第1章 この著作の強いられた性格とその目的
右翼=中間主義ブロックに指導された党の理論的需要は、6年もの間、反卜ロツキズムで満たされていた。これが無尽蔵に存在して無料で配給されうる唯一の生産物であった。スターリンは、永続革命に反対する彼の不朽の論文によって、1924年に初めて「理論」に参加した。モロトフでさえこの洗礼盤の上で「指導者」としての洗礼を受けたのである。偽造は全速力で進行中である。先日私は、レーニンの1917年著作集のドイツ語版刊行の予告をたまたま目にした。これは先進的なドイツの労働者階級にとってこの上ない贈物である。しかしながら、本文やとくに解説の中で多くの偽造がなされるだろうということはあらかじめ想像することができる。このことは、目次の最初に出てくるのがニューヨークのコロンタイに宛てたレーニンの手紙(1)であることを指摘するだけで十分であろう。何ゆえか? それはこれらの手紙に、コロンタイからのまったく偽りの情報にもとづいた、私に対する手厳しいコメントが含まれているからである。当時コロンタイは、その体質的なメンシェヴィズムにヒステリー的極左主義の注射を打っていた。ロシア語版では、エピゴーネンは、たとえ曖昧な言い方ではあれ、レーニンが誤った情報を与えられていたと注釈することを余儀なくされた。しかしながら、ドイツ語版にはこのような曖昧な留保さえないことは疑いない。さらにつけ加えておけば、コロンタイに宛てたレーニンのこの同じ手紙には、当時コロンタイと協力していたブハーリンに対する痛烈な非難も含まれている(2)。しかし、手紙のこの部分は今まで隠されてきた。同部分は、ブハーリンに対する公然たる批判カンパニアが展開される瞬間に日の目を見ることになるだろう。その日が来るのはそんなに先のことではあるまい※。
※原注 この予言はその後しばらくして実現された。
他方では、レーニンの多くの貴重な文書、論文、演説、さらには速記録や手紙の類は、それらがスターリン商会に矛先を向けているか、あるいは「トロツキズム」の伝説を掘りくずすものであるというただそれだけの理由で、隠蔽されたままになっている。3つのロシア革命の歴史においては、党の歴史と同じく、無傷にすんでいる部分は文字通りまったく存在しない。理論、事実、伝統、レーニンの遺産、これらすべてが、「トロツキズム」との闘争の犠牲にされている。レーニンの病気を機に、トロツキーに対する個人攻撃としてでっち上げられたこの組織された闘争は、今ではマルクス主義との闘争にまで発展しているのである。
このことから改めて次のことが確認される。すなわち、とっくに終息した過去の論争の無意味な詮索のように見えるものが、実は今日における何らかの無意識的な社会的要求――それ自体はけっして過去の論争とは関係のない要求――を満たすものだということである。「旧トロツキズム」に対する反対カンパニアは実際には、新しい官僚たちが窮屈で耐えがたいものと感じている10月革命の伝統に反対するカンパニアであった。押しのける必要のあるいっさいのものに「トロツキズム」という名称がつけられることになった。こうして、トロツキズムとの闘争はしだいに、広範な非プロレタリア層――さらには一部のプロレタリア層――における理論的・政治的反動の表現となり、党内におけるこの反動の反映物となった。とりわけ、永続革命にレーニンの「農民との同盟」路線を戯画化され歴史的に歪められた形で対置することは、1923年になって、この一般政治的反動と党内反動の時期とともに完全に隆盛となった。それは、この反動の最も明々白々な表現であり、「永続的」激動を伴う国際革命に対する官僚と所有者の組織的な反発の現われであり、秩序と平穏に対する小市民的・官僚的性向の現われであった。永続革命論に対する悪辣な迫害は、それはそれで、一国社会主義論、すなわち民族社会主義の最新版のために道を掃き清めるものであった。言うまでもなく、「トロツキズム」との闘争のこうした新しい社会的根源を指摘することは、それ自体としては、永続革命の成否について何ごとも語るものではない。しかし、この隠れた根源を理解することなしには、論争は不可避的にアカデミックで不毛な性格を帯びるだろう。
1905年革命の時期と結びついた古い諸問題は主として私の過去と関係づけられ、私の過去を攻撃するために人為的に利用されてきたが、この数年間、私は、あえて新しい課題から離れてこの古い問題に立ち返ることができないでいた。古い意見の相違を分析すること、とりわけ私の古い誤りを、その誤りを引き起こした当時の状況と結びつけて分析すること、しかも、政治的幼児に逆戻りした古い世代は言うまでもなく、若い世代に理解してもらえるような全面的な分析を行なうことは、一冊の著作の規模でしか可能ではない。しかし、絶えず巨大な重要性をもった新しい問題が次々と日程にのぼっているときに、このようなことに私自身と他人の時間を費やすのはとんでもないことだと思われた。ドイツ革命の課題、イギリスの今後の運命の問題、アメリカとヨーロッパの相互関係の問題、イギリス・プロレタリアートのストライキで先鋭化した諸問題、中国革命の課題、そして何よりも、わが国自身の経済的・社会的・政治的諸矛盾と諸課題――これらすべては、永続革命に関する歴史的・論争的著作を常に脇に置いてきたことを正当化するものだ思う。しかし、社会意識は真空を嫌う。昨今、この理論的真空はすでに述べたように反トロツキズムのガラクタで埋められている。エピゴーネン、御用哲学者、党内反動の手先たちはますます堕落して、愚劣なメンシェヴィキたるマルトゥイノフに教えを受け、レーニンを蹂躙し、泥沼の中でもがきまわり、そのいっさいをトロツキズムとの闘争だと称した。この数年間というもの、彼らは、公然とその名を呼んでも恥ずかしくないような何らかの真面目で真剣な著作、将来も維持しうるような何らかの政治的評価、後に実証されたような予測、われわれを思想的に前進させるような独自のスローガン、こういったものを何一つ与えなかった。あるのは、ガラクタとやっつけ仕事ばかりである。
スターリンの『レーニン主義の諸問題』はこうした思想的ガラクタの法典であり、浅知恵の公式教科書であり、俗悪さの集大成である(私はできるだけ穏便な規定を選ぼうと努力している)。ジノヴィエフの書いた『レーニン主義』は…ジノヴィエフ的レーニン主義であって、それ以上でも以下でもない。ジノヴィエフの原理はルターとほとんど同じである。ただし、ルターが「私はこの原理に立脚している。そうする以外にできないからだ」と述べたのに対し、ジノヴィエフはこう言う――「私はこの原理に立っているが、別の原理に立つことも可能である」。エピゴーネン主義のこの2つの産物を読むことは同じように耐えがたいものであるが、違いがあるとすれば、ジノヴィエフの『レーニン主義』を読むと、真綿で首を締められる感じがするが、スターリンの『レーニン主義の諸問題』を読むと、細かく刻んだ剛毛を喉に詰め込まれる感じがする、といった点ぐらいである。この2つの著作は、それぞれなりに、イデオロギー的反動の時代を反映するとともにその頂点をなすものでもある。
