第6章 インターナショナルの崩壊
破局が勃発する2週間前のパリにおける党大会
(1)で、フランスの社会主義者たちは、インターナショナルのすべての支部は戦時動員の際に革命的行動を起こす義務を負うべきだということに固執した。彼らは、その時、主としてドイツ社会民主党を念頭においていた。対外政策上の問題におけるフランスの同志たちのラディカリズムの根底にあったものは――戦争によってもたらされた諸事件が、以前からすでに明白であった多くのことを決定的に証明したように ――国際的なものよりも、むしろ民族的なものであった。フランス社会党は、フランスの不可侵性に対するある種の保証をドイツの兄弟党に求めていたのである。このようにしてドイツ・プロレタリアートに保険をかけさえすれば、民族的軍国主義に対する決定的闘争において、自分たちの手を完全に自由にしておけるとフランスの社会主義者たちは信じていたのであろう。
ドイツ社会民主党としては、こうしたやり方で責任を負うことをきっぱりと拒否した。各社会主義政党がフランスの決議に署名したところで、どのみち決定的瞬間において自分たちの義務をはたすことなどできはしない、とベーベルは指摘した。ベーベルが正しかったことを疑うのは今ではまず不可能である。諸事件があらためて確証したように、戦時動員期は社会主義政党をほとんど完全に麻痺させるのである。いずれにせよ、それは決定的行動の可能性を排除している。戦時動員が布告されるやいなや、社会民主党が直面するものは、すべてのブルジョア諸政党とブルジョア諸機関の無条件の協力のもとに、前に立ちはだかるあらゆる障害を鎮圧する用意のある強大な軍事機構をよりどころとした中央集権的な支配権力なのである。
これに劣らず重要な意義を持っているのは、経済的意義がごくわずかしかなく、平時にはほとんど何の政治的役割も演じない層が、戦時動員によって目を覚まし起ちあがるという事実である。何十万、何百万もの小規模な手工業者やルンペン・プロレタリアート、小農、それに農業労働者が軍に入隊させられ、その中では彼らの各々は――皇帝の軍服を着ていても――階級意識をもった労働者と同じ一員なのである。彼らの家族は、冷淡な無関心から強制的に引きだされて国の運命に関心をもつようになる。われわれのアジテーションがほとんど届かず、日常の諸条件のもとではけっして熱中することのないこれらすべての人々の間に、戦時動員と宣戦布告とが新しい期待を喚起する。困窮と奴隷状態の平穏から引きだされた大衆は、現状の変化、よりよい状態への転換に対する混乱した希望のとりこになる。
この点に関しては、革命の序幕の場合と同じことが生じているのだが、そこには決定的な相違がある。すなわち、革命ははじめて目覚めた民衆を革命的階級に結びつけるのだが、戦争が結びつけるものは、政府と軍隊なのだ! 前者の場合、満たされることのないすべての要求や蓄積されたいっさいの苦悩、待ちこがれたあらゆる希望が革命的熱狂のうちに表されるとすれば、後者の場合、同じ社会的気分は一時的に愛国的陶酔の形態を取るのである。社会主義にかかわってきた労働者の幅広い層もまた同じ流れに飲みこまれる。社会民主主義的前衛は自らが少数派であることを感じ、彼らの組織は軍隊組織の充員によって荒らされる。
このような事情のもとでは、党の側からの革命的行動は問題となりえない。そしてこれらいっさいのことは、戦争に対する評価によってはまったく左右されない。日露戦争は、その植民地的性格と国内での不人気にもかかわらず、はじめの半年間、革命運動をほとんど完全に窒息させた。したがって、戦時動員の際に、すなわち社会主義が政治的に最も孤立した状況に陥っているまさにその瞬間に、全面妨害の義務を引き受けることは、明らかに、社会主義政党にはどうやっても不可能なのである。
かくして、労働者政党が戦時動員に対して自らの革命的動員を対置させなかったという事実のうちには、驚愕したり落胆したりするようなことは何も含まれてはいない。たとえ社会主義者の行動が、目下の戦争に対する自己の見解を表明すること、戦争に対するいっさいの責任を拒否すること、政府への信任や戦時公債を拒絶することといったことに限定されたとしても、それでさしあたり社会主義者としての義務は果たされたことであろう。彼らは、その反政府的性格が支配者に対しても人民大衆に対しても明白な政治的静観の立場をとったであろう。より進んだ行動は、事件の客観的経過と、戦争の諸事件が人民の意識のうちに引き起こすにちがいない変化の中から生まれる。インターナショナルは内的結束を維持したであろうし、社会主義の旗幟は汚されはしなかったであろう。すなわち、社会民主党は一時的に弱体化しながらも、労働者大衆の気分に激変が生じるやいなや諸事件に決定的干渉を行なうために、自分の手を自由にしておけたのである。社会民主党はこのような態度をとることによって、それが戦争の開始時に失った大衆へのあらゆる影響力を、不可避的な激変の後には、2倍にも3倍にも増して取り返すであろう、われわれはこのように断言することができるのである。
