第9章 国際情勢と戦争の危険性
国際舞台におけるソ連邦の状況
ソ連邦に対する帝国主義諸国の戦争は、蓋然的であるのみならず不可避的である。
この戦争の危険性を先に延ばし、ソ連邦の強化と国際プロレタリアートの革命的結集のための時間をできるだけ多く稼ぐことは、最も重大な実践的課題の一つにならなければならない。支配的な諸国におけるプロレタリア革命の勝利のみが、この危険性を最終的に取り除くことができる。
世界大戦の可能性そのものが以下の理由で増大しつつある。(1)資本主義が自らを強化するために遂行したこの数年間の闘争とそれによって獲得された部分的な成功のおかげで、すべての指導的な諸国にとって市場の問題が最も焦眉の問題になったこと。(2)帝国主義ブルジョアジーは、ソ連邦の経済力が疑う余地なく成長したことを確信せざるをえなかったが、プロレタリアートの独裁が外国貿易の独占によって保護されているためにけっして資本家にロシア国内の「自由」市場を与えはしないことを見抜いていること。(3)帝国主義ブルジョアジーがソ連邦の内的諸困難を当てにしていること。(4)イギリスのゼネストの敗北とそれに引き続く中国革命の敗北が、帝国主義者に、ソ連邦の粉砕に成功するかもしれないという希望を掻き立てたこと。
イギリスとソ連邦との外交関係の断絶
〔1927年5月〕はかなり以前から準備されていたが、他ならぬ中国革命の敗北によって促進された。この意味で、断交は、ソ連共産党中央委員会が中国において真のボリシェヴィキ的政策を拒否したことの代償であった。この問題が今ではイギリスとわが国との貿易形式の単なる変化に還元されるなどと想定する(「われわれはアメリカと貿易するのと同様に貿易するであろう」)のはまったくの誤りである。イギリス帝国主義がもっと大規模な行動計画を持っているのは、今や完全に明白である。イギリスは、ソ連邦に対する戦争を準備しており、他の数ヵ国のブルジョアジーの「道義的委任状」を持って、ポーランド、ルーマニア、バルト沿岸諸国、またおそらくユーゴスラビア、イタリア、ハンガリーその他を、何らかの形でわが国に対する戦争に引き込もうと企図している。ポーランドは、わが国に対する戦争を準備するのにより長い期間を想定しているように見える。しかしイギリスがポーランドをもっと早期に戦争に引き込む可能性もある。
フランスでは、反ソ統一戦線に向けたイギリスの圧力が、ブルジョアジーの有力な部分の支持を獲得している。彼らはますます容赦なく自己の要求を追求するようになっており、もちろん、自分たちにとって都合のいい瞬間がくれば、ソ連との断交にも躊躇しないだろう。
ドイツの外交は最近ますますあちらこちらへと揺れ動いているが、実際には「ドイツの基本的方向性が西側を向いていること」がますます明らかになりつつある。ドイツのブルジョアジーは、対ソ戦争の際には当初は(1914年のアメリカと同様に)「中立」にとどまるであろうとすでに公言しているが、それは、戦争でできるだけ儲けるためであり、後には、その中立を高い価格で西側帝国主義国に公然と売りつけるためである。ドイツ・ブルジョアジーが西側への「方向設定」に移行したことを隠しておくことほど、ソ連の根本的利益にとって有害なことはないだろう。なぜなら、ドイツ・ブルジョアジーからの不意の一撃は、おそらく決定的な意義を持つからである。公然と「ありのままを語ること」だけが、ソ連の労働者とドイツ労働者の警戒心を喚起することだけが、このような打撃からわれわれを守ることができるのであり、あるいは少なくともドイツ・ブルジョアジーが打撃を加えるのを困難にすることができるのである。
日本のブルジョアジーは、おそらくはドイツ・ブルジョアジーに劣らず巧妙にソ連邦との関係でマヌーバーを弄している。彼らは狡猾に痕跡を隠蔽し、「友好的」な振りをしている。彼らは一時約には、張作霖(1)による東支鉄道の奪取を阻止しさえした。しかし彼らは、密かに中国における手綱を引き締めつつあり、やがてはわが国に対してその仮面を脱ぎ捨てるだろう。
近東(トルコ、ペルシア)では、われわれはいずれにせよ、帝国主義国がわれわれを攻撃した時に近東諸国がせめて確固とした中立を保持するような状況を獲得していない。むしろ、かかる場合、これらの国の政府が帝国主義諸国の圧力を受けて帝国主義者に必要な奉仕を行なう傾向にあるだろうと想定するべきである。
わが国に対する攻撃の際には、アメリカは、ソ連邦に対する完全に非和解的な態度を保持し、帝国主義的「後方」の役割を演じるだろう。このことの意味は、アメリカがまさに対ソ戦争の財政を保証することができるがゆえに、なおさら大きいだろう。
総括すると、1923〜25年の時期が一連のブルジョア国家によるソ連邦の承認の年月であったのに対して、今では断交の時期が始まっている。1923〜25年の承認はそれ自体としては、平和を保障したり息つぎ期を確固たるものにすることを意味するものではなかった。現在の断交もそれ自体としては、戦争がごく近い将来に必ず起こることを意味するものではない。しかし、われわれが、ソ連邦に対する攻撃の可能性をはらんだ国際情勢のはなはだしい緊迫化の新しい時期に入ったこと、このことに疑う余地はない。
資本主義世界の内部矛盾は非常に大きい。世界中のブルジョアジーによる反ソ統一戦線を長期間にわたって実現することは、きわめて困難であろう。しかし数ヵ国のブルジョア国家が一定の期間わが国に反対して部分的に連合することは、まったく可能である。
これらすべてがあいまって、わが党は以下のことを行なわなければならない。
(1)国際情勢が危険であることを承認すること。
(2)国際政治の諸問題を最も広範な大衆に対して改めて前面に押し出すこと。
(3)戦争を想定してソ連邦の防衛をあらゆる面から全力を尽くして準備すること。
公式の社会民主党を含むブルジョア諸政党は、帝国主義がソ連邦に対して準備している戦争の真の性格に関して、自国の国民を欺こうと全力を尽くすだろう。われわれの任務は、今のうちから全世界の広範な人民大衆に対して、この戦争が最初のプロレタリア独裁国家に対する帝国主義者と奴隷所有者による戦争であり、社会主義に対する資本主義の戦争であることを説明することである。この戦争において、帝国主義ブルジョアジーは本質的には資本主義的賃金奴隷制を維持するために戦うが、ソ連邦は、国際プロレタリアートとすべての植民地・半植民地・従属諸国の利益のために、国際革命と社会主義の大義のために戦うだろう。
