第3章 「民主主義独裁」の3要素――諸階級、諸課題、政治的メカニズム

 「永続」革命の見地とレーニンの見地との相違は、政治的には、農民を基盤とするプロレタリアートの独裁というスローガンとプロレタリアートと農民の民主主義独裁というスローガンとの対立として現われた。争点となっていたのは、ブルジョア民主主義的段階を飛び越すことができるか否かでも、労働者と農民の同盟が必要であるか否かでもまったくなく、民主主義革命におけるプロレタリアートと農民の協力がいかなる政治的メカニズムを通して実現されるのか、であった。

 ラデックの言うところでは、レーニンはいっさいの問題を、客観的な歴史的課題実現のための2つの階級の協力という事柄に還元していたのだから、民主主義独裁という党内政治用の表現の問題を前面に押し出すことができるのは「マルクス主義とレーニン主義の方法の複雑さを十分考え抜いていない」人々だけであるそうだが、こうした議論は、あまりに尊大であり、もっと言えば軽率である。実際にはラデックの言うようなものではなかった。

 もし革命の主体的要因、すなわち、諸政党とその綱領、この場合にはプロレタリアートと農民の協力の政治的・組織的形態がまったく脇に置かれるのならば、同じ革命的翼の2つの色合いを反映しているレーニンと私との相違がすべて消えてしまうだけではなく、もっと悪いことに、ボリシェヴィズムとメンシェヴィズムとの相違、そしてさらには、1905年の革命と1848年の革命との、さらには1789年の革命との相違すら消えてしまうことになる。もっとも、1789年の革命に関してプロレタリアートについて語ることができるとすればの話だが。あらゆるブルジョア革命は都市と農村の被抑圧階級の協力を基盤として行なわれた。まさにこのことが、程度の差こそあれ、この革命に国民的性格を、すなわち、全人民的な性格を付与したのである。

 理論的にも政治的にもわれわれのあいだで争点となっていたのは、そのような労働者と農民との協力そのものをめぐってではなく、この協力の具体的あり方、それがどのような政党形態をとり、どのような政治的方法を通じて実現されるのか、であった。以前の諸革命にあっては、労働者と農民は自由主義ブルジョアジーかあるいはその小ブルジョア民主主義的翼の指導のもとに「協力」した。中国の労働者と農民を、最初は民族自由主義的な蒋介石の、後には「民主主義的」な汪精衛の政治的指導に従属させるべく全力をつくしたコミンテルンは、新しい歴史的状況の中で古い革命の実験を繰り返したわけである。レーニンは、労働者と農民の同盟の問題を自由主義ブルジョアジーと非和解的に対立するものとして提起した。このような同盟は歴史上かつて存在したことがなかった。それは、都市と農村の被抑圧階級の協力に関する――その方法の点で――新しい実験であった。これによって協力の政治的形態の問題が新たに提起されたのである。ラデックはこの点をまったく看過した。それゆえ彼は、永続革命の定式からだけでなく、レーニンの「民主主義独裁」の定式からさえもわれわれを引き離して、歴史的抽象の真空状態へと逆戻りさせたのである。

 たしかに、レーニンは、プロレタリアートと農民の民主主義独裁がどのような政治的・政党的・国家的組織形態をとるのかという問題にあらかじめ答えることを何年も拒み続け、その代わり自由主義ブルジョアジーとの連合に対立する形でこれら2階級の協力を前面に押し出した。レーニンはこう述べた。一定の歴史的段階においては、客観的な情勢全体の中から、民主主義革命の諸課題を遂行するための革命的労農同盟が必然的に生じてくるだろう。農民が独自の党を創設することに成功するかどうか、この党が民主主義独裁の中で多数派となるのか少数派となるのか、革命政府の中でプロレタリアートの代表がどれぐらいの比重を持つのか――これらすべての問題にアプリオリな回答を与えることはできない。「それは経験が示すだろう!」。こうして、民主主義独裁の定式は労農同盟の政治的メカニズムの問題を未回答のままに残したことで――ラデックのごとき剥き出しの抽象論に変じてしまうことはけっしてなかったとはいえ――、それでもやはり、将来においてきわめて多様な政治的解釈を許容する代数的定式として存続することになったのである。