こうしたことが起こっていないとすれば、すなわち戦時動員への合図が同時にインターナショナルの崩壊への合図にもなり、民族的労働者政党が内部からの抵抗もなく自らの政府と軍隊とに合流しているとすれば、それに関して、インターナショナル全体に共通する深刻な原因が存在するのでなければならない。その原因を個人的な誤りや、指導者と党幹部の偏狭さに求めることは許されない。それはむしろ、社会主義インターナショナルが生まれ自己形成してきたこの時代の客観的諸条件のうちに求めなければならないのである。ただし、指導者の動揺や党幹部の茫然自失の体たらくが正当化されるべきだと言っているのではない。断じてそうではない。しかし、このことが基本的要因なのではない。この原因は、一時代にわたる歴史的諸条件の中に見い出されなければならない。なぜなら、ここで問題となっているのは、――そして、このことを明確に理解しなければならないのであるが――個々の誤りでも、日和見主義的な行動でも、議会の演壇からのぎこちない声明でも、バーデン大公国の社会民主党による予算への賛成投票でも、フランスの入閣主義や社会主義的出世主義といった個々の実験でもなく、問題となっているのは、最も責任重大な歴史時代――これからみれば、これまで行なわれた社会主義の全事業は単なる準備とみなすことができるほどである――にインターナショナルが完全に降伏したことであるからである。
これまでの歴史をふりかえるならば、労働運動における国際主義の奥行きと堅実さとに対する不安を引き起こして当然の、いくつもの事実と兆候とを容易に確認することができる。
オーストリア社会民主党については言うまでもなかろう。ロシアとセルビアの社会主義者たちは、ウィーンの『アルバイター・ツァイトゥンク』紙の国際政治についての論説から、インターナショナルを辱めることなくロシアとセルビアの労働者たちに紹介することができる引用文を探そうとしたが無駄であった。この新聞が常に維持している最も際立った方針は、外部の敵からだけでなく内部の反対者――『フォルヴェルツ』紙もまた、その一部であった!――からさえオーストリア・ドイツの帝国主義を弁護することであった。インターナショナルの現在の危機の中で、ウィーンの『アルバイター・ツァイトゥンク』紙は自己の過去に最も忠実であり続けていると皮肉なしに言うことができる。
フランスの社会主義は、一方の極においては、ドイツへの敵意に呪縛された強烈な愛国的表現をもち、もう一方の極では、エルヴェ
(2)主義的な反愛国主義のけばけばしい色合いを帯びていた。経験が示すように、その反愛国主義は容易に自己の正反対物へと転化するのである。イギリスについて言えば、自己のセクト主義的ラディカリズムを補完している、トーリー党※的色合いをもったハインドマン
(3)の愛国主義は、しばしばインターナショナルを政治的な厄介ごとに巻きこんだ。※22年ロシア語版原注トーリー党は、ハインドマンが青年時代に加入していたイギリスの保守党である。彼は戦前、イギリスの社会民主主義組織の指導者であった。
ドイツ社会民主党においては、民族主義的徴候は、はるかに少ない程度しか認めることはできなかった。確かに、南ドイツ人の日和見主義は、ドイツ民族主義の縮小版である連邦分立主義の土壌から成長してきた。しかし南ドイツ人は、当然にも、影響力の乏しい政治的後衛であると党ではみなされていた。危険がせまった場合には鉄砲をかつぐというベーベルの約束は、党内で完全な同意を得たわけではけっしてなかった。そしてノスケ
(4)[右の写真]が同じ文句を繰返した時、党の出版物は彼をこっぴどくやっつけた。総じて、ドイツ社会民主党は、古くからあるどの社会主義政党よりも厳格に国際主義の路線に執着していたのである。しかし、まさにそれゆえに、ドイツ社会民主党は最も鋭く自己の過去と決別したのだ。党の公式声明と新聞の論説から判断するかぎり、ドイツ社会主義の昨日と今日との間には何のつながりもない。しかしながら、この劇的な豹変の前提が過去の時代に準備されたのでなければ、それが起こりえなかったことは明らかである。セルビアとロシアの二つの若い党が自己の国際的義務に忠実であり続けたという事実は、原則への忠誠を未熟さの自然な現われとみなす俗物哲学を実証するものでは断じてない。だがこの事実のおかげで、われわれは第2インターナショナルの崩壊の原因を、若い構成員に対して最もわずかな影響しか与えてこなかったまさにあの発展諸条件に求めるようになったのである。※ ※ ※
1847年に起草された『共産党宣言』は次の言葉で結ばれている。「万国のプロレタリア、団結せよ!」。しかし、この鬨の声は、あまりに早く出現したため、ただちに生きた現実とはならなかった。その当時の歴史的日程にのぼっていたのは、1848年のブルジョア革命であった。この革命の中で『宣言』の著者たち自身にわりあてられたのは、国際プロレタリアートの指導者としての役割ではなく、民族的民主主義の最左翼に位置する闘士としての役割であった。
1848年の革命は民族問題のだたの一つも解決しなかった。それは、この問題を顕在化させたにすぎなかった。産業の飛躍的発展と結びついた反革命が革命運動の糸を断ち切った。革命によって解決されなかった諸矛盾が剣による介入を必要とするほど改めて先鋭化するまで、幕間の新たな10年が経過した。だが今度の剣は、ブルジョアジーの手からすべり落ちた革命の剣ではなく、王朝の鞘から抜かれた戦争の剣であった。1859年、64年、66年、70年の戦争は、新しいイタリアと新しいドイツとを創造した。封建勢力は、彼らなりのやり方で、1848年の革命の遺言を執行した。この歴史的な役者交替のうちに示されているブルジョアジーの政治的破産は、資本主義の急速な発展に基礎をもつ独立したプロレタリアートの運動への決定的な刺激となった。
