第7章 党

 わが党におけるほど偉大な勝利を得た政党は、世界史上かつて一つもなかった。わが党はすでに10年もプロレタリアートの先頭に立ち、プロレタリアートの独裁を実現してきた。ソ連共産党(ボ)はプロレタリア革命の基本的テコである。ロシア共産党(ボ)はコミンテルンの主要な党である。わが党ほど全世界的・歴史的責任を担っている党は一つもない。しかしまさにそれゆえ、政権に就いているわが党は恐れることなく自己の誤りを批判し、自らのマイナス面を暴露し、直接的な変質の危険性をはっきりと直視しなければならない。そうすることで時宜を失せず必要な措置を講じるためにである。レーニンの時代にはつねにそうであった。レーニンは、何よりも「うぬぼれた党」(レーニン、第17巻、112頁)(1)になる危険性に対して警告を発していた。

 すべてのマイナス面を含むわが党の現状を以下に明示することによって、われわれ反対派は、党が正しいレーニン主義的政策によってそのすべての病弊を克服し、その歴史的任務の高みにのぼるであろうとの確固とした希望を抱いている。

 1、わが党の社会的構成はこの数年間にますます悪化している。1927年1月1日時点で、党員の構成は以下のようになっている(概数)。

  工業と運輸に従事している労働者       430000人

  農場労働者(および農業労働者)        15700人

  農民(その半数以上が現在は職員)      303000人

  職員(その半数以上はかつて労働者)     462000人

 このように1927年1月1日の時点で、わが党の3分の1が現場労働者(わずか31%)で、3分の2は農民・職員・元労働者・「その他」であった。

 この1年半のうちに、わが党は約10万人の現場労働者を失った。1926年のうちに「機械的脱退」となった下部党員〔一般に共産党では党員は毎年党籍を更新することになっており、更新しない場合は自動的に党籍を失う。日本の共産党はこのようなシステムを採用していない〕は2万5000人にのぼるが、そのうちの76・5%が現役労働者であった(『中央委員会通報』第24〜25号)。党籍を更新する際の最近のいわゆる「ふるい落とし」の結果、公式の資料によれば(それは疑いもなく実態を過小に見積もっているが)、約8万人の党員が党籍を失ったが、その大多数は労働者であった。「比率にすると今年初頭の党籍更新者は全党員の93・5%にのぼっている」(『中央委員会通報』第24〜25号)。このように、単なる党籍更新によって党員の6・5%(約8万人)が「ふるい落とされた」わけである。それらの「ふるい落とされた」党員の約50パーセントが熟練労働者で、3分の1強が半熟練労働者であった。中央委員会の機構は、それでなくても過小に見積もられたこのデータを傾向的に過小に見積もろうとしてきたが、その試みははっきりと破産した。「レーニン記念入党」の代わりに、今やスターリン的「ふるい落とし」が行なわれているのである。

 他方、第14回党大会以来、新たに10万人の農民が入党を許されたが、彼らの半数以上は中農であり、農場労働者の割合はまったく微々たるものである。

 2、党の指導機関の社会的構成はさらに悪化している。郷委員会では、29・5%が農民(の出身)であり、職員その他が24・4%、郷委員の81・6%は、種々の機関活動家である。党の指導機関の構成における現場労働者の数は取るに足りない数である。州委員会および県委員会では13・2%、郷委員会では9・8〜16・1%である(参照、ソ連共産党中央委員会統計局発行『統計評論』1927年6月10日付)。

 党全体では約3分の1の党員が現場労働者であるのに、決定を行なう党機関では現場労働者はすでにたったの約10分の1になっている。これは党にとって重大な危険性を意味する。労働組合もこれと同じ道をたどってきた(「労働者の状態と労働組合」の章参照)。このことはまた、小ブルジョア層出身の「管理者」および「労働官僚」がいかに大きな権力をわが党から奪い取ってきたかを示している。これは党を「脱プロレタリア化」する最も確実な道である。

 3、党機構および一般に指導的ポストにおける元エスエル・メンシェヴィキの役割が増大してきた。第14回党大会の時点で、党出版物の指導的地位を構成している人々の38%が他の政党の出身者であった(第14回党大会議事録、83頁)。現在では状況がさらに悪化している。ボリシェヴィキ党の出版物の指導部は、修正主義的「青年」学派(スレプコフ(2)、ステツキー(3)、マレツキー(4) 、その他)か、あるいは「元エスエル・メンシェヴィキ」の手中にある。党活動家全体の幹部層の約4分の1は元エスエル・メンシェヴィキによって構成されている。

