スープの中のゴキブリ
アゼーフ事件の顛末
トロツキー/訳 西島栄
【解説】この論文は、テロリスト党であるエスエル戦闘団の最高指導者であり、政府の高官(内相のプレーヴェやセルゲイ大公など)の暗殺を指揮していたエヴノ・アゼーフ(1869-1918)が、実は一貫して帝政ロシアの秘密警察オフラーナのスパイであり、多くの同志を権力に売り渡していたことが1908年に暴露された事件(アゼーフ事件)について論評したものである。(左の写真は若き日のアゼーフ)
邦訳は最初『トロツキー研究』第17号に掲載されたが、今回アップするにあたって、『ノイエ・ツァイト』掲載のドイツ語版と『トロツキー著作集』掲載のロシア語版との異同を示した注を削除し、だいたいドイツ語版の表記を本文に採用することにした。また、一部の誤植を修正し、人物訳注を補強している。論文の表題も、原題に近い形にしておいた。
Л.Троцкий,Таракан во щах, Сочинения, Том.4−Политическая хроника, Мос-Лен., 1926.
1、国会とアゼーフ
万事うまく行っているように見えていた。国会は対外政治に「居丈高に」干渉し、バルカン半島においてもっと断固とした措置をとるよう外相のイズヴォリスキー(1)を励ました。国会は11月9日の法律(2)を受け入れ、農村の「組織的な整備」の時代を開いた。さらなる「国の健全化」が当面する課題となっていた。そして、6月3日のクーデター派(3)は、ロシアのすべての農民の食卓にスープ入りの皿が並ぶ日がすぐにやってくるだろうと予言した。万事うまく行っているように見えた…。
ところが、民族の安寧というスープが準備されていた国家の鍋のなかに突如としてゴキブリが見つかったのだ。「情報局」はそれを認めようとはしなかった。しかし、ゴキブリはすでにあまりに成熟していたので、フランスの証券取引所ですらそれが認められたほどである。もっとも、フランスの証券取引所では、その直前に、蔵相のココヴツォフ(4)がこのスープそのものの価値をはなはだ惨めなものと弾き出したのだが。いやおうなく、ヨーロッパに対して説明せざるをえなくなった。こうして、国会の舞台監督たちがまったく予期していなかった、アゼーフをめぐる国会審議が持ち上がったのである。
最も落ち着かなかったのは自由主義者たちである。彼らは、悲嘆に暮れると同時に、小躍りして喜んだ。喜んだのは、彼らが「これを常に予見していた」からであり、悲嘆に暮れたのは、ロシアの国家体制を思ってのことである。しかし、喜びの方が大きかった。世界的なアゼーフ・スキャンダルは一方では「革命」に打撃を与え、他方では、軍事的ストルイピン体制に打撃を与えたからである。両者のあいだにいる自由主義者以上に利益を得るものがあろうか? 自由主義者の法律家であるナボコフ(5)は、挑発についての新しく申し分のない定義をつくり出し、カデット右派のマクラコフ
[右の写真](6)は「共通の土台」、すなわち、内閣との話し合いのための共通の「大前提」(「国家体制」「法秩序」等々)を求め、カデットの熱弁家であるロジチェフ(7)は熱に浮かされたようにミラボーの演説を読み上げた。悲しいかな! 彼らを待っていたのは激しい幻滅だった!最初の瞬間、状況の支配者は、茫然自失と隣り合わせの当惑にとらわれた。アゼーフ事件は例外的な事件ではなく、典型的なもので、規模が違うだけの他の何千もの類似の事件の一つにすぎない、と左派の演説者が言ったのは、もちろん、まったく正しい。政府の宥和策のスプーン一つ一つに、小さなゴキブリが交じっていると言うことができよう。しかし、それにもかかわらず、これらの小ゴキブリのすべてを算術的に総計しても、アゼーフにはならない。ここで、われわれはまさに、量が質に移行する場合に相対している。いかにオクチャブリスト(8)の頭脳が反革命の炎の中で鍛えられたにしても、恐るべきテロリスト組織が一方では革命の道具であり、他方では、オフラーナの手中の駒でしかないという事実、しかも、その駒の材料としての役割を果たしているのが県知事、大臣、大公であるという事実を理解することは、彼らにとって困難なことであった。オクチャブリストは10日間の熟考の期間を要求した。「この事件はよく考えて理解しなければならない」と、オクチャブリストの演説者フォン・アンレープ(9) [左の写真]は率直に認めた。だが実際のところ、彼らがアゼーフ事件について熟考するのにまるまる15日もかかったのである。
2、ストルイピンは真実だけを欲する
