ジノヴィエフへの手紙

 クルプスカヤ/訳 西島栄

クルプスカヤ

【解説】本稿は、トロツキーの書簡と46人の声明の問題を討議した1923年の10月総会における党主流派(トロイカ派)の態度について批判したナデージダ・クルプスカヤ(右の写真)のジノヴィエフ宛ての手紙である。この手紙の中でクルプスカヤは、主流派を支持する立場にありながらも、異端審問的な主流派の態度に憤りをおぼえていた。とりわけ、レーニンの名前を悪用して、トロツキーを貶めようとするやり方に怒りを爆発させている。この総会では結局、トロツキーの書簡と46人の声明を分派的行動として糾弾する決議が圧倒的多数で採択された。

 トロツキーに対する一方的な異端審問的党会議が行なわれたのは、この10月総会がはじめてであった。その後、このようなスタイルが普遍化し、よりいっそう激化する。その最初の発端となった10月総会の雰囲気を伝えるクルプスカヤのこの手紙は貴重な資料となっている。

Крупская, Письма к Г.Е.Зиновьеву от 31 Октября 1923 г., Известия ЦК КПСС, No.2, 1989.


 親愛なるグリゴリー。総会(1)後、私はあなたに手紙を書きましたが、あなたは[ペトログラードに]出発してしまったので、手紙はそのままになりました。今、それを読み返してみて、やっぱり出すのをやめることにしました。あまりにも先鋭な調子ですべての問題が提出されているからです。総会を支配していた「言いたい放題」の雰囲気の中では(2)、そうした調子は適切で理解できるものでしたが、一週間たってみると、違ったように聞こえてきました。

 その手紙の中で書かれていたことをかいつまんで説明します。

 あなたは理解していると思いますが、オシンスキーやラファイルたち(3)の前では、私はあのような行動を取ることしかできませんでした(4)

 しかし、このような醜悪な事態の中で――この出来事自体が醜悪なものであったことにあなたは同意されるでしょう――、非難されるべきはトロツキーの行動だけでしょうか? いえ、起きたことのすべての罪は、私たちのグループにもあるのです。あなた、スターリン、カーメネフに。あなたはもちろん、こうした醜態を未然に防ぐことができたにもかかわらず、そうすることを望みませんでした。もしあなたにそうすることができなかったとすれば、それは私たちのグループの完全な無力さ、その完全な破産を証明することになります。いえ、問題は、できなかったことにあるのではなく、そうすることを望まなかったことにあるのです。私たち自身が、誤った許しがたい調子で話しました。あのような喧嘩腰と個人的復讐の雰囲気をつくってはならなかったのです。

 労働者――私が言っているのはエフドキーモフ(5)やザルツキー(6)のように、労働者の出身であっても、とっくの昔に党専従になっているような労働者のことではなく、工場や職場にいる現役の労働者のことです――は、トロツキーだけでなく、私たちをも厳しく断罪するでしょう。労働者の健全な階級的本能からして、彼らは両方の側に厳しい言葉を発するでしょうし、むしろ、全体的な調子に責任を負っている私たちのグループの方にもっとはるかに厳しい態度をとるでしょう。

 まさにそれゆえ、誰もが、こうした喧嘩腰が大衆の中に持ち込まれることをひどく恐れているのです。結局、労働者からこの事件を隠すことはできないでしょう(7)。それにしても、労働者から何かを隠さなければならない指導者は(私が言っているのは純粋な地下活動のことではなく、特定の論文のことを言っているのです)、労働者にすべての真実を語る勇気がないのです。何ということでしょうか! そんなことはあってはならないことです。

