戦争の危険性とテルミドールの危険性
――中央統制委員会会議における第1の演説
トロツキー/訳 西島栄
【解題】本稿は、1927年6月後半(演説で言われていることからして、6月22日と推定される)に開催された中央統制委員会の会議におけるトロツキーの2つの演説の1つ(第1の演説)である。この演説は午前の会議でなされたものであり、2つ目の演説は午後の会議でなされたものである。
この中央統制委員会会議でトロツキーは2つの罪で告発された。1つは、1927年5月に開催されたコミンテルン第8回執行委員会総会におけるトロツキーの「分派的」演説であり、2つめの罪は、反対派であることを理由にハバロフスクに左遷させられた著名な反対派党員スミルガのためにヤロスラヴリ駅で送別デモンストレーションを挙行したことである。ジノヴィエフも同じ罪で告発された。中央統制委員会幹部会は両名を党中央委員会から追放することを求めたが、それは実現されずに終わり、両名の中央委員会からの追放は同年10月の中央委員会・中央統制委員会合同総会まで待たなければならなかった。
この演説は、後にかなり縮小された上でロシア語版『偽造するスターリン学派』(1932年)に収録された。日本語訳としては、戦後に、大屋史郎氏が英語版にもとづいて翻訳し、後に現代思潮社の『左翼反対派の綱領』に収録された。今回、インターネットにアップするにあたって、ロシア語原文にもとづいて全面的に訳しなおしただけでなく、削除されていた部分を『トロツキー・アルヒーフ――ソ連邦における共産党内反対派 1923-1927』第3巻(テラ社、1990年)所収の底本にもとづいて全面的に復活させた(削除されていた部分は下線部で示しておいた)。削除部分は全体の半分近くにのぼっており、そのすべてが本邦初訳であるだけでなく、他のどの言語にも訳されていない。
削除部分の中で特に興味深いのは、ドイツのマスロウ・グループに対する評価である。1926年の10月16日の声明では、トロツキーらはドイツのマスロウ、ウルバーンスらのグループを非常に否定的に評価していたが、この演説では、そうした否定的評価はブハーリン学派の一人であるマレツキーの誹謗論文にだまされた結果であると率直に表明している。また、同じ削除部分の中で、トロツキーが「もし中国革命の諸事件がなかったなら、われわれの関係はこれほど先鋭なものにはなっていなかったろう」と述べていることも興味深い。実際、1926年10月16日の声明によって、トロツキーをはじめとする合同反対派はより長期的な展望で党員を獲得していくことをめざしていたが、そうした展望は1927年4月12日の蒋介石クーデターによって完全に覆った。もしこの事件がなかったら反対派の闘争がどうなっていたかを予想することはきわめて困難だが、かなり異なった様相を示したことは疑いない。ちょうど合同反対派が全員除名された1927年末の第15回党大会の直後に、反対派が警告していた大規模な穀物調達危機が起こり、パニックに陥ったスターリニスト指導部は戦時共産主義時代のような強制的穀物調達体制に戻っただけでなく、その水準を大きく越えて農業の強制集団化へと突き進んだのであった。もし反対派の大量除名が起こる前に穀物調達危機が生じていたら、党内の力関係に根本的な変化が生じたかもしれない。その意味で中国の事件は、それ自身の巨大な歴史的意義を超えて、反対派の運命のみならず、ソ連邦と社会主義の運命全体を左右する意義を持ったのである。
なお、小見出しはすべて訳者が内容に即して適当につけたものである。
Л.Троцкий, Две речи заседании ЦИК: Первая речь, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.3, 《Терра−Терра》, 1990.
トロツキー 今から弁論ないし告発の演説――どのように言うべきかわからないが――を始める前に、同志ヤンソン(1)を、彼のこれまでの活動からしてその資格がないものとして、今回の判事団から除くよう要求しなければならない。1924年以来、私を除く政治局員全員からなる分派的「7人組(セミョルカ)」が存在したことは、もちろんのこと、諸君にはみな知られていることである。私の代わりに7人組に加わったのは、諸君の中央統制委員会前議長クイブイシェフ(2)であった。彼は、その職務からして、党規約と党倫理の主たる守護者でなければならなかったのだが、実際にはその第一の違反者であり破壊者であった。この7人組は、党の運命をその背後で決定する非合法的で反党的な機関であった。同志ジノヴィエフは中央委員会での演説の一つにおいて、ヤンソンを反党的「7人組」の活動に参加していた者の1人として挙げた。誰もこの言明に反駁しなかった。ヤンソン自身も沈黙を守った。他にも同じ罪を負うべき者がいるが、ヤンソンに関しては、公式の議事録に記された証拠が存在する。現在ヤンソンは私を反党活動のかどで裁こうとしている。私は判事団からのヤンソンの退去を要求する。
議長オルジョニキッゼ〔左の写真〕 そんなことはできない。冗談でも言っているのか、同志トロツキー。
トロツキー 重大かつ深刻な問題で冗談など言ったりはしない。幹部会はどうやら私の提案によってちょっと困った状況に陥っているようだ。なぜなら幹部会のメンバーの中には「7人組」の活動に参加した者が他にもいると思われるからである。しかし私は自分の提議を冗談に変えようなどとは全然思っていない。実際のところ、たとえそれが「議事の作成」という口実で行なわれていたのだとしても、政治局の一員たる私はこれらの会合についてまったく知らなかった。これらの会合において私に対する闘争を遂行する手段が練られた。とくに、政治局員同士では論争したりせず、全員がトロツキーに論争の矛先を向けることが決められた。党はそれについて知らなかったし、私も知らなかった。こうした状況は長い間続いた…。私は同志オルジョニキッゼが「7人組」の一員であったと言ったのではなく、この分派的「7人組」の仕事に参加したと言ったのである。
オルジョニキッゼ それはオルジョニキッゼではなく、ヤンソンのことだろう。言い間違えているのではないか?
トロツキー 失礼した。もっともこの誤りはまったく形式的なものではあるが。私は実際にはヤンソンについて言っていた。私は同志ヤンソンが「7人組」の一員だと言ったのではなく、この分派的「7人組」の仕事に参加していた、と言ったのである。この「7人組」に関する規定は党規約には何もなく、「7人組」は党の規約と党の意志に反して活動していたのである。そうでなければ何も隠す理由はなかったはずだ。ここに出席の同志たちの中にも、ヤンソンと同じくこの分派的「7人組」の活動に参加していた者がいれば、その者たちも退去されることを心の底から望むものである。
(ヤンソンを判事席から退去させるという要求は幹部会によってただちに却下される)
スミルノフ 私が思うに…
オルジョニキッゼ 同志トロツキーの発言時間だ。
13人の声明と指導部の再編計画
トロツキー 同志ヤンソンは、党内におけるより正常な関係とより協調的な活動を復活させる方法と手段の問題に関して、同志ジノヴィエフの説明と私の説明とを対立させようとしている。それゆえ私は、同志ジノヴィエフの最近の提案に全面的に同意していることを最初に言っておこう。
同志たちは現在、ヤロスラヴリ駅事件のゆえに、ジノヴィエフのラジオ演説(3)のゆえに、そしてコミンテルン執行委員会における私の「演説」のゆえに、われわれを中央委員会から追放しなければならないかのように事態を描き出そうとしている。以上のことはもっともらしく見えるかもしれない。だがわれわれ反対派が昨年の7月初めにすでに中央委員会に提出していた声明(4)の光に照してみればそうではない。この声明書は、われわれに対する諸君の闘争のあらゆる道筋をまったく明白かつ詳細に予言していた。諸君の分派的首脳部がずっと前に、すなわち〔昨年の〕7月総会や〔一昨年の〕第14回大会よりも以前に企てていた党指導部の再編計画を実現するために、あらゆる口実を利用するであろうと予言しておいた。
同志ジノヴィエフを政治局から追放するという中央統制委員会幹部会の提案は、しかるべき合同総会の前に突然持ち出された。なぜなら、分派的企みにおいてはまだ、いっさいが準備万端であったわけではなく、あれこれの者を転向させなければならず、ラシェヴィチ事件から「すべての糸」をジノヴィエフに結びつけなければならなかったからである。まさにそれゆえ、われわれは声明において次のように書いたのである。「ラシェヴィチ事件において……」(読む)。
当時はまだヤロスラヴリ駅〔事件〕はなかったが、われわれはそれを予感していた。なぜなら同志ヤロスラフスキー〔右の写真〕がいたからである(5)。
ヤンソン 駅は、ヤロスラフスキーが生まれる以前からあった。
トロツキー ヤロスラフスキーは、ヤロスラヴリ駅がわれわれの生活における政治的要因となる以前からいた。ヤロスラフスキーに関しては、われわれは以前からこう言っていたものだ。スターリンが半年後に何を達成しようとしているかを知りたければ、会議に出席してヤロスラフスキーの言うことに耳を傾けよ、と。
7月声明を読むと、そこにはこうある――「いわゆるラシェヴィチ『事件』の問題は、6月24日の政治局決議にもとづいて、今回の総会の議事日程に入れられているが、この事件はまったく思いがけないことに、ごく最近、7月20日付の中央統制委員会幹部会の決議によって同志ジノヴィエフの『事件』に変えられている。われわれは何よりも次のことを確認しておく必要があると考える。……この問題は、誰にとってもまったく明らかなことだが、中央統制委員会幹部会で決定されたものではなく、同志スターリンを頭目とする分派グループの中で決定されたものである」(6)。
今や諸君は、われわれがヤロスラヴリ事件のせいで中央委員会から追放されるのだとお人好しに思わせたがっている。
「われわれが前にしているのは、以前から構想され系統的に遂行されてきた計画を実現する新しい一段階である。すでに第14回大会直後に、党の広範で比較的中心的な活動家層内で、中央委員会書記局が発祥元である次のような噂が盛んになされていた。すなわち、レーニン存命中に指導的活動に参加していた一連の政治局メンバーを罷免して、同志スターリンの指導的役割にとってしかるべき支柱となりうるような新しい分子によって置きかえるという噂である。このような計画は、同志スターリンを最も強く支持してきた固く結束したグループの側からの支持を受けたが、何らかの『反対派』に属したことが一度もない他の諸分子からの抵抗に出くわした」(7)。
ちなみに、この諸分子の中には諸君の側の人間も含まれているのだ、同志ヤンソンよ。
「まさにそれゆえ、明らかに指導的グループは計画を少しずつ実行し、そのためにしかるべき諸段階を踏まえることにしたのである。同志カーメネフを政治局の正メンバーから候補に下げると同時に政治局を拡大したことは、あらかじめ予定されていた党指導部の抜本的再編の最初の一歩であった。拡大された政治局に同志ジノヴィエフと同志トロツキーが残され、候補としては同志カーメネフが残されたが、それは旧来からの基本的中核を維持しているような外観を党に与え、中央指導部の継続性と権威に関する不安をなだめるものであった。
すでに大会後の1ヵ月半から2ヵ月後に、『新反対派』に対する闘争が引き続き行なわれつつも、多くの地域でいっせいに、とりわけモスクワとハリコフで――まるで何かの合図にもとづいているかのように――同志トロツキーに対する闘争の新たな章が開かれた。この時期、モスクワ組織の指導者たちは、一連の幹部活動家たちに、次なる打撃は同志トロツキーに向けられなければならないと公然と語った。けっして『反対派』に属したことがない政治局と中央委員会の一部のメンバーは、モスクワ組織の言動への不同意を表明したが、その際、モスクワ組織の背後にいるのが中央委員会書記局であることは誰にとっても秘密ではなかった。この時期、同志トロツキーを近い将来に政治局から罷免するという問題は、モスクワのみならず他の一連の地域でも、党内の十分広範な層の中で議論されていた。
ラシェヴィチ事件は党指導部を再編する基本計画に本質的に何ら新しい要素を導入するものではなかったが、計画を実行する際のやり方に多少の変更をもたらすようスターリン・グループを促した。ごく最近まで、この計画はまず最初に同志トロツキーに打撃を向け、同志ジノヴィエフの問題は次の段階まで先送りすることになっていた。それは、部分的変化の新しい段階ごとに党を既成事実の前に置くことによって、少しずつ党を新しい指導部の支配下に置くためであった。しかし、ラシェヴィチとベレニキーらの『事件』は、彼らが同志ジノヴィエフと密接に結びついていたがゆえに、指導グループが順番を変えて次なる打撃を同志ジノヴィエフに向けるきっかけとなった。……最後の段になって提出された提案――同志ジノヴィエフを政治局から罷免すること――は、古参のレーニン主義的指導部を新しいスターリン主義的指導部によって置きかえるという路線に沿って中央のスターリン・グループによって命じられたものである。
以前と同様、この計画は少しずつ実行されている。同志トロツキーはしばらくの間はまだ政治局に残されているが、それはまず第1に、同志ジノヴィエフが本当にラシェヴィチ事件に関与していたから罷免されたのだという印象を党に与えるためであり、第2にあまりに急激な措置を取ることで党内に過剰な警戒感を引き起こすのを避けるためである。しかしながら、同志トロツキーの問題も、同志カーメネフの問題も、スターリン中枢部の頭の中ではあらかじめ決定されているのである。すなわち、両名ともいずれは党指導部から取り除かれるのであって、計画のこの部分の実施は、ただ組織技術と適当な口実――真実ないし虚偽のそれ――の問題にすぎない」(8)。
まさにこのような組織技術は、今や同志オルジョニキッゼに委ねられている。組織技術とは、すなわち、真実ないし虚偽の適当な口実を探し出すことである。だが諸君には実際の口実は存在しないので、偽りの口実を用いるしかない。
「重要なのは党指導部を抜本的に変更することなのである。この変更の政治的意味は、同志ラシェヴィチの『事件』が同志ジノヴィエフの『事件』にすりかえられる以前に書かれたわれわれの基本声明の中で十分に解明されている。
最後に、つけ加えるべきはただ次の点だけである。レーニン主義的路線からのまったく明白な転換は、スターリン・グループが計画している指導部の再編が実際に実行に移されるならば、比較にならないほど強力な日和見主義的発展を遂げることになるだろう。レーニンは、遺書として知られている文書の中で自分の考えをはっきりと正確に定式化しているが、われわれはそのレーニンとともに、過去数年間の経験にもとづいて深く次のことを確信するものである。スターリンとのそのグループによる組織政策は、党の基本カードルをいっそう解体し、いっそう階級路線からの逸脱をひどくする危険性に党をさらしている。賭けられているのは党の指導部であり、党の運命である。以上に述べたことをふまえて、われわれは、中央統制委員会幹部会の分派的できわめて有害な提案を断固として拒否する」(9)。