われわれの全活動は今ただちに、次のようなスローガンのもとに進められなければならない。(1)プロレタリア独裁国家に対する帝国主義者の戦争反対。(2)ソ連邦に戦争を仕掛けているすべての国で帝国主義戦争を内乱へ転化せよ。(3)ソ連邦に戦争を仕掛けているすべてのブルジョア国家の敗北を。資本主義諸国のあらゆる誠実なプロレタリアは、「自国」政府の敗北のために積極的に活動すべきである。(4)「自国の」奴隷所有者を助けることを欲しないあらゆる外国兵士は、赤軍の側につけ。ソ連邦はすべての勤労者の祖国である。(5)「祖国防衛」のスローガンは、帝国主義諸国に対して民族革命戦争を遂行している植民地・半植民地諸国を除くすべてのブルジョア諸国においては帝国主義の利益を覆い隠す偽りの看板である。だがソ連邦における「祖国防衛」のスローガンは真実である。なぜなら、その場合われわれは、社会主義の祖国と全世界の労働運動の基盤とを防衛しているからである。(6)われわれは1917年10月25日以降は「祖国防衛主義者」である。われわれの「祖国」戦争(レーニン)とは、「世界の社会主義軍の一部隊としてのソヴィエト共和国」のための戦争であろう。われわれの「祖国」戦争は、「ブルジョア国家への出口ではなく、国際社会主義革命への出口である」(レーニン)(2)。われわれの祖国防衛は、プロレタリア独裁の防衛である。われわれの戦争は、貧農に依拠し中農を同盟者とする労働者と農場労働者の、「自国の」クラーク、新ブルジョアジー、官僚、ウストリャーロフ派スペッツ、白系ロシア人亡命者に対して遂行される戦争である。われわれの戦争は本当の意味で正義の戦争であろう。ソ連邦に対して防衛主義者でないものは誰でも、国際プロレタリアートに対する無条件の裏切り者である。
中国革命の敗北とその原因
中国革命の敗北は現実の力関係を――もちろん単に一時的とはいえ――帝国主義に有利な方向に変えた。中国における新しい革命闘争、新たな革命は不可避である。このことは、状況全体が保証している。
日和見主義的指導者は、後知恵的に、自分自身の破産をいわゆる「客観的な力関係」によって説明しようとしている。しかし彼らは、ほんの昨日まで、これと同じ力関係にもとづいて中国における社会主義革命の切迫を予言していたことを忘れている。
中国革命が現段階において悲惨な結果になった決定的な原因は、ソ連共産党とコミンテルンの指導部の根本的に誤った路線にある。この路線は何よりも、中国において決定的な時期に真のボリシェヴィキ党が実際には存在しないという事態をもたらした。今になって中国共産党にのみ責任を負わせるのは、皮相的で恥ずべき行為である。
中国の事態は、ブルジョア民主主義革命におけるメンシェヴィキ的戦術の適用の古典的実例である。まさにそれゆえ、中国のプロレタリアートは、その勝利せる「1905年」(レーニン)に到達しなかったのみでなく、今のところ1848年の諸革命においてヨーロッパ・プロレタリアートが果したのと本質的には同一の役割を演じたのである。
現在の国際情勢における中国革命の特質は、スターリン=マルトゥイノフ=ブハーリンがその全路線の望みをかけたいわゆる「革命的」自由主義ブルジョアジーが中国にけっして存在していない点にあるのではなく、以下の点にある。
(1)中国の農民が、ツァーリズム下のロシアの農民よりもずっと抑圧され、国内のみならず外国の抑圧者のくびきのもとで坤吟していること。したがって、1905年革命におけるロシア農民よりもずっと強力に起ち上がることができるし、起ち上がったこと。
(2)レーニンが早くも1920年に中国のために提起した「ソヴィエト」のスローガンが、1926〜27年の状況下で無条件に正当な基盤を有していたこと。中国にソヴィエトが存在したならば、それはプロレタリアートの指導のもとに農民勢力を結集する形態になりえだろうし、プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁の真の機関になりえただろう。したがってまた、ブルジョア政党たる国民党とそこから生まれた中国のカヴェニャック(3)どもに対する真の反撃を組織する機関になっただろう。
レーニンの教えによれば、ブルジョア民主主義革命は、ブルジョアジーに対抗する労働者階級と農民との(前者の指導のもとにおける)同盟によってのみ最後まで遂行することができる。この教えは、中国や同様の植民地・半植民地諸国に適用できるだけでなく、これらの諸国における勝利へのまさに唯一の道を指し示している。
(3)以上ことから次の結論になる。プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁は、現在の帝国主義戦争とプロレタリア革命の時代においては、中国ではソヴィエトの形態をとったであろうし、ソ連邦の存在ゆえに、比較的急速に社会主義革命へ転化するあらゆるチャンスを有していたであろう。
この政策の他には、労働者階級の敗北を不可避的に導く自由主義ブルジョアジーとの同盟というメンシェヴィキ的な道があるだけである。これこそが、中国において1927年に起こったことなのである。
東方におけるソヴィエト、民族革命運動の存在する諸国における共産主義的労働者党の完全な独立、「自国の」ブルジョアジーと外国の帝国主義者に反対する労働者と農民の同盟――これらに関するコミンテルンの第2回世界大会と第4回世界大会のすべての決定は、完全に忘れ去られてしまった。
コミンテルンの第7回拡大執行委員会総会(1926年11月)の決議は、中国においてすでに壮大に展開されつつあった事件について単に正しいレーニン主義的な評価を与えなかったのみではなく、マルトゥイノフのメンシェヴィキ的路線に完全に移行した。信じられないことであるが、この決議には、1926年3月における蒋介石(4)の最初の反革命クーデターについても、1926年の春から秋にかけて広東政府によって一連の地方で遂行された労働者・農民の射殺やその他の弾圧についても、労働者階級に不利な方向でなされた強制的仲裁裁定についても、広東政府による労働者階級のストライキの弾圧についても、広東政府が雇用者側の黄色「労働者」組織に与えた保護についても、広東政府が、農民運動を圧殺しつばを吐きかけその波及と発展を阻止しようとしたことについても、まったく一言もない。第7回拡大執行委員会総会の決議には、全労働者の武装というスローガンも、反革命的軍閥に対する闘争の訴えも存在しない。蒋介石の部隊はこの決議の中では革命軍として記述されている。決議では、日刊の共産党機関紙の創刊というスローガンも与えられていないし、真の独立した中国共産党の必要性についてもはっきりと明示的には述べられていない。挙げ句のはてに、第7回拡大執行委員会総会は、中国共産党に対して国民党政府に入るように指令した。これは、当時の状況にあっては、最大の害悪をもたらすものであった。