 しかもレーニン自身、この問題が独裁の階級的基盤とその客観的歴史的目的によって汲み尽くされるものだとは全然考えていなかった。主体的諸要因――目的、意識的な方法、党――の持つ意義については、レーニンは十分よく理解していたし、このことをわれわれすべてに教えてくれた。だからこそレーニンは自分のスローガンを解説する際に、史上初めての〔ブルジョアジーから〕独立した労農同盟がいかなる政治的形態をとるかという問題に対して、大雑把な仮説的回答さえ与えなかったのである。しかし、レーニンは、別の機会には、まったく違った形でこの問題にアプローチしている。レーニンの思想は、ドグマ的にではなく歴史的に取り上げなければならない。レーニンはシナイ山から出来あいの戒律を持ってきたのではなく〔モーゼの十戒のこと〕、階級闘争の溶鉱炉で思想とスローガンを鍛えたのである。彼はこれらのスローガンを現実に適応させ、具体化し、正確化した。そして、異なった時期に応じてそこに異なった内容を盛り込んだ。しかしながら、問題のこの側面――それは後に決定的な性格を帯び、1917年初頭には、ボリシェヴィキ党を分裂の瀬戸際にまで追いやったのだが――を、ラデックはまったく研究していない。彼はただそれを無視して通りすぎたのだ。

 とはいえ、レーニンがさまざまな時期に、2階級の同盟がどのような政治的・政党的および政府形態上の表現をとりうるのかをけっして規定しなかったし、また党を仮説的解釈で縛ることも差し控えたというのは事実である。このような慎重さの理由はどこにあったのか? その理由は、この代数的定式の一要素が、巨大な意義を持ちながら政治的には極度に不確定なものであったことにある。農民がそれである。

 民主主義独裁に関するレーニンの解釈の例をいくつかだけ引用しておこう。というのも、この問題に関するレーニンの思想的発展をまとまった形で特徴づけるためには別の独立した著作が必要になるからである。

 1905年3月に、レーニンは、プロレタリアートと農民が独裁の基盤となるという思想を展開して、次のように書いている。

 「そして、可能でもあり望ましくもある革命的民主主義独裁の、社会的基盤のこうした構成はもちろん、革命政府の構成に反映するであろうし、革命的民主主義派の種々雑多な代表者たちがこの政府に参加することを、またはその中で優勢を占めることさえ、不可避とするであろう」(第6巻、132頁、強調は引用者)(1)

 このようにレーニンは、独裁の階級的基盤を指摘しているだけでなく、その一定の政府形態において小ブルジョア民主主義派の代表者たちが優位を占める可能性をも想定している。

 1907年にレーニンはこう書いている。

 「紳士諸君、君たちが言っている『農民的土地革命』は、勝利を得るためには、そういうものとして、つまり農民革命として、全国家の中心権力とならなければならないのだ」(第9巻、539頁)(2)

 この定式はさらに押し進めると、革命権力が直接に農民の手中に集中されなければならないという意味にも理解することができる。だが他方では、発展の歩みそのものによって生じたより広い解釈によるなら、この定式は、農民革命の「代理人」としてプロレタリアートを権力に導いた10月革命をも包含することができる。プロレタリアートと農民による民主主義独裁の定式に対する解釈として可能な両極端がここにはある。こうした代数的性格は、ある時点まではその強みであるのだが、そこには危険もあるのであって、その危険性は、2月革命後にわが国ではっきりと暴露されたし、中国では破局にまで至った。

 1905年7月にレーニンはこう書いている。

 「誰も党による権力の奪取について語ってはいない――われわれはただできるかぎり指導的に革命に参加することについて語っているだけである…」(第6巻、278頁)。

 1906年12月、レーニンは党による権力獲得の問題についてカウツキーと意見が一致しうると考えた。

 「カウツキーは『革命の過程で勝利が社会民主党に帰する』ことが『大いにありうる』と考えているだけでなく、『勝利の確信を自分たちの支持者に吹きこむこと』は、社会民主主義者の義務でもあると言明している。なぜなら、『前もって勝利を放棄しては、首尾よく闘うことはできないからである』」(第8巻、58頁)(3)