あらゆる問題を強引に「トロツキズム」に結びつけることによって――左右、上下、前後から――エピゴーネンはついには、世界のすべての事件を、1905年におけるトロツキーの永続革命論がいかなるものであったのかに直接間接に依拠させるに至った。偽造に満ちた「トロツキズムの伝説」は現代史の一要因となった。そして、この数年間における右翼=中間主義路線が世界のあらゆる場所で歴史的な破産をこうむって自己の権威を失墜させたとはいえ、それでも、コミンテルンにおける中間主義イデオロギーに対する闘争は今日ではもはや、1905年初頭に起源を有している古い論争と予測の問題に対する評価なしには考えられない、あるいは、それなしには少なくともはなはだ困難になっている。
党内におけるマルクス主義思想の復活、したがってレーニンの思想の復活は、エピゴーネンの3文文献を論争的火あぶりにかけ、機構の死刑執行人たちを理論的に容赦なく死刑に処さないことには考えられない。そのような本を書くのはけっして難しいことではない。その素材はすべて手元にそろっている。しかし、だからこそ、かえってこのような本を書くのは難しい。なぜかというと、偉大な皮肉屋サルトゥイコフの言葉を借りるならば、そのためには「言葉の悪臭」の世界に降りてゆき、しばらくのあいだは、このけっして芳しいとは言えない雰囲気の中にとどまらなければならないからである。しかし、この仕事は絶対に先送りできないものである。なぜなら、永続革命に対する闘争は、東方問題における、つまりは人類の過半数を占める領域の問題における日和見主義路線の擁護に直接もとづいているからである。
私がすでに、ロシアの古典文学者の著作を休憩時間用にとっておきつつ(潜水夫ですら、ときどきは息つぎのために水面に浮びあがらなければならない)、ジノヴィエフやスターリンとの理論闘争を遂行するというこのあまり魅力的でない仕事にとりかかっていたとき、思いがけなく、永続革命論とこの問題に関するレーニンの見解とを「より深く」対置させて論じたラデックの論文が流刑地で流布しはじめた。最初私はラデックの論文を無視して、運命のいたずらで私に用意された真綿と細かく刻まされた剛毛の混合物を甘受しようと思っていた。しかし多くの友人たちから手紙をもらい、とうとうラデックの論文を注意深く読まざるをえなくなった。そして私は次のような結論に達した。命令によってでなく自主的にものを考えることができ、マルクス主義を良心的に勉強したより狭い範囲の人々にとっては、ラデックの論文は公式文献よりも有害である、と。それはちょうど、政治における日和見主義が偽装されていればいるほど危険であり、あるいはそれを覆いかくしている人物の個人的評判が高ければ高いほど危険であるのと同じである。ラデックは私の最も親しい政治的友人の1人である。このことは最近における諸々の出来事によって十分に証明されている。しかしながら、この数ヵ月のあいだ、多くの同志がラデックの「進化」を不安の念をもって見ていた。ラデックは、反対派の最左翼からその右翼へと移行していったからである。ラデックの親しい友人であるわれわれはみな、彼の輝かしい政治的・文学的才能がそのはなはだしい衝動性や印象主義と結びついており、こうした資質は、他の同志たちとの共同活動という条件のもとではイニシアチブと批評との貴重な源泉をなすのであるが、孤立した状況の中ではまったく異なった結果をもたらしうることを知っている。ラデックの最近の論文からして、そしてそれ以前の彼の行動と結びつけて判断するならば、ラデックが羅針盤を失なったか、あるいはその羅針盤が強い磁気に影響されているとみなさざるをえない。ラデックの論文はけっして、過去へのエピソード的な回帰ではない。それは、十分に考えぬかれたものではないが、それだけになおさら、公式路線とそのあらゆる理論的神話を支持する有害な役割を果たしている。
「トロツキズム」に対する現在の闘争の政治的機能を以上のように特徴づけたからといって、思想的・政治的反動に対抗するマルクス主義的支点として形成された反対派それ自身の中で、内部批判、とりわけ私とレーニンとのかつての意見対立に対する批判が許されないというのではもちろんない。それどころか、そのような自己解明の仕事はただ有益なだけであろう。しかし、その場合には少なくとも、歴史的展望をなおさら慎重に保持し、過去の論争の原因を真剣に探求し、それを現在の闘争の光で照らして見ることが必要であろう。このようなことはラデックにはまったく見られない。ラデックは、たとえ自分ではそう気づいていないとしても、「トロツキズム」に対する闘争の一環にしっかり参加し、一面的に取捨選択された引用文を利用するだけでなく、それらの根本的に誤った公式の解釈をも利用している。公式のカンパニアから一線を画しているように見える部分もあるが、彼は非常に曖昧な形でそうしているので、実際には「公正な」証人としての2重の支持を与えているだけである。思想的退行の場合には常にそうなのだが、ラデックの最近の論文には、政治的洞察力や文学的技量の跡がまったく見られない。それは展望も奥行きも欠いており、引用文の寄せ集めであり、したがって実に平板な作品である。
それはいかなる政治的必要性から生まれたのか? それは中国革命の諸問題をめぐってラデックと反対派の圧倒的多数とのあいだに生じた意見の相違からである。たしかに、中国をめぐる意見対立は今では「アクチュアルではない」(プレオブラジェンスキー)という2、3の声がある。しかし、このような声は真剣な考慮に値しない。ボリシェヴィズムの全体は、1905年の経験を、それがまだ新鮮であるうちに批判し徹底的に考察しぬくことで成長し、最終的に形成されたのである。この経験はまだ、ボリシェヴィキの第一世代の直接の経験でもあった。プロレタリア革命家の新しい世代が、中国革命のまだ新鮮でまだ冷めておらず今だ血を流し続けている経験から学ばずして、いったいどうやって、他のどの事件から学ぶというのか? 血の通っていない衒学者のみが、中国革命の諸問題を後で「平穏な」状況下で暇な時間に研究するために、「先送り」することができるのである。このようなことはボリシェヴィキ=レーニン主義者にはまったくふさわしくない。なぜなら、東方諸国における革命は、まだまったく日程から除かれてはいないし、その「実施期間」は誰にもわからないからである。