同志諸君、この声明が今でもいかに新鮮で差し迫ったものとして聞こえることだろうか! まるで昨日書かれたものであるかのように、将来の予見としてではなく、諸君がすでになしたことを後から記述したものであるかのように思えるほどだ。ぜひとも、諸君は自分たちすべての声明や演説に目を通し、それらを事実に突き合わせてみて、はたして良心に恥じることなく、「われわれはたどってきたすべての道筋を予見していた」と言えるものかどうか教えてもらいたい。まさにわれわれが予言したものこそ、諸君にとってのシパルガルカ〔宣伝・教育用の手引書〕、これまでもそれに沿って行動してきたし、今もそうしているところのシパルガルカなのだ。
諸君が私に今向けている非難こそまさに、われわれが1年も前に予言していたことに完全に一致して、諸君がその与えられた技術的任務にしたがって探し出してきた「適当な口実」に他ならない。これは、最初のものではないがまだ最後のものでもない諸段階の一つにすぎないのである。
コミンテルン執行委員会における演説をめぐって
トロツキー 諸君は私に2つの罪を着せている。第1の罪状は、コミンテルン執行委員会における私の演説である。同志ヤンソンは、私の言ったことを半分だけしか正しく再現しなかった。それゆえ、あたかもコミンテルン執行委員会総会における振る舞いに関して私が説明するのをそもそも拒否しているかのような印象を与えている。しかし、私はどの党会議においても、どの細胞会議の前でも、ましてや中央統制委員会幹部会の前ではなおさら、コミンテルン執行委員会でのすべての発言について喜んで説明するつもりである。私は次のように主張したし、今なお主張する。すなわち、党の中央統制委員会はけっして、私がより上級の組織であるコミンテルン執行委員会の総会において演説したことでもって私を裁くことなどできない、ということである。同志ヤンソンが、今に至るもなおこのことについて理解できないのならば、コミンテルンの規約とわが党の規約を再読してからこの問題を熟考すべきであろう。そうすれば、私が正しいことを理解することだろう。私が党中央委員会の一員としてなした演説に対して地方の統制委員会が裁く権利を否定することがまったく正しいのと同じである。
私の演説についてはすでにコミンテルン執行委員会の幹部会が裁いたし、同組織は自己の権利をけっしてソ連共産党の中央統制委員会に委任しはしなかった。コミンテルン執行委員会総会は言うなれば、わが国際党の中央委員会である。コミンテルン執行委員会総会において、私はこの機関の一員として演説をした。この場で私は、諸君も周知のコミンテルン執行委員会決議(10)の中で裁かれた。だが諸君は、私の発言をめぐってもう一度私を裁判にかけようとしている。だがそんな権利は諸君にはない。このことを同志ヤンソンに指摘したとき、彼はこう言った――「しかし、コミンテルン執行委員会の幹部会は、ソ連共産党の中央委員会に、反対派がさらなる分派活動を行なわないよう必要な措置を講じることを委任したではないか」。たしかに。しかし、そこで言われているのは中央委員会であって、中央統制委員会ではない。しかも問題になっているのは、さらなる分派活動であって、コミンテルン執行委員会における演説のことではけっしてない。それにもかかわらず、繰り返すが、私はそのとき喜んで説明を行なった。今でも十分な時間があるならば、説明を行なうつもりである。諸君は、コミンテルン執行委員会総会で提出された諸文書をいつでも読むことができる。その後数週間のうちに起きたいっさいのことは、私がこの執行委員会総会で自分の見解としてだけでなくいわゆる反対派の見解としても述べたことの正しさを何十倍も説得力あるものにしている(会場全体が騒然)。繰り返すが、自分が述べたいっさいのうち見直すべきものは何もない。
蒋介石によるクーデター直前の4月5日における同志スターリンの演説(11)はこれまで党から隠されてきた。私はコミンテルン執行委員会の席上、同志スターリンに次のように呼びかけた。もし諸君の路線が正しいのならば、そしてコミンテルン執行委員会のこれまでの行動がすべて正当であるとするコミンテルン執行委員会の決議が正しいというのならば、どうか見せてくれたまえ、反革命――蒋介石の個人的クーデターではなく階級的クーデター――の1週間前に君が語った演説を、と。
私が言っているのは、個々人の裏切りのことではない。「ムラヴィヨフが裏切ったというのか? わが党自身の中に裏切りがあったとでもいうのか?」などと語るお人好しがいる。ナンセンスだ! ここで問題になっているのはまったく別のことである。ここで起こっているのは階級的力関係の深刻な変化である。しかも、ブルジョアジーとの力関係の変化である。われわれはブルジョアジーを利用してから「レモンの絞りかす」のように投げ捨てると言ってきたが、実際には彼らのほうがわれわれを利用したのである。われわれは彼らが馬の鞍に座るのを助けたが、彼らはわれわれを足で蹴飛ばし、全権力を掌握し、プロレタリアートを血の海に沈めた。その数週間前、スターリンは蒋介石の政治路線に対する責任を自らに引き受けた。これは党を欺く最悪のもの、最悪の欺瞞である。このようなことはわが党史上かつて一度もなかったことである。それは、中央委員会が「すべてを予見していた」どころか、実際にはまったく正反対だったことを物語っている。レーニンはかつてこう言った、党に対する誠実な態度とは、事実をあるがままに説明することであり、党指導部によって犯されたすべての誤りを明らかにすることである、と。われわれは自分たちのすべてのテーゼ、すべての論文をコミンテルンに提出した。だがスターリンは自分の速記録を隠した。私は、この速記録を入手するためあらゆるドアを叩き、あらゆるところに電話をしたが、スターリンは出さなかった。だが私がスターリンをコミンテルンに呼び出して、速記録を見せるよう言ったとき、彼は出てきてこう言った、「私は同志トロツキーによる個人攻撃に答えるつもりはない」。いったいこれのどこが個人攻撃なのか? 諸君は、個々の同志の威信を救い出すために中国プロレタリアートの首を犠牲にしたのである。これは、革命党の中でなしうる最大級の犯罪である。
ドイツのマスロウ・グループについて
トロツキー コミンテルン執行委員会の問題がまだ残っている。この場で私に投げつけられた主要な非難は、トロツキーと反対派がソ連を攻撃している背教者マスロウ(12)とブロックを結んだというものである。ここでも党に対する欺瞞、労働者階級に対する欺瞞がなされていると主張したい。マスロウのグループはソ連を攻撃などしていない。私自身、去年の秋頃は、『プラウダ』にもとづいてある程度はそう信じていた。その時はまだ、マレツキー(13)〔『プラウダ』にマスロウを誹謗する論文を書いた張本人〕の真の正体についてまだ十分わかっていなかったのである。そして、彼の背後にいて、彼を支え、彼を支配している連中の正体についてもだ。そのため私はこの言い分を信じ、10月16日の声明の中で、マスロウ・グループがソ連を攻撃していると書いてしまった。しかしこれは嘘だったのだ!
私の手元にはこのグループの機関紙『共産主義の旗』の最新号(1927年6月2日付)がある。わが党のすべての党員が知ることができるようこの号を印刷したまえ。そうすれば、このグループがソ連を攻撃しているという言い分が本当かどうかがわかるだろう。『プラウダ』の卑劣な社説「反対派の道」は、実にそれにふさわしい言い方でこう述べている。マスロウ・グループはチェンバレンの手先である、と。しかし、マスロウ・グループは「ソヴィエト・ロシアから手を引け!」と題されたその最新論文の中で、こう述べている。
「最初のプロレタリア革命の国に対する新たな十字軍が準備されつつある。……プロレタリアートだけがこのような戦争を阻止することができる。もちろん、英露委員会のような腐った機関を通じてではない。ソヴィエト・ロシアへの、したがってまた世界プロレタリアートへの攻撃を撃退することができるのは、真に革命的でレーニン的な共産主義インターナショナルだけである。そしてこのことが明らかになる時があるとすれば、それはまさに、この腐った委員会がこの攻撃準備をまったく無力で無気力のまま傍観しているいま現在に他ならない。……帝国主義戦争を阻止することができるのは革命的道を通じてのみであるからこそ、また種々雑多な改良主義(たとえそれがいかに左翼的なものであれ)に対するいかなる期待も幻想の政策であるからこそ、これまでの犯罪的な分裂政策、すなわちまさにコミンテルンのすべての左翼分子を排除する政策を是正しなければならないのである」。
このように彼らマスロウ・グループは、ソヴィエト・ロシアを防衛するためにこそコミンテルンへの復帰を求めているし、この国を最初のプロレタリア革命の国として認めているのである。さらに彼らは次のように述べている。
「……今や面子を優先させるべき時ではない。指導部の評判よりも重要なものが賭けられているのだ。指導部の全政策は、それを抜本的に変更しないかぎり、第2インターナショナルの破産に優るとも劣らぬ破産をもたらすことになるだろう」。
諸君は彼らを背教者と非難しているが、彼らの中には、彼らを非難している多くの連中よりもはるかにまともな革命家が大勢いるのだ。続きを読もう。
「ソヴィエト・ロシアから手を引け! これを言うのはたやすい。しかし、この合言葉は、困難で情熱的で激しい国際的な宣伝煽動活動と組織活動を必要とする。ますます情勢が先鋭化していることがとっくに明らかになっているにもかかわらず、いまだにこの活動に接近してさえいない」。
他の諸要求とともに、同論文は次のような要求を提出している――「次のスローガンのもとに輸送部門や軍需・化学工場の労働者の即時の国際的団結を。ソヴィエト・ロシアを攻撃するための兵士・武器・弾薬を搭載した船や列車を一隻、一両たりとも許すな! ソヴィエト・ロシアを攻撃するための一人の兵士も、一門の大砲も、一滴のガスも、一機の飛行機も許すな! 帝国主義に反対するレーニン的な攻勢的精神にのっとって国際的・革命的な反戦プロパガンダをただちに開始しよう。そして現状を容赦なく暴露し、ソヴィエト・ロシアのすべての『改良主義的友人』との馴れ合いなしに、革命的反撃を組織することによって開始しよう」。
「ソヴィエト・ロシアから手を引け! われわれはすべての労働者にこの訴えを投げかける。これは行動を義務とする訴えである」。
私が紹介したのは論文の一部だけである。この雑誌のすべての号はソヴィエト・ロシアに対する同じ精神で満ちている。だがマレツキーは、パーセル(14)とその友人たちには期待がもてると言いながら、同時にウルバーンスやマスロウなどのグループを裏切り者と主張することによって、党と労働者階級をあざむき、彼らの意識を毒し、敵と味方との区別を抹消しているのである。
ヤロスラヴリ駅事件と反対派の忠誠
トロツキー 第2の罪状は、ヤロスラヴリ駅におけるスミルガ〔右の写真〕への送別デモンストレーションである。諸君はスミルガをハバロフスクに追放した。私は、諸君がこの追放について何らかの統一した説明をするよう再度強く要求する。委員会においてシュキリャトフ(15)はこう叫んだ、「ハバロフスクでも活動はできる!」。もしスミルガが通常の目的でハバロフスクでの活動のために送られたのであれば、諸君はわれわれの集団的送別が中央委員会に反対するデモンストレーションであるとあえて言うことはできないはずである。だがもしこれが、ソヴィエトの責任重大なポスト、すなわち軍事関係のポストに必要な同志の行政的追放であるならば、諸君は党をだまし、二枚舌を使っていることになる。諸君は、スミルガが通常の活動目的でハバロフスクへ送られたのだど繰り返すつもりか? それでいて諸君はわれわれを中央委員会に反対するデモンストレーションのゆえに非難しようとするのか? これこそ二枚舌の政策である。
先に紹介した6月22日付『プラウダ』社説を見てみよう。私の時間が限られているので、この社説が論じている問題すべてを取り上げることはできない。そこで、私がコミンテルン執行委員会総会の席上で、現在、党体制が最も先鋭な危機のもとにあると述べたことをめぐって書かれた一部の文章だけを取り上げよう。この発言にもとづいて、「反対派の道」と題する社説は(中央統制委員会の議長〔オルジョニキッゼ〕は残念ながらこの論文を読む暇がなかったようだ。もっとも、それは、われわれに対する裁判の直前に書かれたもので、今ようやくわれわれの手元に届いた。そして今ではすべての者がこう言っている、「マレツキーの論文を読めば、明日オルジョニキッゼが何を言うかがわかるようになる」と)、次のように述べている。
「この困難を政治的に利用した反対派は、そうすることで、危機の瞬間におけるプロレタリアートとボリシェヴィキ党に対する自らの忠誠に対する疑惑を招いたのである。なぜなら、最大の危険性はボリシェヴィキ党の体制であると主張することは、実際にはソ連の階級敵の言い分を繰り返すことを意味するからである」。
この会場にも出席しているマレツキー派の男女諸君の歓声には答えないでおこう。またこれらの連中の道徳的資格についてもとやかく言わないでおこう。問題を政治的に提起しよう。先の論文の中で、反対派は戦争に際しての革命に対する自らの忠誠に対する疑惑を招いたと言われている。しかし、われわれの隊列には、外交関係のポスト――すなわち戦争にまだ至っていない現在、ソヴィエト連邦を防衛しなければならない最前線の重要ポスト――に就いている者が大勢いる。カーメネフ、ラコフスキー、クレスチンスキー(16)、アントーノフ=オフセーエンコ、ヨッフェは、現在は外交関係のポストに就いていないが、必要な時にはあてにすることのできる旧外交官たちである。ピャタコフ〔左上の写真〕、プレオブラジェンスキーは現在パリにいる。つい最近までその地にラインホリトがいた。コップ(17)はストックホルムにいる。サファロフ(18)は中国にいるが、諸君は彼をコンスタンチノープルに移そうとしている。ムディヴァニ(19)はペルシャに。アウセム(20)はコンスタンチノープルに。ウフィムツェフ(21)とセマシコ(22)はウィーンに。ソコーリニコフ(23)はジュネーブから戻ってきた。カナトチコフ(24)はプラハに。コロンタイ(25)はメキシコに。クラエフスキーは昨日アルゼンチンから戻ってきた。これらはみな反対派メンバーであり、しかもこれでもまだすべてではまったくない。
同志諸君、私は諸君に問いたいのだが、もし戦争の際に革命の国、プロレタリア独裁の国に対する反対派の忠誠に疑問があるのだとしたら、責任重大な指導的ポストにこのような「裏切り者」や裏切り者候補者を置いている革命軍司令部をいったいどうするべきなのか? 私はかつて赤軍の指導に関して党から全権を委任されていたが、私ならこのような司令部を銃殺に処すだろう。諸君はこのような非難をもてあそぶつもりなのか否か?