2月24日、首相のストルイピン(10)は国会質問に対する説明をたずさえて登場した。この絞首刑の騎士を正当に評価しなければならない。ストルイピンは自分が前にしている連中のことを知っている。自分の野党のポグロム主義者や、自分の右派の友人のことを、知っている。彼らは、ストルイピンがつくった3000の絞首台のためなら、いつでも彼に「立憲的」ジェスチャーを認めるような人々である。そして、彼は「自分の」野党の自由主義者のことを、自分の左派の敵対的味方のことを知っている。彼らは、困難な瞬間には、ストルイピンの立憲的ジェスチャーのためなら、いつでも彼に3000の絞首台を認めるような人々である。そして、彼はオクチャブリスト――この、感謝感激に酔いしれた烏合の衆――のことを最もよく知っている。彼らはストルイピンのことを、自分たちの有産者を守り、自分たちを――ストルイピンの馬の尻尾に続いて――タヴリーダ宮殿
[国会の開催場所]のホールに入れてくれた、反革命の勝利者ゲオルギウス(11)とみなしている。収奪の「脅威」から救われたオクチャブリストは、感謝の言葉でもって、彼のブーツの靴墨を舐めかねない始末であった。ペテン師ほど上品な外見を必要とする連中はいない。それは、彼らにとって、司祭にとっての聖衣、ないし、ロシアの強盗(搾取者)にとってのオフラーナ員証と同じである。そして、陰謀が図々しくなればなるほど、ますます上品さはそのジェスチャーに必要なものになっていく。またしても、ストルイピンを正当に評価しなければならない。野人としての誤りのない本能でもって、ストルイピンはたちまちのうちに、彼には無縁の議会主義の状況に適応した。そして、自由主義の学校に立ち寄りさえしなかった彼は、自分がジェントルマンに見えるだけでなく、自分でもそう思うために、死刑執行人に必要ないっさいのことを苦もなく身につけたのである。そして、いま彼に必要なのは、絞首台の首吊り縄でマメまでつくった手を、国会の演壇の上で動かすことである。彼は――オクチャブリストの中央機関紙の表現によれば――彼に忠実な腹心たちの間に「おそらく、かすかに芽生えていた疑問をたちどころに晴ら」すのである。
この事件において、政府はたった一つのことに関心を向けているそうだ。「完全な光」をあてること、である。どうやら、まさにそれゆえ政府はその最初の公報で、アゼーフのことをきっぱりと否認し、二番目の公報で嘘を認めたのである。「このホールにおいて政府に必要なのは真実だけである」。まさにそれゆえ、彼、ストルイピンは、警察局の文書を手にもって、局の職員には不法行為の「黙認に関してだけでなく、職務怠慢に関してすら」罪がないことを証明しようと欲しているのだ。ではアゼーフは? アゼーフは「他の多くの者と同じ警察の協力者(!)である」。彼が17年間も警察と革命組織の両方に所属していたことは、それだけにいっそう革命にとって都合が悪く、警察にとって都合のよいことだ。もちろん、「体裁のために、また党内での地位を維持するために」、「協力者」はその任務に対する賛意を示さなければならない。しかし、どの程度か? 彼、ストルイピンはこのことを言わない。そして、言うことができない。なぜなら、この問題は純粋に経験的に解決されるものであり、時と場合によるからである。アゼーフは他の多くの者と同じ協力者で、――「体裁のために」――あれこれの大臣の頭を吹き飛ばしたり、大公の脳味噌を路上に飛散させたりせざるをえなかったのだから、アゼーフの警察報告には、少なくとも、挑発や黙認だけでなく、職務怠慢の跡も見られないわけだ。「政府に必要なのは真実だけである」。それゆえ、ストルイピンが今日、暴露された挑発者、4等官ラチコフスキー(12)は「1906年以来内務省の仕事を遂行するいかなる義務も負っていない」と公言すれば、明日には、社会民主党のゲゲチコリ(13)が、ラチコフスキーは今日においてもツァールスコエ・セローのオフラーナの長の協力者であることを証明するだろう。ラチコフスキーは、あまりにも札付きの悪党であるため、警察局内で目立ったポストに就くことができなかったが、それでもはやり、彼は、神聖な君主をその臣民の愛から守るためには、十分に役立つ人物なのである。
政府のスローガンは、「真実」である。そして、ストルイピンが、ある政治裁判の中で偽証した警察の連中と同じく、国会の中で嘘をついたとすれば、それは、自分が罰せられるはずがないという自信をあまりにも強く持っていたからである。彼は知っているのだ、自分が前にしている連中のことを。彼は知っている、オクチャブリストのウヴァロフ伯爵がストルイピンの「水晶のような純粋さ」を請け合うだけでなく、ミラボー風に髪をとかしたロジチェフ
[右の写真]も急いでストルイピンの「無知」の誠実さを誓って保証するであろうことを。無知とは! 哀れなオノルエ・ガブリエル・リケッティ・ロジチェフ(14)よ! 彼と彼の党に、職業的弁護士の自由主義の無力さを見抜くストルイピンの政治的慧眼さの10分の1でもあれば!
