8、社会主義への道
カウツキー(1)とヒルファーディング(2)は、さまざまな論者の中でもとりわけ、この数年間、自分たちは資本主義の崩壊理論にくみしたことはけっしてなかったと一度ならず宣言した。この崩壊理論なるものは、修正主義者がかつてマルクス主義者に帰し、今ではカウツキー主義者自身がしばしば共産主義者に帰しているものである。
ベルンシュタイン(3)主義者は、二つの展望を描いていた。第1のものは非現実的な、いわゆる正統「マルクス主義的」展望で、これによれば、究極的にその内部矛盾の影響のもとで、資本主義の機械的崩壊が起こることになっていた。第2のものは、「現実的」展望で、それによれば、資本主義から社会主義への漸進的進化が実現されることになっていた。この二つの図式が一見どれほど対照的に見えたとしても、革命的要素の欠落という共通の特徴が両者を結びつけている。マルクス主義者は、自分たちになすりつけられた資本主義の自動的崩壊の戯画を拒絶する一方で、資本主義の客観的矛盾がその自動的崩壊に至るはるか以前に、プロレタリアートは激化する階級闘争の影響のもと革命を達成するだろうということを立証した。
この論争は、前世紀の末まで延々と繰り広げられた。しかしながら、大戦以来の資本主義の現実は、ある意味で、誰もが想像していたより、とりわけ修正主義者自身が想像していたよりも、はるかにマルクス主義のベルンシュタイン的戯画に接近したことを認めなければならない。修正主義者が崩壊の亡霊を持ち出したのは、もっぱら、その非現実性を暴露するためであった。ところが、社会の運命に対するプロレタリアートの革命的介入が先送りされればされるほど、資本主義は実際にその自動的解体へと近づいている。
崩壊論の基本的要素をなしているのは窮乏化論である。ある種の慎重さからマルクス主義者は、社会的矛盾の先鋭化が大衆の生活水準の絶対的下落を無条件に意味するものではない、と主張した。しかし、現実には、まさにこの後者の過程が現在進行しつつある。いったい、慢性的失業と社会保障の破壊、すなわち、社会秩序が自らの奴隷を養うことを拒否している事実ほど、資本主義の崩壊を先鋭に表現するものがあるだろうか?
労働者階級内部の日和見主義的ブレーキは、命脈のつきた資本主義の基本的諸力に数十年分の寿命を追加するほど強力であることを示した。その結果生じたのは、資本主義から社会主義への平和的転化の牧歌的光景ではなく、社会的解体にかぎりなく近い状態であった。
改良主義者は、長いあいだ現在の社会状態に対する責任を戦争に転嫁しようとした。しかし、第1に、戦争は資本主義の破壊的傾向をつくり出したのではなく、単にそれを表面化し、加速させたにすぎない。第2に、戦争は改良主義の政治的支持がなかったら、その破壊的作業を完遂することはできなかっただろう。第3に、世界資本主義の絶望的矛盾は、さまざまな方向から新たな戦争を準備している。改良主義は、自らの歴史的責任を転嫁することはできない。プロレタリアートの革命的エネルギーを麻痺させ轡をはめることによって、国際社会民主主義は、資本主義崩壊の過程に、最も盲目的で、最も野放図で、最も破局的で、最も血なまぐさい形態を与えている。
もちろん、マルクス主義の修正主義的戯画の実現について語ることができるのは、条件つきで、一定の歴史的時期にそれを適用する場合のみである。衰退する資本主義からの活路は――たとえ大きな遅れをともなってであれ――自動的崩壊の道ではなく、革命の道に見出されるだろう。
今日の危機は、ほうきの最後の一振りで、改良主義的ユートピアの幻影を追い払った。日和見主義的実践は、現在、どんな理論的隠れ蓑も持っていない。結局のところウェルスやヒルファーディングやグルツェジンスキーやノスケにとっては、ただ自らの利益が無傷のまま残りさえすれば、多くの破局が人民大衆の頭上に降りかかってくるとしても、ほとんどどうでもいいことなのである。しかし、実際にはブルジョア体制の危機は改良主義的指導者をも襲うのである。
「国家よ、介入せよ!」と、社会民主党はごく最近、ファシズムの前から退却しながら叫んだ。そして国家が介入した。オットー・ブラウンとゼヴェリンクはお払い箱にされた。「今や――と『フォアヴェルツ』は書いている――すべてのものが、独裁の体制よりも民主主義の方が優れていることを認めるだろう」。そうだ、民主主義は実質的な優位性を有している、と監獄を内側から知ったグルツェジンスキーは答えたのである。