もし諸君に、マレツキーやその他のごろつき文筆家たちの言い分を支持する勇気があるならば、このような非難をなされた人々を銃殺するか、あらかじめ隔離しておかなければならないはずである。さらに諸君は、帝国主義による攻撃に脅かされている現在において反対派メンバーを闘いの最前線のポストにあえて置きつづけているような中央委員会をも解散させなければならないはずである。
どうして諸君はそうしようとしないのか? なぜなら諸君は、マレツキーが党をだますための嘘をついていることを知っているからである。知っていて沈黙しているのだ。諸君は、マレツキーが意識を毒する嘘をふりまく道をスターリンに準備してやっていることを知っているのだ。ここにタス通信発の「報道用ではない」通信がある。それは、いかにラコフスキーが「ソヴィエトを防衛している」か、あるいはブルジョア新聞の表現に従えば、いかにソヴィエト政府の活動を防衛する仕事に従事しているかについて述べている。しかしこれは「報道用ではない」。報道用には、反対派はプロレタリア国家に対する自己の忠誠への疑問を招いているという中傷が用意されているのである。
ロイゼンマン(26) 君が挙げた人々は「83人の声明」には署名していない。
トロツキー そうあわてるな、同志ロイゼンマン。クレスチンスキーはすでに自分の署名を送ってきた。ところで、貴君には今日すでによりにもよってラフェス(27)を擁護するという汚点がついた。その擁護論はちっともうまくいかなかったが。ラフェスはペトリューラ(28)政府の大臣だった人物で、ボリシェヴィキの首を要求していた。同志ロイゼンマン、貴君はけっして擁護してはならない人物を擁護したのだ。もちろん貴君が素晴らしい革命的プロレタリアであることは知っている。だが貴君は、正しい者たちを非難し、罪のある者たちを擁護しているのだ。同志ロイゼンマンよ、ラコフスキーに関してもしばらく待っていたまえ。
さらに、私のところには、個人的には知らない党員ポズナンスキーからの声明が届いている。彼は1904年からの党員で、植字工、10月革命の時期には、私に語ったところでは、英雄的に闘争に参加した人物である。(会場からの声「そいつを知っているぞ。英雄的だと!」)
ジノヴィエフ (同志モロスに対して)われわれも君のことは知っている。1918年に君を逮捕したことがあった。
モロス 1918年には私はヴェ・チェ・カ(全露非常委員会)で働いていた。
ジノヴィエフ 私が言っていたのは、エム・カ・カ(国際赤十字)のメンバーであった同志モロスのことだった。(笑い)
トロツキー さて同志ポズナンスキーが6月22日に次のような手紙を中央委員会に送付してきた(「本当か?」の野次)。繰り返すが、私は彼のことを個人的には知らなかったし、彼が反対派メンバーであるとは聞いたことがなかった。この鮮明な手紙のせいで彼に特別の関心を持ったのだ。その後、私はしかるべき筋に問い合わせ、絶対的に信頼できる党員から、先に紹介した情報を受け取ったのである。さてこれがその手紙である。
「ソ連共産党(ボ)中央委員会へ。 本日6月22日付『プラウダ』の社説『反対派の道』を読みました。私は、党の統一と真にレーニン主義的な規律の確立のために、5月25日付の同志たちの声明(つまり83人の声明)に対する自分の署名を同封します。1904年以来のボリシェヴィキ党員。党員番号0019773。ヤ・エム・ポズナンスキー」。
思うに、ステツキー(29)とマレツキーの言うことのでたらめぶりがひどくなればなるほど、現在はまだ動揺し決断できておらず、また形式的規律(革命的規律ではなしに)に縛られている党員の中から、反対派の正しさを認識するようになる真の古参ボリシェヴィキがますます増えることだろう。
戦争の危険性について
トロツキー さて、これらの中傷的非難から根本的な政治的問題へ移ろうと思う。
まず戦争の危険性についてだ。昨年7月に発表した声明において、われわれはこう述べている。
「ソヴィエト連邦防衛の強力な条件は、したがってまた平和を維持する条件は、成長し強化しつつある赤軍とわが国および全世界の勤労大衆とのあいだに不可分の結びつきを確立することである。国家内での労働者階級の役割を引き上げるあらゆる経済的・政治的・文化的措置は、労働者と農業労働者および貧農との結びつきを強化し、後者と中農との結びつきを強化するだろう、そしてそのことによって赤軍を強化し、ソヴィエト国家の不可侵性を保障し、平和の事業を強めるだろう」(30)。
まさにここに示されているように、われわれは1年も前に、戦争の危険性と戦時におけるソ連の内的危険性の問題に取り組むよう諸君に呼びかけた。これは個別的な問題ではない。それはわれわれの階級政策の、われわれの路線全体の問題である。
形式上の元首であるソヴィエト中央執行委員会議長カリーニン(31)〔左の写真〕はトヴェリにおいて、われわれは丈夫で頑強な兵士を必要としており、ただ中農のみが丈夫で頑強な兵士になりうる、貧農は虚弱な者が多いからそのような兵士にはなりえない、という趣旨の演説を行なったが、これこそまさに強力な「中農」に向けた公然たる路線であり、この「強力な中農」なるものこそ、クラークないしクラーク候補をカムフラージュする名前以外の何ものでもない。カリーニンは、われわれが10月革命を成し遂げた時、貧弱でやせ衰えた者たちが背丈も体格も立派な者たち対して打ち勝ったのだということを忘れている。どうして勝利しえたのか? なぜならこれらの者たちの数の方が圧倒的に多かったし、今なおそうだからである。諸君はこう言うだろう、敬愛するミハイル・イワノヴィチ〔カリーニン〕はちょっと言いすぎた、と! だが諸君は彼の口を封じただろうか? いや、そうしなかった。反対に、貧農を軽視しクラークを激励するカリーニンの路線をわれわれが批判した時、われわれの口を封じたのである。ちなみに、この場にも出席しているヤコヴレフ(32)はその統計的トリックでもってクラークの存在そのものを覆い隠している。裁判にかけらるべき者はヤコヴレフである。しかるにそのヤコヴレフがわれわれを裁判にかけようとしている。
マレツキーは、われわれ反対派が戦争の危険性を利用していると述べている。いや、戦争の危険性を利用しているのは諸君の方である。諸君は、反対派を迫害しその壊滅を準備するために戦争の危険性を利用している。見たまえ、われわれが戦争の危険性の問題、イギリス労働運動の問題、とくに中国革命の問題を討議したコミンテルン執行委員会のすべての活動のうち、諸君が党に知らせるために発行したのは、反対派を攻撃するためのたった一冊の赤いパンフレットだけである。しかも、何たることか、諸君は、私がいまだ自分の発言を「校正していない」という口実で速記録から私の演説を削りとったのだ。これはまさに、諸君が戦争の危険性を何よりもわれわれに反対するために利用しているということだ。
ステツキーとマレツキーは現在何をしているのか? そもそも『プラウダ』で何がなされているのか? いったい全体『プラウダ』は、国際問題やわが党の路線全体と結びついた問題を一つでもまともに提起しているのか? 『プラウダ』の理論的水準は恥ずかしくて目を覆うほどのものであり、今や『プラウダ』から学べるものは何もない! そして戦争の危険性という問題全体がもっぱら、反対派を攻撃するための最も汚い手段として利用されているのである。同志諸君、社会主義の祖国とその政府を混乱させるのをやめたまえ。
われわれは宣言する、諸君が物理的にわれわれの口を封じないかぎり、われわれはスターリン体制を批判し続けるだろう。諸君がわれわれの口に猿ぐつわをはめないかぎり、われわれは、10月革命の全成果をほりくずしつつあるこのスターリン体制を批判し続けるだろう。これらの成果はわれわれにとって、諸君にとってと同じぐらい貴重なものである。かつてツァーリズムの時代には、シチェドリン(33)の言葉で言えば、祖国とその支配者とを混同する愛国者がいた。われわれはそのような連中とは無縁である。シチェドリンの風刺小説には、「そうだ、そうだ、まったくそうだ」とばかり言う人物が登場する。わが党にも現在、膨大な数のこの種の「イエスマン」がいる。彼らは言われたことには何にでも「そうだ、そうだ」と言う。だがそう言うことで10月革命の精神を実は否定しているのだ! われわれはスターリン体制を、この無能で、堕落しつつあり、思想的に弱体化し、視野の狭い、近視眼的な体制を批判し続けるであろう。われわれはまさに危険性を直視しているがゆえに、そしてスターリンの誤りが戦争の際には10倍も100倍も増幅するだろうがゆえに、倍する力で批判しつづけるだろう。
同志ヤンソンは、われわれが1914年の戦争と現在差し迫っている戦争とを混同していると述べた。たわごとだ! 両者の違いについて私は貴君に劣らず理解している。しかし、最も基本的な点では、われわれボリシェヴィキにとってこれらの戦争は同一である。すなわち、それらはプロレタリアートに対するブルジョアジーの戦争なのだ。ではどの点に巨大な違いがあるのか? それは、今では一方の側〔プロレタリアート〕にプロレタリアートの独裁が存在すること、世界プロレタリアートの陣営にソヴィエト連邦が存在することである。ソヴィエト連邦は戦争において世界プロレタリアートを防衛し、世界プロレタリアートはソヴィエト連邦を防衛する。しかし、いずれにせよ戦争は世界帝国主義に対して遂行されるのである。
パーセル主義と英露委員会
トロツキー それではこの場合、パーセルに対するわれわれの態度はいかなるものであるべきか? そもそもパーセルとはどういう人物か? パーセルは現在、1914年の時よりもはるかに大きな程度で帝国主義の手先である。この問題に関して、パーセルに対するわれわれの態度は、1914年のレーニンがとった態度と同じものでなければならない。なぜならわれわれはレーニンの学校で学んだのであり、帝国主義戦争とその後におけるパーセルの仕事ぶりについてはわれわれ自身よく知っているからである。これがわれわれの立場である。では諸君の立場は? この点に関してモスクワ委員会は次のように述べている。
「英露委員会は疑いもなく(謹聴!)、ソ連に矛先を向けたあらゆる干渉と闘争する上で巨大な役割を果たすことができるし、果たすにちがいない(謹聴!)。それは、新しい戦争を仕掛けようとする国際ブルジョアジーのあらゆる試みと闘う上で、国際プロレタリアートの組織的中心となるだろう(謹聴!)」(ソ連共産党中央委員会7月総会の総括のために準備されたモスクワ委員会宣伝煽動部の文書より)。
1年もの間、われわれは英露委員会の問題性を諸君の意識にたたきこもうと努力してきた。同委員会がイギリス・プロレタリアートの発展しつつある革命運動を破壊しつつあるのだとさんざん言ってきた。ところが、諸君のすべての権威、ボリシェヴィズムの蓄積された経験、レーニン主義の権威、このすべてを諸君はパーセル支持の秤皿に投げいれた。諸君は言うだろう、「いやわれわれは彼を批判している!」と。これは、堕落しつつあるボリシェヴィキの側から日和見主義を支持する新しい形態に他ならない。諸君は彼を「批判する」が――ますます穏やかにますます稀に――、それでいて彼とあいかわらず手を結びつづけている。パーセルは、自国の革命家たちによってチェンバレン(34)の手先と糾弾されたとき何と答えるだろうか? 「いいかね、政治局の一員であり全ソ労働組合中央評議会の議長である他ならぬトムスキーが、ストライキ労働者に資金を送り、私を批判しつつも、あいかわらずわれわれは手をとり合ってやっている。どうして私を帝国主義の手先と呼ぶことができよう」。彼は正しいのか誤っているのか? 正しい。諸君は複雑な手段を通じてボリシェヴィズムの全機構をパーセルに奉仕させた。これこそわれわれが諸君を非難する点である。これは非常に重々しい非難である。それはヤロスラヴリ駅におけるスミルガの送別よりもはるかに重大だ。
わが党の巨大な革命的権威のすべてを諸君は英露委員会を通じてパーセルに利用させた。反対派のことを「社会民主主義的偏向」の罪で糾弾したモスクワ委員会の宣伝煽動部は、英露委員会がソ連に対するあらゆる種類の干渉と闘争する上で巨大な役割を果たすにちがいないとか、帝国主義に対する世界プロレタリアートの闘争の組織的中心になるだろうと宣伝している。これが君たちの言ったことだ、同志諸君! これこそ裁判にかけるべきことだ。
諸君はボリシェヴィズムから何をつくり出したのか? ボリシェヴィズムの全権威、その全経験、マルクスとレーニンの理論――これらのいっさいからこの数年間に何をつくり出したのか? 諸君は全世界の労働者に、とりわけわが国のモスクワ労働者に、戦争の時には英露委員会が帝国主義に対する闘争の組織的中心になるだろうと告げた。だがわれわれはこう言ってきたし、今なお言う。戦争の際に英露委員会は、あらゆる種類の偽りの半友人たちが脱走してくるための、そしてソヴィエト連邦の敵の陣営へと寝返るための塹壕になるだろう、と。トーマス(35)〔右の写真〕は公然とチェンバレンを支持する。だがパーセルはトーマスを支持する、そしてそれが肝心な点なのだ。トーマスは資本の手で支えられている。パーセルは大衆をだますことで支えられ、トーマスを支持している。そして諸君はパーセルを支持している。それでいて諸君は、われわれがチェンバレンを支持していると非難する。いや、その右側面を通じてチェンバレンと結びついているのは諸君の方である。諸君はパーセルと統一戦線を結び、パーセルはトーマスを支持し、彼を通じてチェンバレンを支持している。これは政治的分析にもとづく判断であって、誹謗中傷などではない。
各種の会合において、とくに労働者細胞と農民細胞において、反対派についてはすでにとんでもないことが語られ、反対派の「活動資金」について思わせぶりな質問が出されている。おそらくは無知で無自覚的な労働者か、あるいはおそらく諸君によって送り込まれた労働者が、このような黒百人組的質問を出しているのだろう…。そして卑劣な報告者たちは、この質問に対してわざとらしく言葉を濁す。反対派に対するこのような下劣で卑しむべき腐った純粋にスターリニスト的なカンパニアを終らせる義務が諸君にあるはずだ――諸君が本当に中央統制委員会であったならば。他方、われわれはこのような誹謗中傷に惑わされず、公然たる政治的声明を行なう。チェンバレンとトーマスとは同一の戦線に立っており、両名はパーセルによって支持され、その支持なくしては彼らはゼロであり、諸君はパーセルを支持し、それによってソ連邦を弱め帝国主義を強めている。これは率直な政治的声明である! そして諸君自身も現在その重みを感じつつある。
中国革命とアムステルダム・インターナショナル
トロツキー さて次は中国革命についてである。ヤロスラフスキーは、マルトゥイノフ(36)がよいボリシェヴィキになったと述べている。けっこう! しかし、彼の背後に立っているのはダンである。亡命メンシェヴィキの機関誌『社会主義通報』の4月23日付と5月9日付の中で、ダンは中国革命に関して完全にマルトゥイノフやスターリンと意見が一致している。ダンはわれわれの立場を「左翼小児病」であると呼び、ラデックの路線を「隠蔽された解党主義」であると呼んでいる。まさに諸君がそうしているようにである。どうして諸君はこのことを隠すのか? どうしてこの事実を党から隠すのか? 諸君は、マルトゥイノフはメンシェヴィキだったと言うが、ダンは今でもメンシェヴィキなのである。どうして彼は中国革命問題に関してマルトゥイノフやスターリンと連帯しているのか? そしてどうして諸君はこのことを隠すのか?
