第2章 オーストリア=ハンガリー

 ロシア・ツァーリズムは、老衰によって先鋭さを失い弱体化したオーストリア=ハンガリーの絶対主義よりも、疑いもなくずっと残酷で野蛮な国家組織である。しかしロシアは、純粋に国家組織として考えてみても、ツァーリズムとはけっして同一ではない。ツァーリズムの破壊はロシアの解体を意味しない。反対に、その解放と強化とを意味する。ロシアをアジアへ撃退するべきであるという議論が社会民主党の出版物の一定部分にさえ広がっているが、しかしそれは地理学と民族誌学に対する貧困な知識にもとづいている。現在のロシアのさまざまな部分――ロシア・ポーランド、フィンランド、ウクライナ、ベサラビア――の運命がたとえどんなものになろうとも、この25年間に、文化的発展の途上で巨大な成果を獲得してきた幾百万人民の民族地域として、それらヨーロッパ・ロシアは存在し続けるであろう。

 オーストリア=ハンガリーの場合はまったく異なる。一つの国家組織として、それはハプスブルク君主制と同一である。ちょうどヨーロッパ・トルコが軍事的封建制のオスマン・カーストと同一であり、それが没落するとともに没落したように、オーストリア=ハンガリーは、ハプスブルク家とともに生まれ滅びる。オーストリア=ハンガリーは、遠心的傾向のある民族諸片を王朝が強制的にまとめた複合体として、中央ヨーロッパにおける最も反動的な存在である。もし、ヨーロッパにおける現在の破局以後にもオーストリア=ハンガリーが存続し続けるとすれば、それは、来る数十年間にわたってドナウとバルカンの諸民族の発展を遅延させ、ヨーロッパ戦争を繰り返すもとになるだけでなく、ツァーリズムの精神的滋養の主要な源泉となることによって、ツァーリズムを政治的に強化するだろう。

 ドイツ社会民主党が、フランスの滅亡をツァーリズムとの同盟の報いであるとして容認するのならば、同じ基準をドイツとオーストリアの同盟にも適用するよう、彼らに要求しなければならない。もし、現在の戦争を民族解放のためのものであるとするフランスとイギリスの新聞側の評価が、西欧の二つの民主主義国家と民族抑圧国家たるツァーリズムとの同盟という事実ゆえに破綻するとすれば、ツァーリズムに対して闘っているだけでなく、ハプスブルク君主制の維持と強化のためにも闘っているホーエンツォレルン軍にまで解放の旗幟を広げるようとするドイツ社会民主党の試みもまた、より偽善的ではないにしても、同じくらい偽善的なものなのである。

 オーストリア=ハンガリーはドイツにとって――いや、われわれにお馴染みのドイツ支配層にとって不可欠である。ユンカー支配層が、アルザス=ロレーヌの併合()によってフランスをツァーリズムの軍隊の中に押しやり、その急速な海軍の膨張によってイギリスとの関係を絶えず悪化させ、そして、西欧の両民主主義国との接近と協調とに達しようとするあらゆる試みを、かかる協調がドイツ民主化の前提であるがゆえに拒絶する時、それによって彼らは、東西の敵に対抗するための軍事力の源泉として、オーストリア=ハンガリー君主制の助けを求めざるをえなかったのである。

 ドイツの見地からすれば、オーストリア=ハンガリーの使命は、ドイツの軍事的ユンカー層の政策に奉仕するための、ハンガリー人やルーマニア人、チェコ人、ウクライナ人、セルビア人、イタリア人による支援部隊を設置することにある。このために、1000万人から1200万人ものドイツ人がドイツ本国から離れたままでいるのをドイツの支配層は易々と受け入れている。この1200万人が国家的中核を形成し、その周りに、ハプスブルク家が4000万人以上の非ドイツ人住民を統合しているからである。独立したドナウ諸民族の民主主義連邦は、ドイツ軍国主義にとって同盟国としては役に立たなかったであろう。オーストリア=ハンガリーという軍事的に強制された君主制組織だけが、ユンカー・ドイツの同盟国として価値あるものなのである。オーストリア=ハンガリーによる絶え間ない戦争準備は、諸王朝の「ニーベルンゲンの誓い」()によって聖化された同盟国にとっての不可欠の条件をなす。しかしそれは、遠心的に作用する民族的諸傾向を物理的に弾圧することによってしか、けっして維持することはできない。オーストリア=ハンガリーは、自国を構成している諸民族と同族の民族によってその四方の国境を囲まれているがゆえに、その対外政策は必然的にその国内政策と最も密接に、かつ最も直接的に関連する。およそ700万人ものセルビア民族と南スラブ民族を自己の国家軍事組織の枠内に押し込めておけるように、彼らを政治的に引きつける根源、すなわち独立セルビア王国をオーストリア=ハンガリーは圧殺しなければならないのである。

