トロツキー写真館
永続革命論の形成
ラサール『陪審法廷での演説』ロシア語版(1905年) (トロツキーはこの著作に序文を書き、永続革命論の最初のスケッチを行なった) |
「ペテルブルクにおいて私は、公には地主のヴィケンティエフのパスポートで暮らしていた。革命家の間ではピョートル・ペトロヴィチとして通っていた。組織の上では私はどの派にも属していなかった。また、私が協力関係を保っていたクラーシンは当時、調停派ボリシェヴィキであった。このことは、当時の私の立場からして、いっそう2人の間を接近させた。同時に私は、非常に革命的な路線をとっていた地方のメンシェヴィキ・グループとも連絡を取り合っていた。私の影響のもと、このグループは、ツァーリの諮問機関にすぎない最初の国会をボイコットする立場に立ち、メンシェヴィキの在外指導部と衝突するにいたった。しかし、このメンシェヴィキ・グループはまもなく壊滅した。組織を当局に売ったのは、『金縁眼鏡のニコライ』と呼ばれていたドブロスコークという男で、このグループの活動的メンバーでありながら職業的挑発者であった。彼は、私がペテルブルクに潜伏していることを知っていたし、私の顔も知っていた。そこへ、私の妻が、森の中で行なわれたメーデー集会で逮捕されるという事件が起こった。私は一時的に身を隠さなければならなくなった。夏になってから私はフィンランドに逃れた。その地で私は息つぎの合間を得て、激しい執筆活動に打ち込むとともに、短い散歩を楽しんだ。新聞をむさぼるように読み、各党の形成経過を追い、新聞の切り抜きをし、諸事実を整理した。この時期に私は、ロシア社会の内的諸力およびロシア革命の展望について自分の最終的な見解をつくり上げた。私は当時次のように書いた。 『ロシアはブルジョア民主主義革命に直面している。この革命の基礎をなしているのは農業問題である。権力をとるのは、ツァーリズムと地主に対抗して農民を自らに従える階級、党だろう。だが、自由主義者も、民主主義的インテリゲンツィヤも、それを遂行する能力を持たない。彼らの歴史的時期は過ぎ去ったのである。革命の表舞台はすでにプロレタリアートによって占められている。社会民主党だけが労働者を通じて農民を自らに従えることができる。このことは、ロシアの社会民主党の前に、西欧諸国でよりも早く権力を獲得する展望を開く。社会民主党の当面する課題は民主主義革命を完遂することである。だが、権力を獲得したプロレタリアートの党は、自らを民主主義綱領に限定することはできない。党は、社会主義的諸措置の道へと移行することを余儀なくされるだろう。党がこの道をどこまで先に進めるかは、国内の力関係のみならず、国際情勢の全体に依存している。したがって、基本的な戦略路線は、社会民主党が、農民に対する影響力をめぐって自由主義者と非妥協的に闘争しながら、すでにブルジョア革命の時期において権力獲得の課題を自らに提起することを求めている』。 革命の全般的展望に関する問題は、戦術的諸問題と密接に結びついていた。党の中心的な政治的スローガンは憲法制定議会であった。しかし、革命闘争の歩みは、誰がどのように憲法制定議会を召集するのかという問題を提起した。プロレタリアートによって指導された人民蜂起という展望からは、臨時革命政府の樹立という考えが出てくる。革命におけるプロレタリアートの指導的役割は、臨時革命政府におけるその決定的な役割を保証することになるだろう。」(『わが生涯』第13章「ロシアへの帰還」より) |
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