私は言いたい。英露委員会に向けた路線はコミンテルン執行委員会の分裂に向けた路線であると。なぜなら、この路線はアムステルダム・インターナショナルに向かっているからである。イギリス総評議会はアムステルダムの一部であり、アムステルダムは第2インターナショナルにつながっている。現在、アムステルダム・インターナショナルと第2インターナショナルとのあいだの原則的違いをもうけようとするのは、笑うべき小児病(あるいはペテン)である。労働運動の性格の点でも、政治路線の点でも、指導部の点でも、両者は同一の本質を持ち、同じ人々がそこに座っており、ボリシェヴィキに反対して両者は同盟している。アムステルダムに向けた路線は第2インターナショナルに向けた路線である。諸君は言う、それは「中傷」だと。いや、これは諸君の立場から出てくる政治的結論である。
そして諸君は自らその結論に向かいつつある。ごく最近、どうやらジュネーヴでウデゲースト(37)と諸君の代表団との何らかの交渉が行なわれたようだ。彼らはいたのか、いなかったのか? 諸君に尋ねているのだ。私はまだ中央委員会の一員であり、諸君が私を「追放」しないかぎりはそうだ。私には党にかかわるすべてのことに関して知る権利がある。諸君に尋ねる、この交渉はなされたのか否か? ウデゲーストは最初から、交渉はあったし、ボリシェヴィキは今や1〜2年前とまったく違ってアムステルダム・インターナショナルに入りたがっていると断言している。オランダの新聞がこのことを報道した。多くの新聞がこの情報を転載した。全世界のプロレタリアートがそれを読んだ。どうして諸君はそれが嘘だと言わないのか? どうして諸君は、世界中の労働者階級が読んだ情報を否認しないのか? どうして諸君はこのことのいっさいをタス通信の「報道用ではない」内部ブレティンで党から隠すのか?
レーニン時代には、社会民主主義者たちが全世界で、われわれが彼らとの合同に向かいつつあると宣言することなどできたろうか? たとえできたとしても、われわれは彼らを嘲笑し、そんなものは腐った嘘であると宣言しなかっただろうか? どうして隠すのか? ここには何かがある。
ウデゲーストはその最初の声明の後、外交的になり、交渉の事実を「否認」するようになった。しかし、昨日のタスの「報道用ではない」通信はまさにこのことについて語っている。
「この否認にもかかわらず、『デ・ストリード』紙はオランダの改良主義的労働組合の指導者ステンヘイスの論文を掲載しているが、それは次のように述べている――『ジュネーブでの国際経済会議において、ウデゲーストとジュオー(38)は、ソヴィエト代表団と交渉を行なった。この交渉は労働運動にとって、少なくとも経済会議そのものと同じぐらい大きな意義を持った。しかしながら、この交渉に関してはいかなる公表も差し控えるという決定がなされたようだ。われわれの見解ではこのような決定は誤りである。労働運動の国際的統一はヨーロッパ労働運動にとってきわめて大きな意義を有している。ヨーロッパのプロレタリアートとアジアのプロレタリアートとの同盟は切実な必要性を帯びているが、真っ先に必要なのはロシアの労働組合と同盟を結ぶことである。われわれは、ロシアの戦術を西ヨーロッパに適用しようとする人々に属してはいないし、どんな条件でも同盟を結ぶわけでもない。われわれはまた「天井桟敷用」に予定された交渉劇にも反対である。ジュオーとウデゲーストが本当にソヴィエトの代表団と交渉したならば、交渉が実践的な結論に至った可能性はまったく否定できない。このことについて労働運動はちゃんと知っておくべきである。組織された労働者の大多数はロシアの労働組合との統一を要求している。われわれにとって知る必要があるのは、ソヴィエト代表団との交渉がこのような統一を促進したのかどうかであり、もしそうでないとすれば、交渉は不首尾に終わったということになる』」(タス)。
オルジョニキッゼ ソコーリニコフなら自分が行なった交渉のいっさいについて語ることができるだろう。
トロツキー ソコーリニコフが交渉を行なったのかどうか、あるいは他の誰が行なったのかは知らないが、もし交渉が行なわれたとすれば中央委員会の指示のもとに行なわれたことは間違いない。もし交渉が行なわれなかったのなら、交渉の噂が嘘であることを公然と言うべきだろう。
オルジョニキッゼ いかなる指示もない。
トロツキー だとすればお尋ねしたい。どうしてこの件に関するタスの第1、第2、第3の通信が――その一つについては私は中央委員会に送付した――、国際ボリシェヴィズムの死活の利益に関わる問題に関するタスのこれらの通信が、党から隠されているのか? 世界の労働者階級が新聞の中で、全ソ労働組合中央評議会がアムステルダムとの交渉に入っているという記事を読みながら、それが本当なのか嘘なのか知らないままでいるというのはどうしてなのか? どうして諸君はそれを隠すのか? この報道が真実なのか嘘なのかに関する明確な情報を誰ももっていないのだ。
オルジョニキッゼ そんな報道はたわごとであると私が断言する。
トロツキー だとすれば、ただちに、明日にでも『プラウダ』に、一連の報道は真っ赤な嘘であると説明する記事を掲載するべきだろう。何と言っても、この一連の報道によって現在、全世界の労働者が教育されているからである。国際プロレタリアートは、ボリシェヴィキが戦争の接近を考慮してアムステルダムに接近しつつあるのだと考えている。(「そんなことを考えるはずがない」という野次)。では諸君は、彼らがそれを最初から嘘だと考えるだろうとの確信を持っているとでも言うのか? イギリス総評議会よりもアムステルダムの方がましだからか? だがアムステルダムのその他の部分が総評議会と区別されるのはただ、彼らにはこの1年間に、総評議会が自国のゼネストと炭鉱ストを裏切ったほどに厚かましく卑劣な形で自国の労働者を裏切る機会がなかったという点だけである。イギリス総評議会は現在、アムステルダムの最も腐った部分である。だが諸君は総評議会の連中に対し「親愛なる同志」と書いている。〔先の報道について〕諸君自身が沈黙しているときに、諸君がアムステルダムの方に向かっていないと国際プロレタリアートが真剣に考えるにちがいないとどうして言えるのか? どうして諸君は現在このような確信を持ちうるのか? レーニン時代には、党はけっしてこのような盲目的な信頼をあてにしてはいなかったし、嘘があった場合にはその嘘を常にはっきりと否認していた。だが現在、諸君は通信を隠しながら、盲目的な信頼をあてにしているというのか? いやそんなはずはない。いずれにせよ現在諸君は、レーニンによって獲得された、党に対するこの信頼を強化するのではなく、それを浪費している。
労働者国家の防衛と党内弾圧
トロツキー もし諸君が自ら公言するごとく、戦争の危険性について真剣に考慮しているのならば、現在ますます手がつけられなくなっているすさまじい党内弾圧がいったいどうしてありうるのか? 軍事活動に従事している第一級の活動家をどうして追い出すことができるのか? 彼らは社会主義祖国のために進んで闘う用意があり、そうする能力を有しているにもかかわらず、中央委員会の現在の政策が誤っており破滅的であると考えているがゆえに追放されていっているのである。諸君のところには、スミルガ、ムラチコフスキー(39)、ラシェヴィチ、バカーエフ(40)のような軍事活動家が多くいるのか? 私が聞いたところでは、諸君は、ムラロフ(41)が83人の声明に署名したという理由で彼を軍事監察部から解任しようとしている。諸君はパーセルやその他の同類の「反戦の闘士」とはいっしょになるが、ムラロフを軍事監察局から更迭しようとしている。(場内が騒然とする)(「誰がそれを知らせたか?」の野次)。誰が「知らせた」のでもない。だがそういう話が広がっている。
オルジョニキッゼ 貴君は先回りしすぎている。
トロツキー おっしゃる通りだ! 私は諸君がしばらく後に行なうことを48時間早く話しているのだ。ちょうど去年の7月に、われわれに対する闘争のすべての道筋を前もって諸君に示したのと同様にだ※。今では新しい段階が日程にのぼっている。
※『スターリンの偽造学派』での原注 赤軍の最も著名な指導者の一人であるムラロフは、その後ほどなくして軍事監察局から更迭されただけでなく、党からも除名され、シベリアに流刑にされた(トロツキー)。
陸軍大学校および空軍大学校の学生はどうか? 諸君は反対派であることを理由に最良の学生を追放しつつある。私は、諸君が卒業の前夜に陸軍大学校から追放した4名の学生の簡単な経歴を入手することができた。1人目はオホトニコフ、2人目はクズミチェフ、3人目はブロイト、4人目はカペルである。ここに1人目のオホトニコフの経歴がある。1897年生まれ、両親は農民で(ベサラビヤ出身)、自分の土地をもたず、地主の土地で働いていた。彼は初等教育しか受けなかった。1915年まで、父のもとで農作業に従事し、雇われ運転手としても働いた。1915年から兵卒として従軍。2月革命の時期にはエカテリノスラフ市にいた。そこで予備砲兵隊から兵士代表ソヴィエトの代表委員に選出されたが、ボリシェヴィキ的傾向を持っていたために5月に前線の第4軍へ移された。同軍では第14砲兵大隊の代表として師団委員会および軍団委員会に選出された。10月革命の時期には、戦闘での負傷のために病院で療養。1917年12月に退院すると、パルチザン部隊を組織してルーマニア占領軍と闘い、ボリシェヴィキ党の指導のもとに活動した。1918年にベサラビアの地下組織に参加。テレスク郷の地下革命委員会議長となるとともに、パルチザン部隊の司令官として活動。その活動のために彼は2度もルーマニアの野戦軍事裁判にかけられ死刑を宣告されたが、うまく逃亡した。1919年、パルチザン部隊とともにウクライナに入り、そこで第45赤軍師団に加わり、さまざまな指揮官的任務を果たした。全内戦期間中ずっと前線にとどまり、内戦が終結するまで白色盗賊団との闘いに繰り返し参加した。1924年、陸軍大学校に入り、これまで一般教育を受けていなかったという点を考慮して、最初は予科に編入された。予科終了後、「優」の成績評価を得て第1学年から第2学年へ進級。彼が反対派の見解を持っているとして初めて党内で告発されたのは1927年2月のことである。「スミルガ送別」に参加した理由で大学から追放された。
私が今もっている4人の経歴はいずれも同じようなものであり、基本的な点で異ならない。彼らはすべて、戦闘で負傷した経験があり、全露ソヴィエト中央執行委員会によって表彰された革命の兵士、党の兵士であり、赤旗勲章の授賞者、10月革命に忠実で、最後まで10月のために闘おうとする鍛え抜かれた革命家である。しかるに諸君は彼らを陸軍大学校から放逐している。これが革命の軍事的防衛を準備するやり方であろうか?
フォルマールの一国社会主義論とスターリン
トロツキー 周知のように、われわれは悲観主義と不確信の罪で非難されている。「悲観主義」なる非難はどこから始まったのか? この愚劣で俗悪な言葉はスターリンによって流布された。だが、流れに抗して泳ぐためには、国際革命に対する確信を諸君の多くよりも強く持っている必要がある。不確信なる非難はいったいどこから始まったのか? それは、一国で社会主義を建設しきることができるという例の悪名高い「理論」からである。われわれはスターリンのこの理論を信じることを拒否する。
ジノヴィエフ オルジョニキッゼは1925年に私にこう言ったものだ、「スターリンに反論しなければならない」と。
トロツキー われわれは、マルクスとレーニンを根本的に歪める傾向をもつこの啓示を信ずることを拒んだ。われわれはこの啓示を信じなかった。そのために、われわれは悲観主義者であり確信の欠如した人間だと非難されているのである。
だが、「楽観主義者」スターリンの先駆者がいったい誰であるか、諸君は知っているのか?