 レーニン自身のこれら2つの解釈のあいだに存在する隔りは、レーニンの定式と私の定式とのあいだに存在する隔りに優るとも劣らぬものである。この点は以下でも今後いっそう明らかとなるだろう。ここでは、レーニンのこのような矛盾が何を意味しているのかという問題を提起したい。それは、革命の政治的定式におけるかの「大いなる未知数」――農民――を反映している。急進思想がかってムジークをロシア史のスフィンクスと呼んだのも理由のないことではない。革命的独裁の本質という問題は、ラデックが欲しようが欲しまいが、自由主義ブルジョアジーに敵対的でプロレタリアートから独立した革命的農民党の可能性の問題と不可分に結びついている。この問題の決定的意義を理解するのは難しいことではない。もし、農民が民主主義革命の時期に独立した党を創設しうるとすれば、民主主義独裁はその最も正当かつ直接的な意味において実現されることになり、革命政府へのプロレタリア的少数派の参加の問題は、たしかに重要ではあるが、副次的意味しか持たなくなるであろう。だが、農民が、その中間的な地位と社会的構成の不均質さゆえに、独立した政策も独立した党も持ちえず、革命期においてはブルジョアジーの政策かプロレタリアートの政策かのどちらかを選ぶことを余儀なくされるということから出発するならば、事態はまったく異なった様相を呈する。農民の政治的本質のこのような評価だけが、民主主義革命から直接に成長してくるプロレタリア独裁の展望を切り開くのである。言うまでもなく、これはけっして農民の「否定」でも「無視」でも「過小評価」でもない。社会全体の営みにとって農業問題がもつ決定的重要性を考慮に入れることなしには、また農民革命の根深さとその巨大な規模を考慮に入れることなしには、そもそもロシアにおけるプロレタリア独裁を語ることは不可能であろう。しかし土地革命プロレタリアート独裁のための諸条件をつくり出したという事実は、農民には自らの力で、また自らの指導のもとで、自らの歴史的問題を解決する能力がないことから生じているのである。このことは、現代のブルジョア諸国においては、後進国といえども、すでに資本主義的産業の時代に入っているかぎり、そして鉄道と電信によって全国が統一されているかぎり――このことはロシアのみならず中国やインドにもあてはまる――、農民が指導的な役割を、それどころか単に独立した政治的役割を果たす能力でさえ、過去のブルジョア革命の時代よりもずっと乏しくなっている。私が永続革命論の最も重要な要素を構成しているこの考えを全面的かつ頑強に強調したこと、このことが、農民の過小評価という非難のまったく不適切で本質的にはまったく根拠のない理由になっているのである。

 農民政党の問題についてレーニンはどのように見ていただろうか? この問題に答えるためには、1905〜1917年の時期におけるレーニンのロシア革命論の変遷と発展を跡づける全面的な論文が必要になるだろう。ここでは2つの引用を挙げるにとどめよう。1907年にレーニンはこう書いている。

 「小ブルジョアジーの政治的結束の客観的な困難さが、このような〔農民〕政党の結成をさまたげ、農民民主主義を長きにわたって、現在のような、ぶよぶよで、無定形で、ゼリー上のトルドヴィキ的※塊の状態のままにとどめておくこともありうる」(第8巻、494頁)(4)
 ※原注 トルドヴィキは、4つの国会(ドゥーマ)の農民代表政党であり、常にカデット(自由主義派)と社会民主党のあいだを動揺していた。

 1909年、レーニンは同じ問題について次のように異なった説明を与えている。

 「革命的独裁のような……高い発展段階まで遂行された革命が、より明確な輪郭をもった、より強力な革命的農民政党をつくり出すであろうということは、いささかの疑問の余地もない。これと違ったふうに考えることは、人間が成人しても、いくつかの重要な器官が大きさ、形状、発達程度において子供のままでありうると考えるにも等しいだろう」(第11巻第1分冊、230頁)(5)

 この予想は確証されたか? いや、確証されなかった。しかし、まさにこうした予想ゆえにレーニンは、歴史によって完全な検証がなされるその瞬間まで、革命権力の問題に対して代数的な回答しか与えなかったのである。もちろんレーニンは、自分の仮説的定式を現実の事態に優先させることはけっしてなかった。プロレタリア政党の独立した政策のための闘争は、彼の生涯の主要な内容をなしていた。しかしながら、哀れなエピゴーネンは農民政党を追い求めて、中国の労働者を国民党に従属させ、「労働者農民党」の名においてインドの共産主義を窒息させ、農民インターナショナルという危険な虚構組織をつくり出し、反帝国主義同盟なる仮面舞踏会をでっち上げたのである。

 現在の公式思想は、以上のようなレーニンの諸矛盾――一部はただ外見的なものにすぎず、一部は現実的なものであるが、いずれにせよ常に問題そのものから生じている――について深く考える労さえとらない。わが国に「赤色教授」という特別品種が生まれてからというもの――この「赤色教授」ときたら、昔の反動教授と違うのは、より確固たる背骨があることではさらさらなく、無知の程度がよりひどいことぐらいである――、レーニンは今やその教授連中の好み通りに刈りこまれ、あらゆる矛盾が、すなわち、彼の思想のダイナミズムが入念に取り除かれた上で、規格化された個々の引用句が何本もの細い糸に通されてまとめられ、「その時々」の必要にしたがって、あれこれの「セット」が市場に出されるといった具合なのである。

 だが一瞬たりとも忘れてはならないのは次のことである。1905年に革命の諸問題が提起されたのは、いわば政治的に「処女」である国においてであったこと、しかも〔パリ・コミューン以来の〕長い歴史的休止期の後で、ヨーロッパおよび全世界における長い反動期の後であったこと、そしてそのことだけからしても、多くの未知の問題を伴わないわけにはいかなかったことである。レーニンは「労働者と農民の民主主義独裁」という定式のうちに、ロシアにおける独特の社会関係を表現した。彼はこの定式にさまざまに解釈を与えたが、けっしてそれを拒否することはなく、ロシア革命の諸条件の独自性を徹底的に評価しきることはなかった。だがこの独自性はどこにあったのか?

