トロツキー写真館

 

『イスクラ』派の面々

若きユーリー・マルトフ(1873-1923)

若きヴェーラ・ザスーリチ(1849-1919)

マルトフ、ザスーリチらが住んでいたロンドンのアパート

アレクサンドル・ポトレソフ(1869-1943)

(『イスクラ』編集部の一員。写真は1904年)

 「私の住む場所としてナデージダ・コンスタチノヴナが案内してくれたのは、数ブロック離れた所にあるアパートだった。そこには、ザスーリチ、マルトフ、それに『イスクラ』の印刷所を管理していたブリュメンフェリトが住んでいて、私のための空き部屋もあった。このアパートは、イギリス式に、各部屋が横にではなく縦に並んでいた。いちばん下の階に女主人が住み、上の各階にそれぞれ間借り人が住んでいた。共同の部屋もあって、住人たちはそこでコーヒーを飲んだり、煙草を吸ったり、いつ終わるともしれぬ雑談にふけったりしていた。その部屋はひどく散らかっていて、その責任は主としてザスーリチにあったが、マルトフにも罪はないとは言えなかった。プレハーノフは、そこを初めて訪れたあと、この部屋を『巣窟』と呼んだ。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)

パーヴェル・アクセリロート(1850-1928)とドイチュ[デーイチ](1855-1941)

 「プレハーノフは、輝かしきマルクス解説者、数世代にわたる教師、理論家、政治家、政論家、演説家であり、ヨーロッパ規模の名声とヨーロッパ規模の人脈を持っていた。プレハーノフと並んで最も大きな権威があったのは、ザスーリチとアクセリロートだった。ヴェーラ・イワノヴナ[ザスーリチ]を指導的地位に押し上げたのはその英雄的な過去だけではない。きわめて明晰な頭脳、広い教養――主として歴史に関するそれ――、たぐいまれなる心理的直観力に恵まれていたからである。『労働解放団』はかつて、ザスーリチを通じて老エンゲルスとつながっていた。また、アクセリロートは、ラテン系の社会主義との結びつきが最も深かったプレハーノフやザスーリチと違い、『労働解放団』の中でドイツ社会民主党の思想と経験を代表していた。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)

 

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