私は重要な文書を持って来たが、諸君が欲するならばそれを諸君に渡そう。それは、1879年に、後にドイツの社会愛国主義者として有名になったフォルマール(42)によって書かれた論文である。この論文は「孤立した社会主義国家」と題されている。この論文は、翻訳したうえで中央委員および中央統制委員の全員に、そしてすべての党員に送付すべきである。
オルジョニキッゼ われわれはもう読んだ。
トロツキー ほー、読んだだって。ということはなおさら悪い。諸君はそれを読んでおきながら、それを党から隠したわけだ。
われわれマルクス主義者はそのように振舞う習慣をもっていなかった。マルクスとレーニンは、古い思想家やユートピア主義者、アナーキストの言うことのうちに、自分たちの立場にとってその後ヒントとなったような何らかの章句を見出したときには、どのようにアプローチしただろうか? 彼らは感謝を込めて自らの先駆者を明らかにし、彼らについて書き、広く普及した。諸君にも先駆者がいた。どうして諸君はこの先駆者に感謝の姿勢を示さないのか? どうして諸君の先駆者フォルマールの文章を印刷しないのか? ちなみに、フォルマールは、今ではスターリンとブハーリンがかくも誇りにしている「思想」をはるかに本格的に、はるかに賢明に、経済的により巧みに根拠づけたものだ。
フォルマールの論文の本質はどの点にあるか? それはマルクスとエンゲルスに攻撃の矛先を向けたものだった。彼は両者と直接には論争しなかったが(そうするには2人の権威はあまりにも大きなものだった!)、彼の議論が誰を標的にしたものであるかはすべてのマルクス主義者にとってまったく明らかであった。彼は名指しせず、「若干の人々」と述べた。スターリンもまた、彼なりの知恵を振り絞って議論を開始したとき、「若干の人々」や「ある人々」と論争するという形をとったものだ。フォルマールは次のように書いている。
「問題はまさに、社会主義がその経済計画を実現するためにはすべての文明世界で(すべての経済的に先進的な諸国民のもとで)同時に勝利している必要があるのか、それとも個々一国の形で社会主義的に組織された国家を実現することができるのか、という点にある」。
さらに彼は、一国だけで社会主義建設を完成させることは不可能だと語る「若干の人々」の意見を取り上げて、こう続けている――「私は正反対の見解を持っている。私は、たった一国で(最初の時期には)社会主義が最終的勝利を得る可能性は歴史的に非常に高いだけでなく、孤立した社会主義国家の実現と繁栄にとっていかなる決定的な障害も存在しないと思っているし、将来そのことは証明されるだろう」(「孤立した社会主義国家」、『社会経済・社会政策年報』、1879年、チューリヒ、54〜74頁)。
このようにドイツ社会民主党のフォルマールはすでに1879年に一国社会主義の理論を展開した。それにひきかえ、彼のエピゴーネンであるスターリンは、1924年になってようやくその「独創的な」理論をつくり始めた。なぜ1879年か? なぜなら、この時期が反動の時代、ヨーロッパ労働運動の大規模な衰退の時期だったからだ。フランスのパリ・コミューンは1871年に粉砕された。1879年にはすでにフランスに革命運動はまったく存在しなくなっていた。イギリスでは、自由主義的なトレード・ユニオニズムと自由主義的な労働政治が全戦線にわたって勝利していた。この時期はイギリスおよび大陸の革命運動における最も深刻な衰退の時代であった。その一方で、ドイツでは、社会民主党がきわめて急速に発展しつつあった。この矛盾の結果として、フォルマールは一国社会主義論という独創的理論に到達したのである。さてフォルマールがどのような最後を迎えたか諸君は知っているだろうか? 彼は極右のバイエルン社会民主主義者、排外主義者として終わった。今は情勢が違うと諸君は言うだろう。もちろん現在の一般情勢は異なっている。しかしヨーロッパ諸国のプロレタリアートはこの数年間に大きな敗北をこうむった。国際革命への希望、すなわち1918年〜1919年におけるようなその差し迫った勝利への希望は現在、脇に押しやられている。そして「楽観主義者」の多くはこの希望をそもそもなくしてしまい、そのため、国際革命がなくてもやっていけるという結論に引きつけられている。まさにこの点にこそ、一国社会主義論を筆頭とする民族的に偏狭なフォルマール主義への日和見主義的堕落のための前提条件が存在するのである。
出世主義者と反対派
トロツキー 諸君は、この理論との関係で、あるいはそれとは関係なしに、われわれを悲観主義と不確信の罪で非難している。われわれ反対派は、悲観主義者と不確信の輩の「ちっぽけな徒党」であり、党は一枚岩で、その中にいるすべてが楽観主義者であり大いなる確信の持ち主というわけだ。これはあまりに単純にすぎないか? 次のように問題を提出させていただこう。出世主義者、すなわち個人的成功を求める人々は、いま反対派に入ろうとするだろうか? たとえそんな人物がいるとしても、わが党とわが国の「最良の代表者たち」に名前をつらねるために一瞬入るがすぐに出て行くような、抜け目のない連中ぐらいなものだろう。しかしこれは、例外的とも言うべき飛びぬけて下劣な連中である。平均並みの出世主義者をとり上げるならば、お尋ねするが、このような出世主義者は現在の状況のもとで反対派を通じて出世を追求するだろうか? そんなことはしないことを諸君はよく知っている。事あらばここにいる誰にも負けずに闘争に飛び込むであろう戦闘的なボリシェヴィキ労働者たちが、反対派であることを理由に工場を追い出され、失業者の隊列に放り込まれているときに、利己的な連中がどうして反対派に入ってくることがあろうか? 利己主義者は入ってこないだろう。労働者の反対派メンバーの存在は、吹き荒れる弾圧にもかかわらず、党の隊列にはなお自己の見解のために闘う勇気をもった人々が残っていることを示している。あらゆる革命家の第1の資質は流れに抗して泳ぐ勇気であり、最悪の逆境のもとでさえ自己の見解のために闘う能力である。
私はもう一度お尋ねする。俗物や小役人、利己主義者は反対派に入ってくるだろうか? いや、このような連中は入ってこない。大家族もちで、疲れ果て、革命に幻滅を感じ、惰性から党に残っているような労働者が反対派に入ってくるだろうか? いや、入ってこない。彼らは言うだろう、「もちろん今の体制はひどいものだ。だが彼らに好きにさせておこう、私の知ったことではない」。現在の状況で反対派に入ってくるのに必要な資質は何だろうか? まずもって必要なのは、自らの信奉する大義に対する、すなわちプロレタリア革命の大義に対する確固たる信念、真の革命的信念である。だが諸君が要求するのは保護色のついた信念である。諸君は、上層部にしたがって投票し、社会主義の祖国を地方委員会と同一視し、書記にならって行動することを要求する。諸君が経営担当者か行政官であるならば、地方委員会を通じて、あるいは地区委員会書記を通じて身の安全を保とうとするだろう。
諸君の大いなる確信は何を通じて検証されるのか? 100%の賛成投票によってである。このような非自発的な投票に参加することを欲しない者は、時にはドアからこっそり逃げ出そうとする。だが書記はそれを許さない。諸君は投票しなければならない、しかも命令通りに投票しなければならない。棄権者の名前は記録に控えられる。諸君はこのすべてをプロレタリアートから隠せると考えているのか? 諸君は愚弄しているものは何か? 繰り返し問う、諸君が愚弄しているものは何か? 諸君は自分自身を、革命と党とを愚弄しているのだ! 常に諸君とともに100%投票するもの、指令どおりに昨日はトロツキーを「罵倒し」、今日はジノヴィエフを「罵倒し」、明日にはブハーリンとルイコフを「罵倒する」ような連中は、革命が困難に陥った時にはけっして確固たる兵士とはならないであろう。だが反対派は、まさしく衰退と抑圧の最も困難な時期に屈服せず、自己の周囲にけっして買収されることも威嚇されることもない最も貴重な戦闘的分子を結集している点にこそ、その確信と勇気とを証明しているのだ。
ヤンソン 反対派メンバーの中にも出世主義者や利己主義者がいる。
トロツキー だったら名前を挙げてみたまえ。名前を挙げさえすれば、われわれは諸君とともにそういう人物を放逐するだろう。そういう者はどこにいるのか? 反対派の基本的中核はけっして買収されえず威嚇されえない分子で構成されている。
現在の党体制は党を窒息させ、首を絞め、鎖につないでいる。そしてそれは、国内で生じている深刻な階級的過程を、すなわちわれわれが戦争の危険性のまさに最初の知らせが届くやいなや直面しなければならない過程、戦争が勃発した暁にははるかに先鋭で過酷なものとして直面することになる過程を隠蔽しているのである。
ヤロスラフスキー まさに1910年〔1912年の誤りか?〕のときのようにだ。そのときも貴君は同じことを言った。
トロツキー 貴君は数週間前の党細胞会議で、馮玉祥(43)が真の革命家だと言った。
ヤロスラフスキー 嘘だ。
トロツキー 貴君こそ、1910年を持ち出すことで嘘をついた。貴君がこの問題を持ち出すたびに断言するが、たしかに私は、レーニンと党に反対していたときには誤りを犯していた。しかし、いかなる時も、レーニンに対する古い闘争の最も先鋭な時でさえ、私は現在のヤロスラフスキーほどにはレーニンから離れてはいなかった。
現在の体制はプロレタリアートの前衛の個性を抹殺している。なぜならばそれは、どこから危険が迫っているかを公然かつ率直に述べる機会を与えないからである。その一方で、プロレタリアートは非プロレタリア階級の側からの脅威に脅かされている。この数年間というもの、プロレタリアートが政治的に萎縮させられている一方で、残りの諸階級は伸び伸びと伸張しつつあるのである。
このことを理解しようとしない者は、私見によれば、指導的な諸機関からできるだけ速やかに「追放」されるべきだろう。そして、この萎縮と伸張とはあらゆるところに表現されている。どのスペッツ〔ブルジョア専門家〕も、どの官僚も、どの上流階層(ソヴィエト的ないし半ソヴィエト的なそれ)も、今や労働者にとって「1918年ではない」ことを知っている。諸君もこのことは商店や街頭や路面電車の中で耳にしているだろう。男女労働者ともにこのことを感じている。ウストリャーロフ(44)は、密かに塹壕を掘りながらプロレタリアートにブルジョアジーが攻撃を加える過程、この過程を表現するイデオローグである。
わが国には教師の大会があったし、技術者・化学者の大会があった。そこでも新しい空気が広がっている。ある技術者は演説の中でこう述べた――「諸地方の政府当局はまともに機能していない」。彼には拍手が送られた。また別の者は地方で起きている何らかの乱脈について語った。共産党員はなだめるように「そこでは杜撰な手抜き〔ロシア語原文では「頭がたた切られる」という意味の単語で構成されている〕がなされた」と述べた。これに答えて技術者はこう述べた――「しかり。しかし、たた切られているのはわれわれの頭であって諸君のではない」。この同じ化学者大会で第三の者は、演壇から共産党員の経営担当者にこう語った――「共産党員の工場長を追い払ってしまおう。君たち化学者がそのせいで解任されたとしても、われわれは2日もすれば諸君をもとのポストに戻すだろう」。以上の状況は、情勢の変化をどんな理論的判断よりも適切に特徴づけている。
昨年の秋、私はあるカフカース人のパルチザンと話をした。彼はパルチザンの不満を訴えた。「不満の原因は何か? 飢えか?」「いや、飢えはない。われわれの地域は豊かである。不満の原因は、われわれが権力から押しのけられたことだ」「誰が権力に就いたのか? クラークか何かか?」「いや、クラークはまだ権力に就いておらず、どっちつかずの地位にいる」、パルチザンは文字通りこう述べた。彼はこう続けている、「クラークも不満をおぼえている。力はすでにあるのに、権力はまだ自分のものになっていない、と」。必要とあらば、いつ、どこで、どのようなパルチザンがこう述べたのかを具体的に言ってもよい。同志諸君、以上は北カフカースでの状況をよく特徴づけている。しかし、これはモスクワでも同じなのだ。
ソ連は労働者国家か?
トロツキー このことと密接な関係をもつのは労働者国家の問題である。『プラウダ』を通じて多くの下劣な嘘が系統的にまき散らされているが、その一つは、あたかも私がわが国を労働者国家ではないと言ったかのように言う嘘である。これは、私の未校正の速記録演説を大きく歪めた上で利用したものである。私はこの演説の中で、ソヴィエト国家に対するレーニンの態度について論じ、それをモロトフ(45)の立場と対比させたにすぎない。レーニンは、われわれがツァーリの機構から多くの最悪のものを引き継いだと述べた。だが諸君がいま言っていることは何か? 諸君は労働者国家を物神崇拝し、現在の与えられた国家を一種の「真正」国家として神聖化しようとしている。そしてかかる神聖化の最も完成せる理論家は誰か? モロトフである。それは彼の功績である。私はもう一度彼の言葉を読んで聞かせよう。諸君は私のモロトフ批判を隠蔽し、『プラウダ』はそれを歪曲した。だがここには第14回モスクワ県党会議において力ーメネフに反対してモロトフが言った言葉がある(『プラウダ』1925年12月13日号)。
「われわれの国家は労働者国家である。……にもかかわらず、われわれに次のような定式を進呈する者がいる。それは、労働者階級をもっとわれわれの国家に接近させるべきだ、それが最も正しい定式だ、というものである。これはどういうことか? 労働者をわれわれの国家に接近させるという課題を自らの前に立てなければならないとされているが、しかしこの国家そのものが彼らの国家なのである。それが労働者国家でないとすれば、それは何か? それはプロレタリアートの国家ではないということか? 彼らを国家に接近させるというのはどういうことか? すなわち、権力に就き国家を管理運営している労働者階級にこの同じ労働者を近づけるというのは、いったいどういうことか?」。
これがモロトフの言葉である。これは、同志諸君、現在の与えられた労働者国家はただ批判・矯正・改良という巨人的な仕事を通じてのみ真の完全に労働者的な国家となりうるのだというレーニン主義的概念に対する最も愚劣な批判である。モロトフの言うところでは、与えられた国家は、もはやこれ以上大衆に近づけることのできない何か絶対的な労働者国家である。私の異論、いやより正確には、ソヴィエト国家のレーニン主義的分析の記述が矛先を向けているのは、まさにこの官僚的物神崇拝に対してなのである。(野次)。
現在の状況と右からの危険性
トロツキー ここで人は言うだろう、「では何をなすべきか?」と。諸君が本当に、私が指摘した現象に対して何もすることができないと考えているならば、諸君は革命が滅びる運命にあることを認めることになろう。なぜならば、現在の方向にそのまま進めば、革命は必ず滅びるからである。つまり、諸君こそが真の悲観主義者、しかも自己満足にふけった悲観主義者だということである。しかしながら、政策を転換することで状況を変えることは、今ならまだ完全に可能である。だが何をなすべきかを決定する前に、現在どうなっているのかを、現在の過程がいかなる方向に向かいつつあるかを語らなければならない。
たとえば、住宅問題のような緊急の問題を取り上げるとしたら、ここでは2つの過程が生じていることがわかるだろう。それは諸君が容易に検証しうる統計数値のうちに示されている。すなわち、プロレタリアートの居住面積が縮小しつつあり、他の諸階級のそれは拡張しつつある。農村については言うまでもない。そこでは住宅建設が広範に進んでいるが、もちろん建てているのは貧農ではなくて、農村の上層、つまり富農と強力な中農である。だが都市ではどうか? いわゆる「クスターリ(手工業者)」すなわち小ブルジョア、小経営者、商人、スペッツ〔専門家〕――彼らのすべてが今年は1人当りの居住面積を拡大している。だが今年の労働者の1人当り居住面積は去年よりも縮小している。何をなすべきかについて語る前に、事実を率直に確認しなければならない。そして、住宅問題におけるのとまったく同じく、日常生活においても、文学においても、劇場や政治においても、事態はこうなのである。すなわち、非労働者階級が拡張し、周囲を押しのけながら前進しつつあり、プロレタリアートは萎縮し、縮小しつつある。
会場の声 だが、そうならないようにするには、どうしたらいいのか?
