戦争の危険性と防衛政策

中央委員会・中央統制委員会8月合同総会における第1の演説

トロツキー/訳 西島栄

【解題】この演説は、トロツキーとジノヴィエフの中央委員会からの除名が提案された1927年7月29〜8月9日に開催された中央委員会・中央統制委員会合同総会(8月総会)におけるトロツキーの3つの演説の最初のものである。この演説の短縮版の翻訳はすでに『左翼反対派の綱領』(現代思潮社)に収録されているが、ここで翻訳アップしたのは、『トロツキー・アルヒーフ』第4巻にもとづいた完全版である。短縮版で削除されていた部分は下線部で示してある。短縮版では「まとめよう。社会主義の祖国のために? しかり! スターリンの路線のためにか? 否だ!」という有名なフレーズで終わっていたが、実際にはその後にもかなり長い演説が続いていることがわかる。

 この演説でとくにトロツキーが強調したのは、戦争の危険性の問題とその際のソ連防衛の問題であった。党主流派は、反対派が戦争の危機が迫っているときに党指導部を攻撃することでプロレタリアートを武装解除していると非難し、指導部のテルミドール的変質の問題を持ち出すことで祖国敗北主義に突き進んでいると攻撃した。こうした攻撃に答えて、トロツキーら反対派は、防衛問題について多くの時間を割かなければならなかった。トロツキーは、現在の主流派の路線こそがソ連の敗北を準備しているのだと反撃し、真にソ連を防衛するためにこそ、現在の路線の根本的な転換が必要なのだと訴えた。

 この総会では多くの演説文書のやり取り声明の発表などがなされ、最終的に、反対派はトロツキーとジノヴィエフの中央委員会除名という事態を避けるため部分的な譲歩を行ない、8月8日付で共同の声明を行なった。これによって、除名は一時的に免れたが(ブルーエの『トロツキー』第2巻によると、この除名回避に尽力したのは、スターリン派の中で比較的まともであったオルジョニキッゼだったようである)、結局2ヵ月後の10月合同総会で両名は除名されるに至る。

 今回アップするにあたって、『トロツキー・アルヒーフ』第4巻の原文にあった小見出しに、読者の便宜を考えて、さらにいくつかの小見出しをつけ加えておいた。

 Л.Троцкий, О военной опасности и политике обороны, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.4, 《Терра−Терра》, 1990.


   戦争と祖国敗北主義をめぐるデマゴギー

 トロツキー 同志諸君、まずもって、まったく馬鹿げた主張に答えることを許していただきたい。

ルイコフ

 ルイコフ(議長)〔右の写真〕 どれだけの時間が必要か

 会場からの声 15分だ(笑い)。

 トロツキー いや、45分を求める。

 ルイコフ トロツキーは45分を求めた。

 会場からの声 30分だ。

 ルイコフ 異議がないようなので45分を与える。

 トロツキー 検討すべき分野が非常に多岐にわたっていることを鑑みて、できるだけ簡潔に話そうと思う。まず、私個人に関わる問題から始めざるをえない。あたかも私が、ブルジョア諸国に関して、とくにそれらの国がソ連に対する闘争を行なっているときに、これら諸国での祖国敗北主義政策を拒否しているかのような馬鹿げた主張に答えなければならない。政治局のテーゼは、帝国主義戦争中にいくつかの問題をめぐって私とウラジーミル・イリイチとを隔てていた、しかしとっくに清算された意見の相違――このとき間違っていたのは私の方だった――を蒸し返し、煽りたて、誇張し、戯画的なまでに歪曲している。だがこの問題におけるレーニンからの私の乖離の度合いは(コミンテルン執行委員会で述べたことをここでも繰り返すが)、現在スターリンやヴォロシーロフやその他の連中の乖離の大きさの10分の1にも満たない!

 ジノヴィエフ まったくその通り。

 トロツキー テーゼは、反対派が戦争と「祖国敗北主義」の問題についてある種のトロツキスト的公式をもっているかのごとく主張している。新しい捏造だ! 諸君のテーゼの第13項は全面的にこのたわ言に費されている。反対派の総体に関するかぎり、私とレーニンとの以前の意見の相違――この問題に関してはまったく二次的なものだったのだが――に対する責任を負わせるわけにはいかない。私個人に関するかぎりでは、私はここで馬鹿げた中傷に対し簡単に答えようと思う。

 帝国主義戦争の最中すでに、私は、国際プロレタリアートに宛てて、戦争問題とそれとの闘争に関するアピールを、最初の人民委員会議(ソブナルコム)と党中央委員会の名において書いた。私はわが党綱領の、戦争に関する部分を書き、第8回党大会の主要な戦争問題決議と多くのソヴィエト大会の決議を書いた。さらに、コミンテルンの第1回世界大会の宣言を書いたのも私であり、そのかなりの部分は戦争を扱っている。また、私はコミンテルン第2回世界大会の綱領的宣言を執筆し、その各所で戦争に関する、その結果と今後の軍事的展望について論じられている。さらに私は、国際情勢と戦争および革命の展望について展開したコミンテルン第3回世界大会のテーゼを執筆した。第4回世界大会では、党中央委員会の委任にもとづいて、国際革命の展望と戦争の問題について報告を行なった。第5回世界大会(1924年)では、帝国主義戦争の10周年に関する宣言を執筆した。これらすべての文書に関して中央委員会内でいかなる意見の相違もなかったし、何も論争がなかっただけでなく、何らの修正もなしに採択された。お尋ねしたいが、この私の「偏向」なるものがコミンテルンでの相当激しい活動の中でどうしてただの一度も問題にされなかったのか! だが、1926年になって、私が「経済的敗北主義」――イギリス労働者向けのモロトフの愚かで無知蒙昧なスローガン――を拒否したときに、レーニン主義と手を切ったことがわかったらしい。ではモロトフはなぜ私の批判の後にその愚かなスローガンをポケットへしまい込んだのか?

