第9章 社会主義労働者党(SAP)
社会主義労働者党を「社会ファシスト」政党ないし「反革命」政党と呼ぶことができるのは、何でも許されていると考えているいきり立った官僚か、意味もわからずに罵詈雑言を繰り返す愚かなオウムだけである。しかし、社会民主主義から決別しながら、依然として改良主義と共産主義の中間にいて、共産主義よりは改良主義に近い指導部をもった組織に信任を与えるのは、許しがたい軽率さと安っぽい楽観主義でしかない。この問題においても、左翼反対派は、ウルバーンスの政策にいかなる責任も負っていない。
社会主義労働者党は綱領を持っていない。重要なのは形式的文書ではない。綱領が強力であるのは、その内容が党の革命的経験と闘争の教訓に緊密に結びつき、それがカードルの血肉と化している場合にのみである。このようなものは、社会主義労働者党にはまったくない。ロシア革命、そのいくつかの諸段階と分派闘争。1923年のドイツ危機。ブルガリアの内戦。中国革命の諸事件。イギリス・プロレタリアートの闘争(1926年)。スペインの革命的危機――これらすべての事件は、革命家の意識の中で、政治的道程における鮮やかな道標となるべきなのに、社会主義労働者党の指導者にとっては、新聞紙上でのおぼろげな記憶でしかなく、血肉化された革命的経験とはなっていない。
労働者政党が統一戦線政策を遂行しなければならないのは、議論の余地がない。しかし、統一戦線政策にもそれ自身の危険がある。この政策を成功裏に遂行しうるのは、鍛えぬかれた革命政党だけである。いずれにせよ、統一戦線政策は、革命政党の綱領たりえない。ところが、社会主義労働者党のあらゆる行動はこの政策の上に打ち立てられている。その結果、統一戦線政策が党の内部に持ち込まれている。すなわち、さまざまな潮流のあいだに存在する矛盾をうやむやにするのに利用されている。そしてこれこそが、中間主義の基本的機能なのである。
社会主義労働者党の日刊紙には中途半端の精神が充満している。シュトレーベル(1)が去ったにもかかわらず、同紙は依然として半平和主義であって、マルクス主義的ではない。いくつかの革命的論文は、その相貌を変えるよりは、逆にそれをいっそうきわだたせている。同紙は、ジャーナリストのキュスターが軍国主義についてブリューニングに送った、無味乾燥で徹頭徹尾小ブルジョア的精神の手紙に有頂天になった。また、デンマーク国王の元大臣である「社会主義者」が、あまりに屈辱的な条件で政府代表団に参加するように言われたとき、それを拒否したことに対して、拍手喝采を送った。中間主義はわずかなことで満足する。しかし、革命は多くのものを要求する。革命は、すべてを、まるごと要求する。
社会主義労働者党は、ドイツ共産党の労働組合政策、すなわち、労働組合の分裂と革命的労働組合反対派(RGO)(2)の結成を批判している。疑いもなく、ドイツ共産党の政策は、労働組合の分野に関しても深刻に誤っている。ロゾフスキー(3)の指導は、国際プロレタリアートの前衛にとって高くついている。しかし、社会主義労働者党の批判もそれに劣らず誤っている。問題はけっして、共産党がプロレタリアートの隊列を「分裂させ」、社会民主主義的労働組合を「弱めている」ことなのではない。これは革命的基準ではない。なぜなら、現在の指導部のもとでの労働組合は、労働者にではなく、資本に奉仕しているからである。共産党の犯罪は、党がライパルトの組織を「弱めている」ことにあるのではなく、自らを弱めていることにある。共産主義者が反動的労働組合に参加しなければならないのは、統一という抽象的原則にもとづいているのではなく、組合から資本の手先を一掃する闘争の必要性にもとづいている。社会主義労働者党においては、この積極的で革命的で攻勢的な政策要素は、資本の手先によって指導されている組合の統一という抽象的原則の前に席を譲っている。