1863年に、ラサールはドイツに政治的な労働者同盟を創立した。1864年には、マルクスの指導の下に第1インターナショナルがロンドンで創設された。国際労働者協会の最初の回状に『共産党宣言』の結びのスローガンが掲載された。現代労働運動の傾向を最も顕著に特徴づけているのは、その最初の第1歩で国際的性格をもつ組織が創造されたことである。それにもかかわらず、この組織は、階級闘争における現実の指導機関というよりも、運動の将来の要求を先取りしたものと言う方がずっとぴったりであった。インターナショナルの最終目標である共産主義革命とその直接的な実践との間には、なお深淵が横たわっていた。その直接的な実践は、主として、さまざまな国における労働者の無秩序なストライキ運動に国際的協調をもたらすことに集中された。インターナショナルの創立者自身も、イデオロギーと実践との間の不調和は諸事件の革命的進展によってすぐに克服されることを期待していたくらいであった。インターナショナルの総評議会は、イギリスと大陸の個々の争議団に資金を送りながら、国際政治の領域における各国の労働者の行動を調整しようとする古典的な試みを実行した。
しかしこの努力は、まだ十分な物質的基礎をもつにいたっていなかった。ヨーロッパと北アメリカの資本主義的発展に道を開いたあの戦争の時代と、第1インターナショナルの活動の時期とは重なり合っていた。インターナショナルの側での介入の試みは、その原則的・教育的意義にもかかわらず、民族的階級国家に対する各国労働者の先進層の無力ぶりをかえってますます明瞭に感じさせた。戦争から燃え上がったパリ・コンミューンは第1インターナショナル期の絶頂であった。『共産党宣言』が現代労働運動の理論的先駆であり、第1インターナショナルが全世界的な労働者の統一の組織的先駆であったように、パリ・コンミューンはプロレタリアート独裁の革命的先駆であった。だが、先駆であるにすぎなかった。まさにこのことによって、単なる革命的即興術だけでは、プロレタリアートが国家機構を支配し、社会を再構築することはできないということが証明されたのである。それゆえ、プロレタリアートは自己研磨の学校に通わなければならなかった。戦争を起源とする民族国家は、この歴史的事業のための唯一の現実的基礎、すなわち民族的基礎をつくりだした。第1インターナショナルは、民族的社会主義政党のための養成所という自己の使命をまっとうした。譜仏戦争とパリ・コンミューンの後、インターナショナルは風前の灯となりながらも少しのあいだ生きながらえた。そして1872年に、かつてさまざまな宗教的・社会的・その他の性格をもった諸実験が一度ならず渡ってきたアメリカに移されて死滅した。
民族国家を基礎にしての資本主義の力強い発展の時代が始まった。労働運動にとっては、それは漸次的な勢力集合の時代であり、組織建設の時代であり、政治的ポシビリズムの時代であった。
イギリスにおいては、チャーティズムの嵐の時代、すなわちイギリス・プロレタリアートの革命的覚醒の時代は、第1インターナショナル成立の10年前に完全に過ぎ去っていた。穀物法の廃止(1846年)、イギリスを「世界の工場」へと変貌させたその後の産業の繁栄、10時間労働制の導入(1847年)、アイルランドからアメリカへの移民の増大、そして最後に都市部の労働者への参政権の拡張(1867年)――プロレタリアートの上層の境遇を著しく改善したこれらすべての条件は、彼らの階級的運動を、労働組合主義の穏健な潮流と、それを補完する自由主義的な労働政策に引きこんだ。イギリス・プロレタリアートという年長の兄弟にとって、ポシビリズムの時代、すなわち民族資本主義の経済的・法律的・国家的形態に意識的・計画的に順応する時代が始まった。それは、第1インターナショナルの創立以前に、大陸のプロレタリアートよりも20年も早く始まったのである。それにもかかわらず、最初のうちイギリスの大労組がインターナショナルに加盟していたとすれば、それはもっぱら、賃金争議の際に大陸からのストライキ破りの輸入をより効果的に防ぐ可能性をこれによって手に入れられることが予想されたからにすぎない。
フランスの労働運動は、産業発展の鈍化という基礎上で、そして最も毒々しい民族的復讐欲の雰囲気の中で、コンミューンの流血から徐々に回復した。無政府主義的な「国家の否定」と、俗流民主主義的な「国家への降伏」という両翼の間を動揺しながら、フランスのプロレタリア運動は、ブルジョア共和制の社会的・政治的枠組みに順応することによって発展した。
マルクスが1870年にすでに予言していたように、社会主義運動の重心はドイツに移った。譜仏戦争の後、統一ドイツにとって、イギリスで20年先行したものと類似の時代が始まった。すなわちそれは、資本主義的繁栄と民主主義的な選挙法、プロレタリアートの上層にとっての生活水準の向上の時代である。ドイツ・プロレタリアートの運動は、理論的にはマルクス主義の旗のもとで進軍した。しかし、時代の諸条件に依存して、ドイツ・プロレタリアートにとってのマルクス主義は、その創世記においてそうであったような革命の代数学にはならずに、プロシアのカブトで飾られた民族資本主義の国家に順応するための理論的方法になった。一時的な均衡を獲得した資本主義は国民生活の経済的基盤を絶えず革新した。譜仏戦争から生じた有力な地位を維持するためには、常備軍の拡張が必要であった。ブルジョアジーは、彼らのあらゆる政治的地位を封建的君主制に委ねた。だが彼らは、軍事的警察国家の庇護の下でますます精力的に自己の経済的地位を強化した。勝ち誇った資本主義、資本主義の土台に立脚した軍国主義、封建階級と資本家階級とのからみ合いから成長した政治的反動――一方での経済生活における革新と、他方での政治生活における革命的方法と伝統の完全な放棄――これらが、45年間にわたる過去の時代の基本的特徴である。