 4、官僚主義はすべての分野で成長しているが、とりわけ党内でのその伸長は致命的である。今日の「指導的な」党官僚は次のように事態を見ている。

 「わが党には、党そのものをそのあるがままの姿で理解することがいまだ不十分な党員が存在する。彼らは、党が細胞から出発していると考えている。細胞こそまさに最初の煉瓦であり、その次に地区委員会が来て、そこから上へ上へと上がっていってついに中央委員会に至るというのである。しかし、そうではない(!!)。わが党は上から下へと見なければならない。そしてこうした見方は、党のすべての実践的諸関係とその全活動において堅持されなければならない」(『モロト』1927年5月27日付、ソ連共産党北部地方委員会第2書記の演説)。

 ウグラーノフ(5)、モロトフ、カガノヴィッチ(6)などのより上級の幹部同志たちが与えた党内民主主義の定義(1926年6月4日付『プラウダ』を参照)も、本質的にはこれと同じである。

 この「新しい」見方は巨大な危険性を内包している。もしわが党が「上から下へと見なければならない」ことを実際に承認するとしたら、レーニン主義的な党労働者大衆の党はもはや存在しないことを意味するであろう。

 5、この数年間に党内民主主義は系統的に廃絶されてきたが、これはボリシェヴィキ党の過去全体に反するものであり、一連の党大会の直接の決定に違反するものである。真の選挙制は現場では事実上なくなりつつある。ボリシェヴィズムの組織原則は一歩ごとに歪曲されている。党の規約は、上級の権限の範囲を拡大し下部の細胞の権利を縮小する方向で、系統的に修正されている。州委員会・区委員会・県委員会・中央委員会の任期は、1年から3年に、さらにそれ以上へと拡大された。党県委員会、ソヴィエト県執行委員会、県労組評議会、等々の上層部は、事実上解任できない(3〜5年かそれ以上)。「根本的な意見の相違は全党の審判に付すことができる」(レーニン)というすべての党員および党員グループの権利は事実上破棄されている。党大会や党協議会は、全党による問題の自由な事前の討議なしに(レーニン時代にはそのような討議が行なわれていたのだが)召集され、このような討論を要求すると、党規律を破壊するものとみなされる。「わが『司令部』は、その司令部に従うと同時にその司令部に正しい方向を与える軍隊の、善良で自覚的な意志に真に依拠しなければならない」(第4巻、318頁)(7)(7)

 党内部では――現在の総路線と結びついて――、帝政時代の地下活動を経験しているか、あるいは少なくとも内戦を闘い、より独立的で、自分の見解を擁護する能力を有している古参党員を追い出すというきわめて重大な過程が進行している。彼らは、無条件的服従を主な資質とする新参党員に取って代られている。このような服従は、革命的規律の名のもとに上から奨励されているが、実際には革命的規律と何の共通性もない。新参党員はしばしば、以前の上司につねに服従してきたような労働者から選ばれており、今や労働者細胞や行政管理機関の指導な地位に昇進し、革命の最も困難な時期に労働者階級の導き手であった古参労働者党員に対してこれみよがしに敵対的な態度をとっている。

 これと同じ変化が、国家機関においてははるかに醜悪な形態をとって現われている。そこでは「党員の」ソヴィエト官僚の完成された姿に出会うこともまれではない。この種の官僚は儀式の機会には10月革命にかけて誓うが、自分に与えられた仕事にはまったく無関心で、隅々まで小市民的環境に根づいており、私生活では上司の悪口を言い、党の集会では反対派をたたいている。

 党の上級にいる一党員(とりわけ書記)が実際に有している権利は、下級の何百人という党員の現実の権利よりも何十倍も大きい。党はますます自己の機構によって取って代られているが、これに拍車をかけているのがスターリンの「理論」〔「(党ではなく)幹部がすべてを決定する」としたスターリンの理論のこと。党の独裁に代えて機構の独裁をスターリンは理論化した〕である。この理論は、プロレタリアートの独裁は党の独裁を通じてのみ実現されるし実現することができるというレーニンの命題、どのボリシェヴィキにとっても議論の余地のないこの命題を否定している。

 党内民主主義の窒息は、労働組合や党外のすべての大衆組織における労働者民主主義全般の窒息をもたらしている。

 党内の意見の相違は歪曲されている。「反対派」として非難されているボリシェヴィキ党員の見解に対する毒々しい論争が何ヵ月も、何年も続けられているが、これらのボリシェヴィキは自分たちの真の見解を党の出版物の中で述べることを許されないのである。昨日までメンシェヴィキ、エスエル、カデット、ブント、シオニストであった連中が、中央委員が自己の中央委員会に提出した文書を『プラウダ』紙上で攻撃し、これらの文書から個々のフレーズを抜き出して歪曲している。しかし文書そのものはけっして印刷されない。党細胞は、自分たちに知らされていない文書について投票し「烙印を押す」よう強制されている。