社会主義労働者党は、共産党が一揆主義的傾向を持っていると非難している。この非難も、いくつかの事実や方法にもとづいている。しかし、このような非難を提起することができるためには、まずもって社会主義労働者党は、プロレタリア革命の根本問題に対して自らがどのように向き合うのかを定式化し実地に示さなければならない。メンシェヴィキはいつもボリシェヴィキを、ブランキ主義者で冒険主義者、つまり一揆主義者であると非難していた。しかしながら、レーニンの戦略は、天と地のごとく、一揆主義からかけ離れていた。しかし同時にレーニンは、プロレタリアートの闘争における「蜂起の技術」の重要性を理解していたし、他人にも理解させることができた。
この点についての社会主義労働者党の批判は、それがパウル・レヴィ(4)に依拠すればするほど、ますます疑わしいものとなる。レヴィは、共産党の小児病に腰を抜かして、社会民主党の老衰を選んだ。1921年3月のドイツで起こった事件について、レーニンは限られた範囲の会議の中で、レヴィについて、「この男はすっかり頭
[理性]を失ってしまった」と言った。しかしレーニンはすぐ、皮肉っぽくこうつけ加えた。「彼は、少なくとも失うものを持っていた。他の連中ときたら、それすら言うことができない」。「他の連中」として念頭に置かれていたのは、ベラ・クン(5)、タールハイマーなどであった。パウル・レヴィが、両肩の上に頭を乗せていたことは、否定できない。しかし、頭を失くしてしまい、この状態で、共産主義陣営から改良主義の陣営に飛び移るような人間は、プロレタリア政党の指導者にふさわしくない。心神喪失状態で窓から飛びおり自殺したレヴィの悲劇的最後は、あたかも彼の政治的軌道を象徴するかのようである。大衆にとって、中間主義はある段階から次の段階への過渡にすぎないが、一部の政治家にとっては、中間主義は第二の本性となってしまうこともある。社会主義労働者党のトップにいるのは、絶望した社会民主主義的官僚・弁護士・ジャーナリストの集団であり、全員が、政治教育はすでに修了したとみなすべき年令に達した人々である。だが、絶望した社会民主主義者はまだ革命家を意味しない。
このタイプの代表者――その最良な代表者――は、ゲオルグ・レーデブール(6)
[右の写真]である。つい最近、私は、1919年に行なわれた彼の裁判記録を読んだ。それを読みながら、一度ならず、この老闘士の誠実さ、その情熱、その性質の気高さに内心拍手を送ったものである。しかし、それでもやはり、レーデブールは中間主義の域を越えていない。大衆的行動、階級闘争の最高度の形態、それに対する構え、そして、大衆の闘争の指導に対する公然たる責任を党として引き受けることが問題になる場合――そういう場合には、レーデブールは、中間主義の最良の代表者でしかない。それが彼をリープクネヒトとローザ・ルクセンブルクから引き離したのであり、それが今日、彼をわれわれから引き離しているのである。旧ドイツ社会民主党の急進派が被抑圧民族の闘争に対して消極的態度をとっているとスターリンが非難したとき、レーデブールはそれに立腹して、まさに民族問題において自分がつねに大きなイニシアチブを発揮してきたことを持ち出している。それはまったくその通りである。レーデブール個人は、旧ドイツ社会民主党内で、排外主義の徴候に対し大きな情熱をもって反対した。そのさい彼は、彼自身の中で強力に脈打っていたドイツの民族的感情を、少しも隠そうとはしなかった。レーデブールは、ロシア人、ポーランド人などの亡命革命家の最良の友であった。彼らの多くは、この老革命家に対する暖かい想い出を失わなかった。社会民主党の官僚たちは、レーデブールを、慇懃無礼な皮肉を込めて、「レーデブロフ」とか「レーデブルスキー」などと呼んでいた。