 セルビア王国に対するオーストリアの最後通牒は、この途上における決定的な一歩であった。「オーストリア=ハンガリーは、必要にせまられて、この一歩を踏みだしたのだ」とE・ベルンシュタイン()は『社会主義月報』(第16号)に書いた――そして、政治的事件を王朝的観点から評価するならば、それは完全に正しい。

ミラン公

 ベオグラードの君主の低劣な道徳水準を理由にハプスブルク家の政策を擁護することは、ミラン() [右の画像]というオーストリアの手先がセルビアの首班であった時にのみ、すなわち不幸なバルカン半島史上最も軽蔑すべき統治体制であった時にのみ、ハプスブルク家がセルビアと友好関係を持ちえたという事実に目をつぶるものである。セルビアとの決着がこれほど遅れてやってきたのは単に、君主制の有機体が衰えていたおかげでその自己保存の配慮が十分活発でなかったからにすぎない。オーストリアの好戦派とベルリンにとっての支えと希望であったオーストリア皇太子の死後、堅固さと力とを無慈悲に見せつけるよう求めていた同盟国[ドイツ]はわき腹を激しくつつき始めた。セルビアに対するオーストリアの最後通牒は、あらかじめドイツの支配層によって賛成されていただけでなく、あらゆることが物語るように、彼らによってはっきりと鼓舞されたものであった。このことについては、プロとアマの外交官がホーエンツォレルン家の平和愛好主義の証しとして見せかけようとしたまさにその白書()の中であからさまに語られている。大セルビア主義のプロパガンダの目的と、バルカン半島におけるツァーリズムの陰謀について特徴づけながら、白書はこう言っている。

「かかる状況下で、これ以上、国境の向こう側での策動を拱手傍観することが、オーストリア帝国の権威ないしはそれの存立ともはや両立しえないということをオーストリアは理解せざるをえなかった。帝国政府はこうした見方についてわれわれに知らせたうえで意見を求めてきた。われわれはわが同盟国に対し、貴方の状況判断に心からの同意をするとともに、貴帝国の存続に対して向けられたセルビアの敵対行動を終結させるのに必要であると貴方がみなしたいっさいの措置に対し、貴方はわれわれの賛成を得るだろう、と答えた。その場合、それに関連して起こりうるオーストリア=ハンガリーのセルビアに対する軍事行動が、ロシアを戦場に引きずり込み、それとともに、同盟国としてのわれわれの義務にしたがって、われわれをも戦争に巻き込む可能性があるということを、われわれは十分に意識していた。しかし、危胎に瀕しているオーストリア=ハンガリーの死活の利益の見地からして、オーストリアの威厳と両立しえないほどの寛大さを彼らに要求したり、かかる重大事態の瞬間に彼らへの支援を断るようなことはできなかった。しかも、セルビアによる執拗な破壊活動がわれわれ自身の利益をも根本から脅かしているがゆえに、なおさらそうすることはできなかったのである。ロシアとフランスによって支援されているセルビア民族がわが隣邦の君主制の存続を危険にさらし続けていることを、われわれがこれ以上容認していたとしたら、これは、オーストリアの漸次的崩壊と、ロシア支配下への全スラブ民族の従属を結果としてもたらすだろう。そして、その次には中央ヨーロッパにおけるゲルマン民族の地位をもあやういものにするであろう。われわれは、ますます脅威となってきている東西の隣邦諸国に対して立ち向かわなければならないにもかかわらず、オーストリアが精神的に衰弱し、ロシアの汎スラブ主義の進出によって崩壊しつつあるとすれば、そのようなオーストリアは、われわれにとって、もはやあてにしうる同盟国でもなければ、信用しうる同盟国でもないであろう。それゆえ、われわれはセルビアに対するオーストリアの行動を自由にまかせたのである」。

 オーストリアとセルビアとの紛争に対するドイツの支配層の関係は、ここに赤裸々に示されている。ドイツは、オーストリア政府によってその意図を知らされていただけでなく、それに同意し、ドイツの「同盟国としての忠誠」がもたらす結果についても容認していた。それだけではない。ドイツは、オーストリアによる攻撃をドイツにとって必要不可欠な助け船とみなしており、事実上、バルカンへのオーストリア=ハンガリーの攻撃を同盟存続の条件としたのである。さもないと「オーストリアは、われわれにとって、もはやあてにしうる同盟国ではない」からである。