 他のすべての諸問題の基礎・基盤としての農業問題の、そして一般に農民問題の巨大な役割、大量の農民インテリゲンツィアと親農民インテリゲンツィアの存在、彼らのナロードニキ的イデオロギーや「反資本主義」的伝統や革命的鍛錬――これらがあいまって、もし反ブルジョア的な革命的農民政党がそもそもどこかで形成される可能性があったとしたら、それはまさにロシアに他ならないことを意味している。

 そして実際に、自由主義政党やプロレタリア党とは異なる農民政党ないし労農政党を創設する試みがなされきた。ロシアでは可能なあらゆる政治的バリエーションが試された。地下政党、議会政党、あるいはその混合政党などである。たとえば、「土地と自由」派、「人民の意志」派、「黒い割替」派、合法的ナロードニキ、「社会革命党」、「人民社会党」、「トルドヴィキ」、「左翼社会革命党」等々、等々。半世紀もの長きにわたって、われわれはいわば、プロレタリアートに対して独立した立場をもつ「反資本主義的」農民政党を創設する巨大な実験室を持ったようなものである。周知のごとく、そのうちで最も大きな規模に達したのはエスエル党の実験であって、この党は実際1917年には一定期間、農民の圧倒的多数に支持される党となった。それでどうなったか? 同党はその立場を、農民をまるごと自由主義ブルジョアジーに売りわたすために利用しただけであった。エスエルはさらに3国協商の帝国主義者たちと同盟を結んで、ロシア・プロレタリアートに対する武力闘争を行なった。

 この真に古典的な実験が示しているのは、農民を基盤とする小ブルジョア政党は、歴史の平日において、第二義的な問題が日程にのぼっている場合には、独立した政策の外観を維持することができるが、社会の革命的危機によって所有の根本問題が日程にのぼるようになると、この小ブルジョア的「農民」政党は自動的にブルジョアジーの道具となってプロレタリアートに対立するようになるということである。

 レーニンと私とのかつての意見の相違を、あれこれの日付をもった引用文の断片でもって判断するのではなく、正しい歴史的展望の中で考察するならば、この論争が、少なくとも私の側からは、民主主義的課題の解決にとってプロレタリアートと農民の同盟が必要であるかどうかをめぐってたたかわされたのではなく、プロレタリアートと農民の革命的協力がどのような政党的・政治的および国家的形態をとりうるのか、またそのことから革命の今後の発展にとってどのような帰結が生じてくるのかをめぐってたたかわされていたことが、完全に明らかとなる。もちろん、私はこの論争における自分の立場について語っているのであって、当時におけるブハーリン=ラデック的立場について語っているのではない。それについては彼ら自身が答えなければばならない。

 「永続革命」の定式がいかにレーニンの定式に近かったかということは、次のようなわかりやすい比較によって示されよう。1905年の夏、すなわち、10月ストライキやモスクワの12月蜂起に先立つ時期に、私はラサールの陪審演説の序文で次のように述べている。

 「言うまでもなく、プロレタリアートは自己の使命を果たすあたって、ブルジョアジーがかつてそうしたように、農民と小ブルジョアに依拠する。プロレタリアートは農民を指導し、彼らを運動に引き入れ、彼らをしてプロレタリアートの計画の成功に関心を抱かせる。しかし、指導者の地位にとどまるのは必然的にプロレタリアートだけである。これは『農民とプロレタリアートの独裁』ではなく、農民に依拠したプロレタリアートの独裁である」(トロツキー『1905年』、281頁)(6)※
 ※原注 この引用文は、他に何十とある同種の文章の一つだが、1905年革命の前夜においてすでに、私が農民の存在と農業問題の重要性を認めていたということ、すなわち、マスロウ、タールハイマー、テールマン、レンメレ、カシャン、モンムーソー、ベラ・クン、ペッパー、クーシネン、その他のマルクス主義社会学者が農民の重要性について私に説教しはじめるよりも何十年も早かったことを物語っている。

 さて、1905年に執筆され1909年ポーランド語論文で私が引用しているこの言葉を、次に示すレーニンの言葉と比較していただきたい。これはローザ・ルクセンブルクの圧力によって、党大会がボリシェヴィキの古い定式に代わって「農民に依拠したプロレタリアートの独裁」の定式を採択した直後の同じ1909年に書かれたものである。レーニンの立場の根本的な変化について書いたメンシェヴィキに対して、彼は次のように答えている。