3、オクチャブリストには動揺も後退もない!
アゼーフ・スキャンダルにおいてオクチャブリストは最も痛い目にあった。そして彼らは称賛すべき堅忍不抜さを発揮した。ヨーロッパの新聞がロシアのテロリストと警察の的物語を広範な読者に知らせた同じ日、グチコフ(15)の『モスクワの声』は、特筆すべき明確さでもってその政治的信条と、さらには、オクチャブリストの客観的な歴史的立場とを定式化した。新聞は左からの非難を受けた。何人かの民主主義的ジャーナリストは、全ロシアの行政的強盗や野獣どもを暴露しつつ、商工業ブルジョアジーに、唯一の救いが土地貴族と手を切り原理的反対派の道を進むことであると急いで教えた。
『モスクワの声』は答えた。
「何といっても、ブルジョアジーそれ自体では、政府に成功理に働きかけるには力が不十分であることは明らかだ。この方向に向けたブルジョアジーの努力は、他の勢力の努力と結合しなければならない。
では、ブルジョアジーの同盟者となりうるのはいったい誰か。
インテリゲンツィアは経済生活に対するいかなる影響力も有していない。急進的メディア? これははなはだしく疑わしいプラス要因である。
ブルジョアジーの自然な同盟者は、彼らとともに直接経済生活に参加し、自国の労働生産性の向上に真に利害関係を有している他の経済的階級である。
ロシアの現在の歴史的瞬間において、このことに利害関心を持っているのは、ロシア人民のすべての諸階級である。すなわち、ブルジョアジーと地主、農民と労働者である。
しかし、残念ながら、農民と労働者は、彼らが周囲の状況に『意識的』にかかわり始めるやいなや、多くが、インテリゲンツィアによる社会主義的プロパガンダの犠牲になっている。そして、ブルジョアジーを自らの主要な政治的敵とみなし始めている。それゆえ、農民と労働者は、ブルジョアジーの政治的同盟者としては問題になりえない。
ブルジョアジーに残るのは、したがって、今や唯一の同盟者たる地主だけである…。そしてそれゆえ、この両階級の代表者が10月17日同盟[オクチャブリスト]に統一されたことは、偶然的な原因によって引き起こされたものではなく、ロシアの政治的発展過程全体によって生み出されたものなのである」※。
※原注ドイツの文献において、同志カウツキーがロシア革命における諸階級の配置を定式化したときの観点は、ロシアの同志の一部(プレハーノフ、マルトフ等)から批判を浴びた。たとえば、同志ダンは『ノイエ・ツァイト』(第27号、28号)の論文において、革命の新しい高揚の出発点となりうるのはブルジョアジーと地主との分裂だけであるという見解を打ち出した(マルクス主義のこの一変種の教えによれば、「物自体」としてのブルジョアジーは革命的なのだそうだ)。オクチャブリストの指導的機関紙から引用した先の文章は、すぐれてブルジョア的なジャーナリストが階級関係に関しては他のマルクス主義者よりもまともな分析をすることもあることを示している。
もしブルジョアジーが自己の手中に政府を握ることができるとすれば、それは大衆に依拠する場合のみである。しかし、大衆はブルジョアジーに対して敵対的であるため、ブルジョアジーは政府と闘争するのではなく、両手で政府にしがみつかざるをえない。オクチャブリストは、カデットのように「反対派」の立場をむやみにとるには、あまりにも現実主義的である。そして、彼らは、運命のいかなる試練にさらされようとも、一貫してこの観点を保持している。たしかに、アゼーフ事件の最初の雷鳴のような打撃の後には、彼らも嘆息をつくことを自らに許した。しかし、アゼーフが「ロシアの政治的発展過程」をいささかも変えるものでないことをすぐさま理解した。なぜなら、アゼーフは、うかつにも彼ら自身のオクチャブリスト・スープの表面に浮かび上がってきたゴキブリにすぎないからである。そして、ゴキブリのせいでスープをひっくり返してしまうことは、自分の利益に反するばかりでなく、モスクワ商人の民族的な日常的伝統にも反することを理解した。そして、ゴキブリが偶然的なものではなく必然的なものであることを左から証明されたとき、彼らは答えた。「仕方がない。十字を切って、ゴキブリを飲み込むまでのことだ」。そして、顔をしかめることなく飲み込んだのである。