トロツキー 私に十分な時間を与えてくれるなら、何をするべきかをお話しよう。
オルジョニキッゼ 貴君の時間はすでになくなっている。
トロツキー あと15分を要求する。(受け入れられる)。繰り返すが、物質的領域においてブルジョア諸階級は拡張しつつある――諸君はこのことを街頭で、店頭で、電車の中で、アパートでも見ることができる。事態は政治においても同じである。全体としてのプロレタリアートが縮小しつつあり、しかもわが党体制がプロレタリアートの階級的萎縮を強めている。これが基本的事実である。打撃の脅威は右から、非プロレタリア階級の側から来ている。われわれの批判が目的としているのは、プロレタリアートの意識を目覚めさせ、迫り来る危険性に対して彼らの注意を向けさせることであり、あたかも、いったん獲得された権力はどんな条件下でもいつまでも安泰であるとか、ソヴィエト国家がどんな条件下でもつねに労働者国家であるような何か絶対的な存在であるかのような考えを労働者から払拭することである。必要なのは、プロレタリアートが次のことを理解することである。一定の歴史的期間のうちに、とくに誤った指導政策が遂行される場合には、ソヴィエト国家が、権力をプロレタリア的土台から遊離させてブルジョアジーへと接近させる機構となるかもしれないということ、そしてその後、ブルジョアジーがソヴィエト的外被を完全に脱ぎ捨ててその権力をボナパルチスト権力に転化させるかもしれないということである。誤った路線が遂行される場合には、このような危険性は完全に現実的なものなのである。
国際革命なしに社会主義を建設しきることはできない。パーセルの支持をあてにするのではなく、国際革命を展望した正しい政策なしには、社会主義を建設しきることができないだけでなく、ソヴィエト権力そのものを破滅に追いやるだろう。まさにプロレタリアートがこのことを理解することが必要なのである。われわれ反対派の罪とは、自分に催眠をかけたり、わが国の革命が直面している危険性に対して「楽観主義的」に目を閉じることを欲しなかったことなのである。
ウストリャーロフ主義とテルミドールの危険性
トロツキー 真の危険性は右から来ている。だが、わが党の右翼からではない。わが党の右翼は真の危険性の伝導機構にすぎない。真の根本的な危険性は、頭をもたげつつあるブルジョア諸階級の側からやって来ている。彼らのイデオローグはウストリャーロフである。すなわち、レーニンが警告を発したかの賢明で先見の明あるブルジョアである。諸君は、ウストリャーロフがわれわれではなくスターリンを支持していることを知っている。1926年秋にウストリャーロフはこう書いている――「いま必要なのは新しいマヌーバー、新しい刺激、比喩的に言えばネオネップである。この見地からすれば、最近、党によって反対派に対してなされた一連の実際上の譲歩は重大な懸念を生じせしめるものである」。さらにこう述べている。
「反対派の指導者によってなされた懺悔の声明(46)が、彼らの一方的で無条件的な降伏の結果であるならば、政治局万歳だ。しかし、もしそれが彼らとの妥協の結果であるならば問題である。後者の場合には、闘争は不可避的に再び燃え上がることになるだろう。……勝利した中央委員会は反対派の破壊的な毒素に対する内的な免疫を獲得しなければならない。中央委員会は反対派の敗北からいっさいの結論を引出さなければならない。……さもなくば、それはわが国にとって災いとなるだろう」。
「まさにこのような形で――とウストリャーロフは続ける――、ロシア国内のインテリゲンツィア、実業家、専門家は、すなわち革命のイデオローグではなく進化のイデオローグたる人々は問題にアプローチしなければならない」。
ウストリャーロフの結論はこうである――「まさにそれゆえ、われわれは現在ジノヴィエフに反対するだけでなく、決定的にスターリンに賛成しなければならないのである」。ウストリャーロフは、諸君が選挙権に関する指令の「誤り」を是正することに反対している。ウストリャーロフは反対派を完全に壊滅させることに賛成している。
さて諸君はこれに対して何と答えるのか? 諸君は反対派を中央委員会から――さしあたり中央委員会からだけだが――追放しようとしている。ウストリャーロフは、偉大なフランス・ブルジョアジーの歴史を知っているブルジョアである。彼は実によく知っている。新しいブルジョアジーの気分を代弁するこの人物は、ボリシェヴィキ自身の堕落のみが最も苦痛の少ない形で新しいブルジョアジーのための権力を準備しうることを理解している。ウストリャーロフは、スターリンの中央委員会を支持しつつ、反対派の破壊的毒素から保護する(何を?)ことが必要であると書いている。したがって彼もまた、反対派という破壊的毒素を破壊しなければならない、さもなくばそれが「わが国にとって災いとなるだろう」という点で諸君と意見を同じくしているわけである。
以上がウストリャーロフの言っていることである。だからこそ彼はわれわれに反対するばかりでなく、スターリンを支持しているのである。このことをよく考えてみたまえ。ここで諸君に示した人物は、反対派がイギリスの金で活動しているなどと信じている無知な人々――無自覚的であるか、あるいはだまされている人々――ではない。いや、ウストリャーロフは非常に意識の高い人間である。彼は自分が何を言っているか、何をめざしているかを知っている。どうして彼は諸君を支持しているか? 彼は諸君とともに何を防衛しているのか?
イギリスのブルジョア経済新聞『スタティスト』の6月11日付号は何と述べているか? よく聞いてもらいたい。「スターリン政府が極左たちを粉砕して外国でのプロパガンダを完全に停止するか、さもなくば政府自身がトロツキー=カーメネフ=ジノヴィエフのグループによって粉砕されるか、という決定的な時期がついにやって来た!!」。これがイギリス・ブルジョアジーの経済機関紙が述べていることである。それは、反対派を一掃することを決断するべきときが来たと書いている。まさにこの問題について諸君は決断しようとしている。
不当性と違法性
トロツキー 最近私が反対派の「83人の声明」に署名した同志の1人との会話で聞いたところによると、同志ソーリツ(47)はフランス革命とのアナロジーを持ち出したそうである。私はこの方法は正しいと思っている。それはまったくもって正しい。フランス大革命の、とくにその最後の時期の諸事実を叙述したものとそのマルクス主義的解釈を全党に提供するべきであろう。それは悪くない警告を与えてくれるだろう。(同志オルジョニキッゼが何かを話しはじめる)。同志オルジョニキッゼが話の邪魔をするのをやめるまで待とう。私が何か反党的なことを言うのでもないかぎり、誰も私を止めることなどできないはずだ。
ヤンソン われわれが止める。
トロツキー いや、無政府的な警告など私にとって現実的なものではない。私に必要なのは議長による正式の警告だ。
同志ソーリツは、この同志が署名した83人の声明について彼と語った。ところで、ここで一つ奇妙なことがある。ソーリツが声明署名者の一人を呼び出して、あらゆる脅迫的な警告を発したことである。公式には諸君は83人の声明に署名したことをもってわれわれを告発しているのではない。実際には、ヤロスラヴリ駅事件が罪であるとされている。同じく罪とされているのは、コミンテルン執行委員会での私の演説である。その委員会で私は、コミンテルンの大会で選出された執行委員として行動したのであり、この点で諸君には私を裁判にかける権利などない。だがもしヤロスラヴリ駅事件がなかったとしたら、その時には、駅なしのヤロスラフスキーは今度はどんな罪をでっち上げただろうか? (ヤロスラフスキーの野次は一部聞きとれない……「たとえ貴君なしでもだ」)。私は諸君が何もないところから告発のスープをこしらえることを知っている。諸君は斧からスープをつくる兵士をも凌駕している。どうして諸君はこの83人の声明には触れないのか?
同志ソーリツは一人の同志を呼び出した。その同志の名はヴォロビヨフである。(会場からの声「情報提供者か?」)。諸君は本当に党に猿ぐつわをはめたがっているようだな。情報提供者ではなく同志だ。党内の醜悪な状況を暴露し、正しいことを行なっている同志だ。どうして諸君は罪状の中に83人の声明を入れないのか? もしこの声明が規律に忠実で適法的なものであると諸君が考えているのなら、つまり、この声明がボリシェヴィキ党内の党員グループによって発することのできるものであると考えているのならば、それはすばらしいことであり、私は歓迎する。しかし昨年の7月声明に対して、諸君はまったく違う態度をとった。お尋ねするが、諸君はわれわれの集団的声明を告発するのか、それを罪だとみなすのか、それともしないのか? 私は、諸君の分派的中央がまだこの問題を検討していないのではないと推測する。今度は速記録に手抜かりがないようにしていただきたい。そして次のことをしっかりと記録していただきたい。われわれは83人の声明に署名したことで告発されてはいないが、私が思うに、そうなっているのは、指導部が党内により健全な体制を作り出そうとしているからではなく(党員が中央委員会に対して声明や宣言や助言を発することができ、かつこのような裁判がまったく行なわれない時に、より健全な体制であると言える)、指導部がまだこの問題を検討していないからであろう。
オルジョニキッゼ 貴君は、実際には、問題の討議と検討が完全に不愉快な性格を帯びるようあらゆることを行なったのだ。
トロツキー 不当性と違法性とでは(諸君は何といっても法を守る立場にあるのだから、このことを諸君に説明しているのだが)、不当性と違法性とでは大きな違いがある。たとえば、ここでの諸君の行為は不当であると私は考えているが、それを違法なものだとみなすことはできない。諸君は、裁くべき連中を裁かず、党の法(規約)にもとづいて行動している者を裁いている点で不当である。説明していただきたいのだが、諸君は83人の声明を、本質的に、つまり政治的に不当なものであるが、党規約の観点からは適法なものであるとみなしているのか? 私はこのように諸君の振る舞いを理解している。
私の言い方がきついとか、同志的配慮が不十分であるとか、そういうことに関しては、同志オルジョニキッゼにもう一度「反対派の道」のことを思い出してもらい、それをよく読むようお願いしたいと思う。その論文では初めて反対派に対して次のような批判がなされている。反対派が「同志的(!)批判の範囲を越え」ていると。それでいて同論文は、「同志的」戒めとして、反対派が戦争の際にチェンバレンの手先としての役割を果たすだろうと述べているのである。したがって、これが撤回されないかぎり、諸君にはわれわれ反対派に対して正しい同志的口調について説教する資格などないのだ。もっともわれわれはこの点に関するあらゆる戒めを受け入れる用意があるのだが。
フランス大革命とテルミドール
トロツキー さて同志ソーリツは、先に述べたように、同志との会話の中でフランス大革命のアナロジーを持ち出した。同志ソーリツはここに出席している。彼は自分が言ったことを私以上によく知っているはずだから、私が間違って引用すれば訂正してくれるだろう。
「83人の声明は何を意味するか?」とソーリツは言った――「それは何を導くか? 貴君はフランス大革命の歴史を知っている。この革命は何に行き着いたか? 逮捕とギロチンにだ」。ソーリツと話していた同志ヴォロビヨフは尋ねた――「すると、貴君はわれわれをギロチンにかけるつもりなのか?」。それに対してソーリツは詳しく説明した――「君は、ロベスピエールがダントンをギロチンに送ったとき彼のことを気の毒に思わなかったと考えているのか? その後ロベスピエールも処刑されてしまった。……。人々が気の毒に思わなかったと考えているのか? たしかに気の毒だったが、そうせざるをえなかったのだ…」。
以上が会話の中身だ。今や何としてでもフランス大革命についてのわれわれの知識を新たにしなければならないと言いたい。それは絶対に必要である。クロポトキンから始めてもよかろう、彼はマルクス主義者ではなかったが、革命の民族的・階級的内幕をジョレスよりもよく理解していた。
フランス大革命の間に、多くの人々がギロチンにかけられた。われわれもまた多くの人々を銃殺した。だがフランス大革命には2つの大きな章がある、一つはこう〔上方を指す〕向かい、もう一つはこう〔下方を指す〕向かった。われわれはこのことを理解しなければならない。このように上方に向かう局面の時には、フランスのジャコバン派、当時のボリシェヴィキが王党派とジロンド派をギロチンにかけた。わが国でも、このような偉大な章があった。われわれ反対派は諸君とともに銃殺する側であった。われわれは白衛軍とジロンド派を銃殺した。そしてその後フランスでは、第2の章が始まった。右翼ジャコバン派出身のフランス版ウストリャーロフ派と半ウストリャーロフ派――テルミドール派とボナパルチスト――が左翼ジャコバン派――当時のボリシェヴィキ――を追放し銃殺しはじめたのだ。同志ソーリツは自分のアナロジーを最後まで考えぬき、何よりも次の問いを自らに投げかけてみるべきだろう。すなわち、どの章でソーリツはわれわれを銃殺するつもりなのか、と(場内騒然)。これは冗談ではない。革命は真剣な事業である。われわれの誰も銃殺によって脅かされはしない。われわれはみな古参の革命家である。だが、必要なのは、どの章で誰を銃殺するのかを知ることである。われわれが銃殺を行なった時、われわれがどの章にいるのかをしっかり理解していた。だが現在、同志ソーリツよ、貴君はどの章で銃殺するつもりなのかをはっきりと理解しているのか? 同志ソーリツ、私が懸念しているのは、貴君がまさにウストリャーロフの章、すなわちテルミドールの章でわれわれを銃殺しようとしているのではないかということである。
「テルミドール派」という言葉がわれわれの間で用いられる時、それは悪罵だとみなされている。それが札つきの反革命派、王制の意識的な支持者、等々であったと考えられている。だがまったくそうではない! テルミドール派はジャコバン派であり、ただ右へ少し移動しただけにすぎない。ジャコバン派の組織――当時のボリシェヴィキ――は、階級的諸矛盾の圧力のもと、短期間のうちに、ロベスピエールのグループを滅ぼすことが必要だという確信に達した。諸君は、テルミドール9日の翌日に彼らが「われわれは今や権力をブルジョアジーの手中に渡した」と自分に言い聞かせたとでも考えているのか? そんなことはない! 当時のすべての新聞を見たまえ。彼らは言った、われわれは党内の平穏を破壊した一握りの人々を滅ぼした、彼らの滅亡後、革命は完全に勝利するであろう、と。もし同志ソーリツがこのことに疑問をもつならば……
ソーリツ 貴君は私自身の言葉をほぼそのまま繰り返している。
トロツキー それならなおさら結構。われわれがこの点で一致しているならば、同志ソーリツよ、それは、諸君が反対派を粉砕することによってどの章を開こうとしているのかという問題を決定するのに大いに役立つことだろう。一つのことははっきりと理解しておかなければならない。党の階級路線をしかるべく修正することに着手しなければ、ウストリャーロフによって指示される路線が、すなわち反対派に対する容赦ない闘争の路線が党内で不可避的に追求されることになるだろう、ということである。もし諸君がスターリンの路線に固執するならば、それを最後まで徹底して追求することになるだろう。
ロベスピエールおよびその他のジャコバン派を革命法廷に引き渡した国民公会の会議について、テルミドール派で右翼ジャコバン派であったブリヴァルは次のように報告した。それを諸君に読んで聞かせよう。
「愛国主義の外套で正体を隠している陰謀家=反革命家たちは自由を滅ぼそうとした。国民公会はこれらの陰謀家たちの代表者を逮捕することを決定した。ロベスピエール、クトン(48)、サン=ジュスト(49)、ルバ(50)、若い方のロベスピエール(51)である。議長は、私の意見はいかなるものかとお尋ねになった。私はこう答えた。立法議会においても国民公会においても常に山岳党の原則に一致して投票して来た人々は逮捕にも賛成投票した。私はそれ以上のことをした。なぜなら私はこの措置を提案した者の1人だからである。しかも書記として、私は急いで国民公会のこの指令に署名し各所に伝達した」。
以上が当時のソーリツないしヤンソンによって報告された内容である。ロベスピエールとその同志たちが反革命家とされたのである。「常に山岳党の原則に一致して投票して来た人々」とは当時の言葉で「常にボリシェヴィキであった人々」を意味する。ブリヴァルは自らを古参ボリシェヴィキと考えていた。「書記として、私は急いで国民公会のこの指令に署名し各所に伝達した」と。そして今日でも急いで「署名し伝達する」書記がいる。今日でもこのような書記がいる…。
さらに、ロベスピエール、サン=ジュストその他の処刑後、フランスに対する、その国と人民に対する国民公会の訴えを聞いてみよう。
「市民諸君、外敵に対する輝かしい勝利の最中に共和国は新しい危険によって脅かされている。……もしフランス市民が祖国と少数の孤立せる人々との間の選択に逡巡するならば、国民公会の活動は無益となり、わが軍の勇気もすべての意味を失うであろう。……祖国の呼びかけに従って行動せよ、腹黒い貴族や人民の敵の隊列に加わるな、そうすれば諸君はいま一度祖国を救うであろう」。
彼らは革命の勝利の途上に「少数の孤立せる人々」の利害が立ちふさがっているとみなした。彼らはこれらの「孤立せる人々」が当時における下層の革命的な自然発生的力を代表しているとは理解しなかった。これらの「少数の人々」は、ネオネップに反対しボナパルティズムに反対する自然発生的力を代表していた。テルミドール派は、問題になっているのが個々人の交代であって階級的軸移動ではないと考えた。「祖国の呼びかけに従って行動せよ、腹黒い貴族の隊列に加わるな」。ここで言う「貴族」とはロベスピエールの友人たちのことであった。そしてわれわれは今日、ヤンソンの口から私に向けてまったく同じ「貴族!」という叫びを聞かなかったか?
