2、ブルジョアジー、小ブルジョアジー、プロレタリアート

 政治情勢を真面目に分析しようと思えば必ず、三つの階級、すなわち、ブルジョアジー、小ブルジョアジー(農民を含む)、プロレタリアートの相互関係から出発しなければならない。

 経済的に強力な大ブルジョアジーは、それ自体では、国民の取るに足りない極少派でしかない。その支配を強化するために、小ブルジョアジーとの一定の相互関係を、および、それを通じて、プロレタリアートとの一定の相互関係を確立しなければならない。

 この相互関係の弁証法を理解するためには、三つの歴史的段階を区別しなければならない。すなわち、ブルジョアジーがその任務を達成するために、革命的方法を必要とした資本主義的発展の黎明期、ブルジョアジーがその支配に、秩序立った平和的・保守的・民主的形態を与えた資本主義制度の開花と成熟の時期、最後に、ブルジョアジーがその搾取の権利を守るために内乱の方法に訴えることを余儀なくされる資本主義の衰退期である。

 これら三つの段階に典型的な政治綱領は、ジャコバン主義、改良主義的民主主義(社会民主主義を含む)、ファシズムであり、それらは、基本的には、小ブルジョア的傾向を有する綱領である。この事情一つとっただけでも、国民の中の小ブルジョア的大衆の自己決定が、ブルジョア社会全体の運命にとって、どのように並はずれた重要性を、いやより正確に言えば、決定的な重要性を有しているかがわかる!

 しかしながら、ブルジョアジーとその基本的な社会的支柱である小ブルジョアジーとの関係は、けっして相互信頼と平和的協力の上に立ってはいない。その主要部分においては、小ブルジョアジーは、搾取され虐げられた階級なのだ。小ブルジョアジーは大ブルジョアジーをうらやんでいるし、しばしば憎悪している。他方で、大ブルジョアジーの側では、小ブルジョアジーの支持に頼りながらも、小ブルジョアジーを信用しようしない。なぜなら、ブルジョアジーは、上から押しつけられた限界を絶えず乗り越えようとする小ブルジョアジーの傾向を恐れているからであり、それもまったくもって当然のことである。

 ブルジョア的発展の道を切り開き、掃き清めながらも、ジャコバン派は、一歩ごとにブルジョアジーと鋭く衝突した。彼らは、ブルジョアジーと容赦なく闘争しながら、ブルジョアジーに奉仕した。その限定された歴史的課題を遂行したのち、ジャコバン派は没落した。資本の支配はあらかじめ決定されていたのだ。

 一連の段階を経て、ブルジョアジーは、議会制民主主義の形態のもとに、その権力を強化した。またしても、けっして平和的にでも、自発的にでもなかった。ブルジョアジーは、普通選挙権を死ぬほど恐れていた。だが、結局ブルジョアジーは、弾圧と譲歩、飢餓の鞭と改良との結合によって、形式的民主主義の枠内で、旧小ブルジョアジーを自らに従属させただけでなく、新しい小ブルジョアジー――労働官僚――を通じて、かなりの程度プロレタリアートをも従属させたのである。1914年8月、帝国主義的ブルジョアジーは、議会制民主主義を通じて、幾千万の労働者と農民を大殺戮にひきずりこむことができた。

 だが、まさにこの戦争をもって、資本主義の没落が、何よりもまずその民主主義的支配形態の明白な没落が始まった。現在問題になっているのは、もはや新しい改革や施しを与えることではなく、かつての改革や施しを削減し廃止してしまうことである。ブルジョアジーの政治的支配は、こうして、プロレタリア民主主義の諸機関(組合および政党)と矛盾するようになるだけでなく、労働者組織の枠組みを形成している議会制民主主義とも矛盾するようになる。このことから、一方では「マルクス主義」と他方では議会制民主主義に対する反対運動が起こる。