コミンテルン執行委員会決議は、「民族革命政府(すなわち蒋介石政府)の機構は、農民への接近に向けたきわめて実際的な道を提供している」と述べている。それと同時に次のように予言されている(1926年11月にだ)――「大ブルジョアジーの一定の層(?)でさえも、なお一定期間は革命と足並みをそろえて進むことができる」と。
第7回総会の決議は次のような諸事実について沈黙した。中国共産党の中央委員会が、〔蒋介石の反革命クーデターの起こった〕1926年3月の後に、孫文主義を批判しないという義務を自らに引き受けたこと、独立の労働者党としての最も初歩的な権利をも放棄したこと、カデット的な農業綱領を採択したこと、最後に中央委員会の総書記である同志陳独秀(5)が、1926年7月4日付の公開状において、孫文主義を民族運動における労働者とブルジョアジーの「共通の信条」として承認したことである。
これとほぼ同じ時期、最も責任重大な地位にあったロシアの同志たちは、農村における内戦の発展は国民党の闘争能力を弱めるかもしれないという趣旨の勧告を与えていた。言いかえれば、彼らは農地革命の発展を公式に禁止したのである。
1927年4月5日、情勢がすでに充分に明白になっていた時に、同志スターリンは、円柱会館におけるモスクワ党組織の集会において、蒋介石は反帝国主義の闘士であり、蒋介石は国民党の規律に服従している、したがってわれわれの信頼すべき同盟者である、と言明した。
1927年5月の中旬、状況がなおいっそう明白になっていた時にも、同志スターリンは、武漢の国民党は「革命的国民党であり、右派国民党を粛清した革命的中心である」と言明した。
コミンテルンの第8回拡大執行委員会総会(1927年5月)には、こうしたメンシェヴィキ的誤りを訂正する勢力は存在していなかった。
反対派はこの第8回総会に以下の声明を提出した。
「総会は、ブハーリンの決議を廃棄して、以下の簡潔な決議を代わりに採択したならば正しく行動したことになっただろう。
農民と労働者は、左派国民党の指導者を信頼すべきではなく、兵士と連合して自分自身のソヴィエトを建設すること。ソヴィエトは労働者と先進的農民を武装させること。共産党は、完全な独立を維持し、日刊新聞を創刊し、ソヴィエトの結成を指導すること。土地を地主からただちに没収すること。反動的官僚制はただちに打倒すること。裏切り者の将軍や一般の反革命派はその場で銃殺すること。全般的路線は、労働者と農民のソヴィエトを通じて民主主義独裁を樹立することに向かうべきである」。
「武漢国民党」はけっして革命的国民党ではないことを党に警告しようとした反対派の努力は、スターリンとブハーリンによって「党に反対する闘争」「中国革命に対する攻撃」等々と糾弾された。
中国における革命と反革命の真の経過に関する具体的情報は、隠匿されるか歪曲された。ついには、わが党の中央機関紙(『プラウダ』1927年7月3日号)が、「兵士と労働者との交歓」という見出しのもとに中国の将軍たちによる労働者の武装解除を報道するにまでいたった。
スターリンはレーニンの教えを愚弄して、中国で「ソヴィエト」のスローガンを提起することは「プロレタリア独裁への即時移行のスローガンを出すことを意味する」と主張した。しかし、実際には、レーニンはすでに1905年革命の時に、プロレタリアートと農民の民主主義独裁の機関としてのソヴィエトというスローガンを提出していたのである。
反対派は中国におけるソヴィエトのスローガンを時宜を失せず提起したが、それに対しスターリンとブハーリンは「反革命を幇助するもの」などという非難でもって応えた。労働者と農民の運動の拠点が、「われわれの」「革命的」将軍たちによって粉砕された時、スターリンとブハーリンは自分自身の破産を隠蔽するために、突如として中国における「ソヴィエト」のスローガンを持ち出したが、翌日には忘れてしまった。
当初、中国共産党は「コミンテルンの模範的支部」であると説明され、その誤りを反対派がほんの少しでも批判すると――その時点では誤りはまだ矯正可能だったにもかかわらず――中国共産党に対する「悪意に満ちた攻撃」として抑圧され糾弾された。しかし後に、マルトゥイノフ=スターリン=ブハーリンの恐るべき破産が明らかにると、彼らはすべての責任を若い中国共産党に負わせようとした。
彼らは当初、蒋介石に希望を賭け、次に唐生智(6)に賭け、次には馮玉祥(7)に賭け、さらには「試されずみの忠実な」汪精衛(8)に賭けた。労働者・農民の死刑執行人たるこれらの連中はみな「反帝国主義の闘士」とか「われわれの」同盟者として歓呼して迎えられた。
このメンシェヴィキ的政策は、今やレーニンの教えの革命的内容を完全に換骨奪胎することによって完成された。スターリン、ブハーリン、「青年派」は、民族革命運動に関するレーニンの教えがあたかも「ブルジョアジーとの同盟」という教理に行き着くことを「証明すること」に没頭している。
1920年にすでに、コミンテルンの第2回大会において、レーニンは次のように述べている。
「搾取諸国のブルジョアジーと植民地諸国のブルジョアジーとの間に一定の接近が生じた。そのため、非常にしばしば、大部分のケースではでは、被抑圧国のブルジョアジーは、たとえ民族運動を支持してはいても、それと同時に帝国主義ブルジョアジーと一致して、彼らとともに、すべての革命運動および革命的諸階級と闘うのである」(第17巻、275頁)(9)。
もしレーニンが生きていれば、蒋介石や 精衛との同盟というメンシェヴィキ的政策を正当化するためにレーニンを引き合いに出す連中に対して、今日でもこれと同じ言葉でもって烙印を押したであろう。まさにレーニン自身がこの点について1917年3月に次のように語っている。
「『わが国の革命はブルジョア革命である、それゆえに労働者はブルジョアジーを支持すべきである』と解党派〔メンシェヴィキ〕の陣営出身の役立たずの政治家たちは言う。だがわれわれマルクス主義者は言う、『わが国の革命はブルジョア革命である、それゆえに労働者は、ブルジョア政治屋たちの欺瞞に対して人民の目を開かせ、言葉を信用するのではなく、ただ自らの力、自らの組織、自らの団結、自らの武装に依拠するよう人民に教えなければならない』と」(第14巻、第1分冊、11頁)(10)。
