トロツキー写真館

  

ニコラーエフ時代のトロツキー

――ソコロフスカヤとの出会い

18歳の青年トロツキー

(1897年、ニコラーエフ時代)

現在のニコラーエフの街並み

 「私が7年生として通った学校は、オデッサではなく、ニコラーエフにあった。ニコラーエフは、オデッサよりも田舎の都市で、学校の水準も低かった。だが、ニコラーエフで学んだ年、すなわち1896年は、私の青春時代における転換の年となった。なぜなら、この社会においていかに生きるべきかという問題を私に提起したのが、まさにこの年だったからである。私が下宿していた家庭には成人した子供たちがいて、すでに新しい思想傾向に多少なりともかぶれていた。だが、注目すべきなのは、最初の頃、会話の中で私が『社会主義的ユートピア』を断固として排撃したことである。私は、そんなものはとっくに卒業した懐疑主義者としてふるまい、政治問題に対しては、つねに皮肉っぽい優越感を言葉の端々ににじませながら応じた。私が下宿した家の母親は、そんな私に感嘆のまなざしを向け、私より少し年長で左翼的傾向のあった息子たちに対し、私のことを見習うべき模範として引き合いに出しさえした。もっとも、必ずしも自信なさそうであったが。しかしながら、これはしょせん私にとっては、自分の自立性を守らんがための、勝ち目のない闘争でしかなかった。私は、運命が引き合わせたこれらの若い社会主義者たちによる個人的影響から逃れようとあがいた。この、勝ち目のない闘争は数ヵ月しかもたなかった。社会の空気に広がっていた思想は私よりも強力だった。しかも、心の奥では、その思想に従うことを欲していたのだから、なおさらだった。

 ニコラーエフでの数ヵ月にわたる生活ののち、私の態度はすっかり一変した。私は保守主義の装いを脱ぎ捨て、左に転じた。そのあまりの急変ぶりは、新しい友人たちの一部が恐れをなすほどだった。『いったい、どうしたっていうの』、下宿先の母親は言った――『せっかくあなたを子供たちの模範にしようとしたのに、無駄だったということね』。」(『わが生涯』第6章「転機」より)

 「ソコロフスカヤは、彼ら[シュビコフスキーの庭に集まっていた若者たち]がレフ・ブロンシュテイン[トロツキー]について最初どのように紹介したかを覚えている。

 『すぐにわかるよ! 君に話ができる人物がやってくるから! とても論理的なんだ。誰も彼にはかなわないよ』。

 その夜、彼女は、ひげを貯えた重々しい雰囲気の教授みたいな人物を期待しながら夕食にやってきた。その人物が『カール・マルクスの経済学体系の根底にある誤りについて教示してくれる』ものだと思っていた。この体系が発明されて以来、さまざまな重々しい教授たちがやってきたように。ところが彼女がまったく驚いたことに、やって来たのは、黒髪を短く刈り込み、薄青い目をたたえ、ひげなどまったく生やしていない、子供のような若者だった。まさかこれが、彼らの言っていたあの偉大な反マルクス主義の論客なのか? だが、そうだった! その声の最初の高い響きからして、彼女は攻撃的な調子を感じ、自分を激しく皮肉っぽく防衛した。2人のあいだに友好的な雰囲気はまるでなかった。その時だけではない。その後、会うたびごとに、激しく皮肉っぽい論争が起こった。

 『あなたはいまだに自分がマルクス主義者だと思っているんですか? 前途洋々な若い女の子が、こんな無味乾燥で狭苦しくて非現実的なものに我慢できるなんて、想像もできない』。

 『自分では論理的だと思っている人物が、曖昧で観念論的な情緒で頭をいっぱいにして満足していられるなんて、それこそ想像できないわ』。」(マックス・イーストマン『若き日のトロツキー』より)

 「彼がニコラーエフに戻ってきて最初にやった注目に値することは、工場で労働者を組織することではなく、この孤立しているが頑固で容赦のないマルクス主義者[アレクサンドラ・リヴォーヴナ・ソコロフスカヤのこと]に新しい攻撃を組織することだった。

 それはわれわれアメリカ人が『プラクティカル・ジョーク』と呼ぶもので、かなり手は込んでいるが、必ずしも笑ってすますことのできないものであった。それはこんな風になされた。トロツキーがニコラーエフに戻ってまもなく、アレクサンドラ・リヴォーヴナが彼に会う前、シュヴィコフスキーが彼女の家におもむいて、お祝いの言葉を述べた。

 『レフ・ダヴィドヴィチがマルクス主義者になったのを知ってるかい』。

 『まあ、よくそんな嘘が言えたものね。私をだましたいのなら、信じられるようなことを言うものよ』と彼女は笑って答えた。

 『いや嘘じゃない。彼はオデッサでたくさん読書をつんで、完全に転向したんだ』。

 アレクサンドラ・リヴォーヴナは半信半疑だったが、彼女が会った他のメンバーもすべてこの喜ばしいニュースを事実だと請け合うので、半分以上信じ始めた。少なくとも、シュヴィコフスキーの庭で行なわれる新年会への招待を受け入れるくらいまで信じた。このとてつもなく意地の悪いジョークにとってはそれで十分だった。

 彼女は、レフ・ダヴィドヴィチの態度から陰鬱さがすっかりなくなっていることに気づいた。例の皮肉っぽい態度もなくなっていた。彼は優しく友好的にあいさつを交わし、『あなたについてみんなが言っていることは本当なの』という彼女の質問にも、『そうだとも、もちろん本当だよ。君は信じないのかい』と答えた。

 これで彼女は本当だと信じこんでしまった。しかし彼女は、このグループにある種の軽薄さを感じた。それは、彼女の真面目な性格に彼らが反発するときにいつも感じられるものと同じだった。彼女は居心地の悪さを感じた。

 真夜中になると、彼らはみなテーブルについた。このとっておきの時のためにささやかなワインもふるまわれた。そして時計が12時を打つと、トロツキーはグラスをもって立ち上がり、こう叫んだ。

 『すべてのマルクス主義者に呪いを、あらゆる人間関係に無味乾燥さと非情さを持ち込むすべての者に呪いを!』。

 この演説はもっと続いたが、アレクサンドラ・リヴォーヴナは聞いていなかった。彼女は椅子を引いて、部屋を歩いて出て行ったのである。シュヴィコフスキーが彼女の後を追い、謝罪をしたうえで、怒らないよう懇願した。

 『ちょっとした軽い冗談だったんだよ』と彼が弁解しているあいだ、彼女は帰り支度をしていた。

 『あなたが冗談のために友達や父親を売るような人間だということは知っているわ。冗談にするにはあまりにも重要なことってあるでしょ。ブロンシュテインに言って、二度と私に話しかけないでって。もう彼とはどんな関係も持ちたくないわ』。」(マックス・イーストマン『若き日のトロツキー』より)

 

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