この経験から生れた結論はこうである、「社会化に向かって進むべきときだ」。昨日までまだ資本主義の侍医だったタルノフ(4)は、突如としてその墓掘人になる決心をする。資本主義が改良主義の大臣や警視総監や知事を失業者に変えている現在、資本主義は明らかに使い果たされている。ウェルスは、「社会化の刻は鳴った!」という綱領的論文を書いている。シュライヒャーに残されたのはもはや、国会議員の歳費と元大臣の年金を奪いとることだけである。そうなれば、ヒルファーディングは、ゼネストの歴史的役割に関する研究書を書くことだろう。社会民主党指導者の「左」転換は、その愚劣さと欺瞞性によって人を驚かす。しかしながら、このことは、マヌーバーがあらかじめ失敗を運命づけられているということを少しも意味しない。罪を背負ったこの党は、依然として数百万の労働者の指導的地位にある。それは自分の意志で倒れはしないだろう。それを打倒するすべを知らなければならない。
共産党は、社会主義に向けたウェルス=タルノフの路線は、大衆を欺くための新しい形態であると説明するだろうし、それはまったく正しい。共産党は、過去14年間の社会民主党的「社会化」の歴史を思い起こさせるだろう。それは有益である。だが、それでは不十分である。歴史は、たとえ最も最近のものであっても、能動的な政治的取り組みに取って代わることはできない。
タルノフは、社会主義への革命的な道か改良主義的な道かという問題を、単なる転化の「テンポ」の問題に還元しようとする。理論家として、これ以上おちぶれることはできない。社会主義的転化のテンポは、実際には、国の生産力の水準、その文化水準、国防のために課せられた間接費の程度、等々にかかっている。しかし、社会主義的転化は、急速な場合も緩慢な場合も、社会の頂点に社会主義をめざす階級がおり、この階級の先頭に、被搾取者をだまさず、いつでも搾取者の抵抗を制圧する用意のある党が立っているときにはじめて可能になる。われわれは、労働者に向かって、これこそまさしくプロレタリアート独裁の体制であることを説明しなければならない。
しかし、これでもまだ十分ではない。世界プロレタリアートの焦眉の重要問題が問われている場合には、ソヴィエト連邦の存在の事実を――コミンテルンのように――忘れるべきではない。ドイツに関していえば、今日の任務は、社会主義建設をはじめて開始することにあるのではなく、ドイツの生産力、文化、技術的・組織的特質を、すでにソヴィエト連邦において進行中の社会主義建設と結合することにある。
ドイツ共産党は、ソヴィエトの成功に対する単なる称讃にとどまっており、しかもその際、大げさで危険な誇張を行なっている。しかし、ドイツ共産党には、ソ連における社会主義建設、その巨大な経験、貴重な成果を、ドイツにおけるプロレタリア革命の任務と結びつけることがまったくできない。スターリニスト官僚はスターリニスト官僚で、このきわめて重要な問題でドイツ共産党を援助することが少しもできない。その展望は、ただ一国に限られているのである。
社会民主党の一貫性のない臆病な国家資本主義の計画に、ソ連とドイツとの共同の社会主義建設の全般的計画を対置しなければならない。詳細な計画をただちに練り上げることなど誰も要求してはいない。準備的な素案で十分である。必要なのは、しっかりとした足場である。この計画は、できるだけ速やかに、ドイツ労働者階級のあらゆる組織で、とりわけその労働組合組織で、討論の対象とならなければならない。
ドイツの技術者、統計家、経済学者の中の進歩的勢力を、この事業に引き込まなければならない。ドイツでは、ドイツ資本主義の行きづまりを反映して、計画経済に関する論争が非常に広範に繰り広げられているが、それは純粋にアカデミックで、官僚主義的で、生気のない、衒学的なものにとどまっている。ただ共産党だけが、この問題を悪循環から抜け出させることができる。
社会主義建設はすでに進行中である。この事業を継続するためには、国境を越えて橋を架けなければならない。ここに最初の計画がある。これを研究し、改良し、具体化せよ! 労働者諸君、特別計画委員会を選出し、これにソヴィエトの個々の労働組合および経済機関と連絡・交渉を行なう任務を与えよ。ドイツ労働組合、工場評議会、その他の労働者組織にもとづいて中央計画委員会を設立し、ソ連のゴスプランと交渉する任にあたらせよう。ドイツの技師、組織者、経済学者を、この事業に引きこもう!