 モロトフ スローガンなど全然なかった。

 トロツキー それは私が言うことだ。たわ言はあったが、スローガンはなかった。それはまさしく私の言うことだ。(笑い)。

 会場からの声 ではなぜたわ言について語るのか?

 

   英露委員会の顛末

 トロツキー ではなぜ、古い意見の相違を、しかもとっくに清算されたものを持ち出して粗雑に誇張することが必要だったのか? 何のために? 実際の、現実の、現在の意見の相違を隠蔽しカムフラージュするためである。一方で英露委員会を維持する方針に固執しながら、同時に戦争に対する革命的闘争とソ連邦の真の防衛という問題を真剣に提出することがどうしてできるのか? 一方でパーセル(1)、ヒックス(2)、およびその他の裏切者とのブロック路線をとりながら、同時に労働者大衆を戦争の際にゼネストと武装蜂起に立ち上がらせることができようか? お尋ねするが、われわれの祖国防衛主義はボリシェヴィキ的なそれであるのか、それとも労働組合主義的なそれであるのか? ここに問題の核心がある!

 まずもって、現在の指導者たちが昨年ずっとこの点に関してモスクワのプロレタリアートに何を教え込んでいたかを指摘させていただこう。これが全問題の核心である。モスクワ委員会の指令をそのまま読み上げよう。

 「英露委員会は、ソ連邦に向けられたあらゆる干渉に対する闘争において巨大な役割を演じうるし、疑いもなく演じるにちがいない。それは<英露委員会がだ!>、新しい戦争を始めようとする国際ブルジョアジーのあらゆる試みに対する闘争において国際プロレタリア勢力の組織的中心となるであろう」。

 私が読んだのは、ソ連共産党(ボ)中央委員会7月総会の結果を検討するための資料としてモスクワ委員会が発行したものである。この文章は、ジノヴィエフとトロツキーを社会民主主義的偏向ゆえに非難するものであるが、その非難の根拠とされているのがまさに、両名が、英露委員会が干渉に対する闘争において巨大な役割を果たすとは考えていないことなのだ…。

 モロトフはこの総会で、「英露委員会を通じてわれわれはアムステルダムを解体することができた」と述べた。つまり、今なお彼は何も理解していないわけである。諸君が解体したのは他でもないモスクワの労働者と全世界の労働者なのだ。誰が敵で誰が味方であるかに関して労働者の目を欺くことによってそうしたのだ。

 スクルイプニク 何たる言いぐさだ!

 トロツキー 問題の重大性にふさわしい言い方をしているのだ。諸君はアムステルダムを強化し、自分自身を弱めた。イギリス総評議会は今やかつてなく一致団結してわれわれに敵対している!

 しかしながら、言っておかなければならないが、先ほど私が読んだモスクワ委員会の恥ずべき指令は、英露委員会の維持に賛成した人々の真の考えを、ブハーリンのスコラ哲学的ごまかしよりもはるかに完全で明確かつ率直に表現している。モスクワ委員会はモスクワの労働者に、政治局はソ連全土の労働者に次のように教えてきた。戦争の危機の際にはわが国の労働者階級は英露委員会という「頼みの綱」につかまることができるだろう、と。政治的に問題はこのように立てられたのだ。だがこの綱は腐っていることがわかった。土曜日発行の『プラウダ』は巻頭論文の中で、総評議会の「裏切者の統一戦線」について語っている。トムスキーの愛しいアーサー・クック(3)でさえ沈黙を守っている。「まったく不可解な沈黙だ!」と『プラウダ』は叫ぶ。それは諸君のいつもの叫び声だ――「まったく不可解だ!」。最初諸君は、蒋介石のグループに、つまりパーセルとヒックスのグループを頼りにし、次に「忠実な」汪精衛に、つまりアーサー・クックに希望を移した。だが、汪精衛がブハーリンによって忠実な人々の列に加えられた数日後に裏切ったのとまったく同様、クックも諸君を裏切った。諸君は少数派運動(4)を総評議会の紳士諸君に売り渡した。しかも少数派運動の内部にあっても諸君は真の革命家を髪にポマードを塗りたくった改良主義者たちに対置することができなかったし、そうすることも望まなかった。諸君は、より大きいが腐りきった綱のために、より小さいがより丈夫な綱を退けたのである。狭くて不安定な橋を渡るときには、細くてもしっかりとした支柱こそが救いになる。だが触れるだけでぼろぼろになる腐った支柱にしがみつく者は災いなるかな。なぜなら、その場合には下に転落することは避けられないからである。諸君の現在の政策は国際的規模における腐った支柱の政策である。諸君は次々に、蒋介石、馮玉祥(5)、唐生智(6)、汪精衛、パーセル、ヒックス、クックにしがみついた。これらの綱はいずれも、それが最も必要であった瞬間に切れた。最初諸君は、『プラウダ』の巻頭論文がクックについて言ったように、「まったく不可解だ」と言うが、その翌日には、「われわれは常にこのことを予見していた」とつけ加えるのである。

 

   中国で事態はどうなった?