 「……このように、ボリシェヴィキ自身がここで自分のために選んだ『定式』は、農民を自分に従えるプロレタリアート、と言っている※。……
 ここにすべてこれらの定式の思想が同一のものであること、この思想が他ならぬプロレタリアートと農民の独裁を表現したものであること、農民に依拠したプロレタリアートという『定式』が、同じ『プロレタリアートと農民の独裁』の範囲内にまったくとどまっていることは、明瞭ではないだろうか?」(第11巻第1分冊、219頁、224頁、強調は引用者)(7)
※原注 1909年の協議会で、レーニンは「農民を自己に従えるプロレタリアート」という定式を提案したが、結局、ポーランドの社会民主主義者の定式に同意し、おかげでその協議会で、メンシェヴィキに対して多数派を占めることができた。

 したがってレーニンは、ここでは「代数的」定式に対して、独立した農民政党という考えを、さらには革命政府における農民の支配的役割という考えはなおさら排除するような解釈を与えている。すなわち、プロレタリアートが農民を指導し、プロレタリアートは農民に依拠し、したがって革命権力はプロレタリアートの党の手に集中されるのである。だがこれこそまさに永続革命論の中心点をなすものなのである。

 歴史的な検証がすでになされた後の今日、独裁に関する古い意見の相違に関して言いうるのはせいぜい次のことである。すなわち、レーニンは常にプロレタリアートの指導的役割から出発しながら、プロレタリアートと農民の革命的民主主義的協力の必要性をできるだけ強調し発展させ、このことをわれわれ全員に教えているが、他方、私は常にこの協力から出発して、このブロックにおけるプロレタリアートの指導性の必要性だけでなく、このブロックの頂点を構成する政府の中でもプロレタリアートの指導性が必要であることをできるだけ強調している、ということである。これ以外のいかなる意見の相違も読み取ることはできない。

※   ※   ※

 以上のことに関連して、さらに2つの引用文を取り上げよう。一つは「総括と展望」からの引用であり、スターリンやジノヴィエフが私の見解とレーニンの見解との対立性を証明するために利用したものである。もう一つはレーニンが私に矛先を向けて書いた論争的論文からの引用であり、ラデックが同じ目的のために利用しているものである。

 まず第1の引用はこうだ。

 「政府へのプロレタリアートの参加は、支配的で指導的な参加としてのみ、客観的に最も可能性があり、かつ原則的にも容認されうる。もちろん、この政府を、プロレタリアートと農民の独裁だとか、あるいはプロレタリアートと農民とインテリゲンツィアの独裁だとか、あるいはまた労働者階級と小ブルジョアジーの連立政府などと呼ぶことも可能である。しかしそれでも、当の政府内のヘゲモニー、およびそれを通じての国内のヘゲモニーは誰に属するのか、という問題は依然として残る。そしてわれわれは、労働者政府について語るとき、ヘゲモニーは労働者階級に属するだろうと答える」(『われわれの革命』、1906年、250頁)(8)

 私が(1905年に!)農民とインテリゲンツィアとを同列に置いたということで、ジノヴィエフは(1925年に)大騒ぎしている。彼は、先の文章からこのこと以外の何も読み取らなかったのである! インテリゲンツィアに言及したのは、当時の状況から生じている。当時、インテリゲンツィアは、現在とは政治的にまったく異なる役割を果たしていた。当時彼らは、農民の名において発言し、社会革命党は公式に自らの党が、プロレタリアートと農民とインテリゲンツィアの「三位一体」にもとづいていると称していた。当時、私が書いたように、メンシェヴィキはあらゆる急進的インテリゲンツィアにおもねって、ブルジョア民主主義の繁栄を証明しようとしていた。その当時すでに私は、インテリゲンツィアは「独立した」社会集団としては無力であること、また革命的農民が決定的な重要性を有していることを何百回となく述べていた。しかし、ここでの問題は、個々の論争的文章ではないし、この文章について弁護するつもりもない。この引用文の核心は、私が民主主義独裁のレーニン的内容を完全に受け入れ、ただその政治的メカニズムをもっと正確に定義づけることを、すなわち、プロレタリアートがただ小ブルジョア的多数派の人質になってしまうような連立政府を拒否するよう求めたということにあるのである。

 では次に、1916年のレーニンの論文を取り上げよう。これは、ラデック自身が指摘しているように、「形式的にはトロツキーに矛先を向けてはいるが、実際にはブハーリン、ピャタコフ、そして、本文章の執筆者(つまりラデック)、およびその他多くの同志たちに向けられたものであった」。これは、私の当時の印象を完全に裏づける非常に貴重な言明である。その印象とは、レーニンは論争の矛先を私に向けているように見せかけているだけだ、なぜなら――私がこれから示すが――、それは本質的に私にまったく打撃を与えるものではなかったからである。この論文には、後にエピゴーネンやその後継者たちの主要なお題目となった非難、すなわち私が「農民を否定」しているとするまさにあの非難が述べてある(2行だけ)。ところが、この論文の「眼目」――ラデックの表現――は次の部分にある。

