トロツキー写真館

  

ストライキの急速な広がり

ストライキに立ち上がったペテルブルクのプチロフ工場の労働者

(1905年10月)

 「10月のストライキはけっして何らかの計画にもとづいて展開されたものではなかった。それはモスクワの印刷工から始まったが、その後しだいにおさまっていった。どの政党も決定的闘争の照準を翌年の1月9日(新暦では22日)の1周年記念日に合わせていた。だからこそ私も、あまり急ぎもせずに、フィンランドの隠れ家で自分の仕事を仕上げていたのである。しかし、偶発的に起こったストライキは、いったんはおさまったものの、思いがけず鉄道に飛び火し、全力疾走しはじめた。10月10日に始まったストライキは、すでに政治的スローガンを掲げており、モスクワからたちまち全国に広がった。このようなゼネラル・ストライキは世界でも例を見ないものだった。多くの都市の街頭では、軍隊との間で衝突が繰り広げられた。」(『わが生涯』第14章「1905年」より)

 「統計が示すように、1905年の1年だけで、ロシアにおけるスト参加者の数は、西欧および他の先進諸国におけるスト参加者の数の5倍にのぼった。10月にゼネストを呼びかけることができるためには、どれほどの巨大な力の緊張が必要とされたか想像してほしい。2月の運動と10月の大ストライキとのあいだには、赤旗を掲げた黒海艦隊の蜂起があった。その結果が、『国家ドゥーマ〔国会〕』の召集を宣した8月6日の新たな勅令だった。当時、自由主義者は次のようにわれわれに語りかけてきた――『紳士諸君、1905年8月6日の新しい勅令は、立憲体制を宣言した。これで諸君も合法性の基盤(権利)に立脚することができる。諸君の革命的な手段と方法を放棄して、権利の基盤に立とう』。このような言葉を自由主義者はプロレタリアートの党に投げかけた。しかし後者はいつものように軽蔑でもって答えた。その後運動は、10月ストライキとして頂点にまで上りつめ、そのストライキには100万人以上の労働者が参加し、全国家機構を麻痺させた。」(トロツキー「ロシア革命(ソフィア演説)」より)

 「同志諸君、このストライキの日々、ペテルブルクでは忘れられない光景が見られた。この都市には200万の住民、巨大な工場群があり、そこでは数十万人の労働者が働いていた。しかし、この時期、工場は完全に静かになり、歯車一つ動かず、すべての生活がストップし、劇場はわれわれの要求に基づいて第一幕の途中で公演を中止し、街頭は暗闇の中に沈み、電気は通らず、ツァーリの高級官僚たちの居住地でも暗闇が支配した。この日々に、われわれはみな、プロレタリアートがどれほどのものか、彼らの力がどれほどのものかを目にし、感じ取ったのである。同志諸君、われわれは理解した。全社会生活がもっぱら彼らにかかっていることを。彼らのおかげで権力者たちは、その権力を享受できるのである。彼らのおかげで富裕者は豊かになれ、学者は科学を研究することができ、所有者はこうこうと明かりのついた邸宅を享受できるのである。これらすべては労働者階級のおかげであり、全世界は彼らの手中にあるのだ(拍手)。私は思うのだが、当時、もしわれわれ社会主義者が視力を失い、耳を蝋で塞がれていたとしても、その手でもってペテルブルクの街頭で社会主義を感じ取ることができただろう。」(トロツキー「ロシア革命(ソフィア演説)」より)

 

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