反対派ブロックの擁護
――反対派に関する同志たちの質問への回答
トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄
【解題】本稿は、レニングラード反対派があたかも一方的にトロツキズムに「くら替え」したかのようなスターリニストの主張を反駁し、レニングラード反対派が反スターリニズムの闘争においてなした独自の貢献を正当に強調するものである。
トロツキーはこの文書の中で、レニングラード反対派の独自の貢献として、農村における階層分化の進展とクラークの台頭に警鐘を鳴らしたこと、一国社会主義論に精力的に反対する理論的立場を展開したことという2つの点を挙げている。これらの論点はいずれも、後年、トロツキーの後継者たちによって、あたかもトロツキーないしトロツキズムの独自の特徴であるかのように言われるようになったが、実際には、トロツキー自身がここで述べているように何よりもレニングラード反対派の、すなわちジノヴィエフの理論的貢献なのである。
たしかにトロツキーも1924年における「われわれの意見の相違」の中で、工業の立ち遅れがこのまま進行するならば、クラークの台頭がありうるという予測を述べていたが、それはあくまでも予測の域を出るものではなく、当面の問題はむしろ農村が経済的に不利益をこうむっていることであり、したがって農民へのさらなる譲歩が必要であるというものであった。この点からしても、クラークの台頭という問題をはじめて当面する脅威として定式化したのはレニングラード反対派なのである。
一国社会主義論についても、トロツキーは1925年の段階で、経済的な意味での一国社会主義論(ヨーロッパからの技術的・物質的支援なしに自給自足で社会主義を建設しきることができる、という立場)を批判し、孤立的な社会主義建設の路線ではなく、世界市場の資源を利用した社会主義建設を訴えていたが、後にトロツキズムの中で一般に言わるようになる「ロシアは社会主義建設を開始し、それを一定進めることができるが、その後進性ゆえにヨーロッパ革命の支援なしには完全に建設しきることはできない」という定式を――少なくとも明確な形では――提出してはいなかった。この点でも、ジノヴィエフの貢献ははっきりしており、ジノヴィエフが初めて政治的な意味での一国社会主義論(世界革命がなくても、ロシア一国だけで社会主義を建設しきることができるという立場)を全面的に批判したのである。
一般にトロツキズム運動内部では、ジノヴィエフのこうした理論的貢献はまったく無視され、単なる裏切り者扱いされているが、ジノヴィエフの批判的復権は必要であろう。
Л.Троцкий, ОТВЕТЫ НА ЗАПРОСЫ ТОВАРИЩЕЙ ОБ ОППОЗИЦИИ, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.2, 《Терра-Терра》, 1990.
スターリン分派はその党分裂政策を正当化するために、「トロツキズム」とレーニン主義とを対立させるとともに、1925年の(レニングラード)反対派がレーニン主義の立場から「トロツキズム」にくら替えしたという主張を持ち出している。すべての思慮ある党員にとってまったく明白なことだが、このような煽動の目的は、階級的路線からのスターリン分派の逸脱によって引き起こされた真の政治的意見の相違から古い意見の相違へと注意を逸らせることにある。この古い意見の相違は、すでに完全に過去のものになっているか、その先鋭な意味を失っているか、あるいは想像上のものであることが明白になっている。
1925年の反対派が自分自身の立場を捨てて1923年の反対派に便乗するようになったかのような主張がなされているが、それはまったくの偽りであり、粗野で不誠実な政治主義的思惑によるものである。1923年以来、党は巨大な経験を積み重ねてきたのであり、この経験から学ばなかったのは、ほぼ自動的に小ブルジョア的泥沼に滑り落ちつつある連中だけである。レニングラード反対派は、農村での階層分化が隠蔽されていることや、クラークが成長し経済の自然発生的過程に対してだけでなくソヴィエト政府の政策に対しても影響力を拡大していること、さらには、わが党自身の隊列内においてもブハーリンの庇護のもと、経済生活における小ブルジョアジーの圧力をはっきりと体現している理論学派が形成されているという事実について、時宜を失せず警鐘を鳴らした。また、レニングラード反対派は、民族的偏狭さを理論的に正当化するものとしての一国社会主義論に精力的に反対する立場を取った。これら第一級の重要性を持ったすべての諸問題は、合同反対派の共同声明〔「
13人の声明」〕の中に有機的な構成要素として入れられた。この声明の中で、両グループは経済と党政策上の基本的諸課題を次のように定式化した。1、工業化のテンポを加速し、賃金問題へのアプローチを抜本的に変更する必要があること。
2、クラークおよび小ブルジョアジー全般からのソヴィエトや協同組合への圧力に反撃する必要があること。そして、クラークを通じてではなく、下から、農業労働者と貧農を通じて農村とのスムイチカを確保し、中農とのスムイチカを保障する必要があること(プロレタリアートと農民との相互関係の問題については、われわれは、1905年と1917年の革命の経験および社会主義建設の経験にもとづいてレーニンが定式化した理論的・戦術的教え――「スムイチカ」――に全面的に立脚している)。
3、われわれの党自身の隊列内に小ブルジョア的変質の傾向が存在すること、そしてそれに対して抜本的な闘争を展開する必要があること。
4、最後に、党のプロレタリア的構成をできるだけ強化し、党の政策に対するプロレタリア的中心都市・地域・細胞の決定的影響力を保障する必要があること。そして、これと結びつけて、党体制を党内民主主義というレーニン主義的軌道に復帰させる必要があること。
経験が反駁できない形で示したように、われわれのうちの誰であれレーニンと意見を異にしたすべての原則的諸問題に関して、正しかったのは無条件にウラジーミル・イリイチの側であったという事実からわれわれは出発する。われわれが合同したのは、レーニン主義をその歪曲者から防衛するためであり、レーニンの遺書に書かれているわれわれ各人に関するすべての指摘を無条件に認めたうえで(なぜなら、この指摘の深い意義は経験を通じて完全に確認されたからである)、スターリンを書記長の地位から更迭するという点に関してだけでなくレーニン時代に形成された指導的中核を維持するという点においても遺書を無条件に実行に移すためであり、そのことによってレーニン主義からスターリニズムへの党指導部の堕落を阻止するためである。両潮流(1923年の反対派と1925年の反対派)の共同の経験のおかげではじめて、すべての基本的問題――経済、党体制、コミンテルンの政策――に、正しく全面的な解決策が可能になったのである。
過去のイデオロギー闘争を想起させることによって合同反対派の内部に相互不信の種をまく目的で、それぞれの潮流の代表者が書いた古い論文やテーゼを利用しようとする試みが執拗になされているが、それは見当はずれの手段で相手を攻撃する企てである。「指導者の面目をつぶす」というスターリニストの試みは成功しないだろう。革命政治において決定的なのは、過去の記憶ではないし、ましてや悪意を持って歪曲された記憶ではなく、党が直面している革命的諸課題である。合同反対派が4月と7月に指摘したし、10月にも再び指摘するように、われわれの見解の統一性は、いっさいの粗野で不誠実な中傷によってただ強化されるのみであり、党は、合同反対派の見解にもとづいてはじめて現在の深刻な危機からの活路が見出されることを理解するだろう。
エリ・トロツキー
1926年9月
『トロツキー・アルヒーフ』第2巻所収
『トロツキー研究』第42・43合併号より
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