だがそれにもかかわらず、この問題については、当時の事実や文献について何の知識もないスターリンの方が正しいのである。少なくとも、スターリンが、レーニンの一般的評価を繰り返しているかぎりでは。これに反論しようとしたレーデブールは、この評価を確認することになっただけである。レーデブールは、第2インターナショナルの諸党に対して何度となく怒りを表明したこと――たとえば、インドの民族問題を飛行機からの爆撃によって解決しようとした仲間のラムゼイ・マクドナルド(7)の仕事を第2インター諸党が悠然とながめていたことに対して――を引き合いに出している。こうした怒りや抗議は、レーデブールとオットー・バウアー(8)のような連中とのあいだに、はっきりとした立派な相違があることを示している。ヒルファーディングやウェルスは言うに及ばない。これらの紳士諸君が民主主義的爆撃をすることができないのは、ただ彼らにインドがないからにすぎない。
それにもかかわらず、この問題でもやはり、レーデブールの立場は中間主義の域を脱してはいない。レーデブールは、植民地的抑圧に対する闘争を要求している。彼は、議会で植民地予算に反対投票したし、鎮圧された植民地反乱の犠牲者を勇敢に擁護した。しかし、彼は植民地反乱の準備に参加することはないだろう。このような仕事は、彼にとっては、一揆主義であり、冒険主義であり、ボリシェヴィズムである。そして、ここにいっさいの核心が存在する。
民族問題においてボリシェヴィズムに特徴的なものは、ボリシェヴィズムが、被抑圧民族を、たとえそれが非常な後進的な民族であっても、政治の客体としてだけでなく、主体として扱っていることである。ボリシェヴィズムは、被抑圧民族に民族自決の「権利」を承認したり、その権利の蹂躙に対して議会で抗議することにとどまるものではない。ボリシェヴィズムは、被抑圧民族の内部に浸透し、彼らを抑圧者に対して立ち上がらせ、その闘争を資本主義国におけるプロレタリアートの闘争と結びつけ、抑圧されている中国人、インド人、アラブ人に、蜂起の技術を教え、文明化された死刑執行人の面前でこの仕事の全責任を引き受ける。その地点からようやくボリシェヴィズムが、すなわち行動する革命的マルクス主義が始まるのである。この域にまで達しない者はすべて、中間主義にとどまる。
※ ※ ※
プロレタリア政党の政策は、一国的基準だけにもとづくかぎり、けっして正確に評価することはできない。それは、マルクス主義者にとっては自明の理である。それでは、社会主義労働者党の国際的な人脈や同調者はどのようなものであろうか? 社会主義労働者党の最も近しい友人とは、ノルウェー、スウェーデン、オランダの中間主義者、組織、グループ、個人であり、その受動的で地方的性格のおかげで、改良主義と共産主義との中間にとどまっていることができる人々である。アンジェリカ・バラバノーワ(9)は、社会主義労働者党の国際的人脈を象徴する人物である。彼女は今になって、この新しい政党を第2半インターナショナルの残党と結びつけようとしている。
ドイツに対する略奪的賠償の支持者で、フランスの銀行家ウストリック(10)の社会主義的仲間であるレオン・ブルム(11)は、ザイデヴィッツの新聞
[SAPの機関紙]の中で「同志」として扱われている。それは礼儀からであろうか? いや、それは、原則の欠如、意志の欠如、背骨の欠如なのである。書斎にいる賢者なら「重箱の隅をつつくものだ!」と言うだろう。しかし、革命的経験によって支えられていない、ソヴィエトの抽象的承認なんかよりも、こうした「重箱の隅」のうちにはるかに正確かつはっきりと政治的真相が現われるのである。ブルムを「ファシスト」と呼ぶことで自らを笑いものにすることには、何の意味もない。しかし、こうしたタイプの政治家に軽蔑と憎悪を感じないような人間は、革命家ではない。社会主義労働者党は「同志」オットー・バウアーから一定の距離をとっているが、それは、マックス・アドラー(12)