 トロツキー ここで中国における全戦術的路線、いやむしろ戦略的路線を取り上げよう。国民党は、革命の時期における自由主義ブルジョアジーの党であり、この自由主義ブルジョアジーは、労働者と農民を欺き裏切りつつ自己に従えた。

 共産党は、諸君の指令にもとづいて、すべての裏切りのあいだずっと国民党の中にとどまり、そのブルジョア的規律に服した

 国民党はまるごとコミンテルンに加入し、しかもその規律には服さず、ただ中国の労働者および農民を欺くためにコミンテルンの名前と権威を利用しただけであった。

 国民党は、手中に農民兵士を握った地主将軍を庇護している。

 モスクワは――昨年10月末にだ!――、軍隊を指揮する地主をおびえさせないよう農地革命を抑えるよう要求した。軍隊は大小の地主のための相互保険組合となった。

 地主たちは、権力と土地が自己の手中にとどまるかぎり、自分たちの軍事遠征が民族革命的遠征だと呼ばれることに何の異論もない。1905年のわが国のプロレタリアートにけっして劣らないほど強力な若き革命勢力である中国プロレタリアートは、国民党の指揮下に追いやられている。

 モスクワは中国の自由主義者に助言を与えた――「最小限の労働者武装部隊を組織するための法令を出していただきたい」と。これが、1927年3月のことだ! なぜ上層部への助言なのか――しかも最小限の武装!――、なぜ下部へのスローガン――最大限の武装を――ではないのか? なぜ最小限であって最大限ではないのか? ブルジョアジーを「おびえさせない」ないため、内乱を「挑発」しないためだ。だが内乱は不可避的にやって来て、はるかに犠牲の大きなものになった。なぜならその内戦は非武装の労働者を襲って、彼らを血の海に沈めたからである。

 モスクワは、将軍たちの銃後を撹乱しないよう「軍の後方」でソヴィエトを建設することに反対したが――あたかも革命が軍の後方であるかのように!――、その数日後には、その当の将軍たちはまさにその後方で労働者と農民を粉砕したのである。

 共産党員を国民党に服従させ、国民党をコミンテルンの権威でもって粉飾してやることによって、ブルジョアジーと地主を強めたのか? そうだ、強めた。

 農地革命とソヴィエトの発展を妨げることによって農民を弱めたのか? そうだ、弱めた。

 「最小限の武装」のスローガン――いや、スローガンでさえなくブルジョア上層部への政治的助言である「最小限の武装」と「ソヴィエトは必要ではない!」でもって労働者を弱めたか? そうだ、弱めた。勝利を困難にするあらゆることを行なったうえで敗北をこうむったことは、何か驚くべきことであろうか?

 ヴォロシーロフはこの全政策の最も正確で、良心的かつ率直な説明を与えた――「農民革命は将軍連の北伐を妨げかねなかった」と。つまり諸君は軍事遠征のために革命にブレーキをかけたのだ。蒋介石もまったく同じ見方をしていた。革命の発展は「民族的」将軍たちの軍事遠征を困難にするかもしれない、と。だが、何といっても、革命そのものが抑圧者に対する被抑圧者の現実の真の遠征なのだ。将軍の軍事遠征を助けるために、諸君は革命にブレーキをかけそれを瓦解させた。まさにそれゆえ将軍たちの軍事遠征は労働者と農民に対してのみならず、(いや、まさにそれゆえ)民族革命に対しても、その鋭い切っ先をつきつたのである。

 もしわれわれが中国共産党の完全な独立を時宜を失せず保障し、同党がその機関紙と正確な戦術でもって武装するのを助けていたならば、そしてもしわれわれが同党に「労働者の最大限の武装!」「農村において農民戦争を拡大せよ!」というスローガンを与えていたならば、共産党は、日単位どころか時間単位で成長しただろうし、またそのカードルは革命的闘争の火中で鍛えられたであろう。ソヴィエトのスローガンは大衆的運動が盛り上がった最初の日から掲げられるべきであった。少しでも可能性のある所ではどこでも、ソヴィエトを実際に建設する試みに着手されなければならなかった。兵士をソヴィエトに引き入れるべきであった。農地革命はエセ革命軍を混乱させただろうが、敵の反革命軍にも不穏の種を蒔いたであろう。こうした土台――農地革命とソヴィエト――にもとづいてはじめて、しだいに真の革命軍、すなわち、労農軍を鍛え上げることができたのである。

 ヴォロシーロフの道は、機構的な将軍的冒険主義の道である。同志諸君! われわれはここで、陸海軍人民委員たるヴォロシーロフではなく、政治局員たるヴォロシーロフの演説を聞いた。この演説それ自体が一種の破局である。それは敗戦に等しい。

 反対派の席から叫び その通り、正しい!

 別の席からの声 君たちはいつも正しいんだな。

 トロツキー 去る5月のコミンテルン執行委員会総会の際、諸君はようやく蒋介石を反動陣営に分類して、汪精衛に希望を賭け、ついで唐生智に希望を賭けたとき、私はコミンテルン執行委員会に宛てて手紙を書いた。それは5月28日のことである――「この政策の破産は絶対に不可避である」。私は何を提案したか? それをそのまま読もう。5月28日に私はこう書いた。

 「もし総会がブハーリンの決議を葬って、代わりに次の数行からなる決議を挙げたならば、それは正しかっただろう。1、農民と労働者は左翼国民党の指導者に信頼を置かず、兵士とともにソヴィエトを樹立すること。2、ソヴィエトは労働者と先進的農民とを武装すること。3、共産党はその完全な独立を確保し、日刊紙を創刊し、ソヴィエト結成を指導すること。4、地主の土地をただちに収奪すること。5、反動的官僚はただちに追放すること。6、裏切り的将軍や一般に反革命家は即決裁判にかけること。7、労働者・農民代表ソヴィエトによる革命的独裁の樹立に向けた総路線を堅持すること」。

 ところで、これを次のものと比較せよ――「農村においては内乱の必要はない」「同伴者をおびえさせるな」「将軍たちを怒らせるな」「労働者の最小限武装」等々。これがボリシェヴィズムか! だがわれわれの立場は政治局のテーゼでは、…メンシェヴィキ的立場と呼ばれている。いっさいが引っ繰り返って、諸君は白を黒と呼ぶことをかたく決意した。だが不幸なことに、国際メンシェヴィズム――ベルリンからニューヨークに至る――はスターリン=ブハーリンの中国政策に賛成し、争点を完全に認識しつつ中国問題における諸君の政治路線と連帯している。何たる奇跡か。ジノヴィエフ、カーメネフ、ラデック、トロツキーがこぞってメンシェヴィキの立場に移行し、ダンとアブラモヴィッチ(7)がボリシェヴィキの立場に、もとい、スターリニストの立場に移行したのである。