これが、今日、すなわちソヴィエトの経験を15年、ドイツ資本主義の痙攣を14年経た1932年における、計画経済の問題に対する唯一正しいアプローチである。
社会主義に賛歌(5)を捧げるウェルスをはじめとして、社会民主党官僚を嘲笑することほど簡単なことはない。しかし、改良主義的労働者が社会主義の問題に対して、まったく真剣な態度をとっていることを忘れてはならない。われわれは、改良主義的労働者に対して、真剣な態度でのぞまなければならない。ここにおいて再び、統一戦線の問題が全面的な形で提起されるのである。
社会民主党が、資本主義を救うのではなく、社会主義を建設するという任務を自己に課するとしたら(口先だけだということは承知のうえだ)、同党は、中央党とではなく、共産主義者との協定を求めなければならない。共産党はこのような協定をしりぞけるべきだろうか? いやけっして。反対に、党自身がこのような協定を提案し、最近振り出された社会主義的約束手形の履行を大衆の面前で要求するだろう。
社会民主党に対する共産党の攻撃は、今日、三つの戦線で遂行されなければならない。ファシズムを根絶する課題は、あいかわらず全面的な先鋭さを維持している。ファシズムとプロレタリアートの決戦は、同時にボナパルティスト的国家機構との衝突に対する合図となるだろう。それはゼネストを不可欠の戦闘上の武器とする。その準備をしなければならない。独自のゼネスト計画、すなわち、ゼネスト決行のための動員計画を入念に練り上げなければならない。この計画にもとづいて、大衆運動を展開しなければならない。この運動を基礎に、社会民主党に対して、はっきりと規定された政治的条件にもとづくゼネスト決行のための協定を提案しなければならない。この提案は、新たな段階を迎えるごとに再提起され、より具体化されなければならない。そして、この提案は、その発展過程の中で、統一戦線の最高機関としてのソヴィエトの創設をもたらすだろう。
今や法律となっているパーペンの経済計画が、ドイツ・プロレタリアートに前代未聞の窮乏しかもたらしていないことは、社会民主党や労働組合の指導者も口先では認めている。新聞紙上で、彼らは、久しく使ったことのないような激越な調子で意見を述べている。彼らの言葉と行動とのあいだには、深淵が横たわっている。われわれはこのことをよく知っている。しかし、われわれは、彼らをその言葉に縛りつけるすべを知らなければならない。緊急令とボナパルティズムの体制に対する共同闘争の体系的な措置を準備しなければならない。状況全体によってプロレタリアートに課せられるこの闘争は、その本質からして、民主主義の枠内で遂行することはできない。ヒトラーが40万の軍隊を持ち、パーペン=シュライヒャーが、国防軍以外に、20万の半私兵的な「鉄兜団」という軍隊を持ち、ブルジョア民主主義が半ば黙認された「国旗団」軍、共産党が禁止された「赤色戦線」軍を持っているという状況――このような状況は、それ自体、国家の問題が権力の問題であることを赤裸々に示している。これ以上によい革命教育の場を想像することはできない!