今になってレーニンを「ブルジョアジーとの同盟」の唱道者として提示することほど、国際プロレタリアートに対する大きな罪はない。
1926〜27年における中国革命の諸問題に関する反対派の見解ほど急速かつ正確にマルクス主義的予見が確証されたケースは、革命闘争史上めったにない。
中国革命における諸事件の経過とその敗北の原因を研究することは、全世界の共産主義者にとって喫緊の課題である。これらの問題は明日には、中国のみでなくインドやその他の東方諸国における労働者階級にとって、したがってまた国際プロレタリアート全体にとっても、死活にかかわる問題になるであろう。マルクス主義的世界観の最も根幹にかかわるこれらの問題をめぐる論争の中で、来たる革命の真のボリシェヴィキ・カードルが形成されるであろう。
資本主義の部分的安定とコミンテルンの戦術
ボリシェヴィズムの基本的命題の一つは、〔第1次〕世界大戦とわが国の革命によって始まった時代が、社会主義革命の時代であるというものだ。共産主義インターナショナルは「世界革命の党」として創立された。このことの承認は、〔コミンテルン加盟〕「21ヵ条」の中に入っている。そして何よりもこの線に沿って、共産主義者と社会民主主義者や多種多様な「独立派」メンシェヴィキとの線引きがなされたのである。
世界大戦と10月革命が世界革命の時代を切り開いたことを承認したからといって、もちろん、いつでも直接の革命情勢が存在することを意味するわけではない。一定の期間、個々の国々、個々の生産部門においては、「死滅しつつある資本主義」(レーニン)であっても経済を部分的に復興することができるし、生産諸力を発展させることさえできる。世界革命の時代にも、その昂揚期と衰退期がある。この点に関して、労働者階級とその党の戦闘能力、反革命的な社会民主主義が及ぼす影響力の度合い、コミンテルンの正しい指導は巨大な役割を果たすだろう。しかし、このような潮の満ち干は、全体として見た現在の歴史時代に対する基本的なレーニン主義的評価を変えはしない。この評価にもとづいてはじめてコミンテルンの革命戦略を立てることができるのである。
それにもかかわらず、国際革命運動の一連の敗北とそこから生まれている退廃的気分の結果として、スターリン・グループは、自分自身気づくことなく、現在の時代についてまったく「新しい」本質的に社会民主主義的な評価に行き着いた。一国社会主義の「理論」はその根本において、資本主義の「安定化」が何十年も持続するという仮定にもとづいている。この「理論」全体は、腐った「安定化」の気分の産物であるし、実際にそうであった。一国社会主義の「理論」が左右のエスエルから歓迎されたのは、偶然ではない。チェルノフ自身がまさにこの理由にもとづいてスターリンとブハーリンの「共産ナロードニズム」について書いた。左翼エスエルの機関紙は、「スターリンとブハーリンは、ナロードニキとまったく同様に、社会主義が一国において勝利できると確信している」と書いている(『闘争の旗』第17・18号、1926年)。エスエルがこの理論を支持しているのは、そこに世界革命の戦術の放棄を見出しているからである。
スターリンの報告にもとづいて採択された第14回党大会の決議の中には、以下のような明白に誤っている言明がなされている――「国際関係の分野においては、『息つぎ期』が拡大強化されて、一時期全体に転化しつつある」(第14回大会議事録、957頁)。
コミンテルンの第7回拡大執行委員会総会において、スターリンは1926年12月7日の報告の中でこれと同じ根本的に誤った世界情勢評価にもとづいてコミンテルンの全政策を立てている(速記録、12頁)(11)。このような評価が明白に誤っていることは、すでに明らかになっている。
中央委員会と中央統制委員会の合同総会(1927年7〜8月)の決議は、いかなる限定もつけずに資本主義の技術的・経済的・政治的安定化について語っている。これは世界情勢のスターリン主義的な評価をなおいっそう、オットー・バウアーやヒルファディングやカウツキーなどの第2インターナショナル指導者の評価に接近させるものである。
第14回党大会以来、1年半強がすぎた。この期間に、最も重要な事件にかぎってみても、イギリスのゼネスト、中国革命の巨大な事件、ウィーンの労働者の蜂起があった。現在の「安定化」の諸条件においてさえ抗しがたい力を持って表出したこれらの大事件は、資本主義がいかに多くの爆発材料を蓄えているか、その「安定化」がいかに不安定であるかを如実に語っている。これらの事件はみな、一国社会主義の「理論」に正面から対立するものである。
資本主義の「安定化」の裏面は、2000万人の失業人口、膨大な遊休生産設備、軍事力の途方もない増大、国際経済関係の極端な不安定性である。ヨーロッパを覆っている新たな戦争の危険性ほど、長期にわたる平和期への希望の空虚さをはっきりと暴露するものはない。「数十年」にわたる安定化を夢想しているのは、労働者に対する資本主義の勝利に目が眩み、資本主義の技術的・経済的・政治的成功に目を奪われた小ブルジョアジーだけである。しかし現実は戦争へと、すなわち、あらゆる「安定化」の粉砕へと発展していっている。さらにそのうえ、労働者階級と東方の被抑圧人民大衆は、この「安定化」を力でもって打倒しようと何度となく努力している。イギリスで、中国で、ウィーンで。イギリスではゼネストが勃発した――だがイギリス共産党にはたった5000人の党員しかいない。ウィーンでは労働者の蜂起が起こり、一つの革命に匹敵するほどの犠牲者を出した――だがオーストリア共産党にはたった6000人の党員しかいない。中国では労働者・農民大衆の武装蜂起が起こった――だが中国共産党の中央委員会は、国民党のブルジョア的指導部の単なる付属物にすぎないことがわかった。これらは、今日における世界情勢の最も顕著な矛盾である。これこそが、資本主義の「安定化」を支え引き延ばしているのである。
われわれの最大の課題は、現在の時代が突きつけている巨大な要求の高みにまで各国共産党が高まるのを助けることである。だがこのことは何よりも、コミンテルン自身の側が世界情勢の性格について正しく理解していることを前提している。
わが国際共産党(コミンテルン)は、戦争を防止するための闘争、ソ連邦の防衛、帝国主義戦争を社会主義のための戦争に転化させることに向けて、国際労働者階級全体を団結させる任務を自らに課さなければならない。この目標のために労働者党員は何よりも、革命的な心情をもった非共産主義労働者・無党派労働者・社会民主主義労働者・サンディカリスト労働者・アナーキスト労働者・労働組合主義者を、そしてまた、まだ純ブルジョア的組織にとどまっているが誠実である労働者を獲得しなければならない。