ヨゼフ・ピウスツキ

 しかし、かつて自由主義ブルジョアジーの上層部が自分自身の力では、君主制、封建制、教会を片づけることができなかったと同様に、金融資本の大物たちも、自分自身の力ではプロレタリアートを片づけることはできない。彼らには、小ブルジョアジーの助けが必要である。このためには、小ブルジョアジーを煽動し、立ちあがらせ、動員し、武装させなければならない。しかし、この方法にはそれ自身の危険が潜んでいる。ブルジョアジーは、ファシズムを利用しながらもそれを恐れている。ピウスツキ(1) [右の画像]は、1926年5月、ポーランド・ブルジョアジーの伝統的諸政党に矛先を向けたクーデターによって、ブルジョア社会を救うことを余儀なくされた。事態は、ポーランド共産党の公認指導者であるヴァルスキ(2)――彼は、ローザ・ルクセンブルクから、レーニンに、ではなくスターリンに鞍替えした――が、ピウスツキのクーデターを「革命的民主主義独裁」への道と取りり違え、労働者にピウスツキへの支持を呼びかける、という事態にまで至った。

 筆者は、1926年7月2日のコミンテルン執行委員会のポーランド委員会の会議において、ポーランドの事件に関して次のように述べた。

「全体として見れば、ピウスツキのクーデターは、解体と衰退の過程にあるブルジョア社会の切迫した課題を解決するための小ブルジョア的・『平民的』な方法である。……この点にすでに、イタリア・ファシズムとの直接的な類似性が見られる。」。
「この二つの潮流は疑いもなく共通する特徴を備えている。その突撃隊は何よりも小ブルジョアジーの中から徴集される。ピウスツキもムッソリーニも、議会外のむき出しの暴力的手段によって、内戦の方法によって活動している。両者とも、ブルジョア社会の打倒をめざしたのではなく、反対に、ブルジョア社会を救済しようとした。両者はともに、小ブルジョア大衆を立ち上がらせ、権力に就いた後に大ブルジョアジーと公然と衝突した。この点では、歴史的アナロジーがおのずと浮かんでくる。すなわち、ジャコバン主義を封建的階級敵を片づけるための平民的手段であるとみなしたマルクスの定義を想起せざるをえない。それはブルジョアジーの勃興期のことである。ここで言っておかなければならないのは、現在のブルジョア社会の衰退期において、ブルジョアジーは再び自らの課題を解決するさいの『平民的』手段を必要としているが、それはもはや進歩的なものではなくなり、徹頭徹尾反動的なものだということである。そしてこの意味で、ファシズムはジャコバン主義の反動的戯画なのである」。
「衰退期のブルジョアジーは、自らが確立した議会制国家の方法と手段によってはもはや、自らの権力を維持することができない。それは、少なくとも最も危機的局面において、自衛の武器としてのファシズムを必要とする。ブルジョアジーは、自らの課題の『平民的』解決を好まない。それは、ブルジョア社会発展のための流血の道を切り開いたジャコバン主義にきわめて敵対的な態度をとった。ファシストと衰退期のブルジョアジーとの関係は、ジャコバン派と勃興期のブルジョアジーとの関係とは比べものにならないほど緊密である。しかし、確固たる地位を確立したブルジョアジーも、自らの課題のファシスト的解決方法を好まない。なぜなら、それに伴う激動は、たとえそれがブルジョア社会のためであったとしても、ブルジョアジーにとっても危険だからである。ここから、ファシズムと伝統的ブルジョア政党との対立が生じているのである……」。
「虫歯を持っている人間が歯を抜かれるのを嫌がるのと同じく、大ブルジョアジーはこの方法を嫌がっている。ブルジョア社会の上品ぶった連中は歯科医ピウスツキの仕事を嫌悪をもって眺めた。しかし、この層は、結局はこの避けがたい事態に屈服した。もっとも、抵抗する素振りを見せて相手を脅し、取引をし、代償を値切ろうとしたが。こうして、昨日まで小ブルジョアジーの崇拝の的であったものは、資本に仕える憲兵に変貌してしまった」(3)

 ファシズムの歴史的位置を社会民主主義の政治的代替物として規定しようとしたこの試みに対して公式指導部が対置したのは、「社会ファシズム」の理論であった。当初、この理論は、珍奇で騒々しいが無害な愚劣さに見えた。その後の事態は、スターリン理論が共産主義インターナショナルの全発展の上にどれほど致命的な影響を及ぼしたかを示した