共産党は労働者階級に向かって言わなければならない。議会的駆け引きによってシュライヒャーを打倒することはできない、と。社会民主党が、他の手段によって、ボナパルティスト的政府を転覆する事業に着手するならば、全力をつくして社会民主党を援助する用意が共産党にはある。同時に、共産主義者は、社会民主党が労働者階級の大多数に依拠し、共産党に煽動と組織活動の自由を保証するかぎり、社会民主党政府に対して、いかなる暴力的手段も用いないことをあらかじめ約束するだろう。このような問題設定は、すべての社会民主党労働者と無党派労働者から理解されるだろう。
最後に、第3の戦線は、社会主義のための闘争である。ここでもまた、鉄は熱いうちに打ち、ソ連との協力という具体的な提案でもって社会民主党を追いつめなければならない。この点について必要なことは、すでに上で述べてある。
当然のことながら、全体としての戦略的展望において、異なった重要性を有するこれらの闘争分野は、相互に区別されず、むしろ、互いにかさなりあい融合している。社会の政治的危機は、部分的問題を全般的問題に結びつけることを要求する。まさしくここに革命情勢の本質があるのだ。
1932年9月10日
『ドイツにおける反ファシズム闘争』(パスファインダー社)所収
新規
訳注
(1)カウツキー、カール(1854-1938)……ドイツ社会民主党と第2インターナショナルの最も著名な指導者。マルクス主義の博学な理論家。1881年にマルクス、エンゲルスと知己になり、83年にドイツ社会民主党機関誌『ノイエ・ツァイト』を創刊。ベルンシュタインの修正主義と論争し、正統派を自認。ロシアのマルクス主義者にも多大な影響を与える。1905年革命の時は革命的立場をとる。その後、しだいに待機主義に陥り、ローザ・ルクセンブルクから厳しく批判される。第1次大戦中は中央派の立場。1917年に独立社会民主党に参加。ロシア10月革命に敵対し、干渉戦争を支持する。20年に社会民主党に復帰。『エルフルト綱領』『農業問題』『権力への道』など。
(2)ヒルファーディング、ルドルフ(1877-1941)……ドイツ社会民主党指導者、オーストリア・マルクス主義の代表的理論家。ヘルマン・ミュラー内閣の蔵相。1929年の世界恐慌の中で財政赤字が深刻になったとき、ヒルファーディングは蔵相として財政改革案を提案し、営業税の引き下げと消費税の増税という産業界の意向に沿った案を出したが、ドイツ工業全国連盟を中心とする産業界に満足を与えることができず、辞任を余儀なくされた。『金融資本論』など。
(3)ベルンシュタイン、エドゥワルト(1850-1932)……ドイツ社会民主党の右派指導者。1899年に『マルクス主義の諸前提と社会民主主義の任務』を著わし、「目標は無、運動がすべて」と唱え、修正主義の理論的創始者となる。第1次世界大戦勃発時は祖国防衛派。その後、平和主義の立場に移り、1917年に独立社会民主党に参加。20年に社会民主党に復帰。
(4)タルノフ、フリッツ(1880-1951)……ドイツ社会民主党の労働組合運動指導者で、階級協調主義的な「経済民主主義論」の理論家。1931年にドイツ社会民主党を離脱して、社会主義労働者党に参加。
(5)賛歌……原文は「ソロモンの歌」。ソロモンは統一王国イスラエルの王で、在位紀元前965-926。知恵と栄華の権化として知られる。「ソロモンの歌」とは、旧約聖書の一書で、このソロモン王の名による恋愛の歌を集めたもので、ソロモンのずっと後に作られた。ここでは、中身のない形ばかりの賛歌、美辞麗句という意味で使われている。
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