 「トロツキーは――レーニンは私自身の言葉を引用して言う――、プロレタリアートが地主の土地没収と君主制の打倒のために農村の非プロレタリア大衆をひきつけるならば、これこそ、ロシアにおける『国民的ブルジョア革命』の完成であり、これこそ、プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁である、ということを考えなかった」(レーニン、第13巻、214頁)(9)

 レーニンはこの論文で農民の「否定」という非難の矛先を「本当の的」には向けておらず、実際には、革命の民主主義的段階を本当に飛び越えようとしていたブハーリンやラデックのことを言っていたのだということは、以上述べてきたことから明らかであるだけでなく、ラデックが正しくもレーニン論文の「眼目」と呼んだこの引用文そのものからも明らかである。実際、レーニンは私の論文の次の言葉を直接引き合いに出している。すなわち、プロレタリアートの独立した大胆な政策のみが「農村の非プロレタリア大衆を地主の土地没収、君主制の転覆等へと導いていく」ことができるというものである。そしてレーニンは「トロツキーはこれこそ、プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁である、ということを考えなかった」と付言しているわけだ。つまり言いかえれば、ここでレーニンは、トロツキーが実際にはボリシェヴィキの定式(労働者と農民の協力とこの協力の民主主義的課題)の真の内容を受け入れているが、これがまさに民主主義独裁であり、国民革命の完成なのだということを認めようとしない、ということを確認し、いわばそのことを証明しているのである。したがって、この一見「先鋭な」論争文において争点となっていたのは、革命の当面する段階の綱領でも、その階級的推進力でもなく、まさに、これら諸勢力間の政治的相互関係であり、独裁の政治的・政党的性格であったわけである。一部は過程そのものがまだ完全には明瞭になっていなかったために、また一部は論争が分派的に先鋭化した結果として、当時にあっては論争上の誤解があったことは理解しうるし、避けがたいことでもあったが、どうしてラデックが後になってからこの問題にこのような混乱を持ち込むことができたのかはまったく理解不能である。

 レーニンと私との論争は本質的に、革命における農民の独立性の可能性(およびその独立性の程度)、とりわけ独立した農民政党の可能性をめぐって展開された。この論争の中で私は、農民の独立的した役割を過大評価しているとレーニンを非難した。レーニンは、農民の革命的役割を過小評価していると私を非難した。これはこの論争そのものの論理から必然的に生じたものである。しかしながら、あれから20年も経った今日、この意見対立の真の軸点が何であったのか、この論争の――言葉の上ではなく――実際の振り幅がどの程度のものであったのかを、最も偉大な革命的経験〔10月革命のこと〕に照らして解明する代わりに、当時の党内関係から切り離してこれらの古い引用文を利用し、個々の論争上の誇張やエピソード的な誤りに絶対的な価値を付与する者は、軽蔑以外の何ものにも価しないだろう。

 引用を制限せざるをえないので、ここでは革命の諸段階に関するレーニンの要約的なテーゼの存在を指摘するにとどめておこう。これは1905年の終わり頃に書かれたが、1926年になってようやく『レーニンスキー・ズボールニク(レーニン資料集)』の第5巻(451頁)に発表されたものである(10)。思い出すが、このテーゼが発表されたとき、ラデックを含むすべての反対派メンバーが、それを反対派にとっての最良の贈り物とみなしたものである。なぜなら、このテーゼの中でレーニンは、スターリンの法のあらゆる条項からして「トロツキズム」の罪を犯していたからである(11)。コミンテルン第7回執行委員会総会の決議の最も重要な項目は、あたかもレーニンのこの基本テーゼに意識的かつ意図的にその矛先を向けているかのようであった。このテーゼの発表にスターリン主義者たちは歯ぎしりした。『レーニンスキー・ズボールニク』の編集者であったカーメネフは、いかにも彼らしい屈託のない「人のよさ」を示して率直に私にこう言ったものだ。もし、われわれとのブロックが問題になっていなかったならば、けっしてこの文書の発表を認めなかっただろうと。『ボリシェヴィキ』誌に発表されたコストルジェヴァの論文では、このテーゼは、レーニンに農民一般、およびとくに中農に対する「トロツキスト」的態度の嫌疑がかからないように悪質に歪曲されている。