 党は、誰もが嫌悪を催すような公式の「反対派バッシング」とまったく無知蒙昧であるだけでなく虚偽に満ちたシパルガルカ〔紋切り調の宣伝煽動向け手引書〕にもとづいて、意見の相違を判断するよう強要されている。「言葉を信じる者は救いがたい愚か者である」というレーニンの言葉は、「言葉を信じない者は反対派である」という新しい定式に取って代わられた。反対派的傾向を持った現場労働者は、その見解のせいで失業という犠牲を払わされている。下部党員は自分の意見を声に出して言うことができなくなっている。古参の労働者党員は、出版物でも会議の場でも自分の意見を表明することができない。

 レーニンの思想を擁護しようとするボリシェヴィキは、「別党」を結成しようとしているという毒々しい非難にさらされる。当然にも自分たちの党の統一を熱烈に擁護している労働者を反対派に敵対させるために、あえてこのような非難がでっち上げられたのである。スターリンの重大なメンシェヴィキ的誤り(中国革命や英露委員会などの諸問題におけるそれ)に対して一言でも批判すると、「党に反対する」闘争であるかのように描き出される。スターリンは、中国における政策についても、他のどんな重要問題についても、事前に党に諮ったことなどなかったというのに。反対派は「別党」をつくろうとしているという非難が毎日繰り返されているが、このように言う人々自身の目的こそが、党からボリシェヴィキ・レーニン主義者を追い出して、日和見主義路線の遂行のために自らの手を自由にすることなのである。

 6、党内教育と政治教育活動のほとんどすべてが、今や「反対派バッシング」に堕している。説得の方法が大部分強制の方法に取って代わられているだけではなく、党を欺瞞する方法によって補完されている。政治教育が形式的なお役所仕事に堕しているので、党員から忌避されるようになっている。集会・党学校・学習サークルはすっかり「バッシング」に終始しているため、その参加者数は著しく下落している。党は、党機構による現在の誤った路線に対して受動的な抵抗を示しているのである。

 7、この数年間、党内で出世主義、官僚主義、不平等が成長しているだけではなく、たとえば反ユダヤ主義のような、まったくもって階級的に異質で敵対的な濁流が党内に流れ込んでいる。党の自己保存のためだけであっても、このような濁流に対する容赦のない徹底した闘争が必要である。

 8、こうした諸事実にもかかわらず、弾圧の砲火はもっぱら左派に向けられている。反対派が、自分の細胞会議で演説したとか、激しい言葉使いをしたとか、レーニンの遺書を読み上げようとしたというだけで除名されるのが、すっかり通例になってしまった。除名された人々はたいてい、政治的水準の点でも、またより重要なことには党の大義に対する献身の点でも、除名する側の連中よりも優れている。これらの同志たちは、蒋介石やパーセルや自党の官僚連中に対する「不信」と「悲観主義」のかどで党を追い出されても、なお党生活を続けており、党内の多くの官僚や俗物よりもはるかに誠実に党に奉仕している。

 9、弾圧と脅迫の雨は、第15回党大会が近づくにつれてますます増加しているが、それは党をなおいっそう威嚇することを目的としており、スターリン=ルイコフ連合グループが、その政治的な誤りを隠蔽するために、最も極端な措置に訴えることも辞さず、そのたびに党を既成事実の前に立たせるであろうことを物語っている。

 10、中央委員会の政治路線(それはスターリンとの連帯という原則にもとづいて第14回党大会で定式化された)は誤っている。中央委員会の現在の中核は、動揺しつつも絶えず右へと傾いている。党内民主主義の廃絶は、政治路線が根底から誤っていることから生じている。この路線が小ブルジョア的自然発生性と、わが党を取り巻く非プロレタリア諸層の影響を反映しているかぎり、この路線はますますもって上から暴力的に貫徹されざるをえないであろう。

 理論分野においては、いわゆる「青年学派」が独占権を有している。この学派は、機構から委任された文献上の任務をいつでも実行する用意のある修正主義者たちである。その一方で、ボリシェヴィキ党の真正の伝統を受け継いでいるボリシェヴィキ青年の最良の分子は、排除されているだけでなく、直接の迫害をこうむっている。

 組織分野においては、書記局への政治局の従属、また書記長への書記局の従属は、とっくの昔に既成事実となっている。レーニンが遺書の中で述べた最悪の危惧――同志スターリンは十分に誠実ではなく、「自己の手に集中した無制限の権力」を党のために行使しないであろうという危惧(1922年12月25日付および1923年1月4日付のレーニンの手紙(8))――が正しかったことが明らかとなった。