 モロトフ ここで言われたことはすべて嘘っぱちだ。

 トロツキー ここにおられる若干の同志たちは言葉を軽々しく用いるようだ。

 スクルイプニク 貴君のようにな。

 トロツキー 私は『社会主義通報』〔国際メンシェヴィキの機関誌〕からまったく正確に引用している。

 ペトロフスキー(8) そうだ、われわれも読んだ。

 トロツキー 読んだだって? つまりそうだと認めるのか? 親切な同志ペトロフスキーは勇敢にも同志モロトフの発言を訂正してくれた。

 諸君は中国共産党をまず最初に蒋介石に従属させ、次に唐智生や汪精衛に従属させた。諸君は労働組合の少数派をイギリス総評議会に従属させた。諸君はイギリス共産党を英露委員会の政策に適応させた。その後、中国共産党の指導部が諸君の指令を実行した後、それを実践において不可避的に最後の結論まで押し進めたとき――なぜなら革命はいっさいをその最終結論にまで持っていくからである――、つまりこの中国共産党指導部が不可避的にメンシェヴィキへと退行していったとき、『プラウダ』は「まったく不可解だ!」という趣旨の巻頭論文を書いたのである。この言葉こそ、現在進められている指導的政策路線、すなわちそれ自身が期待していたものとまったく正反対の結果をもたらす路線にとってのエピグラムである。

 理解するべきなのは、ここで問題になっているのが、中国国民党員の、あるいは左右の中国軍司令官、あるいはイギリス労働組合主義者、および中国共産党員やイギリス共産党員たちの個人的裏切りではないということである。列車に乗れば、大地が動いているように見える。すべての不幸の源は、諸君が信頼に値しない連中に期待をかけ、大衆の革命的教育を過小評価したことにある。大衆の革命的教育にとって必要な基本的事柄は何か? それは、改良主義者に対する、あるいは無定形な「左翼」中間主義者、一般にすべての中途半端さに対する不信を大衆に教え込むことである。この不信が最も徹底していた点にこそボリシェヴィズムの最重要の美点がある。若い諸党はこの資質をこれから習得し身につけなければならない。しかるに諸君は正反対の行動をしたし、今なおそうしている。諸君は若い諸党に、自由主義ブルジョアジーと組合出身の自由主義労働政治家たちの左傾化に対する希望を植えつけている。諸君はイギリスおよび中国のボリシェヴィキの教育を妨げている。これこそ、いつでも諸君の不意を襲ってやってくる「裏切り」の根源なのだ。

 

  「中間主義」と腐った綱の政策

 トロツキー 反対派は、諸君の指導下にある中国共産党は不可避的にメンシェヴィズムの政策に到達するだろうと警告した。そのことで反対派は当時容赦なく非難された。だがわれわれは現在、イギリス共産党は、諸君がそれに押しつけている政策の影響のせいで、不可避的に中間主義と調停主義に毒されつつあると確信を持って警告する。もし諸君が大きく路線を転換しなければ、イギリス共産党に関する結果は中国の党の場合よりも少しもましではないだろう。同じことはコミンテルン全体にもあてはまる。

 ブハーリンとスターリンの中間主義が事件の試練にたえることができないことをそろそろ理解すべきである。人類史における最大の事件は革命と戦争である。中間主義の政策は中国革命において試験にかけられた。革命は中途半端な指令から完成された結論を引き出すよう要求した。中国共産党はこの結論を引き出すことを余儀なくされた。これこそ同党がメンシェヴィズムに行き着いた――そして行き着かざるをえなかった――理由である。中国における諸君の指導の空前の破産は、諸君をして最も困難な条件のもとで腐った綱にしがみつくことを余儀なくさせた政策をついに放棄することを要求している。

 革命につぐ最大の歴史的試練は戦争である。前もって言っておくが、戦争の時期には、ジグザグや、ごまかしや、言い逃れといったスターリン=ブハーリン的政策――中間主義の政策――のための余地は存在しないであろう。このことはコミンテルンの指導部全体にあてはまる。今日、外国の共産党の指導者たちに課せられる唯一の試験は次の質問である。すなわち、君はいつでも「トロツキズム」に反対投票する用意があるか、と。だが戦争は彼らをもはるかに重大な要求に直面させるであろう。ところが、国民党と英露委員会に対する政策は明らかに彼らの注意をアムステルダムと社会民主主義的上層部へと向けさせた。いかに諸君が言い逃れしようとも、英露委員会の路線は、アムステルダム官僚――現在におけるその最悪の部分はイギリス総評議会である――という腐った綱に希望を託す路線であった。この政策によって諸君は中国共産党におけるマルトゥイノフ主義を助長させ、コミンテルンそのものにおけるパーセル主義を助長させた。戦争の際には諸君は何度となく「不意打ち」をくうだろう。腐った綱は諸君の手元で崩れおちるであろう。戦争はコミンテルンの現在の指導部の中に先鋭な分裂を引き起こすだろう。ある部分は次のスローガンのもとにアムステルダムの立場へ移るであろう――「われわは真剣にソ連邦を守ろうと欲する。われわれは一握りの狂信者たることを望まない」と。ジノヴィエフとトロツキーがアムステルダムに反対しているのは、やつらが祖国敗北主義者だからだ。このことをブハーリンが証明した! ヨーロッパの共産党の他の部分――われわれは彼らが多数派であると確信する――は、われわれが擁護しているレーニンの立場に、リープクネヒトの立場に立つであろう。スターリンの中間的立場には何の余地も存在しないだろう。まさにそれゆえ、率直に言わせていただくが、一握りの反対派とか、軍隊なき将軍といったおしゃべりが、われわれにとってまったく笑うべきものに思えるのである。こうした揶揄をボリシェヴィキは何度となく聞かされてきた。1914年にも1917年にも、である。われわれはあまりにもはっきりと明日という日を見据え、それに備えている。反対派が現在ほど自己の正しさに対する不動の確信を抱いたときはなかったし、現在ほど深く意見が一致しているときもなかった。

 ジノヴィエフ、力ーメネフ まったくその通り!