[左の写真]がバウアーからとっている距離と同じ程度でしかない。ローゼンフェルトとザイデヴィッツにとっては、バウアーはおそらく一時的でしかないイデオロギー上の敵にすぎないが、われわれにとっては、オーストリア・プロレタリアートを恐るべき泥沼に引きずりこんだ不倶戴天の敵なのである。マックス・アドラーは、かなり感度のよい中間主義的バロメーターである。こういう装置の有用性を否定することはできないが、しかし、それは天候の変化を記録することはできても、天候に影響を及ぼすことはできない。このことをしっかりと認識しておかなければならない。資本主義の行きづまりに突き動かされて、マックス・アドラーは今や再び――哲学的憂鬱はなきにしもあらずだが――、革命の不可避性を認めようとしている。だが、それは何という承認だろうか! 何と多くの条件つきの、ため息まじりの承認であることか! 曰く、いちばんいいのは、第2インターナショナルと第3インターナショナルが合同することだろう。最も有利なのは、民主主義的道を通じて社会主義を打ち立てることだろう。しかし、悲しいかな、これはどうやら実現不可能である。どうやら、文明国においても未開国においても、悲しいかな、悲しいかな、労働者は革命を遂行しなければならないようだ、云々。しかし、革命のこのような陰鬱な承認でさえも、紙の上のものでしかない。マックス・アドラーが、「時は来たれり!」と言えるような情勢は、歴史上なかったし、これからもけっしてないだろう。アドラーのようなタイプの人間は、過去の革命を正当化したり、将来における革命の不可避性を認めたりすることはできるが、現在において革命に訴えることはけっしてできない。帝国主義戦争によってもロシア革命によっても影響されなかったこの古い左翼社会民主主義者のグループはすべて、絶望的であることを認めなければならない。バロメーターとしてはまだしも、革命の指導者としてはノーだ!
※ ※ ※
12月の末
[1931年]に、社会主義労働者党は、すべての労働者組織に、あらゆる潮流の弁士がみな同一時間話せるような集会を全国で開催することを呼びかけた。このようなやり方では何ものも達成することができないのは明白である。実際、共産党や社会民主党にとって、ブランドラーやウルバーンスと、あるいはまた、運動の中で独自の地位を要求する資格もないほど取るに足りない組織や団体の代表者たちと、平等に演壇を分けあうなどということに、いったいどんな意味があるというのか? 統一戦線とは、共産主義者の労働者大衆と社会民主主義者の労働者大衆との統一のことをいうのであって、大衆に基盤を持たない政治グループ間の取引きのことではない。ローゼンフェルトとブランドラーとウルバーンスのブロックは、統一戦線のためのプロパガンダ・ブロックにすぎない、と言われるかもしれない。しかし、プロパガンダの領域では、ブロックは許しがたいものである。プロパガンダは、はっきりとした原則と明確な綱領にもとづいていなければならない。ブロックは、もっぱら実際の大衆行動のためのものである。原則的な基礎を持たない、上からの取り引きは、混乱以外の何ものももたらさない。
大統領選挙に労働者統一戦線が候補者を立てるという考えは、根本的に誤った考えである。候補者を立てられるのは、明確な綱領にもとづく場合のみである。党は、選挙期間中には、自らの支持者を動員し、自らの現有勢力を計算することが必要である。他のすべての立候補者に対抗して党から候補者を立てたとしても、闘争における直接的な目標のために、他の組織との協定を結ぶことを妨げるものではけっしてない。公式の党に加入していてもしていなくても、共産主義者は、全力をあげて共産党候補者のテールマンを支持するであろう。そこで問題になっているのは、テールマンではなく、共産主義の旗なのである。われわれはその旗を、他のすべての政党から擁護するだろう。共産党の隊列にスターリニスト官僚が植えつけた警戒心を打ち破ることによって、左翼反対派は、共産党員の意識に至る道を切り開くのである※。
※原注不幸なことに、『永続革命』紙(13)に――たしかに編集部の手になるものではないが――、労働者の統一候補者を立てることを支持した記事が掲載された。疑いもなく、ドイツのボリシェヴィキ=レーニン主義者は、このような立場を拒否するだろう。
※ ※ ※
改良主義と中間主義から共産主義に向かって左傾化しつつあった労働者組織や「政党」に対して、ボリシェヴィキはどのような政策をとっただろうか?