ドイツ社会民主党の全活動は、直接的な要求のための計画的闘争を通じて、立ち遅れた労働者層を覚醒させることに向けられた。すなわち、力の蓄積や党員の拡大、資金の充填に向けられ、また出版物の発展や開かれたすべての陣地の獲得、それらの利用・拡張・深化に向けられたのである。こうした活動は、これまでの「歴史なき」階級を覚醒させ教育するという偉大な歴史的事業であった。国内産業の発展に直接に依拠し、国内市場と世界市場における産業の成果に適応し、原料と工業製品の価格変動を考慮しながら、ドイツの強力で中央集権的な労働組合が形づくられた。選挙法に適応し、選挙区に地域的に密着し、都市と農村に触手をのばしながら、ドイツ・プロレタリアートの政治組織の唯一無比な構造がつくりあげられた。それは、広い組織網を有する官僚的ヒエラルキーと100万の党員、400万の得票、91の日刊紙、そして65の党印刷所を持っていた。はかり知れないほどの歴史的意義を有するこれらすべての多面的な活動は、実際はその隅々までポシビリズムの精神で満たされていたのである。
45年間、ドイツ・プロレタリアートには、怒涛のごとき進撃によって障害物を突破したり、革命的突進のなかで何らかの敵の陣地を獲得したりするようなたった一つの機会さえ与えられなかった。社会的諸力の相互関係の結果として、彼らは障害物を避けるか、あるいはそれに順応することを強いられた。こうした実践において、思考方法としてのマルクス主義は政治的な方向づけのための貴重な道具であった。しかし、この時代にあっては、イギリスでもフランスでもドイツでも本質的に同じものであった階級運動のポシビリズム的性格をマルクス主義は変えることができなかった。労働組合の戦術は、ドイツの組織の争う余地のない優位性にもかかわらず、ベルリンとロンドンとでは原則的に同一のものであった。彼らの最大の成果は賃金協約制度であった。政治の領域における両者の相違は、間違いなく、はるかに深刻な性格を有していた。イギリス・プロレタリアートが自由主義の旗のもとで進軍している間に、ドイツ労働者は、社会主義綱領をもつ独立の政党を創立したのである。とはいえ、両者の政治的実体における相違は、イデオロギー形態や組織形態における相違ほどには深刻なものではない。イギリスの労働者は、自由主義に対する自己の圧力を通じて、選挙権や団結の自由や社会立法といった分野での制限された政治的獲得物に到達した。それらは、ドイツ・プロレタリアートが自己の独立した党の助けを借りて維持ないし拡大したものである。ドイツ・プロレタリアートは、ドイツ自由主義の早期の屈服に直面して、独立した党の創出を強いられたのである。しかしながら、原則上は政治権力のための闘争の旗のもとに立っていたこの党は、支配権力の攻撃から労働運動を守り、個々の改良を勝ちとるため、その全実践において支配権力に順応せざるをえなかった。
換言すれば、歴史的伝統と政治的諸条件の違いによって、イギリス・プロレタリアートが自由党という中間項を介して資本主義国家に適応する一方、ドイツ・プロレタリアートは、それと同一の政治的目的のために独立した政党を創出せざるをえなかったのである。しかしながら、この時代全体におけるドイツ・プロレタリアートの政治闘争の内容は、イギリス・プロレタリアートのそれと同一の、歴史的に制約されたポシビリズム的性格をもっていた。形式上は非常に異なった現象を呈するこれら両者の同質性は、現代の最終的諸結果の中では最も明白に現われている。すなわち、一方では、イギリス・プロレタリアートは、当面の課題をめぐる闘争の中で独立した政党を形成せざるをえなくなった。ただし、その自由主義的伝統を断ち切ることなしにである。他方、ドイツ・プロレタリアートの党は、戦争によって決定的な選択の必要に直面させられた時、完全にイギリス労働党の民族的自由主義の伝統の精神でもって応えたのである。
マルクス主義が、ドイツ労働運動において何か偶然的なものでも取るにたらないものでもなかったことはもちろんである。しかし、党の公式のマルクス主義イデオロギーによってそれの社会革命的性格を結論づけるとすれば、それはまったく根拠のないことであろう。
イデオロギーは政治の重要な要素ではあるが、決定的要素ではない。その役割は政治的奉仕である。目覚めつつある革命的階級と封建的反動国家との関係におけるあの深刻な矛盾は、社会革命の目標を掲げた旗のもとに全運動を結集させる非妥協的イデオロギーを必要とした。歴史的諸条件が彼らにポシビリズム的戦術を押しつけたため、プロレタリアートの階級的非妥協性はマルクス主義の革命的定式の中にその表現を見出だした。マルクス主義は、改良と革命の間の矛盾を弁証法的に首尾よく和解させた。しかし歴史的発展の弁証法は、理論的思考の弁証法よりもはるかに扱いにくいものである。その傾向上革命的である階級が、資本主義の力強い発展を基礎にした君主制的警察国家に数十年間にわたって順応せざるをえなかったという事実――しかも、その順応過程で、100万の党員を有する組織が生まれ、全運動を指導する労働者官僚組織が鍛えられたのだが――この事実は、マルクス主義が将来の発展の社会革命的性格をあらかじめ見通したからといって存在しなくなったり、重要な意味を失ったりするわけではない。無邪気な観念論だけが、この見通しをドイツ労働運動の政治的現状と同一視しえたのである。