 現時点で、中央委員会および党と国家の指導機関には、次の3つの基本的潮流が存在する。

 第1の潮流は公然たる右翼的偏向の潮流である。この潮流はさらに2つのグループから構成されている。1つは、その日和見主義と実利主義の点で「経済的に有力な」中農の利益をかなりの程度反映し、この中農にもとづいて路線を立て、その理想によって鼓吹されている。これが、同志ルイコフ、A・P・スミルノフ(9)、カリーニン(10)、G・ペトロフスキー(11)、チュバリ(12)、力ミンスキー(13)その他の同志のグループである。彼らの周囲で直接に結びついて活動しているのが、強い農民を代表する「非党員」のコンドラチェフ(14)、サドゥイリン、チャヤーノフ(15)といった「実務的」政治家たちであり、彼らは多かれ少なかれ公然とウストリャーロフ主義を唱導している。今ではどの県にも、しばしば郡にも、小コンドラチェフや小サドゥイリンを見出すことができるし、彼らは一定の実権と影響力を享受している。この潮流の2つ目のグループは、労働者と職員のうちの最高給層を代表する労働組合上層部から構成されている。このグループの特徴はとりわけ、アムステルダム・インターナショナルとのよりいっそうの接近を目指していることである。このグループを率いているのは、トムスキー、メリニチャンスキー(16)、ドガドフ(17)などの同志たちである。この2つのグループの間には軋轢もあるが、国内外政策において党と国家の路線を右に向けようとしている点では一致している。両グループに顕著なのは、レーニン主義の理論に対する軽蔑と世界革命の戦術に対する否定の傾向である。

 第2の潮流は機構的「中央派」である。このグループの指導者は、スターリン、モロトフ、ウグラーノフ、カガノヴィッチ、ミコヤン(18)、キーロフ(19)の諸同志である。これこそが現在の事実上の政治局である。ブハーリンは両グループの間を動揺しながらも、こちらのグループの政策を「一般化」している。この中央派的機構グループは、それ自体としては大衆の気分を最もわずかしか反映していないが、自分を党にすりかえようとしており、それなりに成功している。いわゆる「管理者」層――党・労働組合・経済機関・協同組合・国家機構におけるそれ――は今や数万人を数えている。この階層の中には、労働者出身でありながら労働者大衆から遊離してしまった「労働」官僚が少なからずいる。

 言うまでもないことだが、革命の運命にとって巨大な意義を持っている管理・指導機関には、何千人もの不屈の革命家たる労働者を見出すことができる。彼らは大衆との結びつきを絶ってはおらず、労働者の大義のために全身全霊を打ち込んでいる。彼らこそ、これらの諸機関の中で真の共産主義的活動を担っているのである。

 しかし、もう一方の極で、政治路線と党体制の歪みは、膨大な正真正銘の官僚層を生み出している。この階層の実際の権限は巨大である。まさにこの「管理者」層が「平穏で」「実務的な仕事」を求め、常に「討論反対」の主張を行なうのである。まさにこの層が、わが国はすでに「ほとんど社会主義」であるとか、社会主義革命の「綱領の10分の9」はすでに達成されているなどと自己満足げに宣言する(時には本気でそう信じてさえいる)。この層は、党全体を「上から見る」傾向にあり、不熟練労働者・失業者・農場労働者に対してはなおさらである。この層は主として敵を左派に、すなわち革命的レーニン主義者に見出しており、「左に砲火を」というスローガンを打ち出している。

 今のところ、右派グループと「中央派」グループは、反対派に対する共通の敵意によって団結している。反対派が切除されたならば、両グループ間の闘争は不可避的に助長されるだろう。

 第3の潮流がいわゆる反対派である。それは、党のレーニン主義的翼である。同派を右からの反対派と描き出そうとする哀れむべき試み(「社会民主主義的偏向」などに見せかけること)は、支配的グループが自分自身の日和見主義を隠したいという願望から生じている。反対派は党の統一に賛成である。スターリンは、反対派が「別党」をつくろうとしているかのような虚偽の旗のもとに、反対派を「切除」するという自らの計画を実行している。反対派はこれに対して、何としてでもレーニン主義的ソ連共産党(ボ)の統一をという自らのスローガンでもって回答する。反対派の政綱はこの文書の中に示されている。党内の労働者部分とすべての真のボリシェヴィキ・レーニン主義者はこれに賛成するであろう。

 反対派からの個人的な脱落は、反対派がレーニンの事業のための闘争をする上で強いられている現在の困難な状況においては不可避である。今後とも、これら3つの潮流のどの指導者層にも個々の個人的再編は起こるだろうが、それは事態の根本を変更するものではない。

 11、以上のことがあいまって党の危機がつくり出されている。党内の意見の相違は、レーニン死後ますます深刻になっており、ますます広範囲でますます根本的な諸問題を包含するようになっている。