1917年のペトログラードには、約4000人の労働者を擁するメジライオンツィ
[統一国際主義派地区間組織]という組織が存在した。ボリシェヴィキの組織は、ペトログラードで数万の労働者を擁していた。それにもかかわらず、ペトログラードのボリシェヴィキ委員会は、あらゆる問題について、メジライオンツィと協定を結び、そのすべての計画を事前に通告し、こうすることで、完全な合同を容易にしたのである。メジライオンツィは、政治的にはボリシェヴィキに近かった、と反論することはできる。しかし、以上のことはメジライオンツィに限られていたわけではない。メンシェヴィキ国際主義派(マルトフ派)が社会愛国主義者に対立したとき、ボリシェヴィキは、マルトフ派との共同行動に達するため、断固としてあらゆることを行なった。多くの場合それは成功しなかったが、それはけっしてボリシェヴィキの罪ではない。また、メンシェヴィキ国際主義派が、公的にはツェレテリやダンの党と同じ枠内にとどまっていたことも、つけ加えておく必要がある。
これと同じ戦術は、左翼社会革命党に対しても適用された。しかも、はるかに大きな規模で。ボリシェヴィキは、この当時はまだ左翼エスエルが蜂起の直接の対象であったケレンスキーと同じ党に属していたにもかかわらず、左翼エスエルの一部を、蜂起の機関である軍事革命委員会にさえ引きこんだ。もちろん、それは、左翼エスエルにとってあまり論理的なものではなかっただろうし、それはまた、彼らの頭の中で全部が整理されていたわけでなかったことを示している。しかし、もし、あらゆる人々の頭の中でいっさいが整理されるのを待たなければならなかったとしたら、けっして勝利せる革命が日の目を見ることはなかっただろう。その後、ボリシェヴィキは、左翼エスエル(現在の用語法によれば左翼「コルニーロフ主義者」または左翼「ファシスト」)と政府連合を結成した。この連合は数ヵ月続き、左翼エスエルの蜂起によってはじめて終焉した。
レーニンは、左翼的傾向をもった中間主義に対するボリシェヴィキの経験を、次のように要約している。
「共産主義者の正しい戦術は、これらの動揺を利用することであって、それを無視することではけっしてない。この利用はこれらの分子に譲歩することを必要とするが、それは、これらの分子がプロレタリアートへ向かって移行している場合に、その範囲内で行なわれる。そしてブルジョアジーへ向かう者に対しては、闘わなければならない。……『いかなる妥協もいかなる駆け引きもしない』というせっかちな決意は、革命的プロレタリアートを強化する事業を傷つけることにしかならない……」(14)。
ボリシェヴィキの戦術は、この問題においても、官僚的最後通牒主義とは何の共通性もない!
テールマンとレンメレが独立社会民主党に属していたのは、そんなに昔の話ではない。彼らが過去を思い出す努力をすれば、自分たちが社会民主党と決別して独立社会民主党に入党し、同党を左に押しやった時期の自分の政治的気分をたぶん思い出すことができるだろう。当時誰かが、彼らは「君主主義的反革命の左翼」にすぎないなどと言ったとしたら、どうだろう? おそらく、彼らは、この非難者を酔っ払いか頭のおかしな奴にちがいないと考えたことだろう。しかし、現在、彼ら自身がまさに社会主義労働者党のことをそう定義しているのだ!
レーニンが、独立社会民主党の誕生からどのような結論を引き出したかを思い出そう。
「なぜドイツでも労働者が右から左へと移行するまったく同種の(1917年のロシアと同種の)変化が起こったのに、それが、共産主義者の強化にすぐに結びつかずに、まず、『独立派』[ドイツ独立社会民主党]のような中間政党の強化をもたらしたのであろうか? ……その原因の一つがドイツの共産主義者[スパルタクス団]の誤った戦術にあったことは明らかである。彼らは、自らの誤りを恐れることなく誠実に認め、それを是正することを学ばなければならない。……誤りは例の『左翼』小児病の多くの症状である。これらの症状は今や表面化しているので、それだけ適切に、速やかに、そして体にとっては大きな効用がある形で、治療されるだろう」(15)。
これは、まさに今日のために書かれたように見える!
