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ヴィッテ内閣

セルゲイ・ヴィッテ(1849-1915)

 (自由主義派の官僚。1905年革命のさなかの10月19日に首相となって改革に着手するも、反動化とともに失脚)

ピョートル・ドゥルノヴォー(1845-1915)

(札付きの反動政治家。ヴィッテ内閣の内相として革命運動弾圧に辣腕を振るう)

日露講和の舞台ポーツマスに到着したヴィッテ(1905年)

 「ヴィッテ伯の立憲主義者としての出世はまったくもって革命のおかげであった。10年間専制政府の無統制な簿記係兼出納係を勤めた彼は、1902年、政敵プレーヴェによって革命前の大臣委員会議長という無権力のポストに追いやられた。当のプレーヴェがテロリストの爆弾によって『辞職』したのち、ヴィッテは御用ジャーナリストを通じてロシアの救済者として自分を売り込みはじめ、それなりに成功を収めた。彼がスヴャトポルク=ミルスキーの自由主義的言動を全面的に支持しているということが、大げさに報道された。極東での敗北については、事前に予想していたかのように頭を振った。1月9日の前夜には、あわてふためく自由主義者に対して、『私には権力がないことをご存知だろう』と答えた。このように、テロリストの襲撃、日本の勝利、革命の諸事件が次々と彼の行く手を掃き清めたのである。ポーツマスで世界の証券取引所とその政治的代表部がお膳立てした条約に調印した彼は、凱旋者として帰国した。極東で本当に勝利を納めたのは大山元帥ではなくて、彼ヴィッテであったといってもよい。ブルジョア世界全体の関心はこの辺境の人物に集まった。……それからは、なにもかもが、たとえば、彼の長身な体躯、不恰好なズボン、幾分ぺちゃんこの鼻さえもが物好き仲間のあいだでは興味をひいた。そのうえ、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に拝謁したことはトップクラスの政治家としての栄光にますます磨きをかけた。他方、亡命者ストルーヴェとの秘密会見は、反逆的な自由主義を手なずけるだけの手腕が彼にあることを証明するものであった。銀行家たちは有頂天だった。この人物なら自分たちに規則正しい利子支払いを保証してくれるだろう。ヴィッテはロシアに帰ると、確信をもって無権力なポストを占めつつ、大臣委員会内で自由主義的な発言を行ない、はっきりと反乱の側に賭け、スト中の鉄道員代表団を『国の最良の力』と呼んだりした。彼の計算は間違っていなかった。10月ストライキは彼を立憲ロシアの専制的首相の座に据えたのである。……

 ヴィッテは10月ストライキの勝利のおかげで、むしろより正確には、その勝利の中途半端さのおかげで権力を握ったのであるが、その同じ条件が前もって、彼にとってはまったく出口のない状況を作り出していた。革命は古い国家機構を破壊して自分自身の独自な組織の諸要素から新しい国家機構を建設するには力量が不十分であった。軍隊は旧勢力の手中に残されていた。専制の必要のために配備された、県知事から村の巡査にいたる古い行政官はみなそのポストにとどまっていた。古い法律もすべて、新しい法律が出されないかぎり、そのまま温存された。このように絶対主義は物質的事実として、ことごとくそのまま維持されていた。それは名称としてすら維持されていた。『専制君主』なる言葉はツァーリの称号から削除されなかったからである。なるほど各当局は絶対主義の法律を10月17日の勅令の『精神』で適用するよう命ぜられはした。しかし、これはフォルスタッフに童貞の『精神』で放蕩せよと命ずるようなものだ。……

 それに対して、反革命的な官僚層のほうはあらゆる面で活動していた。彼らは『民間勢力』の支持を重視することを学びとり、いたるところにポグロム組織を結成し、公式の官僚位階制を無視してまでも相互に連携し、閣内にもドゥルノヴォーという自分たちの従僕をもっていた。たちの悪いロシアの官僚の、最もたちの悪い代表者、公金横領の官吏ドゥルノヴォー、あの忘れがたきアレクサンドル3世すら『この豚を片づけてしまえ』という猛烈な言葉を吐いて、お払い箱にせざるをえなかった[1893年、警保局長のポストから罷免]、あのドゥルノヴォーがいまや内相として「自由主義的な」首相に対する平衡錐となるよう、ごみ箱の中から抜擢されたのである。」(トロツキー『1905年』「ヴィッテ内閣」より)

 

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