 党員大衆の全般的な気分は統一を志向するものである。しかしながら、現在の体制のおかげで、党員大衆は、統一を脅かす真の危険性がどこから生じているのかをはっきりと理解することができないでいる。スターリンの策略はすべて、何らかの先鋭で重大な問題が生じた場合に常に、党員大衆を次の二者択一に直面させるよう企図されている。自分の意見を放棄するか、さもなくば党の分裂を望んでいるという非難を受けるか、である。

 われわれの課題は、党の統一を何としてでも保持すること、分裂・分離・除名・切除等々の政策に断固として反撃すること、それと同時に、党の統一という枠内で、すべての係争問題について自由に討論し決定する権利を党に保証することである。

 党の現状における誤りと不正常さを暴露しながらも、反対派は、党の基本部分たる労働者党員こそが、あらゆることに抗して党をレーニン主義の道に引き戻すことができると深く確信している。この過程を助けることこそ反対派の基本的な課題なのである。

 

実践的な諸提案

 次の諸措置が必要である。

 (1)レーニン時代のときのように、真の党内民主主義にもとづいて第15回党大会を準備すること。レーニンはこう書いている――「すべての党員は、(1)意見の相違の本質、(2)党内闘争の推移を、完全に冷静に、最大限の誠実さをもって研究することに着手しなければならない。……この両者の主張を研究し、絶対的に正確で、あらゆる面からの検証に耐えうる、印刷された文書を必ず要求しなければならない」(レーニン、第18巻、第1分冊、29頁)(20)。中央委員会は、すべての党員が現在の党内の意見の相違の本質と党内闘争の発展経過とを研究できるようにすべきであり、そのために、これまで党から隠されてきたすべての文書を新聞雑誌や特別の論集やその他のものに公表すべきである。

 どの同志・党員グループも、機関紙や集会などにおいて党の前で自己の見地を擁護することができなければならない。中央委員会・地方組織・個々の党員・党員グループのそれぞれのテーゼ草案(政綱)は、第15回党大会の少なくとも2ヵ月前に、『プラウダ』(または『プラウダ』への付録)と地方の党機関紙に公表されるべきである。

 論争は、むやみに先鋭化させたり誇張させたりすることなく、厳密に同志的で事柄に即した形でなされなければならない。第15回党大会の準備のための主要スローガンは、ソ連共産党(ボ)とコミンテルン全体の統一を――見せかけではなく、真のレーニン主義的統一を、というスローガンであるべきである。

 (2)党とその指導機関の社会的構成を改善するために、一連の措置にただちに着手しなければならない。この目的のために、第13回党大会の次の決定を確認しなければならない――「近い将来において党員の圧倒的大多数は、生産に直接従事している労働者によって構成されるべきである」。今後2、3年間は、通例として、もっぱら現場の男女労働者と農場労働者のみを党内に迎えいれるべきである。他の社会的諸グループから入党させるときは、厳格な個々人の選択にもとづいて行なうこと。赤軍兵士および水兵は、労働者・農場労働者・貧農の出身者に限ること。貧農や経済的に脆弱な農民の入党は、最低2年間は社会的・政治的活動によって試験した後にかぎること。他党出身者の入党は停止されなければならない。

 区委員会・県委員会等々には現場労働者が50%以上いなければならないという趣旨の第13回党大会の決定――第14回党大会が事実上無効にしたが(反対派の意見に反して)――を実行しなければならない。工業中心地においては、現場労働者が確固とした多数派(少なくとも全委員の4分の3以上)を占めなければならない。郡委員会においても、労働者・農場労働者・貧農が多数を占めなければならない。

 (3)第10回党大会、1923年12月5日の中央委員会・中央統制委員会、第12回党大会と13回党大会のそれぞれが採択した党内民主主義に関する諸決議を再確認し、本当に実行すること。

 現在流布されている党内民主主義の新しい反レーニン主義的定義(ウグラーノフ、モロトフ、カガノヴィッチ、ジーヴォフ)とは反対に、「労働者民主主義とは、党生活の重要な諸問題について全党員が公然と審議する自由および、それらの諸問題に関する討論の自由であり、また、上から下まで指導的役員および機関の選挙制を意味する」(第13回党大会)(21)ということを全党の名において確認すること。党員のこの基本的権利を現実に侵害するいかなる者に対しても厳しく責任を問うこと。

 これまでの慣行にのっとって、すべての原則問題に関する党内少数派の見解を、党機関紙等々を通じて全党員に知らせること。この例外は、秘密を要する事柄が討論されている場合にのみ許される。言うまでもないことであるが、決定が採択されたのちは、同決定はボリシェヴィキの鉄の規律によって実行される。