現在のドイツ共産党は、当時のスパルタクス団よりはるかに強力である。しかし、独立社会民主党の第2版
[社会主義労働者党]が――その指導者の一部は同じである――登場している今日、共産党の責任はそれだけ重大なものとなる。社会主義労働者党の誕生は矛盾した事実である。もちろん、労働者が直接に共産党に入るほうがよいであろう。しかしそのためには、共産党は他の政策と他の指導部を持っていなくてはならない。社会主義労働者党を評価するためには、理想的な共産党から出発するのではなく、実際にあるがままの共産党から出発しなければならない。共産党が、官僚的最後通牒主義の立場にとどまって、社会民主党内部の遠心力に対立しているかぎり、社会主義労働者党の結成は不可避で、かつ進歩的な事実なのである。
しかしながら、この事実のもつ進歩性は、中間主義的指導部によってはなはだしく弱められている。もしその進歩性が強められれば、それは、社会主義労働者党を崩壊させるであろう。社会主義労働者党の全体としての進歩的役割ゆえに同党の中間主義を大目にみるなら、この進歩的役割を消滅させてしまうであろう。
党の上層部にいる協調主義分子は実践面での駆け引きに長けており、あらゆる手を尽くして矛盾を糊塗し、危機を先延ばしするだろう。しかし、こうした手段は、事件の最初の大きな圧力が生じるまでしか役立たない。党内の危機は、まさに革命的危機のまっただ中で発展し、党のプロレタリア分子を麻痺させかねない。
共産主義者の任務は、社会主義労働者党の労働者が自らの隊列から中間主義を一掃して中間主義的指導者の支配から解放されるのを助けることにある。そのためには何ごとについても沈黙せず、単なる善意を行動と取り違えず、また、あらゆる事物をその本来の名前で呼ばなければならない。しかし、あくまでもその真の名称であって、捏造された名称ではない。批判するのであって、中傷するのではない。接点を求めるのであって、突き飛ばすのではない。
独立社会民主党の左派について、レーニンはこう書いている。
「党のこの翼との『妥協』を恐れるのは、まったく滑稽である。それよりも、共産主義者は、彼らとの妥協のしかるべき形態を探し発見しなければならない。この妥協は、一方では、この派との必要で完全な合同を容易にし、それを促進するであろうし、また他方では、共産主義者が『独立派』の日和見主義的右翼に対して行なう思想的・政治的闘争をいささかも妨げるものではない」(16)。
今日も、この戦術的指示につけ加えることはほとんどない。
社会主義労働者党の左翼分子に、われわれは次のように言おう。「革命家は、ストライキや街頭での戦闘に参加するだけでなく、何よりも、自分の党の正しい政策のための闘争に参加する。コミンテルンに新しい党を受け入れるために当時作成された『21ヵ条』を取り上げ、そして、左翼反対派の仕事を取り上げてみたまえ。そこでは、この8年間の政治的発展に『21ヵ条』が適用されている。これらの『条項』に照らして、諸君の陣営内の中間主義に対し系統的な攻撃を開始し、それを最後まで遂行したまえ。さもなくば、諸君には、中間主義の左翼的隠れ蓑という不面目な役割以外ほとんど何も残らないだろう」。
その次は? その次は、ドイツ共産党の方に顔を向けるべきである。革命が社会民主党と共産党の中間にとどまること――ローゼンフェルトやザイデヴィッツはそう望んでいるのだが――はけっしてない。いや、社会民主党の指導者は、プロレタリアート内部における階級敵の手先である。共産党の指導者は、混乱し、劣悪で、未熟で、道に迷っているが、革命家ないし半革命家である。両者は同一ではない。社会民主主義は破壊されなければならないが、共産党は矯正されるべきである。諸君は不可能だと言うだろうか? だが諸君は真剣に取り組んだことがあるのか?
