分が1917年に書いた論文や演説を集大成した『1917年』の出版が、この問題を体系的に論じるちょうどよい機会であると考えた。そしてそれは同時に、革命家にとって最も決定的な試練である革命そのものの過程において、主流派の主要メンバーがどのような立場に立っていたかを明らかにすることによって、主流派に対する有効な反撃をも意味することになった。
「10月の教訓」と題されたトロツキーの長大な序文(後に単著としても出版)を含んだ『1917年』が出版されると、それはただちに主流からの前代未聞の大反撃をもたらした。主流派はすべての力を総動員して、トロツキーの「10月の教訓」を攻撃し、トロツキーが最初から反レーニン主義的な立場をとっていたとするトロツキズムの神話を構築した。レーニンがトロツキーについて語ったあらゆる批判的コメントが念入りかつ周到に集められ、とっくに時代遅れとなった古い論争のすべてがまるで今日の問題であるかのように大げさに取り上げられた。連日、『プラウダ』の紙面はカーメネフ、ジノヴィエフ、スターリン、モロトフ、ブハーリン、その他の主流は幹部による大論文で埋め尽くされ、事態は魔女狩りとも言うべき様相を呈していった。
こうした中でソ連共産党の運命にとってとりわけ重大な画期となったのは、スターリンが12月末に発表した論文「10月と同志トロツキーの永続革命論」であった。この論文の中ではじめてスターリンは、一国社会主義論の最初の輪郭を描き出した。その中でスターリンは、トロツキーの永続革命論の誤りとして、農民の過小評価と並んで、ロシア・プロレタリアートの過小評価という問題を提出し、ロシア一国だけで社会主義の勝利を展望せず、それを世界革命に依存させたとして非難した。
この論文はこれまでのボリシェヴィキの伝統と根本的に袂を分かつものであることは、この時点ではまだ十分に理解されていなかった。主流派の誰もが反トロツキー・カンパニアに夢中になっていて、スターリンのこの理論の真の意味を理解することはなかった。トロツキーもまた同様である。こうして、反トロツキー・カンパニアの暴風にこっそりまぎれて、「一国社会主義」の理論が発生した。スターリン自身、この理論の真の含意を最初から十分理解していたかどうかはわからない。しかしいずれにせよ、スターリンは1925年になるとこの理論をさらに経済的にも基礎づけ(先進国の経済的資源を利用しなくても一国だけで社会主義を建設することは可能)、体系化していくことになる。
トロツキーは、この「文献論争」において完全な沈黙を守った。しかし、実際には発表する目的で長文の反論を11月の時点で執筆していた。「われわれの意見の相違」と題されたこの反論文は、有象無象のトロツキズム神話に致命的な打撃を与えるものであったが、論争のさらなる拡大と先鋭化を恐れたトロツキーは、この反論を結局は公表しなかった。このときにトロツキーがかかっていた原因不明の熱病もまたそのような論争の拡大に立ち向かう気力をトロツキーから奪っていた。
こうして、この「10月の教訓」は、一方では、トロツキーの権威と力をほとんど完全に打ち砕いて、主流派に逆らったりトロツキーを支持したりすることをほとんど不可能とする社会的・党内的雰囲気を作り出した。数年後には実現するスターリンの恐怖政治は、この文献論争における言論テロリズムを通じてその最初の礎石を築いたのである。他方、この「10月の教訓」は、その後のソ連全体主義国家にとっての根本理念となる「一国社会主義」論が生まれるきっかけとなった。このときの文献論争に反トロツキーの立場から参加した多くの幹部党員がその後、この全体主義体制そのものの犠牲者となっていくのである。
なお本稿は、『トロツキー研究』第41号に所収の翻訳にもとづいているが、一部修正するとともに、訳注を若干充実させている。
Л.Троцкий, Уроки Октября, 1917(Сочинения. Том 3), часть 1. Москва-Ленинград, 1924 .
1、 10月革命を研究しなければならない2、 2月と10月における「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」3、 戦争と祖国防衛主義に対する闘争4、 4月協議会5、 7月事件、コルニーロフの反乱、民主主義会議と予備議会6、 10月革命をめぐって7、 10月蜂起とソヴィエト「合法性」8、 再びプロレタリア革命におけるソヴィエトと党について9、 本書について一言 |
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