4、カデットの戦術の碑文
アゼーフに関するカデットの演説には、多くの立派な箇所、うまい表現や、うまい考えさえある。しかし、いまだかつて、この時の討論ほど明確にカデット党の絶望ぶりが表明されたことはない。ミリュコーフ(16)派代議員の考えによれば、質問は、第3国会ブロックの身体に打ち込まれた楔でなければならなかった。内閣が倒れるところまでいかなくても、オクチャブリストが与党の役割を果たすのを不可能にしなければならなかった。だが、反対の結果になった。以前の暴露の時に起きたことと同じことが繰り返された。歴史がこの2〜3年間にロシア専制に浴びせ投げつけたすべての汚水、すべてのゴミ屑、すべてのガラクタは、反革命に損害を与えるどころか、反対に、彼らを共通の恥辱のセメントによってより密接に団結させてしまったのである。グルコー(17)が飢えた農民から奪った穀物は? 県知事への賄賂は? 有罪を宣告された略奪兵とツァーリとの兄弟関係は? 県知事への賄賂がつまったイコンは? 愛国主義の基盤としての女郎屋は? 拷問の際に一本づつ抜かれた髪の毛は? 警察の命令による掠奪は? コサックによる老婦人への暴行は? 裁判ぬきの銃殺は? そして最後にアゼーフは? 警察の協力のもとでテロリストによって殺された大臣たちは?…さあ、すべてを渡したまえ! すべてが動きだすだろう! ストルイピンはグチコフとともに新しいロシアの建造物を仕上げつつある。彼には建築材料が必要だ!
「どうして――とマクラコフはオクチャブリストと政府に悲しげにたずねる――、われわれは、同一の立場に立脚していると思われる問題で、この具体的場合に違う言葉で語り始めているのか」。なぜか? 「輝ける弁護士」マクラコフの質問は、ミリュコーフの不作法な政策を可能にした。政府は「革命に打ち勝つ」ことを欲しているが、できない。その弱さゆえにである。「カデットは違うように考えた。彼らは革命を押し止めることを望んだ」。つまり、同じ立場に立脚しながら、方法だけが異なるのである。それで成果は得られたのだろうか? 悲しいかな! 「力に頼るくせのついている政府は――とミリュコーフは嘆く――、われわれを大きな革命的な力とみなしたときに、われわれを考慮した。だが、われわれを単なる立憲政党とみなしたときには、すでにわれわれを必要なものだとみなさなくなった」。
ミリュコーフは自分の言ったことを理解していたのだろうか? 自分の党の3年にわたる歴史について、どれほど致命的な決算を出しているかを意識していたのだろうか? カデット党は革命に背を向け、権力の信頼をあてにするようになった。そして、このことはこの党を滅ぼしたのである。彼らの努力は無駄な方向に傾けられた。彼らによる辱めと裏切り行為というすべての侮辱は、彼らに権力のかけらも与えなかった。そして、その指導者のセリフは、その党の「民主主義的」自由主義の墓石に書かれた冷酷な碑文となった…。
5、革命的ロマン主義とアゼーフ
自由主義のサンチョ・パンサ――それは、ほとんど完全に、革命前におけるかつての取るに足りない存在に戻ってしまったが、かつての希望や可能性はもはやない――の教訓的だが道徳的にむかつくような歴史と並んで、テロリストのドン・キホーテ
[エスエル党のこと]の運命はより強い同情を自らに引き起こすことができるかもしれない。もしこの哀れな憂愁の騎士が、ロマン主義のたわごとから手を切る断固たる意志を表明したならば、そして、歴史の意志によって、自分が常に、ドン・キホーテの助けを借りて島の県知事になりたがっているサンチョ・パンサの陰謀の太刀持ちでしかなかったことに気づきさえしたならばだが…。しかし、テロリズムの偏見は、それ自身の粘り強さとそれ自身の熱狂を有している。そして、社会革命党のロマン主義は、すでに自分が犯した誤りに対する人々の同情を引き起こす代わりに、これから犯そうとしている誤りに対して積極的に反発する必要性を引き起こしている。見たまえ。警察のろくでなしの手に操られていた役立たずの甲冑を脇に投げ捨てる代わりに、そして、腕まくりして真剣な革命事業に取り組む代わりに、ロマン主義者たちは、政治的現実主義の最後のひとかけらもきれいさっぱり忘れてしまいつつある。