「労働者統一戦線とは、資本主義に反対して闘争しようと望んでいるすべての労働者の統一であると理解しなければならず、したがって、この戦線はアナルコ・サンディカリストなどに今なお従っている労働者をも含むものである。〔スペイン、イタリアなどの〕ラテン系諸国においては、こうした労働者は今なおかなりの数にのぼっている」。
これはレーニン時代のコミンテルン第4回大会の決議である。この決議は今日においてもそのすべての意義を保持している。
現在すでに、第2インターナショナルとアムステルダム・インターナショナルの指導者層の行動からして、将来の戦争における彼らのふるまいがその卑劣さと裏切りの点で1914〜18年に彼らが演じた役割を凌駕するであろうことは明らかである。フランスのポール=ボンクール(12)は、戦時に労働者をブルジョア的独裁者にあらかじめ売り渡そうとする法律を施行している。イギリスの労働組合会議(TUC)総評議会は、ヴォイコフ(13)の暗殺者たちを擁護し、中国への軍隊派遣に祝福を与えている。ドイツのカウツキーは、ロシアにおけるソヴィエト権力に対する武装蜂起を唱道し、ドイツ社会民主党の中央委員会は「手榴弾カンパニア」を組織している。フィンランドとラトビアの社会民主党の閣僚やポーランド社会党の指導者は、いつでもソ連に対する戦争を支持する用意がある。アメリカの御用労働組合の指導者は、最も極端な反動家のようにふるまい、ソ連邦の承認に公然と反対している。バルカンの「社会主義者」は、「自国の」労働者の死刑執行人を支持しており、「他国の」ソ連に対するいかなる戦役をも常に支持するであろう。オーストリア社会民主党の指導者は言葉の上では「ソ連を支持」しているが、しかし、自国のファシストがウィーンの労働者蜂起を血の海に沈めるのを助けた人々であり、言うまでもなく、決定的な瞬間には資本家の側につくだろう。ロシアのメンシェヴィキとエスエルがソ連に対する干渉を支持していないのは、今のところ強力な干渉国が存在しないからにすぎない。いわゆる「左翼社会民主主義」の指導者たちは、社会民主主義の反革命的本質を覆い隠しており、今なお社会民主主義の旗に従っている労働者が労働運動の中のブルジョアジーの手先と決定的に手を切るのを他の誰よりも妨害しているがゆえに、主要な危険なのである。同じく裏切り的役割を演じているのが、カッツ(14)やシュワルツ(15)、コルシュ(16)、ローゼンベルク(17)のような元コミンテルン・メンバーであり、彼らは、極左主義を通じて共産主義との断絶にまで至っている。
公然たる右派から自称「左派」まであらゆる色合いがあれど骨の髄まで反革命的なこれらの社会民主主義指導層といちゃつくことは、戦争が接近するにつれて、とりわけ危険なものになるであろう。統一戦線の戦術はけっして、イギリス総評議会の裏切り者たちとのブロックや、アムステルダム・インターナショナルとの接近として解釈してはならない。なぜなら、このような政策は、労働者階級を弱体化し、混乱させ、疑いもない裏切り者の権威を増大させ、われわれ自身の勢力の最大限の団結を妨げるからである。
「左に砲火を向ける」というスターリンの誤った路線のせいで、この1、2年のうちに、コミンテルンの最も重要な支部の指導部において、労働者党員の意志に反して、右派の手中に主導権が移行してしまった(ドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、フランス、イタリア、イギリス)。
これらの指導的な右派グループの政策は、コミンテルンの左派全体を追放することに向けられており、コミンテルンの力を弱めつつ、最大級の危険性を準備している。とくにドイツにおけるウルバーンス(18)・グループの追放は、コミンテルンの左派全体を追放するという政策によって指示されたものである。ウルバーンス=マスロウ(19)派の党員が「背教者」「反革命派」「チェンバレンの手先」などとして迫害されたことで、左派党員は論争の中で2、3の先鋭な表現を用いた。スターリン・グループはこれを利用してドイツの左派を除名して別党の道へと頑強に押しやり、ドイツ共産党の隊伍における分裂が完全な既成事実と化すよう執拗に努力している。
実際にはウルバーンス・グループは、国際労働運動のすべての基本問題においてレーニンの見解を擁護している。このグループは決定的な瞬間には疑いもなくソ連邦を最後まで防衛するだろう。このグループは、広範な労働者大衆と結びついたボリシェヴィキ労働者の古参カードルを何百人と包含している。そして、ドイツ共産党員にとどまっている何千人という党員労働者がこのグループに共感を抱いている。
コミンテルンの諸大会の決定を承認しているこれらの除名されたすべての同志たち――とくにウルバーンス・グループ――をコミンテルンに復党させることが、コミンテルンの分裂に向けてスターリンが実行した諸措置を正すための第一歩なのである。
レーニンは、『共産主義内の「左翼」小児病』において、実際の「極左主義」の誤りを暴露しながら、労働運動の内部におけるボリシェヴィズムの主敵は「日和見主義」である、と述べた。「この敵はまた、国際的な規模においても今なお主要な敵である」(レーニン、第17巻、194頁)(20)。コミンテルンの第2回世界大会において、レーニンはこのことに加えて次のように述べた。「この任務と比較すれば、共産主義内の『左翼的』潮流の誤りを正すことはたやすい任務であろう」(第17巻、26頁)(21)。
レーニンが「左翼」について語ったとき念頭に置いていたのは極左派のことであったが、スターリンは、今では極左派との闘争について語りながら、革命的レーニン主義者のことを念頭に置いているのである。
右翼日和見主義的運動に対しては主要な敵として断固とした闘争を遂行することと「左翼的潮流」の誤りに対してはそれを正すこと――これがレーニンの訴えたことであった。われわれ反対派も同じ立場を訴えるものである。
「社会主義」的日和見主義の勢力は、究極的には資本主義の勢力である。戦後最初の数年間の恐慌(1918〜21年)の時期に資本主義が急激に奈落の底へと落ちていった時、公式の社会民主主義はそれとともに弱体化し没落していった。資本主義が部分的に安定しはじめると、社会民主主義は一時的に強化された。1920〜21年におけるイタリア労働者の敗北、1921〜23年におけるドイツ・プロレタリアートの敗北、1926年におけるイギリス・大ストライキの敗北、1927年における中国プロレタリアートの敗北などは、その原因が何であったにせよ、それ自体がプロレタリアートの上層における革命的気分の一時的低下の原因となり、一定期間、共産党を犠牲にして社会民主主義を強化し、共産党の内部においても、左派を犠牲にして右派の一時的優勢をもたらした。労働貴族層および労働官僚とその小ブルジョア的同伴者たちの役割は、このような時期にはとくに大きく、とくに反動的になる。