 党の討論クラブ網を拡大し、党出版物(討論用リーフレット、論集、その他)の中で党指導部の誤りを批判する現実的な可能性を保証すること。

 第14回党大会以降に党規約の諸条項に導入されたすべての改悪(第25条、33条、37条、42条、50条)を廃止しなければならない。

 (4)党機構全体の労働者化に向けた確固たる方針をとること。現場労働者、党内外の大衆に人望のある先進的な党員労働者が、党機構全体の決定的な多数派を構成しなければならない。党機構を専従職員が独占するようなことはけっしてあってはならず、定期的に労働者に交替するべきである。地方組織(州組織および県組織を含む)の予算は基本的に党費でまかなわれるなければならない。地方組織は、党員大衆に対して――言葉の上ではなく実際に――その収支決算を定期的に報告しなければならない。現在膨大な額にのぼっている党の予算は、肥大化した専従機構と同じく大幅に削減されるべきである。党活動のかなりの部分は、党員が生産労働やその他の仕事をした後に無償で行なうことができるし、そうすべきである。党機構を活性化する一つの手段は、一部の専従同志を生産活動や下部の任務に系統的に派遣することである。党書記が解任されない傾向にある状況と闘争すること。書記をはじめ党内の役職には明確な任期を設定すること。最上層グループのあからさまな退廃と腐敗、えこひいき、「官僚同士の相互かばいあい」等々と非妥協的に闘争すること(たとえば、スイズラン〔ヴォルガ川の沿岸の都市〕、ヘルソン、イルクーツク、チタなど)。

 (5)すでに第10回党大会は、レーニンの指導のもと、党内と勤労大衆内部に平等を増大させる必要性を訴える一連の決議を採択した。第12回党大会は、ネップのもとブルジョア的環境と密接に接触して仕事をしている活動家の一部にネップ的堕落の危険があることを指摘した。必要なのは、「この不平等が民主主義を破壊し、党の腐敗と共産党員の権威低下の源泉となっているがゆえに、一方におけるスペッツ〔ブルジョア専門家の俗称〕と幹部活動家と他方における勤労大衆との間の不平等(生活諸条件や賃金の水準などにおけるそれ)を除去することに向けた完全に適切な実践的諸措置を立案すること」(第10回党協議会決議、18頁)である。この数年間、不平等が途方もなく急速なテンポで拡大してきた事実にかんがみて、この問題を「革命的に」再提起しなければならない。

 (6)党内教育を、マルクス、エンゲルス、レーニンの労作の研究にもとづいて再編し、現在大量生産されているマルクス=レーニン主義のまがいものを流通から排除しなければならない。

 (7)除名された反対派メンバーをただちに復党させること。

 (8)中央統制委員会をレーニンの勧告の精神に真にのっとった形で刷新しなければならない。中央統制委員会のメンバーは、(a)大衆と密接に結びつき、(b)「機構」から独立し、(c)党にとって権威のある人物でなければならない。

 この場合にはじめて、中央統制委員会に対する信頼が全面的に復活し、その権威を必要な程度にまで高めることができるであろう。

 (9)中央委員会と中央統制委員会、およびその諸機関の構成員を選出する際には、レーニンが1922年12月25〜26日と1923年1月4日の手紙(遺書)の中で叙述した勧告を指針としなければならない。これらの手紙は公表して全党員に知らせなければならない。レーニンは1922年12月26日の手紙の中で次のように述べている。

 「中央委員の労働者としては主として、わが国で過去5年間にソヴィエト職員の地位に昇進した層よりも低い地位にあって、下部の労働者・農民といっそう近く、しかも直接にも間接にも搾取者の部類に属さないような労働者を入れるべきである」、「中央委員会に入る労働者は、私の意見では、長期間ソヴィエト機関で勤務してきた労働者……が優勢であってはならない。なぜなら、そういう労働者は、まさにわれわれが反対闘争をしようとしているある種の伝統とある種の偏見をすでに身につけているからである」(22)

 レーニンがこれらの手紙を書いたのは、彼が革命の根本問題について最後の、そして徹底的に熟慮した種々の助言を党に与えた時期である(「量は少なくても質のよいものを」「われわれは労農監督部をどのように再編すべきか」「協同組合について」)。

 わが党の第15回大会は、まさにレーニンの上述した勧告の見地から、中央委員会を選出しなければならない。

 

   訳注

(1)レーニン「ヴェ・イ・レーニン生誕50周年を記念してロシア共産党モスクワ委員会が開催した集会での演説」、邦訳『レーニン全集』第30巻、550頁。

(2)スレプコフ、アレクサンドル・ニコラエヴィチ(1891-1937)……ブハーリニストの代表的な若手理論家。1917年にコムソモールの指導者。ラトビアで地下活動をしていて逮捕され、1918年に釈放。ブハーリンに取り立てられ、『コムソモールスカヤ・プラウダ』の初代編集長。1925年、ブハーリンの下で『プラウダ』の編集に従事。1920年代半ばには反トロツキズム運動に従事。1920年代終わり、ブハーリニストとして弾圧され、1930年に除名。1933年にリューチン事件に連座して逮捕。1937年に銃殺。1959年に名誉回復。