中国革命の問題について誤った立場をとったラデックは、私とレーニンとの古い意見の相違を一面的かつ歪んだ形で持ち出すことによって、過去にさかのぼって自分の誤った立場を正当化しようとしている。そこでラデックは敵の武器庫から武器を借りてきて、不案内な水面を羅針盤なしで航行せざるをえないのである。
ラデックは私の友人であるが、真実の方が大切である。私は革命の問題に関するより一般的な著述を再び脇に置いて、ラデックに反論することを余儀なくされた。提起されている問題の量はあまりにも多く先鋭である。その際、私が克服しなければならない困難は3重である。ラデックの論文における誤りの多さと多種多様さ、ラデックに反駁するべき23年間(1905〜1928年)にわたる文献的・歴史的事実の豊富さ、最後に、私がこの仕事に割くことのできる時間の短さである。なぜなら、今やソ連邦の経済的諸問題が前景に押し出されつつあるからである。
以上の諸事情が本書の性格を規定している。それは問題のすべてを尽くしてはいない。その中で述べられていないことも多々あるが、それはすでに発表された諸文献、とくに『コミンテルン綱領草案批判』で論じられているからである。この問題に関して私が集めた事実資料の山は、執筆を計画しているエピゴーネン批判の書、すなわち反動期の公式イデオロギーに対する批判の書にとりかかるまで利用されないままであろう。
※ ※ ※
永続革命に関するラデックの著作は次のような結論で終わっている。
「党の新しい分派(反対派)は、プロレタリア革命をその同盟者――農民――から引き離す傾向を助長するという危険をはらんでいる」。
まずもって、このような結論が1928年の後半に、党の「新しい」分派に関する新しい結論として出されていることに驚かされる。われわれは1923年の秋以降たえまなくそういった議論を聞かされてきた。だが、ラデックは公式の主要テーゼへの転向をどのように根拠づけているのか? またしても目新しいものは何もない。1924〜25年に、ラデックは、永続革命論とレーニンの「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」というスローガンは、歴史的な地平で取り上げた場合、すなわち、われわれが経てきた3つの革命に照らしてみた場合、互いに対立するものではなくて、反対に、その基本点において符合するものであることを立証するパンフレットを一度ならず書くことを計画していた。ところが、今では彼は――同志の1人に彼自身が書いているところによると――問題を「改めて」徹底的に検討しなおしてみて、古い永続革命論がまさに農民からの離反という危険でもって党の「新しい」分派を脅しているという結論に達したというのである。
しかし、ラデックはいかにしてこの問題を「徹底的に検討」したのであろうか? この点に関して彼は若干の情報を与えている。
「トロツキーが自分の定式を与えた1905年のマルクスの『フランスにおける内乱』への序文および同じ1905年の『われわれの革命』は、われわれの手元にはない」。
ここで挙げられている年代はまったく正確なものではないが、それはとりたてて論じるほどの価値もないことである。重要なのは、当時私が革命の発展について多少とも系統的に自分の見解を述べたのが、まさにこの『われわれの革命』に収められている大部の論文「総括と展望」(『われわれの革命』、ペテルブルク、1906年、224〜286頁)(3)においてであったということである。ラデックが唯一言及している(ただし彼はそれを、悲しいかな、カーメネフ式に解釈しているのだが)、ローザ・ルクセンブルクとトゥイシコ
〔ヨギヘス〕のポーランド党の機関紙に掲載された私の論文(「われわれの意見の相違」(4)、1909年)は、けっして全面的なものでも完成されたものでもない。理論的には、この論文は前述した著作『われわれの革命』にもとづいている。今この本を読む義務は誰にもないだろう。その時以来、実に多くの事件が起こり、われわれはそこから十分多くのことを学んだのだから、新しい歴史的諸問題をすでにわれわれによって成しとげられた革命の生きた経験に照らしてではなく、主として将来の革命についてのわれわれの予見に関する引用文に照らして考えるというエピゴーネンのやり方には、まったくうんざりである。もちろんこう言ったからといって、歴史文献的側面からも問題にアプローチする権利をラデックから奪おうというわけではない。だが、その場合には、しかるべきやり方でそうしなければならない。ラデックは、ほとんど4半世紀にも及ぶ長期間にわたる永続革命論の運命を明らかにしようとしているというのに、この理論が書き記されたその当の文献が「手元にない」と、こともなげに言うのである。ここで指摘しておくと――レーニンの古い著作を読みかえして改めてはっきりとしたことだが――レーニンは前述の基本文献を読んだことがなかった。その理由はおそらく『われわれの革命』が1906年に出版されるやただちに押収され、われわれ全員がすぐに亡命したためばかりでなく、この本の3分の2が既発表論文の再録であったことにもあるだろう。私は後になって多くの同志たちから、この本全体が古い論文の再録だと思ったので読まなかったと聞かされた。いずれにせよ、永続革命論に対するレーニンの散発的でごくわずかな数の批判は、私の小冊子『1月9日以前』(5)に対する
パルヴスの序文(6)と私のまったく知らなかった「ツァーリではなく労働者政府を」というパルヴスの宣伝ビラ(7)、さらに党内におけるブハーリンらとの論争にもとづいていた。レーニンはいついかなるところでも、――たとえことのついでであれ――「総括と展望」を批判したり引用したりしていない。明らかに私には当てはまらないような永続革命批判をレーニンが行なっていることも、レーニンがこの本を読んでいなかったことをはっきりと物語っている※。※原注 たしかに、1909年にレーニンは、マルトフとの論争に当てられた論文の中で「総括と展望」を引用している(8)。しかし、この引用が孫引きであり、同じマルトフ論文からのものであることを示すのは難しくない。まさにこのことから、私に対する彼の批判のいくつかが明らかな誤解にもとづくものであったことが説明される。