革命的ジャコバン派が当時のチェンバレンたるピット(52)〔右の画像〕の手先だと言われている記事をいくらでも諸君に引用することができる。アナロジーはまったく驚くほどである! ポケット版の現代のピットはチェンバレンである。オラール(53)のフランス革命史を取り上げよう。「敵たちはロベスピエールとその友人たちを殺すことで満足しなかった。彼らはこれらの人々を誹謗中傷し、彼らが王党派であり外国人に身を売った連中であるかのようにフランス人の眼前で描き出した」。これは文字通りの引用である。今日、「反対派の道」と題された『プラウダ』論文は同じ道へと突き進んでいないか? 『プラウダ』の最近の社説を知る者なら誰しも恐らく同じ匂いをかぎつけているにちがいない。「第2章」の匂いがただよっている。第2章の匂い、それはウストリャーロフ主義であり、すでにわが党の公式機関に浸透し、党体制がテルミドールと闘うすべての者を窒息させている時にプロレタリアートの革命前衛を武装解除しつつある。党内では党員大衆が窒息させられている。一般労働者は沈黙している。
諸君が望んでいるのは沈黙のための新しい「粛清」である。現在の党体制はまさにそうなっている。ジャコバン派の歴史を想起せよ。そこでは「粛清」の2つの章が存在した。波がこのように〔上方に〕向かっている時には、穏健派が追い出された。曲線が下方へ向きはじめた時、革命的ジャコバン派が追放されはじめた。それによってジャコバン・クラブで何が起こったか? そこでは、臆病さと没個性の体制がつくられた。なぜなら沈黙が強制され、100%の賛成投票とあらゆる批判の自制が要求され、上からの命令通りに考えることが義務とされ、「党は生きた独立の組織であって、自足的な権力機構ではない」との考えをやめさせられたからである。当時の中央統制委員会――当時にも諸君の機能を果たすような機関があったわけだ――は革命全体とともに2つの章を通過した。第2章においてこの機関は党員の思考を停止させ、上から降りてくるいっさいを受け入れるよう強制した。そして、革命の機関たるジャコバン・クラブは未来のナポレオンの官吏の養成所となった。フランス革命から学ばなければならない。だがそれを繰り返すことは本当に必要なのだろうか?(野次)
これは分派的冗談として言っているのではない。誰もちっぽけなことやつまらぬことのためにこのような重大な事柄を賭けたりはしないだろう。われわれも諸君もそんなことはしない。これが諸君の委員会の前でこの問題について意見を述べる最後の機会であるかどうか私は知らない。演説の最初に私が述べた道筋を今後諸君がどれほど急速に遂行するのかも知らない。だが私は自分にあてられた20分を、諸君が私に対して提出したちっぽけでくだらない非難を反駁するためにではなく、意見の相違の根本問題を提起するために用いた。
意見の相違の問題を扱ったレーニンの演説を再読したまえ。そうすれば諸君は、危機的な瞬間に彼が、党内闘争にはつきものの取るに足りない非本質的な問題は一言二言で片づけて、最重要の問題を正面から提起したことを知るだろう。現在、われわれもまた諸君の前に次の根本問題を提起したいと思う。
分裂を避けるためには何をなすべきか? それを避けることは可能か? もしわれわれが帝国主義戦争前、革命前の時期にいるのなら、すなわち諸矛盾が比較的緩やかに蓄積していく状況下にいるのなら、分裂は統一の維持よりもはるかに可能性が高かったろう。意見の相違の深刻さについて自らを欺くことは犯罪的であったろう。
私は3人委員会の中できっぱりとこう言った。もしわれわれがかつての、革命前の、矛盾がゆっくりと蓄積していく時期にいるのならば、分裂の方が統一の維持よりもはるかに可能性が高かっただろう、と。
しかし今や状況は異なっている。われわれの意見の相違はおそろしく先鋭化し、矛盾はきわめて大きなものになった。最近では、中国革命によって意見の相違が再ぴ極端に拡大した。だが同時にわれわれには、まず第1に、党内に巨大な革命的蓄えがあり、レーニンの労作や党綱領や党の伝統のうちに蓄積された経験の巨大な思想的財産がある。諸君はこの資本の多くをすでに浪費してしまい、その多くを、今や党出版物を支配している「新学派」の安物によって置きかえてしまった。しかしまだ多くの純金が残されている。第2に、現在は、大きな諸転換、巨大な諸事件、重大な諸教訓に満ちた歴史時代である。われわれはそこから学びうるし、学ばなければならない。
もし中国革命の諸事件がなかったなら、われわれの関係はこれほど先鋭なものにはなっていなかったろう。たとえばわれわれは、労働者の賃金について論争しあった。これはもちろん重要な問題である。直接的な実践的意義は別にしても、この問題はわれわれにとって徴候的な意義をも有している。すなわち、どこに注意が向けられているのかを示すものであり、指導的多数派がわれわれの基盤たる労働者階級の最も基本的で最も喫緊の要求に十分注意深い態度をとっているかどうか検証するものである。以上の問題はもちろんのこと大きな意義を持っていたし、今も持っている。しかし、基本路線を評価するうえではこれらの意義はやはり徴候的なものである。現在では状況は一変している。もし最近のあの中国革命の諸事件がなかったとしたら、われわれの関係は今日におけるほど先鋭なものにはなっていなかったろう。しかし、中国革命とその諸事件はすでに既成事実なのだ。そしてわれわれの関係はすでに恐ろしく先鋭化してしまった。今や2つの路線が存在しているのだ。しかし同志諸君、ここでは例の格言がちょうどあてはまる。傷を与えたものでもって治療をなす〔毒を持って毒を制す〕、と。
この2つの路線を検証する壮大な事実がすでに存在している。しかし、諸君はこの事実を隠そうとするな。どのみち早晩それは人々の知るところとなるだろう。プロレタリアートの勝利と敗北を隠すことはできない。だが党がこの教訓を学ぶのをより容易にすることもより困難にすることもできる。そして諸君はより困難にしている。だからこそ、われわれが、われわれこそが楽観主義者なのである。われわれは、分裂なしに党の政策を矯正しうると言う。われわれは10月革命の路線のために闘っており、闘いつづけるであろう。われわれは現在、自らの路線の正しさを深く確信しているがゆえに、この路線がわが党のプロレタリア的多数派の意識の中に浸透していくことにいかなる疑いも持っていない。
この路線に対する闘争を弾圧の手段でもって遂行している者たち、『プラウダ』のようなことを書いている者たち、すみやかに党を分裂に導こうとしている者たち、こういう者たちこそが惨めな悲観主義者であり、分派的な中傷屋であり、歴史によって袋小路に追い込まれつつある連中なのだ。彼らにはもはや思想的勝利を期待することはできない。彼らに残されているのはただ一つの道、すなわち〔反対派を〕切除することだけである…。
このような条件のもとで中央統制委員会の義務は何か? このような条件のもとでの中央統制委員会の義務は、この大きな転換期にあって、相対立する両路線を内的な激動なしに大事件を通じて検証する可能性を与えるような、より健全で柔軟な体制を党内につくり出すことであろう。われわれの誰もが党に貢献することができる。反対派に対しても自己検証する可能性が与えられなければならない。言うまでもなく、党の規約の範囲内で、そしてそのために確立された党のあらゆる枠組みを保持しつつ、である。分裂主義者たちを退け、彼らから党を分裂させる可能性を奪わなければならない。大事件にもとづいて思想的な自己批判を行なう可能性を党に保証しなければならない。もしこれがなされるならば、1年か2年の間に、党の路線が矯正されるだろうと私は確信している。もちろん、ここに出席しているすべての者が、現在と同じ機関の中に陣取っているとはかぎらないだろう。そして私は3人委員会の中で述べたこと、現在同志ソーリツの哲学と対立していることを繰り返そう。あわてる必要はない、後で修正のきかないような決議を採択する必要はない、と。次のように言わざるをえなくなることのないように気をつけたまえ。保持するべき人々と分裂してしまい、分裂するべき人々を保持してしまった、と。
オルジョニキッゼ 次に討論に移る。同志サハロフ、発言をどうぞ。……
1927年6月22日
『トロツキー・アルヒーフ』第3巻所収
新規、完全訳としては本邦初訳
訳注
(1)ヤンソン、ニコライ・ミハイロヴィチ(1882-1938)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。労働者出身。1905年にロシア社会民主労働党に入党し、ボリシェヴィキに。1905年革命の際、レベリ・ソヴィエトの代議員。1907年にアメリカに亡命。1917年に帰国。1923〜34年、中央統制委員会の幹部会メンバーとして、反対派粛清に中心的役割を果たす。1928〜1930年、司法人民委員。1937年に逮捕され、1938年に銃殺。1955年に名誉回復。
(2)クイブイシェフ、ヴァレリアン(1888-1935)……ロシアの革命家、1904年以来のボリシェヴィキ。軍医学校の元学生。10月革命後に積極的に参加。1918年、左翼共産主義派。内戦期は赤軍政治委員。1922年以降、中央委員、中央統制委員幹部会書記。1923年、中央統制委員会議長、人民委員会議副議長。1926年に最高国民経済会議の議長。このポストに就いてから、スターリニストの経済政策の主要な代弁者としての役割を果たす。1930年、ゴスプラン議長。献身的なスターリニストだったが、1935年に、トロツキズムの非難を浴び、謎の死を遂げる。死後にこの非難は取り消され、多くの都市が彼の名前にちなんで名称を変更した。
(3)ジノヴィエフのラジオ演説……ジノヴィエフが1927年5月9日にモスクワで、『プラウダ』の15周年を記念した集会で行なった演説のこと。この集会は非党員も参加していたことを口実に、スターリン派はジノヴィエフに対する攻撃カンパニアを開始し、党中央委員会は5月12日に「同志ジノヴィエフの組織解体的演説について」という決議を採択した。その中で決議は次のように述べている。「(a)機関紙の日を記念した無党派の集会で行なわれた同志ジノヴィエフの演説は、ソ連共産党中央委員会との諸決議を(したがってまた『プラウダ』を)攻撃したものであり、ソ連共産党(ボ)の隊列においては前代未聞であり、まったく許しがたく耐えがたいものであり、同志ジノヴィエフ自身を含む反対派が自ら引き受けた党規律を遵守する義務を破壊するものであるとみなすこと。(b)同志ジノヴィエフの組織解体的演説の問題を中央統制委員会による検討に移すこと」(『プラウダ』1927年5月12日)。
(4)去年の7月初めに提出した「13人の声明」のこと(『トロツキー研究』第42/43合併号所収)。
(5)ヤロスラヴリ駅(ロシア語ではヤロスラフスキー・ヴォグザル)と、スターリニスト官僚にして中央統制委員会の幹部であるヤロスラフスキーとをかけて皮肉っている。
(6)トロツキー、ジノヴィエフ他「13人の声明」、『トロツキー研究』第42/43合併号、75頁。
(7)同前、75〜76頁。
(8)同前、76〜77頁。
(9)同前、78頁。
(10)コミンテルン執行委員会決議……1927年5月30日に採択されたコミンテルン第8回執行委員会総会における決議「コミンテルン執行委員会総会における同志トロツキーと同志ヴヨヴィチの発言に関する決議」のこと。『レーニン主義の敵=トロツキズム』(大月書店)に全訳が所収。
(11)4月5日における同志スターリンの演説……モスクワの党活動家の会議で行なった中国革命の性格と課題に関する演説のこと。この演説の公表は禁じられた。
(12)マスロウ、アルカディ(1891-1941)……ドイツの革命家。1924年以降、ブランドラー派に代わってドイツ共産党を指導したグループ(マスロウ、フィッシャー、ウルバーンス)の一人。当初、ジノヴィエフに追随してトロツキーに反対したが、1926年に合同反対派を支持して除名。1928年にジノヴィエフとともに屈服。しかし、再入党はせずに、フィッシャーやウルバーンスとともにレーニンブントを結成。1930年代初めにトロツキーに近づき、第4インターナショナルの建設に参加するも、しばらく後に離脱した。
(13)マレツキー、ドミトリー・ペトロヴィチ(1901-1937)……赤色教授養成学院卒。歴史家、経済学者。「ブハーリン派」で最も優秀な人物の一人。1936年11月に逮捕され、1937年5月に銃殺。1958年に名誉回復。
(14)パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の左派指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。
(15)シュキリャトフ、マトヴェイ・フェドロヴィチ(1883-1954)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1906年からの党員。1923年から34年まで中央統制委員会幹部会メンバー。その他、党と国家の重職を歴任。スターリンの忠実な部下として活躍し、大粛清を免れた稀有な古参幹部の一人。
(16)クレスチンスキー、ニコライ(1883-1938)……古参ボリシェヴィキ、法律家。1903年以来の党員。1918〜21年、財務人民委員。1921年からベルリン駐在大使。1917〜21年、党中央委員。1919〜21年、中央委員会書記。合同反対派のメンバー。1927年、第15回党大会で除名。その後屈服。1938年、第3次モスクワ裁判の被告として銃殺。
(17)コップ、ヴィクトル・レオンチェヴィチ(1880-1930)……ロシアの革命家、外交官。1900年からロシア社会民主主義運動に参加。『イスクラ』の受任者。1903年の党分裂の際はどちらにも属さず、「非分派」派を名乗る。労働組合運動に参加。トロツキーのウィーン『プラウダ』に協力。1918年にドイツの監獄から釈放されると、1919〜21年にソ連の在ドイツ全権代表に。1923〜25年、外務人民委員部の幹部会員。1925〜27年、在日本大使。1926年に合同反対派に参加。1927〜30年に在スウェーデン大使。