(3)ステツキー、アレクセイ・イワノヴィチ(1896-1938)……ブハーリニスト。1915年からボリシェヴィキ。レーニン死後、ブハーリンの緊密な協力者となり、ステンらとともにブハーリン学派の若手理論家の一人となる。1924〜27年、中央統制委員。1925年から『コムソモール・プラウダ』の編集長。1927年に党中央委員。ブハーリンの失脚後にスターリニストに。1938年に逮捕され、銃殺。1956年に名誉回復。

(4)マレツキー、ドミトリー・ペトロヴィチ(1901-1937)……赤色教授養成学院卒。歴史家、経済学者。「ブハーリン派」で最も優秀な人物の一人。1936年11月に逮捕され、1937年5月に銃殺。1958年に名誉回復。

(5)ウグラーノフ、ニコライ・アレクサンドロヴィチ(1886-1937)……古参ボリシェヴィキ。1905年革命に参加し、1907年にロシア社会民主労働党に入党、ボリシェヴィキ。1921年にペテルブルク県委員会書記。すぐにジノヴィエフと衝突し、ウグラーノフは1922年にニジニノヴィゴロト県委員会書記に配転。1921〜22年、党中央委員候補。1923〜30年、党中央委員。1924年にモスクワ県委員会書記に着任して、反対派狩りに辣腕を振るう。その後も反トロツキスト運動の先頭に立ち、出世。1924年8月に中央委員会組織局員および書記局員に。1926年に政治局員候補。1928年にブハーリンの右翼反対派を支持。1930年に、右翼反対派として、中央委員会から追放され降伏。1932年にリューチン事件に連座させられ、逮捕、除名され、もう一度降伏。1936年に再び逮捕され、1937年に銃殺。1989年に名誉回復。

(6)カガノヴィチ、ラザーリ・モイセーヴィッチ(1893-1991)……ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ。1911年にボリシェヴィキに入党。1924年、中央委員。1930〜52年、政治局員。スターリンの旧友で、政府と党のなかのさまざまなポストを歴任し、粛清の立役者の一人。1950年代にフルシチョフがソ連邦の指導権を握ったときに「反党」分子として、1956年にいっさいの役職から解任された。

(7)レーニン「『イスクラ』編集部への手紙」、邦訳『レーニン全集』第7巻、111頁。

(8)邦訳『レーニン全集』第33巻、第36巻に所収。

(9)スミルノフ、アレクサンドル・ペトロヴィチ(1878-1938)……1896年にペテルブルクの「労働者階級解放同盟」に参加。農業問題の活動家。1907〜17年、ロシア社会民主労働党中央委員候補。1917年10月から、内務人民委員の幹部会員。1922年から党中央委員。1923年から農業人民委員部の副議長、農民インターナショナルの書記長。1930年からヴェセンハの幹部会員。1934年に除名、1937年に逮捕、1938年に銃殺。1956年に名誉回復。

(10)カリーニン、ミハイル(1875-1946)……ロシアの革命家、労働者出身の古参ボリシェヴィキ。1896年にロシア社会民主労働党に入党。数回の逮捕・投獄を経験。1919年に死亡したスヴェルドロフに代わってソヴィエト中央執行委員会議長に選ばれ、死ぬまでソ連の形式上の元首の地位にとどまる。

(11)ペトロフスキー、グリゴリー・イワノヴィチ(1878-1958)……古参ボリシェヴィキ。1897年から「労働者階級解放同盟」に参加。1912年に第4国会議員に選出され、ボリシェヴィキ議員団の一員。同年、中央委員会に補充。1918年、ソヴィエト側の講和代表団の一人。1919〜1938年、全ウクライナ中央執行委員会議長。1921年から党中央委員、1922年から、中央統制委員。1926年に政治局員候補。

(12)チュバリ、ヴラス・ヤコヴレヴィチ(1891-1939)……ウクライナの農民出身で技師、古参ボリシェヴィキ。1907年に入党。1918〜23年、ヴェセンハの幹部会員。1920〜22年、ウクライナ経済会議の議長。1921年から中央委員。1926年から政治局員候補、1935年から政治局員。1923〜34年、ウクライナ人民委員部議長。1938年に逮捕、39年に銃殺。1955年に名誉回復。