ある程度までこうした過程はソ連共産党にも影響を及ぼさないわけにはいかなかった。党の機構的「中央」は、その「砲火」をもっぱら左に向けており、純粋に機械的な手段によってレーニン主義的左派にますます不利になるように新たな力関係をつくり出してきた。事実上、党が投票するのではなく、党機構のみが投票するような状況がつくられてしまった。
以上が、コミンテルン、ソ連共産党、ソヴィエト国家の諸政策に対するレーニン主義的翼の影響力が弱まり、他方で、右派の半社会民主主義的分子がますます大っぴらにますます声を大にしてコミンテルンの名において発言していることの一般的原因である。これらの右派は、10月革命後もかなり長期にわたって敵の陣営に属していたが、後になってようやく――むしろ試験的な形で――コミンテルンの隊列に入ることを許された連中か(マルトゥイノフ、シュメラル(22)、ラフェス(23)、D・ペトロフスキー(24)、ペッパー(25)など)、あるいは、ハインツ・ノイマン(26)や同じ類の純然たる冒険主義者である。しかし、大衆の中では、左に向かう新しい変化、新たな革命的高揚をもたらす諸要素が蓄積されつつある。反対派はこの明日の日のために理論的かつ政治的な準備を行なっているのである。
最も重要な諸結論
1、英露関係の断絶をはじめとする国内外の諸困難のもとで、指導的多数派グループの中で現在形成されつつある「計画」は、以下のようなものである。(a)ツァーリ時代の債務を承認すること。(b)外国貿易の独占を多かれ少なかれ廃止すること。(c)中国から手を引くこと、すなわち中国革命と民族革命運動一般に対する支援を「当分は」撤回すること。(d)国内では右への「マヌーバー」を実行すること、すなわちネップをさらにいっそう拡大すること。こうした代償を払って彼らは、戦争の危険をなくし、ソ連邦の国際状況を改善し、国内の諸困難を取り除く(少なくとも減少させる)ことを期待している。この「計画」全体は、資本主義の安定化が数十年は保証されているという例の評価にもとづいている。
実際にはこれは、「マヌーバー」ではなく、現在の状況のもとではソヴィエト権力の完全な屈服を意味するだろう――「政治的ネップ」「ネオ・ネップ」を通じた資本主義への退行となるだろう。
帝国主義者たちは、これらの譲歩をすべて受け取ったうえで、なおさら速やかに新たな攻撃へと移るであろうし、戦争にさえも突き進むであろう。クラーク、ネップマン、官僚は、譲歩がなされていることを知るや、なおのこと執拗に、わが党に反対してすべての反ソヴィエト勢力を組織しようとするだろう。われわれの側のこのような「戦術」は、わが国の新ブルジョアジーと外国ブルジョアジーとの最も密接なブロックをもたらすだろう。ソ連邦の経済発展は、国際資本の完全な統制のもとに置かれるだろう――半コペイカの借金で1ルーブル分の隷属というように。そして労働者階級と大部分の農民大衆は、ソヴィエト国家の力に対する信頼を、ソヴィエト国家が人民をどこに導きつつあるかを自覚しているという信頼を失うだろう。
戦争の回避を「金で買う」ことができるなら、それを試みなければならない。しかしまさにそのためえには、われわれは強力で統一していなければならないし、揺らぐことなく世界革命の戦術を堅持し、コミンテルンを強化しなければならない。その場合のみ、けっしてソヴィエト権力の基盤を掘りくずことのない限定的な代償を払って戦争をできるだけ長期間先延ばしする本格的なチャンスを得ることができるのであり、また戦争が不可避な場合でも、国際プロレタリアートの支援を獲得して勝利を収めることができるのである。
レーニンは戦争の回避を金で買うために、あるいは許容できる条件で外国資本を誘致するために、帝国主義者に一定の経済的譲歩を行なった。しかしいかなる状況下にあっても、革命の最も困難な瞬間でさえも、レーニンは、外国貿易の独占を廃止するとか、クラークに政治的権利を付与するとか、世界革命に対する支援を弱めるとか、世界革命の戦術一般を弱めるといった考えをけっして容認しなかった。
何よりもまず、国際革命に向けた路線を完全かつ全面的に確認し強化しなければならない。そして、そもそも「中国に手を突っ込む」必要はないとか、われわれは「速やかに中国から手を引く」べきであるとか、われわれが「賢く」ふるまってさえいれば彼らは「われわれをそっとしておいて」くれるだろうなどという「安定化志向」のエセ「国益」主義的気分に対し断固たる反撃を加えなければならない。一国社会主義の「理論」は、すでに直接に解体的な役割を果たしており、ソ連の周囲に国際プロレタリアートを団結させるのを明らかに妨げている。なぜならこの理論は、他国の労働者を眠り込ませ、さまざまな危険性に対する意識を鈍らせているからである。
2、同じだけの重要性をもっている課題は、わが党の隊伍を強固にし、帝国主義ブルジョアジーと社会民主主義指導者がわが党の分裂や除名や「切除」などに直接つけ込んでいる事態に終止符を打つことである。これは戦争の問題と最も直接の関係を有している。というのは、現在のところ帝国主義者による「探りを入れる」活動は主としてこの道徳的・政治的ラインに沿って遂行されているからである。国際ブルジョアジーと社会民主党のすべての機関紙は現在、わが党の党内論争に度外れた関心を示し、党中央委員会の現在の多数派に対し、反対派を党の指導機関から、できるなら党からも追放し、そして可能ならば直接制裁を加えるよう奨励し鼓舞している。最も金持ちのブルジョア新聞『ニューヨーク・タイムス』から始まり、第2インターナショナルの最も如才のない新聞ウィーン『アルバイター・ツァイトゥンク』(オットー・バウアー)に至る、ブルジョアジーと社会民主党のすべての機関紙が、「スターリンの政府」を反対派に対するその闘争のゆえに歓迎している。そして、「国際革命の宣伝家」たる反対派を断固として切除することによってその「国家理性」を再度実証するよう「スターリンの政府」に呼びかけている。その他の条件が変わらなければ、分裂や「切除」といったものに対する敵の希望が実現されればされるほど、ますます戦争は早くやってくるだろう。したがって、戦争を回避することができるのは――それが可能であるかぎりでだが――、あるいは戦争に勝利することができるのは――戦うことを余儀なくされた場合だが――、ただわれわれが完全な統一を維持する場合のみであり、とりわけ、分裂や除名や切除に対する帝国主義者の希望を挫折させる場合のみなのである。分裂や切除の道が必要なのは資本家にとってだけである。