 トロツキー 国内政策に関しても、戦争の条件のもとではゆっくりとした中間主義的な退行政策に何の余地もない。すべての論争は激化し、階級的矛盾は先鋭化し、あからさまに提起されるだろう。明瞭な正確な回答を与えることが必要になる。

 戦争の際に必要なのは「革命的統一」なのか、それとも「神聖同盟」なのか? ブルジョアジーは、戦争の時期および戦争の脅威がある時期向けに「国内休戦」ないし「神聖同盟」と呼ばれる特殊な政治状況をでっち上げた。このまったくブルジョア的な概念の意味は、社会民主党を含むすべてのブルジョア諸政党間の意見対立や争いだけでなく、党内の意見対立も戦争中は沈黙させなければならないということである――大衆を最もうまく耳を弄しだますためである。「神聖同盟」は被支配者に対する支配者の陰謀の最高形態である。言うまでもなく、わが党が平時に労働者階級から政治的意味において隠すべき何ものも持たないとすれば、政治路線の純粋さと明確さ、大衆との結合の深さが死活の問題である戦時においては、なおさらそうである。だからこそ、わが党がどのブルジョア党よりも比較にならない中央集権的であるにもかかわらず、内戦の最中においてさえ、政治的指導のあらゆる基本問題を激しく活発に討論し、党的な民主主義的方法でもって解決することができたのである。これは、党が正確な方針を練り上げてしっかり確立し、その革命的統一を強固にするためには避けられない間接費であった。レーニンの死後、わが党の指導がもはや党によるチェックを要しないほど絶対的に正しいと考えている同志たちがいる、より正確に言えば、昨日まではまだいた。だが、われわれはまったく反対に考えている。今日、わが党の指導は、わが党の全歴史のどの時期よりもチェックと変更を必要としている。われわれが必要とするものは偽善的な「神聖同盟」ではなく、誠実な革命的統一である!

 どっちつかずの中間主義政策は戦時にはもちこたえることができない。それは右か左に、すなわちテルミドールの道か反対派の道に転換しなければならない(場内騒然)。

 戦争における勝利はテルミドールの道において可能であるか? 一般的に言えば、このような勝利はありえないことではない。外国貿易の独占を廃止することが第一歩である。クラークがこれまでの2倍輸出と輸入を行なえるようにする。クラークが中農を支配下に置くことを可能にする。貧農に、クラークなしにはやっていけないことを理解させる。官僚制と行政機構の重要性を高め強化する。労働者の諸要求を「同業組合主義」だとして退ける。ソヴィエトにおいて政治的に労働者を押しのけ、昨年の選挙規定に復帰し、それをしだいに有産者に有利な方向へ拡大する。以上がテルミドールの道であろう。それを分割払いによる資本主義化と呼ぼう。その時軍隊の先頭にはクラークの下級指揮官とブルジョア知識人の高級司令官が立つだろう。この途上における軍事的勝利はブルジョア的軌道への移行を加速することを意味するだろう。

 革命的プロレタリア的道において勝利は可能であるか? 可能である。それだけではない。全世界情勢は、戦争の場合、勝利がまさにこの道において最も保証されていることを示している。だがそのためには、あずもって、猫がどれも狼に見えるような政治的薄暗がりを追い払わねばならない。右のクラークは敵である。左の農業労働者と貧農は味方である。貧農を通じて中農に至る。ブルジョアジーと官僚が「今は1918年ではないのだ」と言いながら肘で労働者を押しのけることを不可能ならしめる政治的状況をつくり出さなければならない。必要なのは、労働者階級が次のように言いうるようにすることである――「1927年に私は1918年のときより生活が豊かになっているだけでなく、政治的にもいっそう国家の主人になっている」と。この道に沿って進むならば、勝利は可能であるだけでなく、最も確実に保証される。なぜならこの途上でのみわれわれは、ポーランド、ルーマニアおよび全ヨーロッパの下層人民のあいだで強固な支持を得ることができるからである。

 2つの陣営の間を動揺するスターリンの中間主義的路線は勝利をもたらすことができるだろうか? まず最初にクラークを優遇すること、その息子を養子にし孫を可愛がることを約束し、ついで、おずおずと貧農グループを形成することへと移行し、毎年、選挙規定を、つまりソヴィエト憲法を変更するという路線、まずクラークの側へ向かい、それからそれに反対し、その後、北カフカスでなされたごとく再びクラークを優遇する路線、蒋介石と汪精衛に、パーセルとクックに、下層大衆を混乱させている裏切り的な上層部に向かう路線、このような路線は勝利をもたらすことができるだろうか?(この路線ゆえに、わが政治局は中国に関する1926年10月29日の信じがたい布告を出した。その布告は中国の農村に内乱を持ち込むことを禁止し、遠征軍やブルジョアジー、あるいは、自由主義者と呼ばれている地主や将軍どもを追い払わないよう義務づけた。あるいはまた、労働者に最小限の(!!!)武装を与えるよう自由主義ブルジョアジーに懇願する指令を出した)。この路線は、一方をいらだたせるか冷水を浴びせるが、他方を獲得することもできない。「友人」汪精衛を失い、しかも下部党員を混乱させる。この路線はたえず腐った綱にしがみつくことを意味する。

