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ストルイピンの暗殺

狙撃された直後のストルイピン

(キエフ、1911年9月1日)

ドミートリー・ボグロフ(1887-1911)

(ストルイピンを暗殺したエスエルでオフラーナのスパイ挑発者)

ストルイピンの業績をたたえて暗殺の翌年に建造されたストルイピン像

ウラジーミル・ココヴツォフ(1853-1943)

(ストルイピン首相のもとで長年、大蔵大臣として活動し、ストルイピンの暗殺後にストルイピンに代わって首相となった)

 「ストルイピンが反革命をつくり出したのではなく、反革命がストルイピンをつくり出したのである。しかし、ストルイピンはその仕事において、自己の至高の特権を守るために闘ってきた世襲地主に特有の図々しい自信をもって、全力を尽くして反動に奉仕した。彼は、ロシア史上初めて自分の首からくび木をかなぐり捨てようと本気で試みた人民大衆に対する、農奴所有者的な憎悪に酔いしれた。

 彼は、5年間ずっと、毎日、毎日、何百という人民を捕らえては銃殺し、人間の生活を、そして偉大な努力と無数の自己犠牲の果実であるものを破壊し圧殺し踏みにじった――所有と特権と君主制の栄誉のためにである。彼はジャーナリストと国会議員を買収し、諸政党――オクチャブリスト、民族主義政党、右派政党――の指導部を翼賛化させ、腐敗と汚職と裏切りと挑発を蔓延させた――所有と特権と君主制の栄誉のためにである。……

 プロレタリアートにとってストルイピンは、息を引き取るその瞬間まで、血に飢えた敵であっただけでなく、破廉恥な敵でありつづけた。……

 ストルイピンの死は、人民の目から見て、ストルイピン体制の血塗られた惨禍を償うものではない。われわれが払わされた犠牲はあまりにも大きい。ストルイピン体制の国家的巣窟全体を破壊することだけが、寄生的な君主制の全人民的転覆のみが、ストルイピン独裁の惨禍に対する復讐を遂げさせ、プロレタリアートの良心を慰めることができるのである。」(トロツキー「血に飢えたる破廉恥なるもの」ウィーン『プラウダ』第22号より)

 「民族主義政策は、国内市場を深化ないし拡大するといういかなる展望をも、その最後の希望をも6月3日同盟が完全に拒否することを意味した。それはまた、民族の富と財産を有産階級の特権部分のほしいままにさせることをも意味した。民族主義者の旗の上には次のように書かれている――「わが亡き後に洪水よ来たれ」。これは、自分の破産に気づいている破産者の政策である。戦闘的民族主義の旗手たるストルイピンは、オフラーナ[帝政の公安警察]に雇われたテロリストであるボグロフがその血塗られた生涯に終止符を打つ前にすでに政治的死体と化していたのである。

 ストルイピンに代わって首相になったのはココヴツォフであった。ココヴツォフへの小ブルジョアたちの期待はすぐに幻滅に取って代わった。いっさいが以前のままだ!

 『政治は首相という個人に依存しない!』――国会でココヴツォフは、ストルイピンがフィンランドの首に投げた首吊り縄をきつく締めながら言った。

 激しい気質の持ち主ではないココヴツォフは、大声で脅したり威嚇したりはしない。しかし、彼は、ストルイピン時代に威嚇的・挑戦的姿勢で追求されたあらゆる仕事を粛々と遂行している。

 『政治は個人に依存しない』。ココヴツォフは、ストルイピンが終えたところから開始した。

 では、ココヴツォフは何で終えるのであろうか? オフラーナの長官のマカロフ(5)は彼のために新しいボグロフを見つけだすのだろうか? われわれにはわからない。しかし、その代わり、はっきりとわかっていることが一つある。それは、ツァーリズムの惨めな官僚的簿記係たるココヴツォフには、袋小路にはまって窒息しかかっているわが国の反革命のために出口を見つけ出すことはできないだろうということだ。」(トロツキー「『政治は個人に依存しない』」ウィーン『プラウダ』第22号より)

 

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