3、必要なのは、国際労働運動におけるわれわれの階級路線を正し、コミンテルンの左翼に対する闘争を中止し、コミンテルン大会の諸決定を受け入れている被除名者をコミンテルンに再加盟させることであり、さらには、イギリス総評議会の裏切り者の指導者との「誠実な協定」という政策にきっぱりと終止符を打つことである。総評議会とのブロックと手を切ることは、現在の状況においては、1914年に第2インターナショナルの国際社会主義ビューローと断絶することと同じ意義を持っている。レーニンはあらゆる革命家がこの断絶を行なうべきであると最後通牒的に要求した。このような総評議会とのブロックにとどまることは、当時と同じく現在も、第2インターナショナルの反革命的指導者を援助することを意味するのである。
4、民族革命運動――何よりもまず中国における、同じく他の一連の諸国におけるそれ――に対するわが党の路線を断固として修正しなければならない。われわれは、マルトゥイノフ=スターリン=ブハーリンの路線を廃棄し、コミンテルンの第2・第4回世界大会の諸決議におけるレーニンの路線に立ち返らなければならない。さもなくばわれわれは、民族革命運動の推進者からブレーキとなり、必然的に東方における労働者・農民の共感を失うだろう。中国共産党は国民党へのあらゆる組織的・政治的従属を一掃しなければならない。コミンテルンは自己の隊列から〔準加盟の〕国民党を追放しなければならない。
5、首尾一貫して、系統的に、断固として平和のための闘争を行なわなければならない。戦争を先送りし、迫り来る戦争の回避を「金で買う」こと――そのためには、可能で許容しうるいっさいのことをしなければならない(第1項を参照)。
それと同時に、手をこまねいていることなく、今から戦争に対して準備を整えること。われわれの第一の義務は、戦争の切迫した危険性が存在するかどうかという問題に関して、あらゆる思想的・政治的不一致や対立に終止符を打つことである。
6、われわれの国内政策の階級路線を断固として正さなければならない。戦争が不可避であるならば、労働者と農場労働者が貧農を支柱とし中農と同盟し、クラーク・ネップマン・官僚に反対するという厳格にボリシェヴィキ的な路線のみが勝利することができるのである。
7、戦争の場合を予想してわが国の経済・予算その他のものを全面的に準備すること。
※ ※ ※
資本主義は、新たな動乱の時期に入りつつある。ソ連邦との戦争は、中国との戦争と同じく、世界資本主義にとって一連の破局を意味するだろう。1914〜18年の大戦は、社会主義革命の巨大な「促進者」(レーニン)であった。新たな戦争、とりわけソ連に対する戦争は――われわれが正しい政策をとるならばソ連は全地球の勤労大衆の共感を獲得するあろう――、世界資本主義の没落のさらに大きな「促進者」になりうる。社会主義革命は新たな戦争がなくても発展するであろう。しかし、新たな戦争は不可避的に社会主義革命を導くだろう。
訳注
(1)張作霖(ちょう・さくりん/Zhang Shi-cheng)(1875-1928)……中国の軍閥。辛亥革命で頭角を現わし、袁世凱の信任を得て、1916年奉天督軍兼省長となり、その後奉天全体を掌握。その後、他の軍閥と戦争を繰り返して勢力をしだいに拡大。1927年、軍政府を組織して北京に君臨したが、翌年、北伐に敗れて、奉天へ引き上げる途中で、日本の関東軍の陰謀で爆死。
(2)レーニン「今日の主要な任務」、邦訳『レーニン全集』第27巻、163頁。
(3)カヴェニャック、ルイ(1802-1857)……フランスの共和派軍人。1848年の2月革命後に陸軍大臣。6月のパリ労働者の蜂起のさい、鎮圧軍総司令官として独裁権をふるって放棄を徹底的に鎮圧。同年12月の大統領選挙ではナポレオンに敗北。
(4)蒋介石(しょう・かいせき/Jiang Jie-shi)(1887-1975)……中国の軍閥指導者、国民党の右派指導者。日本とソ連に留学。辛亥革命に参加し、孫文の信任を得る。1920年代にコミンテルンは共産主義者の国民党への入党を指示し、国民党を中国革命の指導党として称揚していた。1926年3月20日、広東クーデターで指導権を握り、同年7月に北伐を開始。コミンテルンはこのクーデターを隠蔽し、蒋介石を擁護。同年5月の国民党中央委員会総会で蒋介石は共産党員の絶対服従と名簿提出を命令し、コミンテルンはそれに従う。1927年4月12日、蒋介石は上海で国民党内の共産主義者の弾圧に乗り出し、多くの共産主義者を殺戮(4・12上海クーデター)。その後、中国共産党と対立しつつ国内の独裁権を強化。日中戦争勃発後、国共合作を行なうが、第2次大戦後、アメリカの援助のもと共産党との内戦を遂行。1949年に敗北して台湾へ。総統として台湾で独裁政権を樹立。
(5)陳独秀(ちん・どくしゅう/Chen Du-Xiu)(1879-1942)……中国共産党の創立者ならびに指導者。若いころ、日本、フランスに留学。辛亥革命に参加。1915年、『青年雑誌』(新青年)を創刊。1917年、新文化運動の先頭に。5・4運動の中でマルクス主義に傾斜。1921年、中国共産党を創設し、総書記に。1925〜27年の中国革命において、異論を持ちつつもコミンテルンの路線に従う。1929年、左翼反対派を支持することを表明する中国共産党員への公開状を発表し、除名。1932年から1937年に国民党政府によって投獄。出獄後、公式のトロツキスト組織から距離をとる。1942年、病没。
(6)唐生智(とうせいち/T'ang Sheng-chih)(1889-1970)……湖南の軍閥。1926年に国民党に加入し北伐に参加し、武漢を奪取。1927年4月のクーデター後に蒋介石と分裂して武漢の左翼国民党政府の軍最高司令官に。上海の共産党員労働者虐殺事件を隠蔽し、1927年7月に武漢で共産党を弾圧。その後、蒋介石に対する闘争を継続。