 平時にあっては、このような路線であっても一定の長期間は継続しうるかもしれない。だが戦争と革命の状況にあっては、中間主義は右か左に大きく舵を切ることを余儀なくされる。それはすでに右翼と左翼に分裂しつつあり、どちらも中間派〔中央派〕を犠牲にして成長しつつある。この過程は不可避的に促進されるであろう。そして戦争は、もしそれがわれわれに押しつけられるならば、この過程に熱病的性格を与えるであろう。スターリニスト中間派〔中央派〕は不可避的に溶解するだろう。こうした状況のもとで反対派は、党を助ける上でかつてなく党によって必要とされるだろう…。

 バブシキン 今は助ける必要がないということか?(騒然)

 トロツキー 党が路線を修正し、それでいて革命的統一を破壊せず、党のカードル、その基礎的資本を解体しないようにするのを助ける上で、かつてなく必要とされるだろう。なぜなら、真のボリシェヴィキ的プロレタリア・カードルの圧倒的多数は、正しい政策、明確な路線が存在するならば、そして切迫した外的諸条件に促されるならば、必然的に、既存の政策を刷新し、恐怖からではなく良心にもとづいて、真の確固たる革命路線をとることができるだろうからである。これこそ、そしてこれのみが、われわれの欲するものである。反対派が条件的祖国防衛主義や別党路線をとっているという嘘、そして反対派の蜂起主義という最も卑劣な嘘、われわれはこれらの嘘を中傷屋たちの顔面に投げ返す。

 反対派席からの声 その通り!

 トロツキー だが反対派の批判は国際労働運動におけるソ連邦の権威を傷つけるのではないか?(野次で聞こえない)。野次を飛ばす者には答えないでおこう。

 このような問題設定それ自体が、わが党にふさわしいものではない。権威なる問題を持ち出すことは、教会的・教皇的ないし高級官僚的・将軍的な問題設定である。カトリック教会は自己の権威を無条件に承認することを信徒たちに要求する。革命家は批判することによって支持するのである。そしてこの批判する権利が実際において確固不動のものになればなるほど、ますます革命家は、自らが直接参加して創設し強化したその当のもののためにいっそう献身的に闘うのである。スターリニストの誤りを批判することは、もちろん、スターリニストの「有無を言わせぬ」肥大した権威を失墜させるかもしれない。だが、革命とソヴィエト共和国とはそんな「権威」なるものによって支えられているのではない。誤りが公然と批判され実際に修正されるならば、むしろそれは国際プロレタリアート全体に対し、この体制の内的強さを示すものとなるだろう。なぜなら、この体制は最も困難な状況のもとでさえ正しい道を選択する内的保証を見出すからである。この意味において、反対派の批判とすでにそこから生じはじめている結果――それは明日にははるかに大きな結果へと至るだろう――とは、結局のところ、10月革命の権威を高め、国際プロレタリアートの盲目的ではなく革命的な信頼でもってその権威を強化するだろう。そしてそれによって国際的規模においてわが国の防衛の能力をも高めるのである。

 政治局の決議案は言う――「ソ連邦に対する戦争の準備は、帝国主義ブルジョアジーと勝利せるプロレタリアートとの階級闘争を、拡大された基盤の上で再現すること以外の何ものでもない」。

 これは正しいか? 無条件にそうだ。このような問題を立てること自体ナンセンスなほどである。だが決議はさらに進んでつけ加える、「わが党の反対派のごとく、戦争のこの性格に疑いをかける者は誰でも……」云々。反対派は戦争のこの全般的な階級的意味に疑いをかけているか? 馬鹿げている! かけてなどいない。ほんの少しもだ! すっかり自ら混乱し、他人を混乱させようする者だけが正反対のことを主張しうる。しかし、だからといって、われわれすべてにとって争いがたい全般的な階級的意味が、あらゆる誤りやあらゆる堕落を埋め合わせることになるのか? いや、そうはならない。埋め合わせはしない。もしわれわれが、現在の指導部が唯一考えられる生来の指導部であると、あらかじめ永久に決めつけてしまうならば…(スクルイプニク「生来ではないが、唯一の指導部だ」)…、その時には、誤った指導部へのすべての批判は社会主義祖国の防衛の否定や蜂起の呼びかけのごとく見えるであろう。しかし、このような立場は、何のことはない、党を否定するものである。戦争の場合、党は防衛に専心するが、どのように防衛するべきかは別問題である。

 もう一度、もっと簡潔に言おう。われわれ反対派は、社会主義祖国の防衛に疑いをかけているか? ほんの少しもかけていない。われわれは防衛に参加するだけでなく、なお2、3のことを教えることを望んでいる。われわれは、社会主義祖国防衛のための正しい路線を提示するスターリンの能力に疑問をかけているか? そうだかけている。それも最高度の疑問をだ。

 『プラウダ』における彼の最近の論文(9)において、スターリンは次のような問いを出している――「反対派は、帝国主義との来たるべき戦争におけるソ連邦の勝利に反対しているのではなかろうか」。もう一度繰返させてもらう――「反対派は、帝国主義との来たるべき戦争におけるソ連邦の勝利に反対しているのではなかろうか」と。この問いかけの厚顔無恥さは置いておこう。またスターリンのやり口に対してレーニンが厳密に与えた性格規定――粗暴で不実――についても今ここで蒸し返そうとは思わない。この問いを文字通り受けとって、それに答えよう。「来たる帝国主義との戦争におけるソ連邦の勝利に反対」することができるのは、白衛派のみである。反対派はソ連邦の勝利の立場に断固として立つし、その点において他の誰からも引けを取らないことを証明してきたし、これからも証明するだろう。だがスターリンにとって問題の本質はそんなところにはない。実際にはスターリンは、あえて口に出さない別の問いを心に抱いている。すなわち、「反対派はスターリンの指導ではソ連邦に勝利を保証しえないと考えているのか?」と。しかり、われわれはそう考えている。

 ジノヴィエフ その通り!