情勢が共産党に圧力をかけている現在、その今こそ、われわれの批判の圧力でもって、情勢を助けなければならない。われわれは「別党」をめざしているのではなく、現存する共産党を労働者階級の真の指導者に変えるのを真剣に助けようとしているのだということ、このことを共産党労働者が、実際の経験を通じて速やかに納得すればするほど、それだけますます注意深く彼らはわれわれの言うことに耳を傾けるだろう。
――しかし、うまくいかなかったら?
――それがうまくいかないということは、現在の歴史的状況においては、ほとんど確実にファシズムの勝利を意味するであろう。しかし、革命家は、大闘争を前にして、「もしうまくいかなかったらどうなるか」を問うのではなく、「うまくいくにはどうすればよいか」を問うのである。それは可能であり、それは実現できることであり、したがって実行されなければならない。
訳注
(1)シュトレーベル、ハインリヒ(1869-1945)……左翼社会民主主義の歴史家。独立社会民主党を経て、一時期、社会主義労働者党に属す。
(2)革命的労働組合反対派(RGO)……社会民主党指導下の主要な労働組合連合であるドイツ労働総同盟(ADGB)に対抗して、ドイツ共産党によって結成された組合連合。1930年末の時点で、ADGBが約500万人の組合員を擁していたのに対し、RGOは15万人足らずの組合員しか擁していなかった。
(3)ロゾフスキー、ソロモン(1878-1952)……1901年からロシア社会民主党員。1909年にパリに亡命し、第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1917年に、全ロシア労組中央会議書記。1921〜37年、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)の議長。
(4)レヴィ、パウル(1883-1930)……ローザ・ルクセンブルクの弟子で、ローザ・ルクセンブルク亡き後、ドイツ共産党の指導者の一人。1921年におけるドイツ共産党の一揆主義的決起に反対して、除名。1922年にドイツ社会民主党に入党。1930年に自殺。
(5)クン、ベラ(1886-1939)……ハンガリーの革命家。1918年にハンガリー共産党を創設。ハンガリー革命の際は内相。革命敗北後にロシアに亡命。コミンテルンの執行委員に。第3回世界大会の際は、攻勢理論を唱えて、レーニン、トロツキーと対立。1939年に粛清。
(6)レーデブール、ゲオルグ(1850-1947)……古参のドイツ社会民主党員で中央派。1917年に独立社会民主党の創設者の一人。独立社会民主党の第3インターナショナルへの加盟に反対。1922年に社会民主党に復帰。1931年に社会主義労働者党に参加。1933年にスイスに亡命。
(7)マクドナルド、ラムゼイ(1866-1937)……イギリスの社会民主主義者。第1次労働党内閣の外相、その後、首相に(1924年)。第2次労働党内閣でも首相(1928〜1931年)。
(8)バウアー、オットー(1881-1938)……オーストリア社会民主党の古参指導者。第2半インターナショナル(1920〜23年)の創設者の一人。オーストリア・マルクス主義の理論的指導者の一人。
(9)バラバーノワ、アンジェリカ(1878-1965)……ロシア系イタリア人の社会主義者。イタリア社会党の指導者の一人。第1次大戦中は国際主義派。ツィンメルワルト会議への参加者。コミンテルンの初代書記。後にコミンテルンと決別し、イタリア社会党に復帰。
(10)ウストリック、アルベール……フランスの大銀行家で、彼の投機活動は1930年の世界恐慌で破局を迎え、いくつかの銀行の破産をもたらした。これは、当時のタルデュー内閣の崩壊につながった。
(11)ブルム、レオン(1872-1950)……フランス社会党の指導者。1930年代半ばに人民戦線政府の首班(1936〜37年)。
(12)アドラー、マックス(1873-1937)……オーストリア社会民主党の指導者、オーストリア・マルクス主義の理論的指導者の一人。
(13)『永続革命』誌……1931年7月から1933年2月にかけて発行されていたドイツの左翼反対派の機関紙。その後、亡命地で発行された『ウンゼル・ヴォルト(われわれの言葉)』に引き継がれた。
(14)邦訳『レーニン全集』第31巻、62頁。
(15)同前、60-61頁。
(16)同前、61頁。
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