 ここで、レーニンが1909年に彼と私との意見の相違を評価して言った言葉を引用しておこう。

 「同志トロツキー自身、この議論のなかで、『民主主義的住民の代表』が『労働者政府』に『参加すること』を認めている。すなわち、プロレタリアートの代表と農民の代表からなる政府を認めているのである。どのような条件で、プロレタリアートの革命政府への参加を許すかということは、別個の問題であり、この問題については、ボリシェヴィキはおそらく、トロツキーと一致しないだけではなく、ポーランドの社会民主主義者とも一致しないであろう。しかし、革命的諸階級の独裁の問題は、けっしてあれこれの革命政府内での『多数』の問題、あれこれの政府への社会民主主義者の参加を認める条件の問題に帰着するものではない」(第11巻第1分冊、329頁、強調は引用者)(12)

 この引用文の中でレーニンは再び、トロツキーがプロレタリアートと農民の代表者からなる政府を受け入れていること、すなわち、農民を「飛び越し」てはいないことを確認している。レーニンはこれに関して、独裁の問題は政府内の多数の問題に還元することはできないと強調している。これは議論の余地のないところである。問題になっているのは何よりも、労働者と農民の共同闘争であり、したがって自由主義ブルジョアジーないし「民族」ブルジョアジーに対抗して農民に影響を及ぼすためのプロレタリア前衛の闘争である。しかし、たとえ労働者と農民の革命的独裁の問題が政府内のあれこれの多数派問題に還元することができないとしても、革命が勝利した暁にはこの問題は必然的に決定的なものとして立ち現われてこざるをえないのである。これまで見てきたように、レーニンは(いかなる場合においても)慎重に次のような留保をしていた。革命的政府への党の参加が問題になった場合には、ボリシェヴィキはおそらくこの参加の条件に関してはトロツキーやポーランドの同志たちと見解を異にする可能性がある、と。つまり、少数派としてプロレタリアートが民主主義政府に参加することは理論的に許容されるとレーニンが考えているかぎりにおいて意見の相違が生じる可能性があったということである。しかしながら、現実の事態が示したように、われわれのあいだに意見の相違は起こらなかった。1917年10月、エスエルおよびメンシェヴィキとの連立政府の問題をめぐって党の上層部で激烈な闘争が起こったとき、レーニンは原則としてはソヴィエトを基盤とする連立には反対しなかったが、ボリシェヴィキの多数派が確固として確保されることを断固として要求した。そして私はレーニンと手に手をとって歩んだのである。

※   ※   ※

 ではラデックは、プロレタリアートと農民の民主主義独裁という問題の核心をどの点に見出そうとしていたのだろうか?

 「1905年のボリシェヴィキの旧理論は――とラデックは問う――いったいいかなる基本的な点でその正しさが証明されたのか? ペトログラートの労働者と農民(ペトログラード守備隊の兵士たち)の共同行動がツァーリズムを転覆した(1917年のことである――トロツキー)点においてである。1905年の定式は基本的にはただ諸階級の相互関係を予見したにすぎないのであって、具体的な政治的制度を予見したものではない」。

 ちょっと待ってくれたまえ! 私はレーニンの古い定式を「代数的」であると呼んだが、それはけっして、ラデックが臆面もなくやっているように、それを陳腐な空文句に還元してしまってよいということを意味するものではない。「基本的な点は実現された。すなわち、プロレタリアートと農民が力を合わせてツァーリズムを転覆した」。しかし、この「基本点」なるものは、どんな勝利した――ないし半ば勝利した――革命においても例外なく達成されている。王侯、封建領主、僧侶たちは常に至るところで、プロレタリア、前プロレタリア、平民、農民等のこぶしによって打ち倒された。それはすでに16世紀のドイツで達成されているし、それ以前にさえ見られたことである。中国でも「軍閥」を打ち倒したのは労働者と農民であった。このことは民主主義独裁といかなる関係があるのか? 民主主義独裁は昔の諸革命にも、中国にも存在しなかった。なぜか? 革命という骨の折れる仕事をやった労働者と農民の上にブルジョアジーが鎮座したからである。ラデックはあまりにもきっぱりと「政治的制度」から離れてしまったために、革命の最も「基本的な点」を、すなわち、誰が指導し、誰が権力をとるのかということを忘れてしまった。ところが、革命は権力獲得のための闘争なのである。それは、諸階級が徒手空拳で行なうのではなく、「政治的制度」(政党など)を通じて行なうところの政治闘争である。

 「マルクス=レーニン主義の方法の複雑さを考え抜かない人々は――とラデックはわれわれ罪人に向かって雷を落とす――それを次のように理解する。常に事態は労働者と農民の合同政府に至らなければならないと。さらに一部の者は、それは常に労働者の党と農民の党との連立政府でなければならないとさえ考えている」。