 トロツキー 反対派はスターリンの指導は勝利を困難にすると考える。

 モロトフ では党についてはどうか?

 トロツキー 党は諸君によって窒息させられている。反対派は、スターリンの指導によって勝利がより困難なものにすると考えている。反対派は中国革命に関してそのことを主張した。この警告は現実の事態によって恐ろしいまでに確認された。このような破局的検証を待つことなく内部から政策を変更することが必要である。反対派は、中国におけるような破局的検証を待つことなく内部から政策を変更することが必要であると党に語る。すべての反対派メンバーは、もしそれが真実の反対派であって偽りの反対派でないかぎり、戦争の際には、前線であれ後方であれ、党に委ねられたいかなるポストをも引き受け、最後までその義務を遂行するであろう。だが、ただ1人の反対派メンバーも、戦争の前夜であれ戦争中であれ――わが党においては常にそうであったように――党の路線の是正のために闘う権利と義務を放棄しはしないであろう。なぜなら、そこにこそ勝利のための最も重要な条件があるからである。まとめよう。社会主義の祖国のために? しかり! スターリンの路線のためにか? 否だ! われわれは、すでに最大級の敗北をもたらした恐るべき誤りを正すことを通じて、スターリンの路線を公然と修正する可能性を党に与えることを望んでいる。

 会場からの声 正さなければならないのは君たちの方だ。

 ストルイプニク 党は諸君に全権委任などしていない。

 トロツキー 党は中央委員たる私に、中央委員会に真実を語る資格を委任した。

 ストルイプニク 嘘をつくな。

 会場からの声 分派が君に全権を委任したのだ。

 

   安定化と大衆の左傾化

 トロツキー 「国際情勢に関するテーゼ案」はその基本的な結論に関して次のように述べている――「資本主義が、純経済的分野だけでなく政治的分野においても強化されている」。他方でテーゼはこうも述べている――「西欧プロレタリアートの基本的過程は左傾化の過程である」。しかも以上の議論は反対派に対する非難の意味が込められているのである。テーゼは、他の問題と同様、この問題でも混乱している。資本主義が、1920年のイタリアや1923年のドイツのときのように完全に手綱を手放してしまったような状況から脱していること、あるいは、絶え間なく生産力を破壊して労働者を士気阻喪させるような状況にはないこと、この点は疑いない。一方では共産党が脆弱であるおかげで、他方では指導部の誤りのおかげで、資本主義は、最も先鋭で激しい危機の後に、自らの強化と拡張のために内外で公然と闘争を行なう可能性を手に入れることができた。しかし、まさにこの闘争は、一方では階級的衝突の先鋭化を、他方では世界的な軋轢の先鋭化をもたらしており、まさにそのことによって、階級的および軍事的な衝突と動乱の可能性を内包しているのである。以上が発展の全般的な戦略線である。現代は引き続き社会革命の時代なのである。まさにそれゆえ大きな歴史的意味では大衆の左傾化の過程は疑いもなく起きているし、そのことは深層での激しい振動やしばしば起きる火山の爆発のうちに現われており、パーセル主義やオットー・バウアー主義に風穴を開けるものである。

 しかしながら、現代のこの基本的な、いわば戦略的な発展曲線のなかにも、戦術的なジグザグは存在する。1923年におけるドイツ・プロレタリアートの敗北、1926年におけるイギリスのゼネストの敗北、1927年における中国プロレタリアートの敗北は、その原因が何であろうとも、それ自身――主としてプロレタリアートの上層において――、一時的な革命的水位の低下の原因となるし、一定期間、共産党を犠牲にしての社会民主党の強化をもたらす。このことは最近ヨーロッパ全体で見られたし、共産党内部でも、左派を犠牲にして右派を一時的に優位に立たせた。それはまたしても、西方の多くの諸党に共通してみられる。

 こうした時期における労働貴族、労働官僚、小ブルジョア同伴者の役割はとりわけ大きく、とりわけ反動的である。権力に就いているソ連共産党は、この国際的過程から除外されているわけではない。さらに、誤った体制が輪にかけて労働者の能動性を低め…(会場からの声「しゃべりすぎだ」)…、敗北の原因を労働者が速やかに理解してそれを克服するのを妨げている。強力な官僚機構を自在に操っている右派は、もっぱら左派に打撃を与えており、機械的手段でもって力関係をさらにいっそう左派に不利なように変えている。このような全般的原因のゆえに、最近、左翼反対派はますますコミンテルンとソ連共産党とソヴィエト国家の政策の方向性に影響を与えることができなくなっており、それとは対照的に、コミンテルンの名において、右翼的・半社会民主主義的分子がますますわがもの顔で振る舞うようになっている。これらの分子は、10月革命直後には敵の陣営に走りながら、その後、「審査を要する者」という立場ながら、コミンテルンの隊列に入ってきた連中である。その間、大衆のあいだでは、左に向けた新たな変化の要素が、新たな革命的な高揚の要素が見られた。この新たな高揚は遅かれ早かれ始まるだろう。反対派は理論的にも政治的にもこの明日という日に備えている。

 

   防衛政策と軍隊

 トロツキー 最後に軍について一言。国の防衛においては、経済、政治、文化のすべての要因が結合する。しかし、防衛の事業においては特別の直接的な手段が存在する。それが軍隊である。この手段が果たす役割は決定的な性格を有している。軍事分野というのは、体制の強みだけでなく弱点も、そしてあらゆる政策転換、すべての誤りと欠陥が最も先鋭に影響を及ぼす分野である。ここでは、お人好しの信頼を寄せるぐらいなら、むしろ批判の側に棒を曲げすぎる方がよい。何人かの軍事活動家たちは、昨今の戦争の脅威をふまえて、つい最近、わが国の軍事力に関して意見交換を行なった。