(13)カミンスキー、グリゴリー・ナウモヴィチ(1895-1938)……1913年からボリシェヴィキ。1917〜20年、トゥーラ地方で党活動、国家活動に従事。1923〜29年、全ロシア農業協同組合同盟の中央委員会の副議長。1925年からロシア共産党中央委員会候補。1930年から党モスクワ委員会書記。1937年に逮捕され、1938年に銃殺。1955年に名誉回復。

(14)コンドラチェフ、ニコライ・ドミトリエヴィチ(1892-1938)……ソ連の経済学者、エスエル、農業問題・景気循環・長期波動の問題の専門家。1905年にエスエルに。1917年のボリシェヴィキ革命に猛烈に反対し、ボリシェヴィキ糾弾の文書を多く執筆するが、その後、ソヴィエト政権に融和的になり、1919年にエスエルを離脱。1920年に農業人民委員部に勤務し、農業問題の研究に従事。1920年から契機研究所の所長となり、景気循環および長期波動の研究に従事し、「コンドラチェフ派」と呼ばれる50年周期の大循環の存在を指摘し、国際的に大きな影響を与える。しかし、スターリンの極左転換とともに弾圧を受け、1928年に「クラーク主義」「資本主義復活論者」として景気研究所の所長を解任。でっち上げの「勤労農民党」事件に連座して1930年に逮捕、1931年には8年の懲役を言い渡される。1938年に銃殺。1987年に名誉回復。

(15)チャヤーノフ、アレクサンドル・ウラジミロヴィチ(1888-1937)……ロシアの経済学者、農業経済の専門家。1906年に農業研究所に入る。協同組合運動に積極的に参加。1917年、臨時政府に副農業大臣として入閣。1919年、農業経済科学調査研究所の長に。1923年、主著『農業経済の組織化』をベルリンで出版し、のちにロシアでも出版、好評を博す。1920年代末、スターリンの極左転換とともに、「ネオナロードニキ」として糾弾され、1928年に農業経済研究所所長を解任。1930年、友人のコンドラチェフとともに「勤労農民党事件」に連座して逮捕され、1932年に5年の懲役を言い渡される。1937年、「大粛清」のときに銃殺。

(16)メリニチャンスキー、グリゴリー・ナタノヴィチ(1886-1937)……1902年にロシア社会民主労働党に入党(ボリシェヴィキ)。何度か逮捕され、1910年末にアメリカ合衆国に亡命。1917年3月にトロツキーらとともに革命のロシアに向かってアメリカ合衆国を出発するが、途中の海上でイギリス軍によって拘束される。ロシアに帰還後は労働組合分野で活動。1918〜21年、全ロ労働組合中央委員会の幹部会員、およびプロフィンテルンの幹部会員。1925〜30年、ロシア共産党中央委員候補。1929〜31年、最高国民経済会議(ヴェセンハ)の幹部会員。1931〜34年、ゴスプランで活動。1937年に逮捕され銃殺。死後名誉回復。

(17)ドガドフ、アレクサンドル・イワノヴィチ(1888-1937)……古参ボリシェヴィキ、労働組合運動活動家。カザン県に生まれ、同地を中心に組合運動に従事。1905年からの党員。1921年から、全ソ労働組合中央評議会の幹部会員、書記で、1929年からは第一書記。1924〜1930年、中央委員および組織局メンバー。1937年5月、党を除名され、同年10月に銃殺。1956年に名誉回復。

(18)ミコヤン、アナスタス・イワノヴィチ(1895-1978)……1915年からのボリシェヴィキ。カフカース地方で革命活動に従事。ロシア革命・内戦期にはバクーで活動。1918年、イギリス干渉軍に26名のコミッサールとともに逮捕されたが、奇跡に敵に1人だけ銃殺を免れた。1922〜26年、北カフカース党地方委員会書記。1926〜30年、通商人民委員。1930〜34年、補給人民委員。1934〜38年、食糧工業人民委員。1935年から党政治局員。1937〜46年、外国貿易人民委員。1946〜65年、副首相。1956年の第20回党大会で「スターリン批判」の口火を切った。1964年、最高会議幹部会議長に。1965年に引退。

(19)キーロフ、セルゲイ・ミロノヴィチ(1886-1934)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1904年以来の党員。1921年に中央委員会候補。1923年から党中央委員。1926年、レニングラードに乗り込み、レニングラード県委員会第一書記としてジノヴィエフ派を駆逐。1926年に政治局員候補。1930年から政治局員。1934年12月に、ジノヴィエフ主義者を名乗る青年によってクレムリンで暗殺され、この事件はその後の大粛清時代の幕開けを告げた。

(20)レーニン「党の危機」、邦訳『レーニン全集』第32巻、31〜32頁。

(21)トロツキー『新路線』、柘植書房、190頁。

(22)レーニン「大会への手紙」、邦訳『レーニン全集』第36巻、706頁。

 

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