トロツキー写真館
革命の高揚とソヴィエトの結成
1905年10月のモスクワでの大衆デモ (先頭の横断幕には、「万国の労働者、団結せよ!」とある) |
1905年10月のペテルブルクでの大衆デモ |
反動派に殺された革命家バウマンの葬儀 (1905年10月、モスクワ) |
「私がペテルブルクに到着したとき、10月ストライキは最盛期にあった。ストライキの波はますます拡大しつつあったが、大衆的な組織によって指導されない運動は成果なく水泡に帰すおそれがあった。私はフィンランドから帰ってきたとき、1000人の労働者につき1人の代表を選ぶ超党派の組織を選出する構想をたずさえていた。しかし、ペテルブルクに着いたその日に、作家のヨルダンスキー――彼は後にイタリア駐在のソヴィエト公使となった――から、すでにメンシェヴィキが、500人につき1人の代表を選ぶ革命的機関の選出をスローガンとして掲げていることを知らされた。それは正しかった。ペテルブルクにいたボリシェヴィキ中央委員会メンバーは、それが党と競合することになるのを恐れて超党派の組織の選出に断固として反対した。ボリシェヴィキ労働者の方はこうした懸念とはまったく無縁であった。ソヴィエトに対するボリシェヴィキ指導者のセクト主義的態度は、レーニンが11月にロシアに帰ってくるまで続いた。」(『わが生涯』第14章「1905年」より) |
「勅令の発行がなされる前の、ストライキ闘争がたけなわの頃、ペテルブルク・プロレタリアートは自己の隊列を打ち固め、自分自身の強固な組織を創設することに全力を傾けていた。こうして真に歴史的な奇跡、労働者階級の無尽蔵の力を物語るこの巨大な奇跡が起こった。ペテルブルクにおいてわずか4〜5日間のうちに、まるで地から湧いてきたかのように、20万人ものペテルブルク労働者を包含した生き生きとして柔軟で権威のある組織が生まれ、その名をロシア革命の歴史に刻み込んだのだ。私はペテルブルクの「労働者代表ソヴィエト」のことを言っている。各工場ないし地域の500人の労働者につき1人の代表が選ばれた。この選挙された代表者はソヴィエトを形成し、この組織がペテルブルクの主人となった。トレポフは狼狽し、ヴィッテは人民の前に姿を現わすことができなくなった。国家機構はボイコットを宣言された。ソヴィエトは事実上その手中に国家権力を収めた。」(トロツキー「ロシア革命(ソフィア演説)」より) |
ペテルブルク・ソヴィエト初代議長フルスタリョーフ=ノサリ(1877-1918) |
「それは10月14日のことであった。一方ではストライキが、他方では政府の内部分裂が進行し、着々と危機の瞬間に向いつつあった。この日、『空砲を繋つな、実弾を惜しむな』という、トレポフの有名な命令が出た。ところが翌15日には、そのトレポフが突如、『人民の中には集会の要求が熟している』ことを認め、大学・高専の構内での集会を禁じつつも、市内3箇所の建物を集会のために当てがうことを約束した。われわれは『ソヴィエト通報』にこう書いた。『24時間でなんという違いだ。われわれは、昨日は実弾に値いする程度にしか成熟していなかったのに、今日はもう人民集会の程度にまで成熟した。血に汚れたこの無頼漢は見誤っていない。この緯大なる闘争の日々に、人民は時間刻みで成熟しつつあるのだ!』 14日夜、禁止されたにもかかわらず、各大学・高専は民衆であふれていた。いたるところで集会が闘かれた。……工業専門学校の講堂では、労働者民兵を武装させる要求を市会につきつける必要があるという問題で討論が行なわれていた。われわれはそこを出て物理学教室へ移った。ここでわれわれは前夜に結成されたソヴィエトをはじめて見た。半円形に配置された長椅子に100人ほどの労働者代議員と革命的諸党派のメンバーが坐っていた。講義机の向うには議長と書記が席を占めていた。この集会は、議会というよりむしろ軍事会議に似ていた。長広舌という議会制度の弊害がここには微塵もなかった。議題――ストの拡大と市会への要求提出――は純粋に実践的な問題であり、実務的に、簡潔かつ熱心に討論された。一分一秒まで計算されているような感じだった。ほんのちょっとしたレトリックにでも陥ろうものなら、議長の断固たる抗議に会い、議場全体がこれに容赦ない共感を示した。」(トロツキー『1905年』「ソヴィエトの成立」より) |
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