1919年に、ソヴィエトの国立出版所は、私の「総括と展望」を単独のパンフレットとして出版した。ほぼこれと同じ時期に、永続革命論は10月革命後の「今日」とくに注目に値するという趣旨のレーニン全集の注解が出された。レーニンは、1919年に私の『総括と展望』を読むか、あるいは少なくともざっとでも目を通したのだろうか? これについては、たしかなことは言えない。私自身、そのころいつも各地に遠征しており、短期間の滞在のためにしかモスクワに戻らなかったし、レーニンとの会談では――当時は内戦のさなかであった――過去の分派的な理論的いきさつのことなど、どちらの脳裏にも浮かばなかった。しかし、A・A・ヨッフェは、まさにこの時期に、永続革命論についてレーニンと話しあった。ヨッフェは、死の直前に私に宛てた遺書の中で、この会話のことを記している(参照、『わが生涯』第2巻、グラニート社、284頁(9))。A・A・ヨッフェの回想は、レーニンが1919年に初めて「総括と展望」を知り、その中に含まれている歴史的予測の正しさを認めたというように解釈することができるのではなかろうか? この点に関しては、私はただ心理的推測をなしうるだけである。この推測の説得性は、この係争問題それ自体の本質的評価にかかっている。レーニンが私の予測の正しさを認めたというA・A・ヨッフェの言葉は、昨今の理論的まがいものによって育てられた人々には理解しがたいものに見えるにちがいない。他方、革命そのものの発展と結びついたレーニンの思想の真の発展を踏まえる人なら誰でも、1919年にレーニンが、10月革命前のいろいろな時期に彼が断片的に、ことのついでに、しばしば明らかに矛盾した形で、個々の引用文にもとづいて、そして全体としての私の立場を一度として考察することもなく表明していたのとは異なる、永続革命論に対する新しい評価を下したにちがいないし、そうでないわけがないと理解することだろう。
1919年に私の予測の正しさを認めるのに、レーニンは私の見地と自分の見地とを対立させる必要はなかった。両方の見地を歴史的発展の中で考察すれば十分であった。レーニンが「民主主義独裁」という自らの定式につねに与えていた具体的内容――そしてそれは、この仮説的定式から自動的に生まれたものではなく、当時の階級的諸関係の現実的変化の分析から生まれたのだが――、この戦術的・組織的内容が、革命的リアリズムの古典的実例として歴史の財産目録に永遠に収められていることを、ここで繰り返す必要はないだろう。私が戦術的・組織的な面でレーニンと対立したすべての場合、少なくともその最も重要な場合には、正しかったのはレーニンの側であった。まさにそれゆえ私は、問題が単なる歴史的回顧であるかぎり、自分の古い歴史的予測にわざわざ立ち返ることに何の興味も感じないのである。私がこの問題に立ち返ることを余儀なくされたのは、永続革命論に対するエピゴーネンの批判が、インターナショナル全体の理論的反動の温床となっただけでなく、中国革命の直接的サボタージュの手段に転化しはじめたからである。
※ ※ ※
しかしながら、これがまさにレーニンの「レーニン主義」の内容であると考えるとすれば、軽率のそしりを免れないだろう。だが、ラデックはそう考えているようである。いずれにせよ、ここで私が検討しなければならないラデックの論文からうかがえることは、私の基本的な諸著作が彼の「手元にない」だけでなく、どうやらそれらを読んだことさえなかったということである。たとえ読んでいたとしても、それはずっと以前、10月革命前のことであろう。いずれにせよ彼はほとんど覚えていないのである。
しかし問題はそれにとどまらない。たしかに、1905年や1909年には、当時話題となっていた個々の論文をめぐってお互いに論争したり、あるいは個々の論文の個々の文言をめぐってさえ論争することも、とくに当時の分裂状況にあっては、許容されうるだろうし、また一定不可避でさえあったろう。しかし、今日、革命的マルクス主義者が大きな歴史的時期を後から振り返って考察しようと思うのならば、「議論となっている当時の種々の定式がどのように実践に適用されたのか? それらが行動の中でどのように屈折させられ、またどのように解釈されたか? 戦術はいかなるものであったのか?」という問題を自らの前に提起しなければならないはずである。もしラデックが、2巻本の『わが第一革命』(私の著作集の第2巻)だけでも目をとおす労をとっていたならば、彼はこの論文を書く勇気を持たなかったであろうし、いずれにせよ、彼の多くの勝手気ままな主張をまるごと削除したことであろう。少なくとも私はそうであることを望む。
たとえば、この2巻本からラデックは何よりも、私の政治的活動において、永続革命が革命の民主主義的段階、あるいはその部分的な諸段階を飛び越すことをけっして意味するものではなかったということを知ったであろう。そして、私が1905年のあいだずっとロシアに非合法に滞在し、亡命者たちとの結びつきもなかったにもかかわらず、革命のあいつぐ諸段階における課題をレーニンと完全に一致した形で定式化していたことを確信することができただろう。さらに、1905年にボリシェヴィキの中央印刷局によって発行された農民への重要な訴え(10)が私によって書かれたものであること、レーニンの編集になる『ノーヴァヤ・ジーズニ』がその編集部論文の中で、『ナチャーロ』に発表された永続革命に関する私の論文(11)を断固として支持したこと、レーニンの『ノーヴァヤ・ジーズニ』、および時にはレーニン自身も、私が起草した代表ソヴィエトの政治的諸決議を常に支持し擁護したこと、またソヴィエトの会議の10分の9が私を報告者としていたこと、12月の壊滅の後、私が獄中で憲法制定議会をめぐる戦術パンフレット(12)を執筆し、その中で、プロレタリアートの攻勢と農民の土地革命との結合を中心的な戦略問題とみなしていたこと、レーニンがこのパンフレットをボリシェヴィキの出版社「ノーヴァヤ・ヴォルナ(新しい波)」から出版してくれ、ボリシェヴィキのクヌニャンツを通じて同パンフレットへの熱烈な賛意を伝えてきたこと、レーニンが1907年のロンドン党大会において農民と自由主義ブルジョアジーに対する見方に関して私の立場とボリシェヴィズムとの「一致」について述べていること、等を知ったであろう。ラデックにとってはこのようなことはすべて存在しない。おそらく彼の「手元に」はなかったのだろう。
では、レーニン自身の諸文献はラデックによってどのように扱われているだろうか? あまりましなものではない。ラデックが利用した引用文は、たしかにレーニンが私に矛先を向けて書いたものではあるが、その多くは実際には私ではなく他の人々(たとえばブハーリンやラデック。この点に関してはラデックの論文の中で率直に指摘されている)のことを念頭に置いて書いているものであった。ラデックは私を攻撃するのに利用できる新しい引用を何一つ持ち出すことができなかった。彼はただソ連のどの市民でもすでに「手元に」もっている出来合いの引用文を利用しているにすぎない。ラデックはそれにつけ加えているのはせいぜい、レーニンがブルジョア共和国と社会主義との相違に関する初歩的な真理をアナーキストやエスエルに説いている若干の引用文だけであり、それがあたかも私を批判しているものであるかのように見せかけているのである。信じがたいことではあるが、実際にそうなのだ!