そして、空虚なテロの名のもとに、プロレタリアートと農民の組織化をきっぱり否定し(参照、『革命思想』第4号)、自分自身の手段でツァーリズムを終わらせようと――いったい何度目のことか!――意気込んでいる。今や彼らはすでに、いかにして浅瀬や暗礁を避けるべきかをよく知っている。彼らは、「捕捉しがたい」独立した友人たちの新しい網の目をつくり、アゼーフの知らない新しい合言葉を考え出している。そして、さらに、最も重要なことには、アゼーフのダイナマイトよりも1・5倍強力なダイナマイトの大鍋をゆでている。合言葉をこんがらせないよう、ダイナマイトを煮すぎないよう、彼らは、自らの錬金術的な実験室の窓とドアをぶ厚いフェルトでおおっている。その実験室からは声一つも街頭には漏れず、工場のサイレンの反響もまったく彼らのところには飛び込んではこない。おかげで、彼らは妨げられることなく、――悲しいかな!――知らない誰かが残らず平らげることになる、魔法使いの煮えたぎったスープを準備しているのである…。
彼らがこの道を進むことで何らかの「効果的な」仕事を成し遂げることができるかどうか、われわれは知らない。しかしわれわれは、彼らがすでに最悪の苦い結末を迎えていることならよく知っている。今や彼らに残されている慰めは、せいぜいのところ、テロリズム戦略の破産が、歴史の吐き出す恐るべき痰となって、第3国会帝政の顔にかかったということだけである。しかし、彼らにとって、歴史のこの寛大さなど、何ほどのものでもない。彼らは再び、執拗に歴史を挑発しようとしている。だが、その執拗さには、もはや大胆さはない。なぜならそれは、無知によって打撃をこうむったからである。そして、彼らは新たに歴史の容赦ない肘鉄を受けるだろう。
すでに一種の象徴的人物が姿を現わしている。その職業的な黒眼鏡はテロの来たるべき新しい時代に影を投げかけている。これがバカーイ(18)である。彼は今や――自己の興行主たる不幸な狂信者ブルツェフ(19)といっしょになって――最近のすべての裏切り者裁判において、証言者および功労ある専門家として登場している。彼の演説は、マイナス掛けるマイナスがプラスになるように、二重の裏切り行為は処女のように新鮮な道徳的評判を回復するという楽観的確信に満ちあふれている…。
この領域において生ける者に対する義務がもしわれわれになければ、結局のところ死者をして自分の死体を埋葬するに任せておけばよかったろう。その生ける者とは、まず何よりもエスエルの労働者である。われわれは彼らに接近して言う。「見たまえ。諸君の指導者は、自らの使命を成し遂げるためには労働者に背を向けざるをえないと公然と宣言しているではないか。労働者よ、諸君には一つのことしか残されていない。今こそ永遠にこのような指導者に背を向けよう!」(20)。
『ノイエ・ツァイト』
1909年3月
ロシア語版『トロツキー著作集』第4巻『政治的年代録』所収
『トロツキー研究』第17号より
訳注
(1)イズヴォリスキー、アレクサンドル(1856-1919)……ロシアの政治家、外交官。当時の駐仏大使。1906〜1910年外相。1910〜17年、駐仏大使。10月革命後は亡命者としてフランスにとどまる。
(2)「11月9日の法律」は、『ノイエ・ツァイト』の原文では「ストルイピンの農業法」。
(3)「6月3日のクーデター派」。1907年6月3日、首相ストルイピンは、急進的な第2国会を解散し、選挙法を改悪して、反動的な「6・3体制」を確立し、オクチャブリストが与党の一員になった。その結果生まれたのが、第3国会と第四国会である。
(4)ココヴツォフ、ウラジーミル(1853〜1943)……ロシアの政治家、官僚。地主出身。1896年に大蔵次官。1904年以降、大蔵大臣で国会議員。ストルイピンが暗殺された1911年に首相に就任。1914年に辞任。
(5)ナボコフ、ウラジーミル(1860-1943)……ロシアのブルジョア政治家、カデット。第1国会の議員。1917年8月のモスクワ国政協議会、および予備議会のメンバー。10月革命後、白衛派の一員。クリミアの白衛政府の司法大臣。