ドイツの修正主義者は、党の改良主義的実践とその革命的理論との間の矛盾から発生した。たとえ長期にわたったとしても永遠に続くものではない諸関係によってこの矛盾が規定されているということや、その矛盾は新たな社会発展によってのみ克服されうるのだということを彼らは理解しなかった。彼らにしてみれば、それは論理的な矛盾であった。修正主義者たちの誤りは、過去の時代における党政策の本質的に改良主義的な性格を確認したことにあるのではなく、プロレタリアートによる階級闘争の唯一の方法として改良主義を理論的に永遠化しようとしたところにある。この途上で修正主義者は、階級矛盾の先鋭化を通じてプロレタリアート解放のための唯一の手段たる社会革命へと導かざるをえない資本主義的発展の客観的傾向との矛盾に陥った。マルクス主義は、理論闘争から全戦線における勝利者として立ち現われた。しかしながら、理論的に打ちのめされた修正主義は、運動の全実践と心理状態とを糧にして存在し続けた。理論としての修正主義に対する批判的反駁は、修正主義の戦術的・心理的克服と同じではけっしてなかったのである。議員や労働組合活動家や協同組合活動家たちは、全般的なポシビリズムと実践的専門化、民族的偏狭の雰囲気の中で生活し働き続けてきた。この時代の最も偉大な代表者であるベーベルの態度にさえも、こうした雰囲気が強烈に刻印されていたのである。
ポシビリズムの精神は、80年代に入党した世代をとりわけ強く支配せざるをえなかった。その時代は、ビスマルクの社会主義者取締法の時代であり、全ヨーロッパを包む重苦しい反動の時代であった。第1インターナショナルと結ばれた世代の開拓者的精神を欠き、勝ち誇ったドイツ帝国の権力によって出ばなを挫かれ、社会主義者取締法の罠に順応することを強いられたこの世代は、革命的展望に対する組織的な不信と穏健主義の精神にどっぷりひたって一人前になった。いま50から60歳になっているすべての人々がこの世代であり、まさにその人たちが労働組合と政治組織の先頭に立っているのである。改良主義は、彼らの教義ではないにしても、彼らの政治的心理である。修正主義の土台である「社会主義への漸次的な成長転化」論は、資本主義的発展の諸事実をかんがみれば、最も惨めなユートピアであることが明らかとなった。しかしながら、社会民主党の「民族国家の機構への漸次的な政治的成長転化」は、世代全体にとって悲劇的な現実であることが明らかになったのである。
[1905年の]ロシア革命は、パリ・コンミューン以来35年目にして、ヨーロッパのよどんだ雰囲気に衝撃を与えた最初の大事件であった。ロシア労働者階級の急テンポの発達とその集中された革命的活動の思いがけない力が、文明世界全体に大きな感銘をもたらし、いたるところで政治的諸矛盾の先鋭化にはずみを与えた。ロシア革命は、イギリスにおいて独立した労働者政党の形成を促進した。オーストリアでは、特殊な事情のおかげで普通選挙権の獲得にいたった。フランスでは、ロシア革命の反響としてサンディカリズムが出現し、フランス・プロレタリアートの覚醒した革命的傾向を不十分な戦術的・理論的形態で表現した。最後にドイツでは、党内の若い左翼の強化と中央指導部のそれへの接近、修正主義の孤立のうちにロシア革命の影響が現われた。それは、ユンカー層の政治的地位の秘密であるプロシア選挙法
(5)の問題をいっそう鋭く提起した。党は原則的にはゼネラル・ストライキという革命的方法を採用した。しかしながら、党を政治的攻勢の道へ押しやるためには、外的衝撃では不充分だということが明らかとなった。党のあらゆる伝統に一致して、ラディカリズムへの転換は討論と原則的決議のうちに表現された。そして、それ以上の発展には至らなかったのである。6、7年前に、いたるところで政治的引き潮が革命的上げ潮にとってかわった。ロシアでは反革命が凱歌をあげ、ロシア・プロレタリアートの政治的・組織的衰退の時期が始まった。オーストリアでは、獲得物の糸が早々にちぎれ落ちた。労働保険は政府官庁の中でかびを生やし、普通選挙権の舞台上で民族抗争が以前に倍する勢いをもって再開され、社会民主党を解体と衰退へと導いた。イギリスでは、自由主義から分離した労働党が、再び自由主義とのきわめて密接な結びつきを回復した。フランスでは、サンジカリストたちが改良主義的な立場に移行した。そして、ギュスタフ・エルヴェはすぐに自己の反対物に豹変した。ドイツ社会民主党では、修正主義者たちが、歴史からこのような雪辱の機会を与えられたことによって勇気づけられて、頭をもたげてきた。南ドイツ人は予算への示威的な賛成投票を敢行した。マルクス主義者たちは、攻撃から防御への移行を余儀なくされた。より積極的な政策を党に採用させようとする党内左翼の努力は実を結ぶことがなかった。中央指導部は、急進派を孤立させながら、ますます党内右翼に接近した。1905年の打撃から立ちなおった保守主義は全戦線で凱歌をあげた。
革命的行動だけでなく、現実的な改良主義的可能性さえ欠けていたため、党の全エネルギーは機械的な組織建設、すなわち新たな党員と労働組合員、新たな新聞、新たな予約講読者の獲得へと向けられたのである。数十年にわたってポシビリズム的待機政策をとらざるをえなかった党は、自己目的としての組織崇拝を創出した。おそらく、大破局に直接つづいている最近の数年間ほど、組織的マンネリズムの精神がドイツ社会民主党を絶対的に支配していたことはなかったろう。そして、組織・資金・人民の家・印刷所を維持するという問題が、戦争に対する帝国議会の議員団の態度決定にきわめて重要な役割を果たしたということは疑いえない。指導的地位にあるドイツの同志から私が聞いた最初の論拠は、「もし別のやり方をしていたら、われわれは自らの組織と出版物とを破滅の運命に委ねることになっただろう」というものであった。しかしながら、次の事実は、何と雄弁に組織的ポシビリズムの心理状態を物語っていることだろうか。すなわち、91もの社会民主党の機関紙のうちどれ一つとして、ベルギーの蹂躙に対する抗議の声をあげることが可能だとは考えなかったのである。ただの一つもである!