その一方でラデックは、革命の基本問題における私とボリシェヴィズムとの一致を、きわめて慎重かつ控え目に、だがそれだけにいっそう大きな重みをもって確認しているレーニンの過去の一連の発言を完全に無視している。一瞬たりとも忘れてはならないのは、レーニンがこのような発言をした時には、私はまだボリシェヴィキ分派に属していなかったということ、そしてレーニンが私を仮借なく(そしてまったく正当に)攻撃したのは、私の永続革命論のゆえではなく――この問題についてはエピソード的な批判をするにとどまった――私の調停主義のゆえであり、私がメンシェヴィキの左傾化の可能性を安直に期待したことに対してであった、ということである。もっともレーニンは「調停派」トロツキーに対する論争上の攻撃を「正当化」するよりもはるかに、調停主義そのものに対する闘争の方に心を奪われていたのだが。
1917年におけるジノヴィエフの行動を弁護するために、1924年にスターリンは次のように書いている。
「同志トロツキーはレーニンの手紙(ジノヴィエフに関する手紙のこと――トロツキー)を、その意味、その使命を理解していない。レーニンは手紙の中でわざと先回りをして、犯されるかもしれない誤りを前景に押し出し、党が誤らないように予防するか、あるいは誤りに対する保険をかける目的で、前もって批判するということがしばしばある。あるいは、同じような教育的な目的のために、『ささいなこと』を大きく言い、『蝿を象のように』言うことがしばしばある。……レーニンのこのような手紙から、『悲劇的な』意見の相違を結論づけ、それを触れまわることは、レーニンの手紙を理解せず、レーニンを知らないことである」(I・スターリン「トロツキズムかレーニン主義か」、1924年)(13)。
ここで示されている思想の定式の仕方は拙劣であるが――「文は人なり」だ――、その思想の基本は正当である。ただし、「蝿」には似ても似つかない10月における意見対立には最もあてはまらないものではあるが。だが、もしレーニンが自分自身の分派の最も近しい人々に対して「教育的な」誇張を行ない、予防措置をとるのが常であったとしたら、当時ボリシェヴィキ分派の外にあって調停主義を唱えていた者に対してはなおさらであったにちがいない。古い引用文を利用する際にはこのような最低限の修正係数を導入する必要があるということは、ラデックの思いもよらないことだった。
私は自分の著作『1905年』の1922年版序文(14)の中で、プロレタリアートの独裁がロシアにおいて先進諸国よりも早く達成されうるとの予見が12年後に実証されたと書いたが、ラデックは、大して魅力的でもないスタイルで、あたかも私がこの予測をレーニンの戦略路線に対置したかのように描き出している。しかしながら、この「序文」からまったく明らかなのは、私がこの予測を、ボリシェヴィズムの戦略路線と一致している永続革命論の基本的特徴から引き出していることである。私は注の1つで1917年始めの党の「再武装」について述べたが(15)、それはレーニンが党のこれまでの道のりを「誤っている」と認めたという意味ではなく、レーニンが、革命にとって幸いなことに、スターリン、カーメネフ、ルイコフ、モロトフその他の輩が依然としてしがみついていた「民主主義独裁」という時代遅れのスローガンを放棄するよう党を教育するために、遅れはしたが、それでも十分間に合うようにロシアへ帰ってきたという意味においてである。「再武装」という指摘にカーメネフらが怒ったのはわかる。というのも、それは彼らに矛先を向けたものだったからだ。ではラデックは? 彼は1928年に、すなわち、彼自身が中国共産党の必要不可欠な「再武装」に反対しはじめてからようやく怒りはじめたのである。
ラデックに指摘しておくが、私の著作『1905年』(問題の「序文」を含む)と『10月革命』(16)は、レーニン時代には、両革命の基本的な歴史教科書としての役割を果たした。当時、両著作はロシア語でも外国語でも何度も版を重ねて出版された。しかし、これらの本が2つの路線の対置を含んでいると私に告げたものは誰もいなかった。なぜなら、エピゴーネンによる修正主義的な「道標転換」の以前には、まっとうな思考の持ち主である党員はみな、10月の経験を古い引用文に従属させるのではなく、古い引用文を10月革命に照して考えていたからである。
これと関連してラデックが許しがたいやり方で悪用している点がもう一つある。トロツキー自身が自分よりもレーニンの方が正しかったと認めていると彼が繰り返していることである。たしかに私はそう認めた。そしてその際、いささかの外交辞令もなかった。しかし、私が念頭に置いていたのは、レーニンの歴史的歩みの全体、彼の理論的立場の全体、彼の戦略、彼の党建設のことである。しかし、このことは言うまでもなく、個々の論争的な引用文のいずれとも無関係であるし、しかもこれらの引用文は今日、レーニン主義に反する目的のために悪用されている。ラデックは、ジノヴィエフとブロックを組んでいた1926年当時、私に次のように忠告した。私に対するジノヴィエフの誤りを多少なりともごまかせるよう、私が自分よりもレーニンの方が正しかったと言明することが必要だと。もちろん、この点は私にも十分理解できた。まさにそれゆえ、私はコミンテルンの第7回拡大執行委員会総会において、レーニンとその党が歴史的に正しかったと述べたのだが(17)、このことは、レーニンから人為的にとってきた引用文で自らの誤りをごまかそうとしている現在のトロツキー批判者たちが正しいことにはけっしてならない。今日、不幸にして私はこの言葉をラデックに向かって言わざるをえない。