(18)サファロフ、ゲオルギー・イワノヴィチ(1891-1942)……本名エゴーロフ。1908年以来のボリシェヴィキ。長年フランスに亡命し、10月革命後、コミンテルンで「東方」問題の責任者になる。1920〜21年には労働者反対派。1923年の左翼反対派の最初の闘争においては、ジノヴィエフ派の一員として『プラウダ』に反対派を誹謗する多くの論文を発表。1925年にレニングラード反対派。1926年、合同反対派に合流。1927年に除名された後、スターリンに屈服し、コミンテルンの仕事に復帰。1932年、スミルノフとともに反対派ブロックに。1934年に逮捕され、1935年に反対派から決別。1936年のモスクワ裁判ではジノヴィエフに不利な証言をする。
(19)ムディヴァニ、ポリトカルプ(ブドウ)(1877-1937)……グルジアの古参ボリシェヴィキ。1903年からの党員。1922年、グルジア・ソヴィエトの人民委員会議長。「連邦」問題でスターリンと対立し、グルジア反対派を形成。晩年のレーニンはムディバニらのグルジア反対派を支持。合同反対派メンバー。1927年に外交官としてパリに派遣。1928年にトロツキストとして除名。1930年、復党。1937年に銃殺。
(20)アウセム、O・K(1875-?)……ウクライナの活動家。内戦中はパルチザン。左翼反対派ラコフスキーの側近。1924年パリの総領事。1926年の合同反対派メンバー。
(21)ウフィムツェフ、N・I(1888-1938)……1906年、入党。赤軍のコミッサール。その後、経済局、とりわけウィーンの貿易代表部で働く。1927年、反対派メンバーとして除名。1929年、屈服。I・N・スミルノフのグループと交わったかどで再逮捕。
(22)セマシコ、ニコライ(1874-1949)……医師、古参ボリシェヴィキ。1904年以来の党活動家。1910年、ボリシェヴィキを代表して中央委員会在外ビューローに参加。1911年5月27日、ビューローの多数派が解党派であったので、離脱を表明。1912年1月、プラハ協議会に参加。1913年、セルビアのブルガリアに。そこで第1次世界大戦を迎える。1917年9月にモスクワに帰還。10月革命に積極的に参加。1918年から保健人民委員。1926年の合同反対派に加わる。
(23)ソコーリニコフ、グリゴリー(1888-1939)……ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ、経済理論家。1905年にボリシェヴィキ入党。1905〜17年、亡命。10月革命後、財務人民委員をはじめ経済関係のポストを歴任。1917〜18年、ブレスト講和団の一員で、講和問題ではレーニンを支持。1925年、ジノヴィエフ、カーメネフらとともに新反対派に。1926年、ジノヴィエフ派とともに合同反対派に合流。しかし、1927年の8月合同総会までに合同反対派から離脱。1928年に右翼反対派に。1929〜32年、ロンドン駐在大使。1937年の第2次モスクワ裁判の被告となり、10年の禁固刑。1939年、獄中で謎の死を遂げる。1988年に名誉回復。
(24)カナトチコフ、セメン・イワノヴィチ(1879-1940)……古参ボリシェヴィキ。1898年、レーニンの「ペテルブルク労働者階級解放同盟」の活動に参加。1905年、党のモスクワ委員会、ペテルブルク委員会に参加。1906年の第4回党大会代議員。1917年、ノボシビリスク党委員会および同ソヴィエトのメンバー。1919年、内務人民委員部の幹部会委員。共産主義大学の組織者の一人。1923〜24年にはジノヴィエフ派の一人として、トロツキー攻撃を熱心にやる。1926年にジノヴィエフ派の一員として合同反対派に参加。1926〜28年にタス通信員としてチェコスロヴァキアに送られる。その後屈服。1928年から文学活動に参加。
(25)コロンタイ、アレクサンドラ(1872-1952)……ロシアの革命家、1906年からメンシェヴィキ。1915年にボリシェヴィキに転身。第1次大戦中はトロツキーの『ナーシェ・スローヴォ』にも寄稿。10月革命後は初の女性人民委員。女性解放運動の指導者。1920〜21年の労働組合論争でシリャプニコフとともに労働者反対派を指導。1923年以降、各国の大使に。反対派に属したことがありながら、スターリン時代に粛清されなかった希有な例。
(26)ロイゼンマン、ボリス・アニシモヴィチ(1878-1938)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1902年からの党員。1905年革命にはウクライナで参加。その後逮捕され流刑。1916年に軍隊に動員される。1917年の2月革命後、エカテリノスラフ・ソヴィエトに参加。内戦中は第8軍、第9軍に参加し、南部戦線で戦闘に従事。1923年に中央統制委員候補。1924〜34年、中央統制委員会の幹部会メンバー。
(27)ラフェス、M(1883-1942)……ロシアのブント活動家。1917〜18年にウクライナのペトリューラ反革命政府に参加し、反ソヴィエト活動に従事。1919年にボリシェヴィキに入党し、コミンテルンで活動。1920年代中国共産党の指導に参加。
(28)ペトリューラ、シモン(1879-1926)……ウクライナ民族運動の指導者。当初ウクライナ
社会民主党に参加。2月革命後、キエフに結成された中央ラーダの首班。1918年にウクライナ人民共和国を宣言し、ドイツ、ポーランドと結んでソヴィエト政権に対する反革命武力闘争を挑む。自分の支配する地域において、最も残酷なポグロムを組織し、多数のユダヤ人を虐殺した。1920年に赤軍に敗北し、ワルシャワに亡命。
(29)ステツキー、アレクセイ・イワノヴィチ(1896-1938)……ブハーリニスト。1915年からボリシェヴィキ。レーニン死後、ブハーリンの緊密な協力者となり、マレツキーやステンらとともにブハーリン学派の若手理論家の一人となる。1924〜27年、中央統制委員。1925年から『コムソモール・プラウダ』の編集長。1927年に党中央委員。ブハーリンの失脚後にスターリニストに。1938年に逮捕され、銃殺。1956年に名誉回復。
(30)トロツキー他「13人の声明」、前掲、69〜70頁。
(31)カリーニン、ミハイル(1875-1946)……ロシアの革命家、労働者出身の古参ボリシェヴィキ。1896年にロシア社会民主労働党に入党。数回の逮捕・投獄を経験。1919年に死亡したスヴェルドロフに代わってソヴィエト中央執行委員会議長に選ばれ、死ぬまでソ連の形式上の元首の地位にとどまる。
(32)ヤコブレフ、ヤーコフ・アルカディエヴィチ(1896-1938)……ロシアの革命家。1913年にボリシェヴィキ党に入党、1918年にはウクライナの右派の主要な代弁者であり、後には反対派に反対してスターリンの熱烈な支持者となった。1924年から中央統制委員。1929年から農業人民委員となり、強制集団化を指導。大粛清期の1937年に逮捕され、1938年に獄死。
(33)シチェドリン……ミハイル・サルトゥイコフ(1826-1889)の筆名。ロシアの作家、地主貴族の子。農奴制を批判する風刺的作品を多く書いた。
(34)チェンバレン、オースティン(1863-1937)……イギリスの保守党政治家、ジョゼフ・チェンバレンの息子。1892〜1937年、下院議員。1902〜03年、郵政相。1919〜21年、蔵相。1924〜29年、外相。1925年、ロカルノ条約の調印に尽くしたとしてノーベル平和賞受賞。
(35)トーマス、ジェームズ(1874-1949)……イギリスの労働組合運動家、労働党政治家。鉄道労働組合出身で、1911年に全国鉄道ストライキを指導。1918〜31年、全国鉄道産業従業員組合書記長。1920年、労働連合会議議長。1910〜36年、労働党の下院議員。1924年、第1次労働党内閣で植民地相。1931年、マクドナルドともに自由・保守両党との挙国一致内閣に入閣し、労働党を除名。1930〜35年、自治領相。
(36)マルトゥイノフ、アレクサンドル(1865-1935)……メンシェヴィキの右派指導者。1884年に「人民の意志」派に参加。1886年に、シベリアに流刑。1890年代に社会民主主義運動に参加。経済主義派の「ラボーチェエ・デーロ」派に属す。1903年の党分裂で、メンシェヴィキに。1905年革命においては『ナチャーロ』に参加。反動期は解党派。第1次大戦中はマルトフのメンシェヴィキ国際主義派に属す。10月革命に敵対。1922年にメンシェヴィキから離脱。1923年にボリシェヴィキに加わり、スターリニストとなる。1924年以降、『共産主義インターナショナル』の編集に従事。「4階級ブロック」理論の主唱者で、国民党は「進歩的」ブルジョアジーの政党であるということで中国共産党を国民党に加入させるスターリニストの路線を正当化。
(37)ウデゲースト、ヤン(1870-?)……オランダ社会民主党の指導者、労働運動指導者。1919〜1927年にアムステルダム・インターナショナルの書記。
(38)ジュオー、レオン(1879-1954)……フランスの労働運動指導者、アナルコ・サンディカリスト、労働総同盟の長年にわたる議長。1919年以降、アムステルダム・インターナショナルの指導者の一人。
(39)ムラチコフスキー、セルゲイ(1883-1936)……古参ボリシェヴィキ、ポーランド人。1905年以来の党員。10革命および内戦で活躍。1923年以来の左翼反対派。1927年の第15回大会で除名。1928年に流刑。1929年に屈服。1933年に再び流刑。第1次モスクワ裁判の被告として銃殺。
(40)バカーエフ、I・P(1887-1936)……農民出身の古参ボリシェヴィキ。ジノヴィエフの側近のひとり。コミッサールから、内戦中はチェカ。1926年7月の「13人の声明」に参加。1927年2月に反対派から離脱。1935年1月ジノヴィエフとともに死刑の宣告を受け、翌36年8月処刑。
(41)ムラロフ、ニコライ(1877-1937)……ロシアの革命家、1903年以来の古参ボリシェヴィキ。10月革命後、モスクワ軍管区司令官。内戦中は、各戦線の軍事革命会議で活躍。左翼反対派の指導者の一人として1928年に逮捕・流刑。1937年に第2次モスクワ裁判の被告の一人として銃殺。
(42)フォルマール、ゲオルグ(1850-1922)……ドイツ社会民主党の右派政治家。はじめ革命的であったが、1879年にドイツ一国における社会主義論(国家社会主義論)を唱える。後にベルンシュタイン主義を支持し、党内の修正主義派の主要なイデオローグの一人となる。
(43)馮玉祥(ひょう・ぎょくしょう/Feng Yu-xiang)(1880-1948)……中国の軍閥、政治家。河南省を拠点。キリスト教を信じ、「クリスチャン将軍」と呼ばれる。夫人は李徳全。1911年の辛亥革命に参加し、1924年の奉直戦争で直隷派を破り、国民軍を結成。ソ連および国民党と接近。1926年、国民党に入党。1926〜27年モスクワを訪問。北伐に参加。1930年、汪精衛、閻錫山とともに反蒋介石蜂起に立ち上がるが失敗。日中戦争中は連ソ・抗日を主張。
(44)ウストリャーロフ、ニコライ(1890-1937)……ロシアの弁護士、経済学者。革命前はカデットで、内戦時はコルチャークと協力し、ソヴィエト権力と敵対。その後、中国に亡命。ネップ導入後、ソ連政府で平和的に資本主義が復活するものと信じて、ネップを支持。『道標転換』誌を編集し、ソ連との協力を訴え、「道標転換派」と呼ばれる。1920年代の党内論争では、スターリン派を支持。1935年、ソ連に戻り、ソヴィエト政府のために活動。1937年に逮捕、粛清。『ロシアのための闘争』(1920)、『革命の旗のもとに』(1925)など。
(45)モロトフ、ヴャシェスラフ(1890-1986)……ロシアの革命家、スターリニスト。1906年来の古参ボリシェヴィキ。1917年の2月革命後『プラウダ』編集部。スターリンとともに臨時政府の批判的支持を打ち出し、4月に帰国したレーニンによって厳しく批判される。1921〜30年党書記局員。スターリンの腹心となり、1930〜41年、人民委員会議議長。1941〜49年、外務人民委員。スターリン死後、フルシチョフ路線に反対し、失脚。
(46)懺悔の声明……1926年10月16日の声明のこと(『トロツキー研究』第42/43合併号所収)。
(47)ソーリツ、アロン・アレクサンドルヴィチ(1872-1945)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1898年からロシア社会民主労働党に参加。地下印刷関係の仕事に従事。何度も投獄され流刑にされるが、そのたびに脱出。1918年、左翼共産主義派に属し、ブレスト講和に反対。1920年から中央統制委員会メンバー。1923〜34年、中央統制委員会幹部会メンバー。
(48)クトン、ジョルジュ(1755-1794)……フランスの急進革命家、ロベスピエール派に属し、公安委員会のメンバーとして活躍。1794年のテルミドール9日のクーデターにより逮捕され処刑。
(49)サン=ジュスト、ルイ(1767-1794)……フランス革命の指導者、左派ジャコバン。法律を修めた後、1789年のフランス革命の勃発とともにそれに参加。1792年、国民公会議員。国王の処刑を主張し、ジャコバン派の幹部になる。1793年、最年少で公安委員。1794年、国民公会議長。ロベスピエールの片腕としてジロンド派、ダントン派の弾圧に辣腕をふるう。1794年のテルミドール反動により逮捕され処刑。
(50)ルバ……左派ジャコバン派でロベスピエール派。1794年のテルミドール9日のクーデターでピストル自殺。
(51)若い方のロベスピエール……マクシミリアン・ロベスピエールの弟、オーギュスタンのこと。
(52)ピット、ウイリアム(1759-1806)……イギリスの保守政治家、首相。1783年に首相になり、フランス革命の拡大に反対して、1793年に対仏大同盟を結成し、対仏戦争を遂行。戦況が悪化するにつれて反動化し、国内の統制と弾圧を強める。1800年、アイルランドを併合。1801年に引退するも、1804年に対仏戦争再開により復帰。戦争に敗れ引退。
(53)オラール、フランソワ・ヴィクトル・アルフォンス(1849-1928)……フランスの歴史家。ソルボンヌ大教授。フランス大革命を実証的に研究。『フランス大革命政治史』(1901年)。