(6)マクラコフ、ワシーリー・アレクセーエヴィチ(1869-1957)……ロシアのブルジョア政治家、弁護士、カデット幹部。カデットの中央委員、第2国会〜第4国会の議員。1917年、パリの駐在大使。
(7)ロジチェフ、フョードル(1853-1932)……ロシアの自由主義政治家、地主、法律家。カデット党の創始者の一人。第1国会から第4国会まで議員。2月革命後の最初の臨時政府でフィンランド問題担当大臣。10月革命後に亡命。パリで回顧録を出版。
(8)オクチャブリスト……1905年10月17日のツァーリによる憲法に関する詔勅が出された後に結成されたブルジョア地主党。指導者はグチコフ。
(9)アンレープ・ワシーリー・コンスタンチノヴィチ(フォン)(1852-1927)……ロシアの生理学者、法医学者、ブルジョア政治家、オクチャブリスト。1884年にハリコフ大学で法医学を教える。1907年、オクチャブリストの候補者として第3国会の議員に選出される。第3国会の解散後は政治活動から離れて、研究と教育活動に従事。
(10)ストルイピン、ピョートル(1862-1911)……ロシアの反動政治家。1906年に首相に就任し、1907年に選挙法を改悪(6月3日のクーデター)、1910年に農業改革を実施し、富農を育成、1911年にエスエルによって暗殺。
(11)ゲオルギウス……古代ローマの軍人で、多くの英雄伝説を持ち、ロシア正教会では兵士の守護聖人としてあがめられている。
(12)ゲゲチコリ、エフゲニー・ペトロヴィチ(1881-1954)……メンシェヴィキの活動家。第3国会の代議員で、国会内のメンシェヴィキ会派の指導者の一人。1918年にグルジアのメンシェヴィキ政府の外務大臣。1921年、グルジアでのソヴィエト権力確立後に亡命。
(13)ラチコフスキー(生没年不明)……帝政ロシアの秘密警察の幹部。プレーヴェが内務大臣になった時に解任されるが、トレポフのもとで警保局の長に任命される。1905年革命の際にはポグロムを煽動。
(14)フランスの革命家であるオノルエ・ガブリエル・リケッティ・ミラボー(1749-1791)にかけている。
(15)グチコフ、アレクサンドル(1862-1936)……ロシアのブルジョア政治家。大資本家と地主の利害を代表する政党オクチャブリスト(10月17日同盟)の指導者。第3国会の議長。ロシア2月革命で臨時政府の陸海相になり、帝国主義戦争を推進するが、反戦デモの圧力で辞職。10月革命後に亡命。
(16)ミリュコーフ、パーヴェル(1859-1943)……ロシアの自由主義政治家、歴史学者。カデット(立憲民主党)の指導者。第3国会、第四国会議員。2月革命後、臨時政府の外相。10月革命後、白衛派の運動に積極的に参加し、ソヴィエト権力打倒を目指す。1920年に亡命。『第2次ロシア革命史』(全3巻)を出版。
(17)グルコー、ワシーリー(1864-1937)……帝政ロシアの将軍。君主主義者。黒百人組の指導者。1916〜17年、総司令官。1917年、ルーマニア戦線の総司令官。同年5月に当時の陸海軍相ケレンスキーによって解任。7月、元ツァーリのニコライ2世と手紙を交わしたために政府に逮捕され、8月、ロシアから追放。
(18)バカーイ、ミハイル(生没年不明)……著名なスパイ挑発分子で、スバトフ主義の時代からすでに秘密警察のスパイだった。オフラーナの命を受けて、エスエルの地下活動家に。1907年に逮捕されるも、国外に脱出。国外で、ブルツェフとともに、自らがスパイ挑発者であった経験を生かして、アゼーフなどの挑発者を暴露することに尽力した。
(19)ブルツェフ、ウラジーミル(1862-1942)……ロシアの古参ナロードニキ、「人民の意志」派。第1次世界大戦まで、挑発分子を暴露する専門家として活躍。10月革命を受け入れず、亡命。1923年にパリで回想録を執筆。
(20)『ノイエ・ツァイト』の原文では、この後に「日和見主義とテロリズム」という小見出しのもと、「
テロとその党の破産」の「4」の部分が掲載されている。
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