永続革命論については私はただこの理論の個々の欠陥について語っただけであり、しかもそのような欠陥は将来の予測が問題になっているかぎり避けられないものであった。コミンテルンの第7回総会でブハーリンが、トロツキーは永続革命の概念を全体として放棄していないと強調したが、これは正しい。この「欠陥」については、別のもっと長大な論文で取り上げよう。その際には、3つの革命の経験と、その後のコミンテルンの路線、とくに東方における路線に対するそれらの経験の適用について系統的に論じるよう努めるだろう。しかし、いかなる曖昧さも残さないよう、ここでも以下のことを簡単に述べておく。さまざまな欠陥はあったにせよ、永続革命論は、私の最も初期の諸論文――とくに「総括と展望」(1906年)――においてさえ、現在のスターリン主義者やブハーリン主義者の後知恵だけでなくラデックの最新の論文と比べてさえ、はるかにマルクス主義の精神に貫かれており、したがってまたレーニンとボリシェヴィキ党の歴史的路線にはるかに近いのである。
しかし、こう言ったからといって私はけっして、永続革命の概念が私のすべての論文で単一の不動の路線を構成していると言いたいのではまったくない。私は古い引用文の収集に取り組んだのではなく――もっとも今では党内反動とエピゴーネン主義の時代のせいでそうすることを余儀なくされているが――、良きにつけ悪しきにつけ実生活の現実の過程を評価しようとしたのである。12年間(1905〜1917年)におよぶ私の革命的文筆活動の中では、エピソード的で一時的な状況が不釣合いに強調されていたり、闘争には不可避的なエピソード的・論争的な誇張が、戦略的路線に反する形で前景に押し出されていたりするような論文もある。たとえば、一つの階層としての農民全体が将来、革命的役割を果たすことに対して疑問を表明し、そのことと結びついて、そしてとりわけ帝国主義戦争の時期には将来のロシア革命を「国民革命」と呼ぶのを拒否した論文もある(18)。このような名称が曖昧であると感じたからである。しかし、ここで忘れてはならないのは、問題となっている歴史的過程――農民内部における過程を含めて――は、それがとっくに完結された現在から見れば、それが発展しはじめたばかりの当時よりもはるかに明瞭なものになっているということである。さらに指摘するならば、レーニンは、農民問題を一貫してその巨大な歴史的規模で考察し、われわれも彼からこのことを学んだのであるが、その彼が、2月革命後においてすら、農民をブルジョアジーから引き離してプロレタリアートの指導下に置くことができるかどうか不明確だったことである。そもそも私を激しく批判する人々に対して言えることは、4半世紀にわたる他人の新聞論文の形式的矛盾を一時間で探し出すことのほうが、1年間だけでも自己の基本路線の首尾一貫性を保つことよりはるかに容易だということである。
この導入的章でなお言及しておく必要があるのは、いつもの常套的な言い分だけである。もし永続革命論が正しかったのなら――とラデックは言う――、トロツキーはこれにもとづいて大分派をつくことができたはずだ。ところがそうはならなかった。したがって…永続革命論は誤っている、と。
ラデックの論拠を一般的な形態で取り上げるなら、そこには弁証法のかけらも含まれていない。このような論法をもってすれば、中国革命に関する反対派の見地も、イギリス問題に対するマルクスの立場も誤っていたことになろう。さらにアメリカやオーストリアの修正主義者に対するコミンテルンの立場も、そう言いたければ、すべての後進諸国におけるコミンテルンの立場も誤っている、ということになろう。
ラデックの議論をその一般的な「歴史哲学的」形態で取り上げるのではなく、ただわれわれがいま論じている問題にのみ適用するなら、それはむしろラデック自身に打撃を与えるものとなる。もし永続革命の路線がボリシェヴィズムの路線と矛盾しそれと対立しており、ますますそこから遠ざかってゆくと私が考えているとしたら、あるいはもっと重要なことに、現実の事態がそのことを実証したとしたら、ラデックの議論も何らかの意味を持っただろう。その場合にのみ2つの分派の存立根拠があるだろう。まさにこれこそラデックが証明したいと思っていることである。ところが、私が証明しようとしているのは、それとは反対に、問題のあらゆる分派的な論争的誇張とエピソード的な先鋭化にもかかわらず、両者の基本的な戦略的路線が同一であったということである。いったいどこから第2分派が生じるというのか? 実際、私は第一革命においてボリシェヴィキと手に手をとって活動し、その後、国際紙でメンシェヴィキの変節的批判からこの共同活動を擁護している。1917年の革命で私はレーニンとともに、今日の反動期に永続革命論の迫害に血道をあげているまさにあの「古参ボリシェヴィキ」の民主主義的日和見主義と闘った。
最後に、私はけっして永続革命論にもとづいて分派をつくろうとしたことは一度としてない。党内での私の立場は調停主義であって、一時期グループを結成しようとしたが、それはまさにこの立場を基盤にしてであった。私の調停主義は一種の社会革命的運命論からきていた。私は階級闘争の論理が両分派をして同じ革命路線をとることを余儀なくさせるだろうと考えていた。真のプロレタリア政党の中核を結集し鍛えるために断固として思想的境界線を引き、必要とあらば分裂も辞さないというレーニンの政策の偉大な歴史的意義を、当時の私はまだ理解していなかった。1911年にレーニンはこの点について次のように書いている。