社会主義者取締法が廃止された後、党は決定的事件の発生の際に政府に没収される可能性を懸念して、自分の印刷所を設立することに永らく躊躇していた。そして、党自身の印刷所を設立してしまった後では、没収の口実を与えないように、今やどのような決定的行動をも党ヒエラルキーは恐れているのである。さらに、『フォアヴェルツ』紙が
――さしあたり階級闘争を見合わせるという新しい綱領にもとづいて――存続の許可を懇願した事件はいっそう雄弁である。「最高司令部」の屈辱的な命令書をつけた中央機関紙の各号を受け取る時、ドイツ社会民主党の支持者は誰でもひどい侮辱を感じたものだ。『フォアヴェルツ』紙が発行禁止のままであったなら、それは後に、党自身の誇りをもって引き合いに出すことのできる重要な政治的事実であったであろう。いずれにせよ、軍靴の刻印を額につけた存続よりも、そのほうがはるかに名誉あるものであったであろう。ところが、政治や党の名誉へのあらゆる配慮よりも、党の事業や出版社や組織への配慮の方が高く位置づけられたのである――そして今では、ベルリンと同様にロイフェンをも牛耳っているユンカー層の際限なき野蛮さと社会民主党の際限なきポシビリズムの両方の証明書として、『フォアヴェルツ』紙は存続しているのである。党内右翼はいっそう自己の主義に忠実な立場をとった。それは政治的配慮に由来するものであった。ドイツ改良主義のこの主義上の配慮は、「皇帝万歳」の儀式の際に帝国議会の議場を去るべきか座ったままでいるべきかという滑稽な議論の中で、ヴォルフガンク・ハイネ
(6)によって仰々しく定式化された。「ドイツ帝国における共和制の確立は、現在のところ、そして今後長期にわたって、実際に当面の政策の対象となるいかなる現実的可能性もない」…。だが、自由主義ブルジョアジーと協力しさえすれば、いつもは実現をみない実践的成果が達成されうるだろう、「不必要に議会の大多数の感情を逆撫でするデモンストレーションのおかげで、議会での協力が困難になると私が指摘したのは、神経質からではなく、このような理由からなのである」。しかし、もし君主制の礼儀作法を侵害することすら、改良のための自由主義ブルジョアジーとの協力という希望をぶちこわす可能性があるとすれば、国民的「危機」の際のブルジョア「国民」との決裂は、今後何年にもわたって、彼らの願望する改良だけでなく、改良主義的願望をも台無しにしてしまうことだろう。組織的自己保存へのあからさまな心配から党中央の保守的な実務家たちが命じた態度は、修正主義者においては政治的配慮でもって補完されたのである。修正主義者の見地は絶え間なく広範囲なものとなっていき、ついにそれは勝利を治めた。党のほとんどすべての出版物がいま熱心に主張していることは、以前には激しく軽蔑されていたことである。すなわちそれは、労働者が愛国的立場をとれば、戦後には改良に対する有産階級の好意をもたらすにちがいないという主張である。かくしてドイツ社会民主党は、大事件の衝撃のもとにあって、自らを次のような任務に直面している革命勢力だとは感じなかった。その任務とは、国境を変更するといった問題の枠組をはるかに凌駕するものであり、民族主義の渦中に一瞬たりとも自己を見失うことなく、インターナショナルの他の党とともに諸事件のなりゆきにいっせいに力強く介入するための好機の到来を待つというものである。――そうではなく、彼らは何よりもまず、自分たちが敵の騎兵隊に脅された鈍重な組織的後方部隊であると感じていた。それゆえ彼らは、インターナショナルの全将来さえ、それとはまったく関係のない階級国家の国境を防衛するという問題に従属させたのである。なぜなら彼らは、何よりもまず、自らを国家の中の保守的な国家であると感じていたからである。
「ベルギーをみよ!」と『フォアヴェルツ』紙は労働者兵士を激励する。そこでは、「労働者の家」が野戦病院に変えられ、新聞が閉鎖され、生活が圧殺されているではないか※
。そしてそれゆえ、最後まで、すなわち「最終的に勝利がわれわれのものになるまで」もちこたえよ。別の言葉で言えばこうだ。さらに破壊し、諸君の手になる仕業におそれおののくのだ――「ベルギーをみよ!」、そしてその恐怖から、さらなる破壊のための勇気を引き出すのだ!※原注ブリュッセルの「人民の家」(7)にベルギーの同志たちを探しに行って、そこがドイツの野戦病院になっていたことを『フォアヴェルツ』紙の特派員は感慨深げに語っている。『フォアヴェルツ』紙の特派員は、何のためにベルギーの同志たちを必要としたのか? 「ドイツ人民のために彼らを獲得するため」である。――ブリュッセルそのものがすでに「ドイツ人民のために」獲得されてしまったまさにその時のことであった。