 その「一部の者」とやらは何と愚か者であることか! だがラデック自身はどう考えているのか? 勝利した革命が新しい政府につながってはならないと思っているのだろうか、それとも、この新しい政府が革命的諸階級の一定の相互関係を反映しそれを強化してはならないと思っているのだろうか? ラデックは「社会学的」問題をあまりに深めすぎたので、彼には言葉の抜け殻しか残らなくなってしまったのだ。

 労働者と農民の協力がどのような政治的形態をとるかという問題から離れることがいかに許しがたいことであるかは、1927年3月に共産主義アカデミーで行なわれたラデックの報告にある次のような言葉によって最もよく示されている。

 「私は1年前に、この(広東)政府について『プラウダ』に論文を書き、その中でこの政府を農民と労働者の政府と呼んだ。ところが、編集部の同志たちは私が書き間違ったものと考えて、労働者と農民の政府に訂正してしまった。私は抗議しなかったので、『労働者と農民の政府』のままであった」。

 つまり、1927年(1905年ではない!)にラデックは、「労働者と農民の政府」と区別されるような「農民と労働者の政府」が存在しうると考えていたわけである。『プラウダ』の編集部はこのことを理解しなかった。私も理解できないことを認める。「労働者と農民の政府」とはいかなるものかはわれわれはよく知っている。しかし「労働者と農民の政府」と区別され、これに対置される「農民と労働者の政府」とはいかなるものか? このような形容詞の不可思議な置きかえの意味を説明してもらいたいものだ!

 ここでわれわれは問題の核心に近づきつつある。1926年にラデックは、蒋介石の広東政府が「農民と労働者の政府」であると信じ、1927年にもこのことをはっきりと繰り返えしている。だが実際には、この広東政府はブルジョア政府であったのであり、労働者と農民の革命的闘争を利用し、その後、彼らを血の海に沈めたのである。このような誤りはどのように説明されるのか? ラデックは単に勘違いしただけなのか? 遠くからだと勘違いすることもあるだろう。その時には、私にはわからなかった、よく見ていなかった、間違いを犯したと言えるだろう。しかし、この場合は違う。それは、情報の不十分さによる事実関係上の誤りではない。それはむしろ、今でははっきりとしているように、深刻な原則上の誤りであった。「労働者と農民の政府」に対置される「農民と労働者の政府」、これこそまさに国民党である。それは他のいかなる意味も持ちえない。農民は、プロレタリアートにつき従うのでないならば、ブルジョアジーにつき従う。この問題は「労働者と農民の2階級政党」というスターリンの分派的思想に対する私の批判によって十分に明らかにされていると思う(『コミンテルン綱領の批判』参照)。「労働者と農民の政府」とは対照的な広東の「農民と労働者の政府」とは、現在における中国政治の言葉をもってすれば、プロレタリア独裁に対置される「民主主義独裁」の唯一可能な表現である。言いかえればそれは、コミンテルンが「トロツキスト的」と呼ぶボリシェヴィキ的政策に対置されるところのスターリン的・国民党的政策を具現化したものなのである。

 

  訳注

(1)レーニン「社会民主党と臨時革命政府」、邦訳『レーニン全集』第8巻、289頁。

(2)レーニン「1905〜1907年のロシア革命における社会民主党の農業綱領」、邦訳『レーニン全集』第13巻、336頁。

(3)レーニン「ロシア革命におけるプロレタリアートとその同盟者」、邦訳『レーニン全集』第11巻、385頁。

(4)レーニン「革命と反革命」、邦訳『レーニン全集』第13巻、111頁。

(5)レーニン「わが革命におけるプロレタリアートの闘争目標」、邦訳『レーニン全集』第15巻、361頁。

(6)トロツキー「われわれの意見の相違」、前掲『わが第一革命』、435頁。

(7)レーニン「わが革命におけるプロレタリアートの闘争目標」、邦訳『レーニン全集』第15巻、348〜349頁、354頁。

(8)トロツキー「総括と展望」、前掲『わが第一革命』、326頁。

(9)レーニン「革命の2つの方向について」、邦訳『レーニン全集』第21巻、432頁。レーニンがここで取り上げているトロツキーの論文は本書の付録「権力のための闘争」。

(10)レーニン「革命の諸段階、方向および見通し」、邦訳『レーニン全集』第10巻、77〜78頁。

(11)このテーゼの中で、レーニンは、農民が革命の勝利後に反革命になる可能性を強調するとともに、革命の国際的性格を重視し、ロシア革命がヨーロッパ社会主義革命に飛び火して、それが翻ってロシアでの社会主義革命につながる可能性を展望している。

(12)レーニン「わが革命におけるプロレタリアートの闘争目標」、邦訳『レーニン全集』第15巻、360頁。 

 

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