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ストルイピンのクーデター
ピョートル・ストルイピン(1862〜1911) (傑出した保守政治家。1906年に首相に就任し、革命回避のための改革に着手。1907年6月に第2国会を解散して選挙法を改悪(6・3クーデター)、1910年に農業改革を実施し、富農を育成、1911年にエスエルによって暗殺される) |
「ストルイピンは [1907年6月に]第2国会を解散し、ツァーリはポグロム主義者の同盟と友好的な電報をとりかわした。… これらの紳士諸君の戦術はきわめて単純なものである。およそ1年前、反動的貴族階級の機関紙である『モスクワ通報』が、この戦術を以下の言葉で要約した。ロシアの人口は合計するとおよそ1億5000万人であり、革命に積極的に参加しているのは約100万人ほどである。仮に革命参加者全員を射殺したとしても、ロシアにはそれでもまだ1億4900万の住民が残っている。祖国の繁栄と偉大さにとってまったく十分な数である。 この残忍な発想は、きわめて単純な、しかしながら革命の基礎を形成している一つの事実を見落としている。すなわち、革命に積極的な100万人は、歴史の発展の単なる執行機関にすぎないということだ。 この歴史的事実を、ストルイピン氏は、今や再度試験にかけようとしている。 すでに2年間、政権を率いているこのロシアの首相は、苦しい立場に追い込まれた反動陣営にとって不可欠な、強靭な神経の持ち主であることが明らかになった。彼は自分自身の中に、奴隷所有者の野蛮な粗暴さと山師の個人的大胆さと、議会制ヨーロッパの下で育ったような『政治家(ステーツマン)』の如才のない物腰とをあわせもっている。農民騒擾が最も激しかったサラトフ県の知事として、ストルイピンは、立憲時代の最初のころ、農民に対する鞭打ち刑を自ら監督し、そしてその際、国会議員の証言によれば、わが母国の野卑な言葉以外には再現できないような罵詈雑言を農民に浴びせかけた。数え切れない陰謀の中心にある国家元首のあわれで気まぐれな意思によって内相の職に任命され、やがて首相に指名されたストルイピンは、歴史の発展の法則については少しも知らない無学者の自信のほどを示し、厚かましくも『現実政策(リアルポリテックス)』をとった。つい少し前まで自ら立ち会いのもとで、社会秩序のために農民の服を脱がせ鞭打ちすることを命じていたこの官僚が、である。第1国会において彼は脇に退き、新たな状況を観察し、議会主義の法律的覆いの下にある社会的諸勢力の現実の輪郭を、野蛮人の鋭いまなざしで、探り出そうとした。 第1国会でのカデットの叙情的な心情吐露、いつも小心さで声を震わせている彼らの歴史的に遅ればせのパトス、人民の意思への彼らの芝居がかった訴え(これは今やペテルゴーフにある宮殿 [ツァーリ政府のこと]の玄関ホールでの卑屈なささやきに取って代わった)、これらすべては、ロシアの地主の反動の頭目に畏敬の念を起こさせることはできなかった。ストルイピンは好機をうかがい、それをとらえて、議員たちをタヴリーダ宮殿から追い出した。しかし、この宮殿の鎧扉が閉められ釘づけにされたあと、彼は突然、国会によって生み出されたあらゆる歴史的諸問題に直面しているのに気づいた。要塞での蜂起は武力で鎮圧され、テロ的行為の恐るべき蔓延に対しては、野戦軍法会議が開かれた。しかし、あらゆる複雑な諸現象を伴っている農業恐慌の前では、ストルイピンは、スフィンクスに謎をかけられた旅人のようだった。政府の背後に結集したのは、結束が固く、ツァーリの庇護のおかげで権勢盛んな、位の高い農奴制擁護派の一味であった。彼らのスローガンは、仲間の一人であるサルトゥイコフ伯によって、次のように与えられた。 『われわれの土地は一片たりとも、われわれの畑は砂一粒たりとも、われわれの草原は茎一本たりとも、われわれの森は小枝一本たりとも、渡さない』。 他方で政府は、ストルイピンがヴィッテ伯から安い値段で買い取った自由主義的官僚、御用学者、評論家を意のままに用いた。そしてこれらの連中はみな、ストルイピンを改革と『法治』国家へ引き込んだのである。」(トロツキー「国会と革命」1907年6月より) |
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