 スクルイプニク おやおや、さっそく軍事会談か。

 トロツキー これらの同志たちの幾人かの名を挙げると、陸海軍監督官の同志ムラロフ10と、軍団指揮官の同志プトナと同志プリマコフ(その反対派的見地ゆえに罷免されたが)、さらに同志ムラチコフスキー11と同志バカーエフ12である。彼らのいずれも、ここに参加している誰よりも負けず劣らず社会主義共和国の大義に献身してきた。彼らの検討結果は、軍の再編計画を含めて文書の形で示されている。この文書は、軍の革命的水準と戦闘能力とを理解する上で必要不可欠のものである。私はこの文書のコピー1部を、同志ルイコフを通じて中央委員会政治局に手渡そう。

 われわれはこの文書――これは対象に対する全面的な知識にもとづいて問題に批判的にアプローチしており、赤軍建設のあらゆる問題を包含している――を、この合同総会の場で朗読するよう提案しなかった。それは、この問題を中央委員会の検討に付す必要がないからではなく――それどころかそれは党と革命国家にとって死活にかかわる問題である――、現在の状況においては、モロトフやヤロスラフスキーやその同類たちに、この最も重要で先鋭な問題をくだらない言い争いの材料に変えるきっかけを与えたくなかったからであり、あるいはまた、ヴォロシーロフの場合に見られるように、まったく偽りの、党にあるまじき、まったく非共産主義的な演説――軍の名誉に泥を塗ったとか何とかいう――を行なう口実を与えたくなかったからである。われわれはあくまでも党と国家の利益のために問題を提起しているのだ。だが、同志ヴォロシーロフの演説の後では、われわれの文書を――速記録をつけることなく、また議事録に入れることなく――発表することが目的に適ったものであるとみなしている。なぜなら、そうすることで、同志ヴォロシーロフの演説に見られるような皮相な評価よりもはるかに真剣に国家防衛の現状を検証に付す必要性を総会に認識させることになるからである。この文書を総会の場で発表するかしないかの問題を決定するよう、国家的な合目的性を考慮した上で政治局に求める。先ほど述べたように、とりあえず、この文書のコピーを1部、その署名者の完全な責任にもとづいて、同志ルイコフに手渡しておく。(場内騒然)

1927年8月1日

『トロツキー・アルヒーフ』第4巻所収

全訳としては本邦初訳

   訳注

(1)パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。

(2)ヒックス、ジョージ……1926年のイギリスでのゼネストのときの総評議会のメンバー。

(3)クック、アーサー(1885-1931)……イギリスの労働組合官僚。英露委員会の主要メンバーで、1926年のゼネストを裏切る。

(4)「少数派運動」……イギリス労働組合運動の中の左派組織で、最初、共産党員によって開始された。

(5)馮玉祥(ひょう・ぎょくしょう/Feng Yu-xiang)(1880-1948)……中国の軍閥、政治家。河南省を拠点。キリスト教を信じ、「クリスチャン将軍」と呼ばれる。夫人は李徳全。1911年の辛亥革命に参加し、1924年の奉直戦争で直隷派を破り、国民軍を結成。ソ連および国民党と接近。1926年、国民党に入党。1926〜27年モスクワを訪問。北伐に参加。1930年、汪精衛、閻錫山とともに反蒋介石蜂起に立ち上がるが失敗。日中戦争中は連ソ・抗日を主張。

(6)唐生智(とうせいち/T'ang Sheng-chih)(1889-1970)……湖南の軍閥。1926年に国民党に加入し北伐に参加し、武漢を奪取。1927年4月のクーデター後に蒋介石と分裂して武漢の左翼国民党政府の軍最高司令官に。上海の共産党員労働者虐殺事件を隠蔽し、1927年7月に武漢で共産党を弾圧。その後、蒋介石に対する闘争を継続。

(7)アブラモヴィチ、ラファイル(1879/80-1963 ……ロシアの革命家、著名なブンド活動家で、右翼メンシェヴィキ。革命後、亡命し、アメリカに移住。『ソヴィエト革命』の著書。

(8)ペトロフスキー、グリゴリー・イワノヴィチ(1878-1958)……古参ボリシェヴィキ。1897年から「労働者階級解放同盟」に参加。1912年に第4国会議員に選出され、ボリシェヴィキ議員団の一員。同年、中央委員会に補充。1918年、ソヴィエト側の講和代表団の1人。1919〜1938年、全ウクライナ中央執行委員会議長。1921年から党中央委員、1922年から、中央統制委員。1926年に政治局員候補。

(9)スターリン「時事問題についての短評」、邦訳『スターリン全集』第9巻、大月書店、359頁。

10)ムラロフ、ニコライ(1877-1937)……ロシアの革命家、1903年以来の古参ボリシェヴィキ。10月革命後、モスクワ軍管区司令官。内戦中は、各戦線の軍事革命会議で活躍。左翼反対派の指導者の一人として1928年に逮捕・流刑。1937年に第2次モスクワ裁判の被告の一人として銃殺。

11)ムラチコフスキー、セルゲイ(1883-1936)……古参ボリシェヴィキ、ポーランド人。1905年以来の党員。10革命および内戦で活躍。1923年以来の左翼反対派。1927年の第15回大会で除名。1928年に流刑。1929年に屈服。1933年に再び流刑。第1次モスクワ裁判の被告として銃殺。

12)バカーエフ、I・P(1887-1936)……農民出身の古参ボリシェヴィキ。ジノヴィエフの側近のひとり。コミッサールから、内戦中はチェカ。1926年7月の「13人の声明」に参加。1927年2月に反対派から離脱。1935年1月ジノヴィエフとともに死刑の宣告を受け、翌36年8月処刑。 

 

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