※原注 上に引用した演説を党とコミンテルンから隠しながら、スターリンの新聞は、この見解に対するいつもながらの糾弾キャンペーンを繰り広げた。マヌイリスキー(4)は、私が何とファシストをわれわれの革命的先祖であるジャコバン党と「同一視」した、と書いた。ジャコバン党がわれわれの革命的先祖であるというのは、多少なりとも真実である。不幸なことは、この先祖の祖先の中には、頭を働かすことのできない子孫たちが少なからずいることだ。トロツキズムを攻撃するミュンツェンベルク(5)の最新著作にも、この論争の余韻を見出すことができる。しかし、これは放っておこう。

※  ※  ※

 ジャコバン主義と民主主義とファシズムの歴史的役割からして、小ブルジョアジーは、最後まで資本の手中の道具にとどまることを運命づけられているということになるのだろうか? もしそうだとしたら、プロレタリアートの独裁は、小ブルジョアジーが国民の多数派を構成している一連の国々においては不可能になるであろうし、小ブルジョアジーが有力な少数派を構成している他の国々においても、はなはだ困難なものになるであろう。幸いにして、現実はそうではない。すでにパリ・コミューンの経験は、少なくとも一都市の限界内において、その後10月革命の経験が、比較にならないほど大きな規模で、かつ長期間にわたって示したように、大ブルジョアジーと小ブルジョアジーとの同盟は不動のものではない。小ブルジョアジーは独立した政策を持てないために(それゆえ、何にもまして小ブルジョア的「民主主義独裁」は実現不可能なのだ)、ブルジョアジーとプロレタリアートのどちらかを選ぶ以外に道はない。

 資本主義の勃興・成長・開花の時期に、小ブルジョアジーは、ときおり不満を先鋭に爆発させながらも、総じて従順に資本主義の馬車につながれたまま歩いた。また、そうする以外にはなかった。だが、資本主義の腐朽と経済的行き詰まりという状況のもとでは、小ブルジョアジーは、社会の古い主人と指導者の後見から逃れようと試み、努力し、奮闘した。彼らが自らの運命をプロレタリアートの運命に結びつけることは完全に可能である。そのために必要なのは一つのことだけである。すなわち小ブルジョアジーは、新しい道へ社会を導いてゆくプロレタリアートの能力に対する信頼を持っていなければならない。この信頼を小ブルジョアジーの中に醸成するためには、プロレタリアートは、自らの力、自らの行動に対する確信、敵に対する巧みな攻撃、その革命的政策の成功によるしかない。

 しかし、もし革命政党が情勢の求める水準に達しないとすれば不幸である! プロレタリアートの日常闘争はブルジョア社会の不安定性を激化させる。ストライキや政治的騒擾は国の経済状態を悪化させる。小ブルジョアジーは、その経験を通じて、プロレタリアートが小ブルジョアジーを新しい道に導くことができるという確信に達したならば、ますますひどくなる窮乏にも一時的に耐えることもできる。しかし、革命政党が、階級闘争が絶え間なく激化しているにもかかわらず、自己のまわりに労働者階級を結集することができないことを何度も何度も示し、動揺し、混乱し、自己矛盾に陥るとすれば、そのときには、小ブルジョアジーは、忍耐力を失い、革命的労働者を自分自身の窮乏の張本人とみなすようになる。社会民主党をも含むすべてのブルジョア政党は、小ブルジョアジーの考えをそうした方向へと押しやろうとする。社会的危機が耐えがたいまでに先鋭化しはじめるなら、小ブルジョアジーを激昂させてその憎悪と絶望をプロレタリアートにぶつけることを直接の目的とした特別の政党が登場する。ドイツにあってこの歴史的機能を果たしているのは国家社会主義である。すなわち、そのイデオロギーが、崩壊途上のブルジョア社会のあらゆる腐敗ガスから形成された広範な潮流である。

 ファシズムの成長に対して主要な政治的責任を負っているは、言うまでもなく社会民主党である。帝国主義戦争以後、この政党の仕事はもっぱら、独立した政策という思想をプロレタリアートの意識から一掃し、彼らに資本主義の永遠性の信仰を吹きこみ、没落しつつあるブルジョアジーの前にことあるごとにひざまずかせることに尽きていた。小ブルジョアジーは、労働者を新しい主人とみなすときには、労働者に従うことができる。社会民主党は労働者に従僕になれと教える。小ブルジョアジーは従僕には従わない。改良主義の政策は、プロレタリアートから、小ブルジョアジーの平民的大衆を指導する可能性を奪いとり、したがってまた小ブルジョアジーをファシズムの肉弾に変えるのである。