(7)馮玉祥(ひょう・ぎょくしょう/Feng Yu-xiang)(1880-1948)……中国の軍閥、政治家。河南省を拠点。キリスト教を信じ、「クリスチャン将軍」と呼ばれる。夫人は李徳全。1911年の辛亥革命に参加し、1924年の奉直戦争で直隷派を破り、国民軍(Guominjun)を結成。ソ連および国民党と接近。1926年、国民党に入党。1926〜27年モスクワを訪問。北伐に参加。1930年、汪精衛、閻錫山とともに反蒋介石蜂起に立ち上がるが失敗。日中戦争中は連ソ・抗日を主張。
(8)汪精衛(おう・せいえい/Wang Ching-wei)(1884-1944)……本名は汪兆銘。中国の国民党左派指導者。武漢政府の首班。コミンテルンは、蒋介石の1927年4月のクーデター後、この武漢政府をたよりにしたが、汪精衛はこのクーデターからわずか6週間後に労働者弾圧を開始した。1929年から31年まで反蒋運動に従事。対日妥協政策を主張し、抗戦派と対立。1940年、日本の傀儡政権を南京に樹立し、その主席となる。日本の名古屋で病死。
(9)レーニン「民族・植民地問題小委員会の報告」、邦訳『レーニン全集』第31巻、235頁。
(10)レーニン「遠方からの手紙」、邦訳『レーニン全集』第23巻、336頁。
(11)スターリン「再びわが党内の社会民主主義的偏向について」、邦訳『スターリン全集』第9巻。
(12)ポール=ボンクール、ジョゼフ(1873-1972)……フランスの政治家。最初、労働運動家として出発し、のちに政治家に転身。1909年から下院議員。第1次世界大戦の際、従軍し、戦後再び下院議員に。最初、社会党の政治家であったが、1931年に決裂し、社会共和国同盟を結成。1932〜33年に首相。
(13)ヴォイコフ、ピョートル・ラザルエヴィチ(1888-1927)……1903年以来の古参ボリシェヴィキ、外交官。1918年のツァーリ一家の処刑に関与した一人。1924年に在ポーランドのソ連全権代表に就任。1927年6月、ワルシャワで白衛派によって暗殺される。
(14)カッツ、イヴァン……ドイツ共産党の極左派指導者の一人で、ハノーファー・グループの一人。統一戦線戦術に反対し、1926年1月に除名。
(15)シュワルツ、E……ドイツ共産党の極左派指導者。ドイツ国会でドイツとソ連との軍事協定を攻撃した。
(16)コルシュ、カール(1889-1961)……ドイツの革命家。ドイツ共産党極左派指導者。第1次大戦中は国際主義の立場。1919年、独立社会民主党に参加。1920年、ドイツ共産党に入党。1924年から国会議員。1920年代半ば、ドイツ共産党とコミンテルンの右傾化に反対して、左翼反対派結集の中心となり、1926年にはソ連共産党の左翼反対派への支持を表明するも、トロツキーらソ連の左翼反対派はドイツの左翼反対派との関係断絶を表明。コルシュもトロツキー派を優柔不断で中途半端な左派として非難。1926年5月に除名。1928年以降、政治活動から身を引き、哲学研究に専念。ヒトラー勝利後の1933年に亡命。最初デンマーク、ついでイギリス、アメリカに移住。『社会主義と哲学』『カール・マルクス』など。
(17)ローゼンベルク、アルトゥール(1889-1943)……ドイツの共産主義者、歴史家、ドイツ共産党左派の指導者。ドイツ独立社会民主党に入党し、1920年にドイツ共産党へ。党内の左派指導者として頭角を現わし、1924年に中央委員、国会議員、コミンテルン執行委員に。1925年に中央委員を解任、1927年4月に離党。その後、著述活動に専念し、多くの労作を残す。『ワイマール共和国の成立』(1928年)、『ボリシェヴィズムの歴史』(1932年)、『ワイマール共和国史』(1935年)など。
(18)ウルバーンス、フーゴ(1892-1947)……ドイツの革命家。1924年以降、ドイツ共産党の指導者。1926年にマスロウ、フィッシャーらとともに除名され、レーニンブントを結成。後にこの組織は左翼反対派と合同。1933年、スウェーデンに亡命し、同地で死去。
(19)マスロウ、アルカディ(1891-1941)……ドイツの革命家。1924年以降、ブランドラー派に代わってドイツ共産党を指導したグループ(マスロウ、フィッシャー、ウルバーンス)の一人。当初、ジノヴィエフに追随してトロツキーに反対したが、1926年に合同反対派を支持して除名。1928年にジノヴィエフとともに屈服。しかし、再入党はせずに、フィッシャーやウルバーンスとともにレーニンブントを結成。1930年代初めにトロツキーに近づき、第4インターナショナルの建設に参加するも、しばらく後に離脱した。
(20)レーニン『共産主義内の「左翼」小児病』、邦訳『レーニン全集』第31巻、16頁。
(21)レーニン「共産主義インターナショナル第2回大会」、邦訳『レーニン全集』第31巻、224頁。
(22)シュメラル、ボフミール(1880-1941)……チェコスロバキアの共産党指導者。1897年にチェコスロヴァキア社会民主党に入党。1904年に党中央委員。1911年に国会議員。第1次大戦中、最初は愛国派で、後に反戦派。1914〜17年、チェコスロバキア社会民主党の議長。1921年、チェコスロバキア共産党を創設し、その議長に。1922年、第4回コミンテルン世界大会に参加。その後ロシアに滞在し、コミンテルンの仕事に従事。ロシア党内での分派闘争においてスターリン派を忠実に支持。1935年にチェコに戻り、上院議員に。1938年にソ連に再移住。そこで死亡。
(23)ラフェス、M(1883-1942)……ロシアのブント活動家。1917〜18年にウクライナのペトリューラ反革命政府に参加し、反ソヴィエト活動に従事。1919年にボリシェヴィキに入党し、コミンテルンで活動。1920年代中国共産党の指導に参加。
(24)ペトロフスキー、D……ロシアの古参社会民主主義者、ブント活動家。1903年の党分裂の際にはメンシェヴィキに。10月革命後にボリシェヴィキに入党。1920年代にコミンテルンでイギリス問題を担当。
(25)ペッパー、ジョン(1886-1937)……本名はヨゼフ・ポガニ。ハンガリーの共産主義者。1919年にベラ・クンのソヴィエト・ハンガリー政府の一員。政権崩壊後、ソ連に亡命。コミンテルンの活動に従事。その後、コミンテルンの代表者としてアメリカにわたって、アメリカ共産党の指導者に。後にモスクワに戻り、反トロツキー闘争に従事。
(26)ノイマン、ハインツ(1902-1938)……ドイツ共産党の指導者で、「第三期」の理論家。1927年にはコミンテルンの中国責任者。1933年にモスクワ亡命。1937年にゲ・ペ・ウに逮捕され、翌年に粛清。
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