 総会でイリイチの名前を悪用する場面が見られましたが、これも絶対に許すことのできないことです。もし自分の名前が悪用されていることを知ったら、彼は激怒することでしょう。ペトロフスキー(8)が「イリイチの病気はトロツキーのせいだ」という発言をしたときに、私がその場にいなかったことは幸いでした。もしいたら、私はこう批判していたでしょう。それは嘘です、ウラジーミル・イリイチ[レーニン]が何よりも憂慮していたのはトロツキーのことではなく、民族問題であり、わが党の上層で生じている風潮でした、と。あなたは、ウラジーミル・イリイチが分裂の危険性をトロツキーの個人的資質の中にだけでなく、スターリンやその他の人々の個人的資質の中にも見出していたことを知っています。そして、あなたがこのことを知っているだけに、イリイチを持ち出すことは許しがたく、不誠実なことなのです。それを許してはならなかったのです。それは偽善です。それは私個人にとって耐えがたい苦痛でした。私は思いました。活動における近しい同志たちが彼をこんなふうに扱い、これほど彼の意見をないがしろにし、これほど彼を歪めているとしたら、いったいイリイチにとって病気から回復する意味などあるのだろうか、と。

 さて、本題に入ります。現在の状況はあまりにも深刻であり、分裂したり、トロツキーが心理的に活動不可能になるような状況をつくり出したりすることは許されないことです。彼と同志的な姿勢で折り合う努力をすることが必要です。形式的には、現在、分裂のすべての汚名がトロツキーに負わされています。しかし、まさに「負わされている」のであって、実際にはトロツキーはそういう状況に追い込まれたのではないでしょうか? 私は詳細については知りません。しかし、問題はそうした詳細にあるのではありません。それは、木を見て森を見ないことです。問題の核心は、トロツキーを党の力として考えなければならないということ、そしてこの力が党にとって最大限生かせるよう状況をつくり出す努力が必要だということです。

 以上、自分の本音を言わせていただきました。

 ウラジーミル・イリイチは最近、『ズヴェズダー』という雑誌の創刊とそこに自分の論文が掲載されることを知らせる広告を読みました(9)。彼はそれが出版されればすぐに手に入れたいと言っています。彼はそれが自分の論文であることをはっきりと理解しているのです。ですので、イリイチの論文の掲載された号が出たら、すぐに私のところに送ってくれないでしょうか?

 それでは、ごきげんよう。

N・クルプスカヤ

1923年10月31日

『ソ連共産党中央委員会通報』1989年、第2号

『トロツキー研究』第40号より

   訳注

(1)1923年10月25〜27日に開催された中央委員会と中央統制委員会の合同総会のこと。

(2)この総会において、トロツキーらに対する激しい攻撃や乱暴な言い回しが用いられたことを指している。

(3)「46人の声明」の署名者で総会に出席した人々のことを指している。この総会に招かれた声明署名者は他に、コシオール、ロバノフ、ムラロフ、プレオブラジェンスキー、サプローノフ、セレブリャコフ、I・N・スミルノフ、ストゥコフ、ヤコブレフがいた。

(4)クルプスカヤは総会では「46人の声明」派の行動を批判し、多数派を支持する立場を取った。

(5)エフドキーモフ、G・E(1884-1936)……1903年以来の党員、水兵。赤軍内のコミッサール。ペトログラード・ソヴィエト副議長。1923年当時、ロシア共産党中央委員、労働組合ペトログラード評議会議長。ジノヴィエフ派で、1936年、ジノヴィエフとともに処刑。

(6)ザルツキー、P・A(1887-1937)……古参ボリシェヴィキ、1907年来の党員。1923年当時、党中央委員、ウラル・ビューロー書記。

(7)1923年10月25〜27日に開催された合同総会は、トロツキーの10月8日付手紙と「46人の声明」を非難する決議を上げたが、この手紙や声明についても、この非難決議そのものについても、公表しないことを決定した。

(8)ペトロフスキー、G・I(1878-1958)……古参ボリシェヴィキ、1897年以来の党員。1923当時、党中央統制委員会、全ウクライナ中央統制委員会議長。

(9)1924年創刊の雑誌『ズヴェズダー』の創刊号に、レーニンの論文「マルクス主義の戯画と『帝国主義的経済主義』」が掲載された。

 

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