 しかしながら、政治的問題は、われわれにとって社会民主党の責任でつきるものではまったくない。戦争の開始以来、われわれは、この政党をプロレタリアート内における帝国主義的ブルジョアジーの手先として摘発してきた。革命的マルクス主義者のこの新たな方向設定から、第3インターナショナルは生まれたのである。その課題は、プロレタリアートを革命の旗のもとに統一し、それによって、都市と農村の小ブルジョア被抑圧大衆に対する指導的影響力の可能性をプロレタリアートのためにつくり出すことにあった。

 戦後期は、他のどの国にもましてドイツにおいて、経済的行き詰まりと内乱の時代であった。国際情勢も国内情勢も等しく、この国を容赦なく社会主義の道へと押しやった。社会民主党は一歩ごとに、その荒廃と無力、その政策の反動性、その指導者の買収されやすさを暴露した。共産党が発展するために、これ以上どのような条件が必要だというのか? それにもかかわらず、ドイツ共産党は、最初の数年間に大成功をおさめたあと、動揺、ジグザグの時代、日和見主義と冒険主義とが交互に現われる時代に入った。中間主義官僚は、プロレタリア前衛を系統的に弱め、それが労働者階級を指導することを不可能にした。それによって、プロレタリアート全体から、小ブルジョアジーの被抑圧大衆を指導する可能性を奪いとった。プロレタリア前衛に対してファシズム成長の直接的な責任を負っているのは、スターリニスト官僚である。

1932年8月4日

『反対派ブレティン』第29/30号

新規

  訳注

(1)ピウスツキ、ヨゼフ(1867-1935)……ポーランドの国家主義政治家、独裁者。1918〜21年大統領、在任中の1920年、ソヴィエト・ロシアに対する干渉戦争を遂行。リガ条約でソヴィエト・ロシアの一部を割譲。1921年、憲法に反対して下野するも、1926年にクーデターを起こして首相に。その後、独裁政治を死ぬまで継続。

(2)ヴァルスキ、アドルフ(1868-1937)……ポーランドの革命家、ローザ・ルクセンブルクの親しい友人で長年来の同志。1888年、ポーランド・リトアニア社会民主党の創設に参加。1905年に指導的活動家に。1906年にロシア社会民主労働党と合同した際、同党の中央委員に。第1次大戦中は国際主義派。ツィンメルワルト会議とキンタール会議に参加。1918年にポーランド共産党の創立に参加。中央委員、政治局メンバー。1922年のコミンテルン第4回大会で議長団の一員。1924年、コミンテルン執行委員会の一員になるも、同年遅くに、解任。1926年に共産党の国会議員。1929年にロシアに亡命。マルクス=エンゲルス研究所で活動。1937年にモスクワで逮捕・銃殺。

(3)トロツキー「ピウスツキ体制とファシズムと現代の性格」(1932年8月4日)。

(4)マヌイリスキー、ドミートリー(1883-1959)……ウクライナ出身の革命家、古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1903年以来のボリシェヴィキ。1905年革命に積極的に参加。逮捕され、流刑されるも、途中で脱走。1907-12年、フランスに亡命。1912-13年、非合法活動のためロシアに戻る。その後再びフランスに亡命。第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1917年にロシアに帰還し、メジライオンツィ7に。その後、ボリシェヴィキに。1918年、ウクライナ・ソヴィエトの農業人民委員。1922年からコミンテルンの仕事に従事。1928年から43年までコミンテルンの書記。1931年から39年まではコミンテルンの唯一の書記。「第三期」政策を積極的に推進。スターリンの死後に失脚。キエフで死去。

(4)ミュンツェンベルク、ウイリー(1889-1940)……ドイツのスターリニストで、共産主義青年インターナショナルの創始者の一人。コミンテルンの資金を用いて出版社、日刊紙、雑誌、映画会社などを設立。ナチスの政権掌握後、フランスに亡命。人民戦線をめぐって意見が分かれ、1937年にコミンテルンから決別。後に、不可解な状況の中で暗殺される。

 

目次序文後記

                           

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