以上述べたことは全体として、ドイツ社会民主党だけではなく、過去半世紀の歴史をたどってきた、インターナショナルのすべての古い支部にもあてはまる。しかしながら、第2インターナショナルの崩壊の原因をめぐる問題がこれで論じつくされたわけではない。それに関して、これまでのすべての諸事件の核心をなす要因がいまだ解明されずに残っている。プロレタリアートの階級運動、とりわけその経済闘争が、国家の帝国主義政策の規模と成果とに依存しているということ、これが問題なのである。われわれの知るかぎり、このことは社会主義の出版物の中ではこれまでまったく論究されていない。本小冊子は基本的に政治的パンフレットであるので、この小冊子の枠内でこの問題の解明に専念することは不可能である。それゆえ、この問題についてこれから述べることは、簡単な概観という性格のものにならざるをえないであろう。
プロレタリアートは生産力の発展に深いかかわりを有している。1789年から1870年までのヨーロッパにおける革命と戦争の中で創造された民族国家は、前時代における経済発展の主要タイプであった。プロレタリアートは、自己の自覚的政策のすべてでもって民族的基礎上での生産力の発展に貢献した。外敵に対する民族の自由のためのブルジョアジーの闘争において、また君主制や封建主義や教会に対する政治的民主主義体制のためのブルジョアジーの闘争において、プロレタリアートはブルジョアジーを支持した。ブルジョアジーが「秩序の友」に、すなわち反動に移行するのにつれて、プロレタリアートは彼らによって完成されなかった歴史的事業を引き受けたのである。ブルジョアジーに反対して、平和と文化、民主主義の政策のためにたたかうことによって、プロレタリアートは国内市場の販路拡大に貢献し、したがってまた生産力の発展を促進した。買い手ないし売り手として自国と関係している他のすべての国の民主化と文化の飛躍的発展についても、彼らは同じ程度に経済的利益を有していた。プロレタリアートの国際連帯の最も重要な保証は――その最終目標においてだけでなく、その日常政策においても――この点にあった。封建的野蛮の遺物に対する闘争や軍国主義の際限のない要求に対する闘争、農業保護関税に対する闘争や間接税に対する闘争が、労働者の政策の基本的内容を構成していた。そしてそれらは、生産力の発展という事業に直接的・間接的に奉仕した。まさにそれゆえに、労働組合に組織された労働者の圧倒的多数がその政策において社会民主党にしたがってきたのであり、生産力の発展におけるどんな障害もプロレタリアートの労働組合組織に最も直接的に影響したのである。
資本主義が民族的基盤から国際帝国主義の基盤へと移行するにしたがって、国内生産とそれにともなうプロレタリアートの経済闘争は、軍艦と大砲の助けを借りて確保されている世界市場の諸条件に直接に依存するようになった。言いかえれば、プロレタリアートの個々の階層における直接的な職業的利益は、その全歴史的範囲においてとらえられたプロレタリアートの根本的な利益とは矛盾して、政府の対外政策の成否に直接に依存していることが明らかになったのである。
イギリスの資本主義的発展は、かなり以前から帝国主義的強奪の基礎上に置かれていた。プロレタリアートの上層部はイギリスの世界支配に利益を有するようになった。イギリス・プロレタリアートは、自己の利益のためにたたかう際に、諸外国からの資本主義的搾取の分けまえをもたらしてくれるブルジョア諸政党に圧力を加えるだけで満足していた。彼らが独立した政策を掲げ始めたのは、イギリスが、中でも自己の主要なライバルたるドイツによって撃退されて、世界市場におけるその地位を失っていくのにつれてでしかなかった。しかし、産業におけるドイツの世界的役割が増大するとともに、ドイツ・プロレタリアートの広範な層における帝国主義への依存関係が、物質的にだけでなく観念的にも成長してきた。8月11日付けの『フォアヴェルツ』紙はこう述べている。ドイツの労働者は、「今まで政治的に啓蒙された部類に入っていたし、(ほとんど成果をあげなかったと認めざるをえないのだが)ここ数年来、帝国主義の危険性について教え込まれてきた」のだが、最も極端な排外主義者と同じくイタリアの中立政策を口汚く罵っている、と。だが、このことで、帝国主義の血塗られた仕事を正当化するための「民族的」でかつ「民主主義的」な論拠を『フォアヴェルツ』紙がドイツの労働者に供給することは妨げられなかった――多くの文筆屋は、羽ペンのように曲がりやすい背骨を有しているのである。とはいえ、このことによって事実が変化するわけではない。すなわち、決定的な瞬間において、帝国主義政策に対する非妥協的な敵意がドイツ労働者の意識の中に現われることはけっしてなかったのである――反対に、事実が明らかにしたことは、民族的で民主主義的な美辞麗句でくるまれた暗示に労働者が格別に弱いということであった。
ドイツ社会民主党内に社会主義的帝国主義が出現したのはこれが初めてのことではない。次の事実を想起するだけで十分である。すなわち、インターナショナルのシュトゥットガルト大会において、ドイツ代表団――とくに労働組合活動家――の多数が植民地政策に関するマルクス主義的決議に反対投票したことである。当時センセーションをまき起こしたこの事実は、ただ現在の諸事件の照明の中ではじめて、そのすべての意味が浮きぼりになる。労働組合の出版物は現在、政党の出版物よりもいっそう大きな意識性と冷ややかな即物性とをもって、ドイツ労働者階級の事業をホーエンツォレルン軍の事業に結びつけているのである。