 ドイツのマルクス主義者は、この事態とこれがはらむ危険性について熟知していた。オーストリア皇太子暗殺の翌日の6月29日、『フォアヴェルツ』紙は次のように書いた。 「まずい政策のおかげで、わが民族の運命は完全にオーストリアの運命に結びつけられてしまった。わが国の支配者は、オーストリアとの同盟関係をわが国の全対外政策の基礎に据えた。しかしこの同盟関係は、強さの源泉ではなく弱さの源泉であることがしだいに明らかになっている。オーストリア問題は、ますますヨーロッパの平和にとっての脅威となりつつある」。

 その1ヵ月後、この脅威がまさに戦争という恐るべき現実へと転化した7月28日に、ドイツ社会民主党の中央機関紙は先に劣らず明確に次のように書いている。

「このようなきわめて馬鹿げた突発事件に対して、ドイツ・プロレタリアートはいかなる態度をとるべきであろうか?」。それに答えて曰く「彼らは明らかに、オーストリアの民族的混沌を維持することにいかなる利益も有しない」…。

 それどころか、民主主義ドイツは、オーストリア=ハンガリーの維持にではなく、その解体の方に利益を有している。解体したオーストリア=ハンガリーは、ドイツに1200万人もの教育ある住民と、ウィーンのような第1級の都市をもたらすであろう。イタリアは民族統一を完成させ、三国同盟におけるこれまでのような不安定要素の役割を演じることをやめるだろう。そして、ロシア国境に面して1000万人もの住民を持つルーマニアを包含するバルカン諸国連邦、独立ポーランド、ハンガリー、ボヘミアは、ツァーリズムに対する強固な防波堤となるであろう。だが最も重要なのは次のことである。7500万人ものドイツ人住民を有する、ホーエンツォレルン家とユンカー支配層なき民主主義ドイツは、たやすくイギリスやフランスと協調することができ、もってツァーリズムを孤立させ、その国内外政策を無力にすることができるだろう。この目的の達成へと向けられた政策が真に、オーストリア=ハンガリーの諸民族にとっての解放政策であると同様、ロシアの諸民族にとっての解放政策でもあろう。しかし、このような政策は一つの本質的な前提条件を必要とする。すなわち、ドイツ人民が、ホーエンツォレルン家に他民族の解放を委ねる代わりに、自らをホーエンツォレルン家から解放することである

※22年ロシア語版原注 ここでは、単にホーエンツォレルン家を一掃するだけでなく、ホーエンツォレルン体制の社会的基盤をも破壊する革命が考慮されている。かかる革命は、もちろんのこと、ドイツではまだ実現されていない。

 だが、ドイツとオーストリア=ハンガリーの社会民主党がこの戦争に対してとっている態度は、かかる目標とあからさまに矛盾している。現時点では、両党は、ドイツないしドイツ民族の利益ためにハプスブルク君主制を維持し強化する必要性に完全に依拠している。明らかに、国際主義的精神を持つすべての社会主義者の顔を恥辱のあまり赤面させるこのような反民主主義的見地にもとづいて、ウィーンの『アルバイター・ツァイトゥング』紙は、現在の戦争の歴史的意味を「何よりも、ドイツ魂に対する闘争である」と定式化するのである。

「外交がうまく機能していたかどうか、この戦争がやむをえなかったものであるかどうか、それはいずれ時が決定することだ。今はドイツ民族の運命が危胎に瀕しているのだ! 躊躇している場合ではない、ためらっている場合ではない! ドイツ人民は、他国に隷属しないように、けっして滅亡しないように、不屈の鉄の決意をもって一体となるのだ……云々」(ウィーンの『アルバイター・ツァイトゥング』8月5日付)

 ――このような引用を続けることによって読者の政治的・文学的嗜好をそこなうのはやめにしよう。ここでは他民族を解放する使命については何も言われていない。戦争の任務としては「ドイツの人間」の保護と保障とが出されているだけである。ドイツ文化、ドイツ領、ドイツ人を防衛することは、ここではドイツ軍の任務であるというだけでなく、オーストリア=ハンガリー軍の任務でもあるかのようである。セルビア人はセルビア人と、ポーランド人はポーランド人と、ウクライナ人はウクライナ人と戦わなければならない――ドイツ人のためにである。オーストリア=ハンガリーにおける4000万人もの非ドイツ人住民は、あっさりと、ドイツ文化という畑の歴史的肥料としてみなされている。これが国際的社会主義の見地と無縁のものであることは証明するまでもない。しかし、そこには初歩的な民族的民主主義の体裁すらない。オーストリア=ハンガリーの参謀本部は、9月18日のコミュニュケにおいて、この「ドイツ人」についてこう説明している。

「わが敬愛する君主制のすべての人民は、わが軍の宣誓で言っているように、『誰であろうとすべての敵に対して』、ともに勇気を競いあい、一致団結して立ち上がらなければならない…」。