「調停主義は、1908年〜1911年の反革命期に、ロシア社会民主労働党のまえに提起された歴史的課題の本質そのものと不可分に結びついた気分や志向や見解の総体である。だからこの時期に多くの社会民主主義者は、種々のまったく異なった諸前提から出発しつつも、調停主義に陥った。誰よりも一貫してこの調停主義を表現したのはトロツキーであって、彼はこの傾向に理論的土台を据えようと試みたほとんど唯一の人物である」(第11巻第2分冊、371頁)(19)。
何としてでも統一を達成しようとして、私は無意識的に、また不可避的に、メンシェヴィズムにおける中間主義的傾向を理想化せざるをえなかった。そのきわめて短命に終わったエピソード的な企てにもかかわらず、私はメンシェヴィキとのいかなる共同活動にも入らなかったし、そうすることもできなかった。しかし、それと同時に調停主義的路線はますます私をボリシェヴィズムに厳しく対立させた。なぜならば、メンシェヴィキとは対照的にレーニンは調停主義に容赦のない打撃を与えたし、そうしないわけにはいかなかったからである。調停主義の政綱にもとづいては、言うまでもなく、いかなる分派もつくりえない。
ここから引き出すべき教訓はこうだ。俗悪な調停主義のために政治路線を曲げたり弱めたりすることは許されないし破滅的である。左へのジグザグをともなう中間主義路線を糊塗することは許すべからざることである。左右に迷走する中間主義を追って真の革命的同意見者たちとの意見の相違を誇張したり煽ったりすることは許すべからざることである。以上がトロツキーの誤りから引き出すべき真の教訓である。この教訓は非常に重要である。そして、この教訓を十分に噛みしめなければならないのはラデックその人である。
※ ※ ※
かつてスターリンは、いかにも彼らしい思想的シニシズムをもって次のように述べたことがある。
「レーニンが、生涯の最後の時まで永続革命論に対して闘ったことをトロツキーが知らないはずがない。しかし、このことはトロツキーを困惑させなかった」(『プラウダ』第262号、1926年11月12日)(20)。
これは現実を粗暴かつ不実に、つまりはまったくスターリン的に戯画化したものである。レーニンは、外国の共産党に向けた演説の一つで次のように述べている。共産主義者のあいだの意見の相違は社会民主主義者との意見の相違とはまったく違ったものである。ボリシェヴィズムはそのような意見の相違を以前にも経験している。しかし、「……権力を獲得しソヴィエト共和国を創設した際には、ボリシェヴィズムは一致団結し、自らに最も近い社会主義的思想潮流の最良のものを引き入れた」(第16巻、333頁)(21)。
こう書いた時に、レーニンが「最も近い社会主義的思想潮流」として念頭に置いていたのは誰であったのだろうか? マルトゥイノフか、クーシネンか? それともカシャンやテールマンやシュメラルか? これらの人々がはたしてレーニンに「最も近い思想的潮流の最良のもの」に映ったであろうか? 農民問題を含むすべての根本問題において私に代表されていた潮流以上にボリシェヴィズムに近い潮流があっただろうか? ローザ・ルクセンブルクですら最初の頃はボリシェヴィキ政府の農業政策から飛びのいたのである。しかし、私にとってはそもそもそこに何の問題もなかった。レーニンが鉛筆を手に農業法案を書いていた時、私は同じテーブルについていたのである。その際の意見交換は短いやり取りを10回程度行なっただけであって、その趣旨は次のようなものであった。この措置は矛盾したものだが、歴史的に絶対避けられないものである。プロレタリア独裁の体制のもとに、国際革命のレベルでこの矛盾は調整することができる。必要なのは時間だけである。もし農民問題において永続革命論とレーニンの弁証法とのあいだに致命的な矛盾があったとすれば、ラデックは次のような事実をどう説明するのか? 私が、革命の発展の歩みに関する自らの基本的見解を放棄することなく、かつ、1917年の農業問題において、当時のボリシェヴィキ指導者の大部分が見せたような動揺をまったく示さなかったという事実である。2月革命後、反トロツキズムの現在の理論家・政治家たち――ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリン、ルイコフ、モロトフ等々、等々――が1人残らず俗流民主主義的立場をとって、プロレタリア的な立場をとらなかった事実をラデックはどう説明するのか? そしてもう一つ、レーニンがボリシェヴィズムに最も近いマルクス主義的潮流の最良分子がボリシェヴィズムに合流したと指摘した時、いったいレーニンは誰のことを言い、何のことを言ったのであろうか? また、過去の意見の相違に関するレーニンのこの総括的な評価は、いずれにせよ彼が非和解的な2つの戦略路線が存在しているとみなしていなかったことを示すものではないのか?
この点に関してさらに注目すべきなのは、1917年11月1日(14日)のペトログラード委員会の席上におけるレーニンの演説である※。この会合ではメンシェヴィキおよびエスエルとの協定の問題が討議された。当時、連立政府を支持した者たちは、この場でさえ――たしかにきわめて遠慮がちにではあるが――「トロツキズム」を云々した。レーニンはどのように答えたか?
