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1890年代のロシア――ニコライ2世とストルーヴェ

最後のロシア皇帝、ニコライ2世(1868-1918)

(1894年からロシアの皇帝に。1917年の2月革命で退位に追い込まれ、1918年に家族もろとも銃殺された)

若き日のピョートル・ストルーヴェ(1870-1944)

(最初、合法マルクス主義者として出発し、ロシア社会民主党の創立大会の宣言を起草したが、その後転向し、ブルジョア自由主義者に)

1891年の大飢饉

(写真はパンを求めて行列を作る人々)

 「凶作と飢饉によって特徴づけられた1891年は、国内の政治的転機とみなされた公式の年である。新しい10年は労働問題を中心に展開したが、それはロシアだけではなかった。1901年、ドイツ社会民主党はエルフルトにて党綱領を採択した。ローマ教皇レオ13世は、労働者の状態について言及した回勅を出した。ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世は、まったく向こう見ずな無知無学さと官僚的ロマン主義とを結合させた社会的理念に夢中になっていた。ツァーリとフランスとの接近によってロシアへの資本の流入が保証された。大蔵大臣にヴィッテが任命されたことは、産業保護主義の時代を開いた。資本主義の疾風怒涛の発展は、ポベドノスツェフを恐るべき予感で苛んだあの『時代精神』を生み出した。

 行動の活性化に向けた政治的変化は何よりも、インテリゲンツィアの間にあらわれた。ますます頻繁に、ますます確固たる足どりで登場するようになったのは、若きマルクス主義者たちであった。同時に、それまで眠り込んでいたナロードニズムも目覚めはじめた。1893年には、ストルーヴェのペンによる最初の合法的なマルクス主義文献が表れた。そのとき私は14歳であり、まだこうした問題からはほど遠い地点にいた。

 1894年、アレクサンドル3世が死んだ。例によって例のごとく、自由主義者たちは帝位継承者[ニコライ2世]に望みを託そうとした。しかし、帝位継承者は自由主義者の希望を一蹴した。若いツァーリは、ゼムストヴォ議員を謁見して、憲法への期待を『愚かな夢想』と呼んだのだ。この演説はすべての新聞に掲載された。口伝えに広がった話によれば、ツァーリが読み上げた演説の原稿には、『根拠のない夢想』としか書かれていなかったのに、興奮したツァーリが、当初の予定よりも粗暴な言い方をしてしまったとのことであった。そのとき私は15歳だった。私が無意識的に立っていたのは『愚かな夢想』の側であって、ツァーリの側ではなかった。私は漠然と漸進的な進歩を信じていて、その進歩が後進的なロシアを先進的なヨーロッパに近づけるにちがいないと考えていた。だが、私の政治思想はそれ以上のものではなかった。」(『わが生涯』第6章「転機」より)

 

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