 ウィーンの『アルバイター・ツァイトゥング』紙は、オーストリア=ハンガリー問題に対するこのハプスブルク家=ホーエンツォレルン家的見地を完全に受け入れている。すなわち、それを民族的な軍事的貯水地としてみなしているのである――セネガル人とモロッコ人に対するフランスの軍国主義者たちの態度や、インド人に対するイギリスの態度と同じように! そして、このような見地がドイツ系オーストリア人の社会民主党の中ではけっして新しい現象ではないことに注意を払うならば、なぜオーストリア社会民主党が諸民族のグループにみじめに分解し、そのことによって自己の政治的意義を最小限にまで引き下げたのか、その主な理由が明らかとなる。オーストリア社会民主党が相争う諸民族のグループに分裂したことは、国家組織としてのオーストリアの客観的な行き詰まりの一つの現われなのである。同時に、ドイツ系オーストリア人の社会民主党の態度は、彼ら自身がこの行き詰まりの哀れな犠牲者であり、これに理念的に屈服したことを証明している。彼らが、多くの諸民族からなるオーストリア・プロレタリアートを国際主義の原則のもとに団結させる上での無能力をさらけ出し、そして最終的にこの任務を放棄した時、ドイツ系オーストリア人の社会民主党は、ドナウ君主制の社会主義的弁護人レンナー()がオーストリア=ハンガリーの不動の理念と称しようとしているこの「理念」を清算するどころか、プロシア・ユンカーの民族主義の「理念」の下に、このオーストリア=ハンガリーの理念と、それと共に自己の政策全体をも従属させたのである。

 この完全なる原則放棄について、ウィーンの『アルバイター・ツァイトゥング』紙の諸頁は前代未聞の調子でわれわれに語っている。しかし、もしこれらのヒステリックな民族主義の合唱にもっと注意深く耳を傾けるなら、より厳粛なる声をけっして聞き逃しはしないだろう。この歴史の声は、われわれに次のように語っているのだ。中央および南東ヨーロッパにおける政治的進歩の道は、オーストリア=ハンガリー君主制の滅亡を経なければならない、と!

※22年ロシア語版原注 言うまでもないことだが、協商国の武力によるオーストリア=ハンガリーの解体は、中央および南東ヨーロッパの諸民族の経済的・文化的な共存と協力という問題の解決へ、われわれをいささかも近づけはしなかった。どんな場合よりもこの場合、縄の結び目は絶望的に堅く結ばれた。プロレタリア革命の剣だけが、それを切り離すことができる。

 

  訳注

(1)アルザス=ロレーヌの併合……1870〜71年の譜仏戦争の結果、フランスはベルフォール管区を除くアルザス=ロレーヌ地方をドイツに割譲した。アルザス=ロレーヌは鉄鋼と石炭の産地でもあり、産業的に重要な地域であったため、たびたびドイツとフランスの間の紛争の火種となった。第1次大戦後フランス領に。第2次大戦中ふたたびドイツが占領したが、第2次大戦後フランスに戻った。ドイツ語では、エルザス=ロートリンゲンと言う。

(2)ニーベルンゲンの誓い……ドイツ中世の騎士文学の代表的作品である『ニーベルンゲンの歌』から。この物語はジークフリートの死とそれに対するクリームヒルトの復讐という筋立てになっており、ゲルマン民族の忠誠心とその共同体的精神の文学的表現であると言われている。

(3)ベルンシュタイン、エドゥワルト(1850-1932)……ドイツ社会民主党修正主義派の創始者にして最も著名な理論家。第1次世界大戦勃発後の最初の戦時公債の投票においては、積極的に賛成投票する方向へと党に圧力をかけた。1915年3月20日の3回目の戦時公債投票においてはじめて棄権。12月29日の第5回目の投票で反対票を投じた。

(4)ミラン・オブレノヴィッチ公(在位1868-89)……暗殺されたミハイロフ公のあとをついでセルビア公となった。親オーストリア政策をとり、1882年にセルビア王を名乗る。1885年にブルガリアに宣戦したが大敗し権威失墜。王位を息子に譲った。

(5)ドイツ政府の白書……8月4日にドイツ政府が国会に提出した文書を指す。ローザも『社会民主党の危機』の中で、トロツキーが引用した部分とまったく同じ部分を引用したうえで、しかもトロツキーとほぼ同じ論理で、ドイツ社会民主党指導者の偽善を暴いている。

(6)レンナー、カール(1870-1950)……オーストリア社会民主党の修正主義派指導者。3人のアドラーらと並んで、オーストロ・マルクス主義の理論家。レーニンが激しく非難した「文化的民族的自治」論の創始者。第1次大戦中は排外主義の立場にたつ。後年、オーストリアの首相(1918-21)、大統領(1945-50)となる。

 

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