※原注 周知のように、この歴史的会議の長大な速記録は、スターリンの特別の命令によって記念論文集から取り除かれ、今日にいたるまで党から隠蔽されている。
「……協定? 私はそれについて真面目に語ることさえできない。トロツキーはとっくに統一は不可能であると言った。トロツキーはこのことを理解した。そしてそれ以来、彼より優れたボリシェヴィキはいなかった」(22)。
レーニンの見解によれば、私をボリシェヴィズムから引き離したものは永続革命論ではなくて調停主義であった。「最も優れたボリシェヴィキ」になるために私に必要だったのは、ただメンシェヴィズムとの協定の不可能性を理解することだけであった。
しかし、まさに永続革命の問題に関するラデックの立場の突然の転換をどのように説明するべきなのか? その説明の一つになると思われるのはこうである。彼の論文からわかるように、1916年にはラデックは永続革命論に同意していたが、それはブハーリン的解釈においてであった。ブハーリンによれば、ロシアにおけるブルジョア革命は終わった――ブルジョアジーの革命的役割、また民主主義独裁のスローガンの歴史的役割が終わっただけでなく、ブルジョア革命そのものが終わった――のであり、したがってプロレタリアートは純粋に社会主義の旗のもとに権力の獲得に向かって前進しなければならないというのであった。明らかにラデックは、当時の私の立場をブハーリン的に解釈していた。そうでなければ、私とブハーリンの両者と同時に同意することなどできなかったであろう。このことは、他方で、なぜレーニンがいっしょに活動していたブハーリンやラデックと論争したときに、彼らをトロツキーの偽名とみなしたのかを説明している(ラデックはこのことを論文の中で認めている)。思い出すが、当時、ブハーリンと同じ立場をとっていて、見事な腕前でマルクス主義的粉飾を施した歴史的図式を飽くことなく構築していたM・N・ポクロフスキーがこの問題についてパリで語り合った時に、彼もまた私との実に疑わしい「意見の一致」を表明したが、それを聞いて困惑を覚えものだ。政治に関しては、ポクロフスキーは単なる反カデットであったし、依然としてそうであるが、彼はそれをボリシェヴィズムだと心から思い込んでいる。
1924〜25年にはラデックはまだ、1916年におけるブハーリンの立場を私の立場と同一視しながら、その思想的思い出に囚われていたようだ。レーニンの著作をざっと研究した結果――当然のことだが――この立場の見込みのなさに幻滅を感じたラデックは、このような場合にはよくあるように、私の頭上で180度旋回したのだ。
以上の説明は大いにありうるものであると思われる。というのも、それは実に典型的な右転換のパターンだからである。たとえば、ブハーリンは1923〜25年に完全に引っ繰り返った、すなわち極左から日和見主義者へと転換したが、その後彼は絶えず自分の過去を私になすりつけて、それを「トロツキズム」だと称した。反トロツキー・カンパニアが始まった最初の頃、私はまだ時おりブハーリンの論文を読まざるをえなかったのだが、その際、「いったい彼はこのようなものをどこから仕入れてくるのか」とよく自問したものだ。しかしやがて、実はブハーリンが昨日の自分の日記帳を見て言っているのだと気づいた。そしてラデックが永続革命のパウロからそのサウル(23)へ改宗した裏には、これと同じ心理的真相があるのではないかと推測している。この仮説に固執しようとは思わないが、他に説明が見当たらないのである。
いずれにせよ、フランスの慣用句によれば、「酒ビンを開けたら最後まで飲み干すべし」
〔「毒を食らわば皿まで」〕だ。われわれは古い引用文の世界に長期遠征することを余儀なくされている。私はその数をできるだけ少なくしたが、それでもなお多い。そのせいで古い引用文を詳細に検討することを余儀なくされているが、それでも常に、現代の差し迫った諸問題へとつながる糸をたぐろうと努力している。これがせめてもの弁明理由にならんことを望みたい。訳注
(1)レーニン「1917年2月17日付けコロンタイへの手紙」、邦訳『レーニン全集』第35巻、303頁。この手紙の中でレーニンは、トロツキーがニューヨークの『ノーヴィ・ミール』紙でトロツキーが右派とブロックを結んだというコロンタイの偽情報を信じて、トロツキーを口汚く罵っている。
(2)同じ手紙の中でレーニンは「ブハーリンはカウツキーよりはるかにましですが、しかしブハーリンの誤りはカウツキー主義と闘う上でこの『正しい仕事』を損なう恐れがあります」と述べている(同前、304頁)。
(3)トロツキー「
総括と展望――革命とその推進力」、『わが第一革命』、現代思潮社、所収。(4)トロツキー「われわれの意見の相違――1905年、反動、革命の展望」、前掲『わが第一革命』所収。
(5)トロツキー「1月9日以前」、前掲『わが第一革命』所収。
(6)パルヴス「トロツキー『1月9日以前』序文」、トロツキー研究所『ニューズ・レター』第42号所収。
(7)パルヴス「
ツァーリではなく労働者政府を」、トロツキー研究所『ニューズ・レター』第13号所収。(8)レーニン「わが革命におけるプロレタリアートの闘争目標」、邦訳『レーニン全集』第15巻、357〜361頁。
(9)トロツキー『わが生涯』下、岩波文庫、450頁。
(10)トロツキー「農民たち、われわれの言葉を諸君に!」、前掲『わが第一革命』所収。
(11)トロツキー「社会民主党と革命」、前掲『わが第一革命』所収。
(12)この戦術パンフレットには次の2つの論文が収録されていた。「憲法制定議会のための闘争におけるわれわれの戦術」と「
革命とその力」。前者は、前掲『わが第一革命』に邦訳が収録され、後者は『トロツキー研究』第47号に収録。(13)スターリン「トロツキー主義かレーニン主義か」、邦訳『スターリン全集』第6巻、大月書店、354〜355頁。
(14)トロツキー「ロシア語初版への序文」、『1905年』、現代思潮社、所収。
(15)前掲『わが第一革命』の476頁にこの注が訳出されている。
(16)トロツキー『ロシア革命――「10月」からブレスと講和まで』、柘植書房。
(17)トロツキー「コミンテルン第7回拡大執行委員会総会における演説」、『社会主義へか資本主義へか』、大村書店、118〜119頁。
(18)トロツキー「
根本問題――権力のための闘争」。(19)レーニン「調停主義者、すなわち道徳的な人々の新しい分派について」、邦訳『レーニン全集』第17巻、263頁。
(20)スターリン「『わが党内の社会民主主義的偏向について』の報告の結語」、邦訳『スターリン全集』第8巻、380頁。
(21)レーニン「イタリア、フランス、ドイツの共産主義者へのあいさつ」、邦訳『レーニン全集』第30巻、44頁。
(22)レーニン「ボリシェヴィキ・ペテルブルク委員会における演説」、『トロツキー研究』第32・33号、182頁。
(23)サウル……旧約聖書で、イスラエル最初の王。ペリシテ人と数度闘い勝つが、ユダヤ族出身の部下ダビデの名声をねたみ殺そうとする。
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