資本主義が民族的基礎の上にとどまっている間は、議会活動や地方自治体活動、その他の活動を通じて政治的諸関係の民主化と生産力の発展に協力することを、プロレタリアートは避けて通ることができなかった。社会民主党の政治闘争にうわべだけの革命的アジテーションを対置しようとした無政府主義者の試みは、自らを孤立と死滅の運命に追いやった。だが、資本主義国家が民族的なものから帝国主義的世界国家になったかぎり、プロレタリアートは、民族国家の枠内で党の政策を方向づけていたいわゆる最小限綱領にもとづいてこの帝国主義に対抗することはけっしてできない。労働契約と社会立法をめぐる闘争の基礎上では、プロレタリアートは、封建制に対して発揮したのと同じだけのエネルギーを帝国主義に対して発揮するのは不可能である。資本主義の変化した土台の上で階級闘争の旧来の方法――それは市場の動きに不断に順応したものであった――を適用している間に、彼ら自身は物質的にも観念的にも帝国主義への依存関係に陥ったのである。ただ直接的課題としての社会主義の旗幟のもとでのみ、プロレタリアートはその革命的力を帝国主義に対置することができるのだ。労働者階級の強力な組織が、旧来のポシビリズム的戦術の基盤に長くとどまっていればいるほど、それだけ労働者階級は帝国主義に対してますます無力になることが明白となった。労働者階級が帝国主義に対して優勢となるのは、彼らが社会革命の闘争の道へと足を踏み出す時であろう。
民族議会の野党の手法は、客観的に効果がないばかりでなく、次のような事実に直面して労働者大衆に対するあらゆる主観的な吸引力をも失う。すなわち、議員たちの背後では、帝国主義が武力によって賃金と労働者の存在そのものを世界市場における成果にますます深く依存させているのである。ポシビリズムから革命へのプロレタリアートの移行を引き起こすことができるのは、煽動的な駆り立てではなく歴史的な衝撃だけであるということは、思慮あるすべての社会主義者にとって明らかであった。
しかし、戦術のこの不可避的な転換に先立って、歴史がこれほどまでに衝撃的なインターナショナルの崩壊をもたらすだろうとは、誰も予見しなかった。歴史はおそろしく無慈悲に仕事をする。ランス大聖堂
(8)[左の写真]の破壊が歴史にとって何を意味するというのか? 数百、数千人の政治的信望がどうしたというのか? 歴史にとって、数十万、数百万人もの生死が何であろう? プロレタリアートは、その偉大な先駆者が想像していたよりもはるかに長く準備に手間どった――ついに歴史は箒を手にして、エピゴーネンどものインターナショナルを蹴散らし、鈍重な数百万の人々を戦場に連れていった。そして、そこで最後の幻想が流血によって洗い清められている。何という恐るべき試練! ヨーロッパ文明の運命は、おそらく、この結末にかかっている。
(1)パリにおける党大会……1914年7月14日〜16日にフランス社会党が開いた臨時党大会で、戦争を阻止するための手段として国際的規模でのゼネストを訴える決議をした。
(2)エルヴェ、ギュスタフ(
1871-1944)……フランス社会党員で、アナルコ・サンディカリスト。第1次大戦前はフランス社会党の最左派で、『社会戦争』紙を発行。第1次大戦勃発後、排外主義に転じた。(3)ハインドマン、ヘンリー(
1842-1921)……イギリス社会民主連盟の指導者。1900年のイギリス労働党創立の中心的人物の一人。第1次世界大戦においてはしだいに排外主義的立場をとるようになり、1915年に除名された。(4)ノスケ、グスタフ(
1868-1946)……ドイツ社会民主党の右派指導者。1919年に国防大臣として、スパルタクス団を弾圧。カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク暗殺の責任者。(5)プロシア選挙法……「三階級選挙」と呼ばれており、1848年に導入された。各選挙区ごとに納税額によって選挙民が三つの階級にわけられ、それぞれの選挙人が同数の議員を選んだ。これは高額納税者に有利な制度で、社会民主党は長くこうした選挙をボイコットしていた。1917年に廃止。
(6)ハイネ、ヴォルフガング(
1861-1944)……ドイツ社会民主党の最右派。国会議員。第1次大戦中は排外主義者。(7)ブリュッセルの「人民の家」……ベルギー労働党の本部があり、第2インターナショナルの事務局である国際社会主義ビューローの常設書記局が置かれていた。
(8)ランス大聖堂……フランス北東部の都市ランスにある大聖堂で、代表的なゴチック様式の建物。国王の戴冠式に使われた。第1次世界大戦初期、ドイツ軍の空爆でステンドグラスや彫刻等が破壊された。現在はユネスコ世界遺産となっている。
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